scene 12. Cry Baby

 ゾルトによるポートレイトの撮影は、ドリュー、ジェシに続いてユーリも問題なく終了し、この日はルカの番だった。

 マレクのザフィーラで約一ヶ月半ぶりにプラハへと戻ってきたルカは、車窓から外の景色を眺め、ホームへ帰ってきた感覚にほっと息をついた。

 ツアーを終えて戻ってきたときにも感じることだが、どれほど贅を尽くした五つ星ホテルに宿泊していたとしても、住み慣れた我が家に帰ったときの、あのなんともいえない安堵感は特別だ。ルカがテディと一緒に此処プラハで暮らし始めてから十一年ほど経つが、たとえ床に脱ぎっぱなしのソックスが転がっていても、冷蔵庫が空っぽでも、帰宅すればほっとする。そういうものだ。

 しかしこの日、自宅のフラットに立ち寄る予定はなかった。車は旧市街の見慣れた街並みを通り過ぎ、ヴルタヴァ川を北へ渡った。そこで初めてルカは、いったいどこへ向かっているのか気になった。

「直接、撮影場所に向かうって云ってたけど、いったいどこで撮るんだ?」

「もうすぐそこです。レトナー公園ですよ」

 レトナー公園? そんなところで、いったいどんな写真を撮るつもりなのかとルカは眉をひそめたが、すぐにその疑問の半分は解消した――見えてきた公園内には、赤と黄色の縞模様が目立つ大きなテントが張られていたからだ。

 広場には、その巨大なテントを取り囲むように、何台ものトレーラートラックが駐まっていた。ポップで派手なロゴの描かれた大型のトレーラーのなかには窓の上にオーニングがついている居住用と思しきものや、荷台の側面が檻になっているものもある。

「……サーカス?」

「ええ、まだ来たばかりで。公演が始まるのは来週だそうですよ」

 マレクはそう教えてくれたが、ルカが聞きたいのはそんなことではなかった。ゾルトはいったいここで、どんな写真を撮るつもりなのか。

 車から降り、テントのなかに入るとすぐに待っていたよとゾルトに出迎えられた。一緒にいたサーカスの団長と、協力してくれるという団員に挨拶をし、暫し施設内や演目についての話を聞く。ルカは営業用の笑顔で相槌を打ちながら、まさか空中ブランコでもやらせるつもりじゃないだろうなと不安になった。が、話はただの社交辞令的な会話に過ぎず、団長は一頻り話し終えると自分たちから離れていった。

 そして、じゃあそろそろ始めようかとゾルトが云った。その場に残っていた女性団員が、ではあちらへ、と自分たちを奥へと促す。

 それに従ってルカはある部屋へと案内され――そこで待ち受けていたを間近で見て、思わずあげそうになった悲鳴を呑みこんだ。




       * * *




「とりあえず、おつかれさまー」

かんぱーいNa zdraví!」

「やっと帰れるな」

 五月。イェリネク・ドヴールを取り囲む緑の絨毯は風にそよぎ、畦道には菜の花が咲き乱れていた。

 楽曲制作は、デモトラックの数としてはまずまずと云えた。正直なところ、大詰めでテディの気分があがらず作業ペースが落ちてしまい、棚上げしていたラヴバラッドは結局そのままと、やや不満は残っている。が、この時期からこの辺りは観光客が増えるということもあり、ロニーはもうここからは引き揚げて、あとはプラハでやってもらうときっぱり宣言した。

「デモはひととおり聴いたけど、けっこういろんなタイプの曲があるからアルバムには充分じゃないかしら。あとはジミーとあなたたちに任せるから、いいものを作ってね」

 ジミーというのは、二枚めのアルバムから制作に携わってくれているロンドン在住のプロデューサーである。ロニーの云うように、あとはプラハに戻って自社のスタジオにまた籠もり、場合によってはロンドンなどのスタジオでプリプロダクション、そして本番レコーディングの作業に入る。

 明日の朝食後には一足先にゾルトが、そして明後日にはバンドと付き人たちの一行が此処を発つ予定である。なのでこの日はダイニングにゾルトも含めた皆が集まり、久々の酒宴を開いていた。

 テーブルにはいつもの夕食よりも品数多めな料理と、ありったけのビールとワインが並べられていた。酒に強くないテディも、好物のスマジェニー・スィール Smažený sýr をつまみながらワイングラスを傾けている。

 だがその顔は、欠片も楽しげな色を浮かべていなかった。


 ユーリにゾルトとのことをずばりと云われてから、テディはすっかりご機嫌ななめだった。朝食には姿を見せず、やっと起きてスタジオに現れたかと思ったら、ろくに演奏もせず咥え煙草で外に出てしまったりしていた。ユーリともルカともほとんど口を利かず、かといって部屋に籠もるでもなく、皆のいる場の片隅で不機嫌そうに佇んでいる、といった調子だ。


 今も、乾杯をして食事を始めはしたものの、誰とも談笑さえせず俯いている。向かい側の席でルカはそんなテディを見つめながら、「そういえば」と斜め向こうのゾルトに話しかけた。

「テディだけまだ撮ってないんだろ? 明日帰るって、テディのはどうするんだ」

「ああ、どうしてもアイデアが浮かばなくて……その件はロニーとも話したけど、構想ができあがったら企画書を送って、あらためて一日都合のいい日を空けてもらおうかと」

 自分のことだからなのか、テディが顔をあげた。が、なにか云いたげにしているうちに「楽しみだわ」と、ロニーが話に入ってきてしまった。

「ドリューやジェシのも大傑作だったものね。ユーリもすごく意外な感じで、ファンにも驚かれると思うわ。しかもルカのなんて、合成じゃなくって本当にあのまんま撮ったって聞いてびっくり……! 最高だわゾルト、テディのも期待してるわ」


 ロニーの云うとおり、ひとりずつ撮影をしたポートレイトは、どれも素晴らしい出来だった。

 三つ揃えスリーピースを着熟し、クラシカルな調度品に囲まれた部屋でチェスをしているドリュー。

 黒いタートルネックセーターを着て、じっとこちらを見つめている、眼鏡を外した真顔のジェシ。

 大柄な猫を両手で抱きかかえ、優しい表情でキスしそうほど顔を近づけているユーリ。

 そしてルカの写真は、サーカスの団長のコスチュームを着て、優雅にソファで脚を組んでいるというものだった――ぴたりと雄ライオンに寄り添われているその表情は堂々としていて、チャームポイントのウェービーヘアはたてがみよりも派手に映る。その所為か、ライトに照らされているシルクハットは王冠に、赤い燕尾服はまるで王のマントのように見えた。



 のんびりと駄弁りながらボトルを空け続け、一時間半ほどが経ったときだった。荷物を纏めたりもしたいので、自分はそろそろ失礼すると云ってゾルトが席を立った。

 そのタイミングでドリューとジェシも、もう少ししたら部屋に戻るかな、などと話していた。ユーリは、じゃあもう残っているもの食っちまうぞと云って、まだビールを開けていた。

 ロニーはそれを見て呆れつつ、飲むのも食べるのももういいけど、部屋に戻ってもまだ眠らないし、と云いながらマットーニを持ってラウンジに移った。それにルカも付き合おうとして――めずらしく酔い潰れてはいなかったテディが、蒼い顔をして黙りこくっていることに気がついた。

「おいテディ……おまえ、大丈夫か?」

 酔っぱらってもいないし、寝てもいない。だが、素面に見えるが顔色が悪いというのは、けっこうまずいのではという気がした。ユーリも気づいたのか、立ってこっちへ来たかと思ったら、「テディ?」と名前を呼びながらその蒼い顔を覗きこむ。

「……ああ、やばそうだ。テディ、無理にでも吐いたほうがいい。行くぞ」

「うるさい。ほっといて」

 だがテディは、心配するふたりを余所に、ゆらりと席を立つとルカを押し退けるようにしてダイニングを出ていった。

「テディ、待て」

「ユーリ」

 ルカはテディを追おうとしたユーリを制し、首を振った。

「俺がついていくよ。怒らせないように、こっそり」

 ルカはそう云って任せろというふうに頷いてみせ、ふらふらと本館を出るテディの後を追った。

「テディ? 大丈夫ー?」というロニーの脳天気な声が、妙に響いた。


 どうやら大丈夫ではなかったようで、テディは別館へ向かう途中、中庭の木の陰で吐いていた。ルカは心配で駆け寄りたい気持ちを抑え、暗がりからじっと見守っていた。

 吐いて少しは楽になったのか、テディはさっきまでよりは確かな足取りで別館の中へと入っていった。もう放っておいても大丈夫かな、と思いつつ、ドアの音がするまで待ってから二階へ上がっていき、ルカも自分の部屋に戻った。

 テディの部屋は隣である。壁はそれほど厚くないのか、以前ブルーノがドミニクにポルノを観ていただろうと云ってからかっていた。シャワーの音はあたりまえのように響いてくるし、壁に耳をつければラジオなどの物音もけっこう聞こえるらしい。

 ルカは壁の傍で耳を澄ませてみたが、部屋に入ってすぐ水音が聞こえたあとは、特になんの物音もせずしんとしていた。きっと口を漱いですぐベッドに入ったのだなとルカはほっと息をつき、壁から離れた。その瞬間だった。

 カンッ、という小石をぶつけたような物音にはっとする。思わず息を詰めると、ばらばらと雨が屋根を打つようなノイズが続けて聞こえた。その場から動かないまま、ルカは条件反射のように窓に目をやったが、雨など降っている様子はない。

 なんの音だろうと気になり、ルカは部屋を出て隣のドアをノックした。

「テディ? 大丈夫か……、入るぞ」

 返事はなかったが、ルカはそっとドアを開けて中へ入った。テディはベッドの脇に立っていて、その足許にはミントブルーの丸い粒が転がっていた。

 気分転換してこいとルカが勧め、ゾルトとブルノに出かけた日に着けて帰ってきた、アンティークの硝子ビーズを使ったブレスレット。それを、どうやら壁に叩きつけたらしい。シリコンラバーの細い紐が切れ、ターコイズと硝子ビーズは見事に部屋中に散らばっていた。

「とりあえず坐ろう」と背中に手をやって促し、テディをベッドに坐らせる。なにかを堪えているような表情のテディが素直に従うと、ルカは自分も並んで腰掛けた。

 なにも云わず、ルカはただ黙ってそこにいた。すると――まるで自分のことを見ないまま、テディが独り言のようにぽつぽつと話し始めた。

「……今夜が最後だって、ほっとするね。やっとお別れだってせいせいするよ。……だってさ、俺、あの人がいるとなんかおかしいんだよ。さぼりたくてさぼってたんじゃないんだ。ちゃんとやらなきゃって思ってるのに、ほんとに調子がでなくてさ。これでやっといつもの俺に戻れるよ……」

 ルカは頷き、ぽんぽんと背中を叩いてやった。

「でも、まだ写真を撮らなきゃいけないだろ? 最後じゃない。プラハに戻ってからまた逢える」

「逢いたくなんかないよ。もう……ごめんだ。あの人といると俺、変になるんだ。でもおかしいんだけどさ、いなくても変なんだよ。なにもやってないのにやたらとハイだったり、がっくりきたり……自分でもわけがわからない。もういやだ。苦しいよ、つらいんだ」

 淡々と話すテディの目には、涙が滲んでいた。ルカは複雑な笑みを浮かべ、肩を抱いて云った。

「わかるよ。俺にも憶えがある。なんでか気にかかってしょうがなくて、じっとしていられなかったり浮かれまくってたり、突然泣きたくなったりした。一緒にいてもいなくても、一日中ずっと相手のことで頭のなかがいっぱいで、他のことなんかなんにも手につかなかった。まるで自分が壊れたみたいだった。……でも、みんなそうなんだよ。それが恋だ」

 そう云ってやると、テディは涙に濡れた大きな目を瞬いて、ゆるゆると首を振った。

「なに云ってるの、ルカ。恋ってなに、おかしいじゃない。俺があの人のことを好きだって、そう云うの? ……そんなわけない。だって、俺にはルカがいる。ルカ以外に俺が恋するなんて、そんなことありえないじゃない。……こんなの恋じゃない。俺は恋してなんかいない」

 涙声でそう何度も繰り返すテディの肩を抱き寄せ、ルカはよしよし、と柔らかな髪を撫でた。

「ああ、そうだな……恋じゃない。はしかだ。熱病みたいなもんだよ、みんな一度は罹るんだ……おまえは、ちょっと遅かっただけだよ」

「熱、か。だからこんなに……うん、じゃあ、もうじき治るよ。もう少ししたら、もう……」

 自分の胸に顔を埋め、テディはもう元通りになる、こんなの恋なんかじゃないからと繰り返していた。

 子供のように泣きじゃくるその背中を撫で摩りながら、ルカはふと思った――ひょっとすると、テディはゾルトのなかに、子供の頃に憧れた父親像をみたのかもしれない。

 そう思っておくほうが、気持ちはいくらか楽だった。

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