scene 14. Never Gonna Fall in Love Again
スタジオに全員が集合し、アコースティックギターを抱えたテディが弾き始めたのは例のバラッドだった。何度となくいろいろ試行錯誤してきた、あの曲だ。
最初の段階で、ルカらしすぎてワンパターンだと云われていた甘い恋の歌を、テディは効果的な転調でがらりと雰囲気を変えてしまった。イントロとプレコーラスで感じる翳りのおかげで、シンプルだったコーラス部分がぐっと活きてくる。
テディの弾き語りでイメージを掴んだバンドは、逐一確認しながら演奏を繰り返した。テディはアコースティックギターからいつものベースに持ち替え、ルカは仮につけてあった詞で歌ってみては、演奏を止めるたびペンを手にノートに向かう。
そうして二時間半ほどが経ち、かなり満足できるアレンジにまとまってきた頃。
ルカは真っ黒になったページを破り、丁寧に歌詞を清書したノートをテディに手渡した。
「おまえが歌え」
テディは一瞬、驚いた顔をしたが、ノーとは云わずベースギターを抱えたままマイクスタンドの前に立った。ルカはネックを握っている左手を取り、楽器をおろすよう促した。察してすぐ傍に来たエミルにベースギターを渡し、ルカはそこから離れると、ピアノの前に坐った。
ルカは姿勢を正すと、最初からこうだったかのように、なめらかにイントロを弾き始めた。転がる鈴の音を追いかけるようにシンバルロールが入り、バンドの息の合った演奏が始まる。その心地好い音に、テディのやや鼻にかかった気怠げな声がのる。
テディがリードヴォーカルを務める曲としては、これが初めてのラヴソングであったが、彼は切々と感情をこめて歌いあげた。
「凄くいいんじゃないか?」
「ああ、テディで正解だな」
「いいですよね、やりましたね!」
皆でドラムの前に集まり、讃え合う。ルカもテディの肩にぽんと手を置き、振り向いたその顔に微笑みを向けた。
「最高」
「……詞、俺に歌わせるつもりで書いた?」
「いや。おまえのアレンジで自然に浮かんだんだ」
それをテディが信じたかどうかはわからなかった。テディはなにか云いたげな表情で、躊躇うように視線を彷徨わせたあと、じっと顔を見つめてきた。ルカはなんだ? と問いかけるように眉をあげた。
テディが「ルカ……」と、囁くような声で名前を呼ぶ。
「ん?」
「……ごめ……」
そう云いかけ、テディは言葉を切るとふっと笑みを溢し、云い直した。
「愛してる」
「当然だ」
そう即答して頷く。テディはなんだか呆れたような顔をしたが、それきりなにも云わなかった。
スタジオにはついさっきの演奏が流れていた。ときに激しく、ときに苦くせつないラヴバラッドが昨夜のルカの感情を甦らせる。テディもなにかを思いだしているのか、どこか遠くを見るような目をしていたが――
「タイトルだけ、いまいちだね」
「そうか? そのまんますぎるか。なにかいいのを思いついたら変えてもいいけど」
しかし、本番レコーディングが終了しても、タイトルが変更されることはなかった。
〝
* * *
楽曲制作もとりあえず一段落とし、プラハへ帰る日の朝。一同はすっかりお気に入りになった新鮮で素朴な朝食を、名残惜しげに時間をかけて摂っていた。
焼きたてのライ麦パン、新鮮な卵を使ったオムレツ、自家製のソーセージと山羊乳のチーズ。そして苺がたっぷり入ったヨーグルトと、苺をまるごと包んだ
楽器や機材などは昨日のうちにケースに仕舞い、エミルとドミニク、ブルーノの三人がサウンドスタジオの入口近くに纏めてくれていた。バンドの面々も部屋で荷造りを済ませ、本館の前にはたくさんのラゲッジやダッフルバッグが置かれている。
あとは迎えを待つだけ、とラウンジで最後のコーヒータイムを過ごしているあいだ、ドミニクとブルーノが全員の部屋を見まわり、忘れ物がないかなどを確認していた。こういうことはツアーで慣れていて、すっかり習慣になっているのだ。
そして、すべてのチェックを終えたドミニクたちがラウンジに戻ってきた、そのときだった。
「あの……」
その声に、ルカはスマートフォンの画面を見ていた視線をあげた。が、ブルーノが話しかけたのは自分ではなく、隣に坐っているテディらしかった。
「テディ、屑籠に入っていたあれ、棄てていいんですか?」
窓の外を眺めていたテディがこちらを向き、答える。
「ああ……うん。いいんだ」
ブルーノはなんだか怪訝な顔をしていたが、「ならいいんですけど」と離れていった。
千切れたブレスレットのことか、とすぐに思い至ったが、ルカもなにも云わなかった。直してまた着けないのか? とルカが云うのも変なものだし、テディが要らないと云うなら放っておくしかない。
それから二十分ほど経った頃、ようやく車が砂地を走る音が聞こえてきた。一同はやれやれ、やっと迎えが来たかと窓から外を見て――そこに、見たことのない大きなバンが停まっているのを見て、異口同音に声をあげた。
「ロニーじゃない?」
「なんだこの車」
「なんでしょう? 誰でしょうね?」
「誰かは知らんが、車はスプリンターだ。メルセデスの」
ユーリが云ったと同時に、黒いハイルーフカーゴバンの運転席からロニーが降りてきた。それを見て、真っ先に飛びだしたのはユーリだ。それに続いてドリュー、ジェシも外に出ると、ロニーには目もくれず車のほうに駆け寄った。
「でかいな!」
「ああ、スプリンターのなかでもいちばんでかい、エクストラロングだな……。中も見てみろ。楽器積んで全員が乗っても余裕そうだ」
「どうしたんですこれ、レンタカーですか?」
ジェシの質問に、ロニーは得意そうな表情で答えた。
「まさか。買ったのよ、もちろん」
「フィアットを買い替えたばかりなのに、二台め?」
「こっちは社用車よ。経費で落とさせてもらったわ。……前のが調子悪くなったときに買い替えなきゃって思ってたんだけど、ツアーのときは飛行機も鉄道も使うし、もういいかなって買いそびれたままだったでしょ。でも、近場の移動にやっぱりあったほうがいいなって」
「ここへ来る前に気づけよ」
「ここまで何度も往復してて気づいたのよ」
前の、というのはバンドがデビューした頃に、ロニーが会社から借りていたハイエースのことだ。それもスーパーロングボディで中は広かったが、かなり古くあちこちガタがきていた。シートもへたってしまっていて、乗り心地も良いとは云えなかった。
だが眼の前にあるスプリンターは、高級車のそれらしいラグジュアリーなシートだ。ユーリは早速二列めのシートに坐り、脚を伸ばして満足そうな顔をしている。
「これで移動するならどこででも演ってやるぜ」
「同感だ」
「えっ、でもカイルやエミルたちも一緒ってことになると、二台要るんじゃないですか?」
広々とはしているがバンでよくある8シーター、定員は八人である。バンドの五人とロニー、ローディや付き人全員はさすがに乗れない。
ジェシの当然な指摘に、ルカはふとサーカスで見たトレーラートラックのことを思いだした。
「どうせなら、キャンパーバンみたいにカスタマイズすればもっと快適になるな。それなら二台と云わず三台あってもいい」
この案に、ジェシとドリューとユーリが一斉に飛びついた。
「いいですね! 大画面のモニターつけて、映画観たりゲームができるようにしましょう!」
「キッチンの設備もあるといいんじゃないか? 腹が減ったときに昼時で、混んでて店に入れなかったことがあったろう」
「賛成だ。知らん土地で知らん店に入って不味いもんを食いたくないってのもあるしな。冷蔵庫があって、
「当然ベッドは欲しいよな。寝てるあいだに目的地に着くと楽だ」
皆が嬉々として好きなことを云いだし、ルカも気分好く自分の希望を付け足すと。
「なに云ってるの! 偶にしか乗ることないのに、そんなのいったいいくらかかると思ってんのよ! とりあえずこれ一台あればいいでしょ!」
まったく、車を弄りたかったら自分で買ってやんなさい! といつもの雷が落ちたところに、イェリネク夫妻が揃って本館から出てきた。
「あぁ、お騒がせしてすみません……! 今、ご挨拶に伺おうと――」
赤面して焦りながら、ロニーがお世話になりましたと挨拶をする。ルカたちバンドも面々も、揃ってありがとうございましたと礼を云った。またいつでも来てくださいねと微笑まれ、是非またとにこやかに握手を交わす。
そうして、エミルやブルーノたちが荷物を車に積み込み始めた、そのとき。
「ああ、そうそう。忘れるところだったわ」
イェリンコヴァ夫人がポケットからなにかを取りだし、「階段を上がってすぐ左側のお部屋を使っていたのはどなた?」と皆の顔を見まわした。
テディが顔をあげ、小首を傾げる。夫人は「ああ、あなた?」とテディの前に近づき、手にしていたものを差しだした。それを見て、テディが驚いた様子で、僅かに目を見開く。
「これ、とりあえず生糸で繋いでおいたから、ゴム紐を通し直してね。ベッドの下まで転がっていたのも箒で集めたから、たぶん一粒残らずあると思うわ」
素敵なブレスレットね、大切にね、とミントブルーのビーズブレスレットを手渡されたテディが、一瞬泣きそうな顔になったのをルカは見た。その視線を感じたのか、テディははっとしたようにこっちを見たが――ルカは笑みを浮かべ、肯いてみせた。
輪にして細い糸が結ばれているそれを、テディがぎゅっと握りしめる。
「……ありがとう」
そうしてバンドとローディたち、そしてロニーの九人はスプリンターとフィエスタの二台に分かれて乗りこみ、イェリネク・ドヴールを後にした。
大小二台の黒い車は、緑の絨毯を切り裂くように北へ向かって走り、およそ二時間半後には無事にバンドのホーム、プラハへと辿り着いた。観光客が多く、ファンなどに見つからないようにカーテンの隙間から外を覗くが、そんなふうに気を張ることもなんだか久しぶりで懐かしく感じる。
同じように外を見ていたテディが「トゥルデルニークが食べたい」と、ぼそりと呟いた。
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