scene 8. カリスマ
「……彼が話した?」
少し面喰らった表情を浮かべたあと、ゾルトは苦笑しながらそう尋ねてきた。ルカは想像してつい笑ってしまい、「まさか」と否定した。
「あいつはなにも云わないよ。俺も訊いたりしてない」
「なのに、どうして?」
「あいつのことは、あいつより俺のほうがよく知ってるのさ」
ルカはそう云い、軽く肩を竦めた。ゾルトが気まずそうにルカから目を逸らし、顎を撫でる。
「あー……、俺は君に、一発どうぞと頬を差しだすべき?」
ゾルトがそんな意外なことを云いだし、ルカはぱちぱちと目を瞬いた。ユーリならいい心懸けだ、とでも云って歯が頬を貫通するくらいのパンチをお見舞いするかもしれないが――ルカは、手が痛くなることはごめんだな、と首を横に振った。
「いや。面倒かけて悪いって、こっちが謝りたい気分だよ」
自然と口をついたのはそんな言葉だった。ユーリに話したらきっと呆れかえるだろうと再び笑いがこみあげてくるのを堪らえながら、ルカは足先に目を落とし、咲きかけていた花の残骸を再び見た。
「まったくガキだなぁ……。まあね、実を云うと、気づいたときはあんたをテディに近づけちゃいけないんじゃないかと思ったけどね。でも、あんたはそういう人じゃなかったみたいだから」
「……ああ。ここへは仕事で来ただけだ。彼と再会したのはほんとに偶然だよ、それでも君にしてみれば気に入らないだろうが……変な心配はしなくていい」
それが半分くらい嘘だと知っているが、ルカは黙って頷いた。どうせこっちも、先日ふたりの跡を尾けて話を立ち聞きしていたとは云えない。
広い庭には暖かな陽が降りそそぎ、池にはガチョウたちが群れている。こんなのどかな雰囲気のなかじゃ、修羅場な話を始める気にはなれないよなとルカは苦笑した。
これ以上この場にいてもしょうがない。ルカはゾルトに背を向け、立ち去ろうとしたが。
「興味深いね。……いや、気を悪くしないでくれ。君のその、妬くでもなく俺を嫌うでもなく、かといってテオ……彼を責めるでもないその余裕は、いったいどこからくるんだ? 君と彼とは学生の頃からのつきあいと聞いたが」
背後から飛んできたそんな質問に、ルカは振り返りはしないまま、ふっと口許に笑みを浮かべた。
――たぶん、何時間もかけてどんな言葉を尽くしても、それを充分に説明することなど叶わない。
「余裕なんかじゃないさ。ただ、なにがあっても離れないって、そう誓っただけだよ。もう、十五年も前にな」
ルカは独り言のようにそれだけ云うと、本館に向かって歩き始めた。
翌朝。皆がいつものように朝食を摂っている時間、テディはダイニングに現れなかった。まだ眠っているのかとエミルが部屋へ様子を見に行ったが、ノックをしても返事はなかったそうだ。鍵はしっかりと掛かっていたので、中には居るはずなんですがと報告したエミルに、ルカは眠っているのだろう、放っておけばいいと云った。
昨日の今日だ。どうせ、ゾルトと顔を合わせづらいなどと考えて、ブランケットに潜っているに違いない。
ジー・デヴィールはルカがフロントマンを務めているが、スター然としたヴォーカルとバックバンドといったワンマンなグループではない。
ユーリはリーダーといっても、ほとんど指導的なことを云いはしない。ドリューもギタリストにありがちなエゴをだしてくるようなことはなく、むしろ控えめすぎて、もっと前に出ろと煽られるほうだ。ジェシも、実は頑固なところもあるが、いつも朗らかな笑顔を見せるムードメイカーである。
バンドにとって、良くも悪くもいちばん影響力の強い存在――それは、間違いなくテディであろう。
テディは寡黙だし、積極的に意見することも滅多にない。なにをするにもどちらかというと受身で、周囲に倣って動くタイプである。
しかし、ひとたびベースを演奏すればユーリを従えて自由に跳ねまわり、バンドをぐいぐいと引っ張っていく。楽曲制作においても、それは同じだ。
クレジットにはメンバー全員の名前をそれぞれにみつけることができるが、これまでにリリースしたオリジナル曲の半分以上はテディのアイデアによるものだ。詞もクレジットはほとんどがルカの名前になっているが、それは楽曲の権利配分のバランスを考えてのことである。たいていルカの傍にいるということもあって、歌詞もテディのひらめきや言葉選びによるところは大きい。
もしもテディが自分の働きに見合うギャラを寄越せ、などと云いだしたなら、きっとロニーは逆らえないだろう。テディにはそれを云う権利と資格が充分にあるのだから。仮にロニーがそれを突っぱねたとしたら――詞も曲も作れ、楽器の演奏スキルも高く、歌えてルックスも文句なしなテディはソロアーティストとして引く手数多だろう。
しかし、彼は決してそんなことは望まない。彼が性格的にソロに向いていないことは誰の目にも明らかだし、おそらくテディ自身もそれをよくわかっている。スターとしてちやほやと担ぎあげられるにしても、アーティストとして独りでなにもかもを担うにしても、その先に見えるのは破滅の道だ。
バンドへの貢献度に差はあれど、仲間内で格差ができるような利益の分配をロニーはしていない。それはバンド内の不和、延いては解散の要因となり得るからだ。しかしルカもテディも、金銭面で不満をこぼしたことはない。テディは贅を尽くした生活をするわけでもなく――どちらかというとそれはルカだ――、毎日の暮らしに不自由のない今はもう金に執着することもない。彼にとってバンドは生き甲斐と云えるほどに大切なもので、好んでトラブルを起こすことはない。そう、自覚がある限りは。
気分屋のテディは、あるときはひたすら音楽を愛するストイックで献身的なミュージシャンであり、またあるときは我が儘だったり投げ遣りだったり、その所為でルカと喧嘩を始めたりする困った子供のようだった。
今は、どうやら音楽以外に心を占めているものがあるらしいが――音楽センスとスキル、そしてルックスのためか、そんな気紛れなところも魅力的に映る。
ルカは思った。同じバンドで、同じように世界中で騒がれてはいても、『スター』と呼ばれることが多い自分とは、テディは明らかに違っている。テディを言い顕すに、もっとも相応しい言葉は『カリスマ』だ。
テディが現れないまま、一同は捗らない作業を早めに切りあげて本館へと向かった。が、ゾルトだけは本館ではなく別館に向かい、部屋で撮った写真をチェックすると云って皆と別れた。
昼食にはまだ二時間ほども早い。だが、いつもならスタジオでとる休憩の場所を変えるだけ、すぐにまた戻るかどうかはあとで考えようということで意見が一致した。いいアイデアやリフが生まれてくれないときに、無理をしてあれこれ捏ねまわしているとスランプを呼ぶことがある。気分転換も大切だ。
上がらない雰囲気をなんとかしようとするように、ジェシが歩きながら明るい声を張りあげる。
「ミルクティー淹れますか? ルカはコーヒー? ユーリもコーヒ……あ、ビールですね! カイル、数えておいて」
「はーい。えーっと、ドリューさんもビールですね」
「えー、ミルクティー飲むのは僕だけ?」
「俺、ミルクティー欲しいです」
そうして一同が本館へやってくると、ラウンジに入ってすぐ左の隅にある一人掛けのソファに、ぽつんとエミルが坐っていた。
「あれ? そんなところでどう――」
ジェシがそう云いかけて口を閉ざす。ルカはなんとなく察し、その肩越しにラウンジの中を見た。
暖炉前のソファの陰から、寝癖で乱れた髪が覗いていた。ジェシとエミルが顔を見合わせて頷き、そして示し合わせたように振り返り、こっちを見る。
ルカは、しょうがないなとソファに近づき、だらしなくクッションに埋もれているテディに話しかけた。
「やっと起きたか。なにか食ったか? おまえがいないとどうも捗らなくてさ、午後はちゃんとスタジオに――」
「気分が乗らない。今日は休みにしといて」
テディはルカの顔も見ず、それだけ云うとテーブルに置いてあった煙草に手を伸ばした。ゴロワーズ・レジェール。学生の頃も吸っていた黒煙草を一本振り出して咥え、テディはジッポーで火をつけた。
煙を吹かしながら、再びソファとクッションに凭れる――そんな様も、なんとも物憂げで魅力的に映るが、テーブルに置かれているのはビールでもワインでもバーボンでもなく、カフェオレですらなかった。
「それ、なに飲んでるんだ?」
「クリームチーズ入りのストロベリースムージー」
「あの、食欲がないって云うんで、俺が」
エミルが何故か申し訳無さそうにそう云った。ホイップクリームたっぷりの濃厚そうなピンク色の飲み物をしげしげと眺め、ふつうに朝食を摂るよりカロリーはありそうだなとルカは納得した。
しかし、気分が乗らないの一言で仕事をしないことに対しては、簡単に納得するわけにはいかない。
「ま、食欲がないならメシは好きにすればいいけど、三時になったらいちおうスタジオには出てこいよ? 仕上げてしまいたい曲もあるし――」
ルカはそう云ったが、ユーリがそれに異論を唱えた。
「なに甘いこと云ってんだ、休憩が済んだらスタジオに戻るぞ。居心地がいいからってだらだらしないで、できることはさっさと済ませよう」
ユーリがそう云いながら、後ろのソファにどかっと腰をおろした。ドリューもその向かいに坐ると、ジェシとカイルが急ぎ足でキッチンに向かった。
ユーリがこんなことを云うのはめずらしい。ここのことはかなり気に入っていたはずだが、ゾルトも一緒なのが気に食わないのだろう。ユーリとしてはさっさとやるべきことを終えて、プラハへ戻ることでゾルトからテディを引き離したいのだ。
ま、とりあえず今はコーヒーだなと、ルカは奥側のソファに坐ろうとしたが。
「まぁ、俺のぶんまでがんばってね」
こっちを見もしないまま、テディがそんなことを云った。ユーリが勢いよく立ちあがり、テーブルの脚を蹴る。
「テディ、おまえいいかげんにしやがれ……ふざけてんのか? おまえがいないと困るくらいわかってんだろ! ちゃんと――」
「だって、しょうがないじゃない。気分じゃないんだもん。気が乗らなきゃ調子だってでないし、どうせなんにもできないよ」
相変わらずこっちを見ようともせず答えるテディに、ユーリが気色ばんでつかつかと近づく。やばい! と皆が同時に思ったのか、すぐに立ったドリューと駆け寄ってきたエミル、そしてルカの三人で拳を振りあげたユーリを止める。
「待て待て待て! 気持ちはわかるが殴るのはなしだ!」
「殴ったりしたらテディ、ますますスタジオに来なくなりますよ!」
「おまえそうやってキレるけど、どうせすぐに後悔するんだからやめとけ!」
三人が必死にそう云うと、ユーリはふんっと腕を振りほどき、元いた席に戻った。
ほっとして、ルカもようやくソファに腰掛ける。そしてテディのほうを見やったが、彼はユーリが激昂したのもまったく意に介さなかったようだ。テディは何事もなかったかのように、ゴロワーズの煙を燻らせながらピンク色のタンブラーをストローでかき混ぜている。
さて、どうしたものかとルカは暫し悩んでいたが。
「――失礼、取り込み中かな?」
テディがはっとしたように動いた。この声になら振り向くのかと少々癇に障らないではなかったが、ルカもロビーのほうを見た。
ジャケットを着てバッグを肩から下げたゾルトが、遠慮がちに立っている。
「すまないんだけど、車を貸してもらえないかな。ここの横に駐めてある黒のフィエスタ、誰のだい?」
「あ、俺のです」
エミルが答える。「なにか用事ですか? 街とかなら、俺が送りますけど」
「いや、SDカードを買いに行きたいだけなんだが……どうせならブルノまで出て、ついでにあちこち撮ってこようかと思ってね。送ってくれるのは有り難いが、撮影のあいだ待っててもらうのは悪いし、こっちも気を遣うから」
そういうことですか、とエミルがポケットから車のキーを出す。「ありがとう、助かるよ」と云ってゾルトがそれを受け取り、すぐに出ていこうとすると。
「ひとりで行くの?」
そう、テディが声をかけた。ゾルトは一瞬テディを見つめ、次にちらりとルカを見た。ルカはゾルトと視線を合わせたあと、ソファの背に腕をかけているテディを見た。
待っている。自分がなにを云うか、テディはただ黙って待っているのだとルカにはわかった。まったく、適当なことを云って好きなようにすればいいのに――否。自分からそれを云うと止められると思ってのことか。
やれやれ。しょうがないな、とルカは苦笑を溢しつつ、ゾルトに云った。
「あー……、ちょっと、こいつ調子が出ないとか云っててね。たぶんストレスだろうから、よければ一緒に連れていって気分転換させてやってくれないか」
顔を綻ばせ、意外そうにテディが小首を傾げる。
「……いいの?」
「ああ。彼さえよければ、ちょっと出かけてリフレッシュしてこい」
ゾルトが怪訝そうな顔をする。エミルもだ。エミルはなにか不思議なものでも見たような表情でルカに向き、「テディも一緒なら、俺が運転してついていきますよ」と云った。だが、ルカは首を横に振った。
「いや、エミルには残って、テディの代わりにベースを弾いてほしいんだ。なんとなくでも曲の感じをつかむのに、やっぱりベースがいないと。そのかわりテディ、おまえはしっかり気分転換してきて、明日はちゃんとスタジオに出てくるんだぞ」
「オーケイ、わかった。……いい?」
ジョルト、と名前は呼ばずに尋ねたテディに、ゾルトは頷いた。
「ああ、俺はかまわんよ。でも、地下の納骨堂や教会を撮るつもりだから、楽しくはないかもしれんが」
エミルはまだ納得できないらしい顔をしていたが、なにも云わずキッチンのほうへ行ってしまった。ゾルトが慌てて「借りるよ、ありがとう」と声をかけ、テディも「着替えてくる」と急ぎ足で本館を出ていく。
それを待っていたかのように背後から近寄ってきた気配に、ルカは振り向いた。
「おい、おまえ……なにを考えてる」
「なにって」
ユーリに訊かれ、ルカはさっきまでテディが坐っていた場所に視線を落とし、ふっと笑ってみせた。
「俺はいつだって、テディのためになることしか考えてないさ」
ユーリがちっ、と舌打ちするのと同時に、車のエンジン音が耳に届いた。
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