scene 7. 春の息吹

 楽曲制作、演奏ともにテディはますます絶好調だった。それもベースプレイのみならず、ユーリとドリューとテディの三人でアコースティックギターを弾いたカントリーフォーク調の曲では、見事な間奏を聴かせた。

 これはデモトラックのつもりで録音レックしていたのだが、あまりにも出来が良いため録りなおす必要はないのではないかと、バンドの意見が一致するほどだった。アンプラグド・ライヴのような一発録りの音のなかには、どれほど完璧なテイクを重ねたとしても敵わないマジックがあるのだ。

 そんなふうに、調子の良いときは期待以上の成果を出し、仲間たちとも和気藹々とやれているテディだったが――ちょっとしたことで、気分は上にも下にも変化するらしい。


 この日も昼食のあとの自由時間、バンドの五人と楽器テックのふたり――テディ担当のエミルとジェシ担当のカイル――、そしてゾルトは、それぞれラウンジとダイニングの好きな席に陣取り、ビールを飲んでいた。

 曲のアイデアについて話したり、たわいも無い話で盛りあがったりしているうち、まずドリューがそろそろ昼寝してくると云って別館の部屋に戻った。次に、さすがに一日中飲み過ぎかなとこぼしていたユーリが、今日はもうやめとこうと云ってラウンジを出ていった。

 そして、その場に残っているのはルカとテディ、ジェシ、エミルとカイル、そしてゾルトという顔ぶれになった。


 ジェシはダイニングの奥側のテーブルでラップトップを開き、自分がこれまで撮りためてきたメンバーの写真をゾルトに見せながら話していた。その右隣にはカイル、背後から覗きこむようにしてエミルが立っていて、ラップトップを挟んで向かい側にゾルトが坐っている。ゾルトもiPadアイ パッドを操作し、時折ディスプレイをジェシのほうへ向けていた。

 テディは隣のテーブルで、話の輪に入ることなくぽつんと坐っている。その斜め後方、ラウンジのソファでルカは雑誌のページを捲りながら、この状況はうまくないなと風向きを見守っていた。

 ジェシがゾルトと写真の話で盛りあがるのは自然なことだった。フリーのフォトグラファーを母に持つジェシは子供の頃から写真が趣味で、ツアー中や打ち上げパーティの光景など、他の誰にも撮れないようなバックステージショットを秘蔵している。ルカとテディの後輩であった学生の頃も、しょっちゅうふたりにカメラを向けていた。ファン垂涎の貴重な写真の主なのだ。

「で、ですね、これがその音楽室の写真なんですよ。ルカ、真面目そうでしょう! いま見るとなんだか幼い感じもしますね、テディはあんまり変わらないかな」

「……そうだな。変わってない」

 それが聞こえてか、テディはふんっと膨れっ面をして外方を向いた。ルカはやれやれ、とテディから視線を逸らした。ジェシが中心になってカメラや写真の話ばかりしているのが、どうやらテディの気に入らないらしい。

 そんなこととは露知らず、カイルは「これってハウスの部屋ですか? 意外と広いっすね」と、写真について尋ねたりしている。ベーステックとしてテディに付いてから長いエミルはさすがに彼の不機嫌には気づいているようで、先程から話を変えようとしているのだが――

「そんなことより、僕ら、スタジオ以外ではすることがなくって手が空いてるんで、なにかお手伝いすることがあったら云ってください」

「ああ、ありがとう。でも、なにもないかな。部屋に戻ってすることといえば、カメラのメンテナンスくらいだし」

「そういえばカメラ、ニコンのD810でしたよね! 以前はなにを使ってたんですか? フィルムカメラとどっちがいいです?」

 ジェシが勢いこんで質問をする。エミルがちらりとこっちを見、なんともいえない顔で後頭部を掻いた。

 しょうがない。ルカは頷いてみせた。プロのフォトアーティストに気軽に質問できるこの状況は、写真やカメラが好きなジェシにとって至福の刻なのだろう。趣味人というのはそういうものだ。ジェシには悪気はまったくない。仕方のないことなのだ。

 そんなことを思いながら、ルカはテディの横顔を見た。テディは物憂うげな表情で、マコヴェッツMakovecという芥子の実ポピーシードのケーキをつまらなそうにフォークで崩していた。

 甘いものが足りないとプラハから持って来させるようになったが、それがなければああしてここの手作りケーキを黙々と食べている。今更ながらルカは、あんなに甘いものばかり食べてよく肥らないものだと感心した。もっとも、食べたくて食べているというよりは、他に楽しみがないためについ口にしてしまうのかもしれないが――まあ、なら問題はない。

「フィルムカメラも気分によってはまだ使うよ。これ、去年撮ったのだけど、この写真はどうしてもなにかが気に入らなくて、フィルムのほうで撮りなおしたんだ。だから、ここに保存してあるのはボツにしたやつだけど」

「へえぇ、これも充分いい感じですけどね」

「うん。でも、なんとなく納得がいかなくてね。で、フィルムを使うことにした。デジタルのメリットは多いけど、やっぱりフィルムはいいよね。あの生な感じがいい」

「生な感じ?」

「音楽をCDやFLACフラックで、最高の音質のヘッドフォンで聴くのと、ヴァイナル盤をでかいスピーカーで振動を感じながら聴く違いみたいなものかな。針が滑るノイズもそうだと思うんだけど、粒子の粗さもなんか柔らかさとか、温かみを感じるんだ。奥行きがあるんだよ」

「ああ! なるほど……すごくわかりやすいです」

 そして、スタジオに戻って作業を再開するまであと一時間、というタイミングで、ジェシはゾルトに礼を云い、ラップトップを抱えて本館を出ていった。きっとまたエリーと話すのだろう。それについて、エミルもルカの横を通り過ぎていった。

 ルカも、ずっとここで耳を澄ましながらお茶を飲んでるのもな、と読んでいるふりをしていた雑誌を閉じた。外へ出てこようと席を立ち、とっくに空になっていたマグを手にキッチンへ向かう。

 テーブルの脇を通り過ぎるとき、背後でかたんと音がした。「フィルムで撮ったのって、なに?」と尋ねる声が耳に届き、ルカはさりげなく肩越しに窺い、ゾルトの傍に立っているテディを見た。

「これ。月下美人Queen of the Nightっていう、一晩だけ花を咲かせるサボテンの一種なんだ。この頃、蕾が花開く瞬間とか羽化して羽を広げようとしている蝶とか、そういうテーマで撮っててね。これを撮ったときなんか、開きかけからすっかり咲くまで五時間くらい粘ったんだ。でも、こんなに撮ってもなんだかなにか足りない気がして、慌ててフィルムカメラを用意してね――」

 テディおまえ、写真とかそういうものに興味があったっけ? とルカは苦笑しながら、黙って本館を後にした。





 ――翌日。

 昼食のあと、ルカはできあがった曲に仮でつけた歌詞リリックを手直ししていた。ぽかぽかと春の陽に照らされたガーデンチェアに腰掛けていると、すぐ前をガチョウたちが行進していった。その光景に目を細め、ルカは閃いた言葉をノートに書き留めた。口遊んで譜割りを確かめながら、もっと気の利いた言葉や韻はないかとさらに考える。いつもならテディが傍にいて、ルカとはまったく違うセンスの一節を考えてくれたりするのだが。

 するとそのとき。建物の横手、ガチョウたちが消えていったサウンドスタジオの裏のほうから、テディの声が聞こえてきた。

「早く、こっちこっち」

 楽しげに弾んだ声。なんだか気になり、ルカはノートを置いて腰をあげ、中庭を横切って建物の陰からそっと覗いてみた。テディがゾルトの腕に手を絡め、庭へ引っ張っていこうとしている。なんだなんだとルカは池のほうへと姿を消したふたりを追うことにした。みつからないよう、壁沿いにそっと進む。

 テディは足許のなにかを指さし、ゾルトに話しかけていた。

「ほら、ここ。もうじき咲きそうだろ? で、ひょっとしたら撮るのにいい感じなんじゃないかって思ってさ」

「ほんとだ。いいね」

 どうやら開花しそうな花をみつけて、ゾルトに知らせたらしい。ルカは建物の陰に身を潜めたまま、聞こえてくる声に耳を澄ませた。

「なんの花かな」

「クロッカスだな。ほら、あっちのほうにも生えてる。そのうちそこらじゅうで咲くよ」

「花とか詳しいんだね」

「小道具として撮るときに、その花の持ってる意味や伝説や、花言葉なんかを調べないと、間違って変な解釈されかねないんでな。それでちょっと知識をつけただけだ」

「解釈かぁ、厄介だね。花なんて見た目が綺麗ならそれでいいのに」

「と、思うだろ……。ところが以前、日本で仕事をしたとき、モデルが着物姿のとても美しい女性でな。俺は彼女の真っ直ぐな黒髪と金箔を使ったオパールグリーン白緑(びゃくろく)の着物が映えるよう、なにか日本らしい大輪の花がほしいと思ったんだ。で、真っ白な大輪の菊に百合をあしらった花束をオーダーした。立派な花束で、思ってた以上にコストがかかった。なのに……その花束を見て、現場の日本人スタッフがこう云ったんだ。これは故人を偲んで供える花束だ、ってね」

 思わず吹きだしそうになり、ルカは慌てて手で口許を押さえた。同時にテディの笑い声が辺りに響く。

「まあ、それは単なる俺のミスだけど。でも解釈に関しては、音楽も似たようなもんだろ? 映画や文学、なんでもそうだ。創り手が考えもしてない深い意味を考察してくれる奴がいる。ありがたいことだけどね」

「いるいる。えっ、この曲そういう意味だったのって偶に驚くね」

「だろ。……おっ、いつの間に。テオ、見てみろ。さっき撮ったときより蕾が開いてきてる」

「ほんとだ」

 暫し会話が途切れたのはゾルトがシャッターを切っていたからだろう。再び聞こえたのは「こうなると完全に咲くまで粘りたくなるな。今日はもうスタジオは行かないでおくか」という、ゾルトの声だった。

「そういえば、ここではいつまで撮影するの?」

「もういい写真は何枚か撮れてるし、いったん切りあげてもいいんだけどな。ここの居心地がいいんで、ついもう少しって思って……おたくのボスには内緒だぞ」

「ボスね。ロニー、ケチだからなあ。……って、ここでの撮影が終わったらどうするの?」

「ああ、アイデアが浮かんだらひとりずつセットアップした写真を撮る。でもまだどんな演出をするかが浮かばなくてね。もっと一人ひとりの個性を掴まないといけないな」

「……それも終わったら?」

「次の仕事が待ってる。できれば、せっかくモラヴィアにいるんだから、緑の絨毯も撮ってから去りたいがね」

 そのとき。ふと静けさが落ちた。ルカはそっと顔を出し、様子を窺った。

 すると俯いていたテディが、いきなりざくざくと土を蹴り始めた。咲きそうだと知らせた蕾を踏み躙っているのだ。自分と同様にゾルトも驚き、息を呑む。

「テオ! なにをするんだ――」

「いいだろ。もう撮ったんだから!」

 テディはそう云うと、こっちに向かって足早に歩き始めた。まずい! とルカは引き返しかけたが、苛立った足音はあっという間に近づいてきた。間に合わない。ルカは咄嗟にくるりと踵を返してポケットに両手を突っこみ、たったいま歩いてきたばかりというふうに装った。

 テディとばったり鉢合わせしたのは、その一瞬後だった。

「なんだ、びっくりした……おまえも散歩か?」

 ルカはそう云って、惚けてみせた。演技にはそこそこ自信があった。

「……別に」

 テディはすぐにルカから目を逸らし、そのまま本館の前を折れて別館のほうへと歩み去った。おそらく戻って部屋に籠もる気だろう。ルカはその後ろ姿にほっと息をつき、こっちを見ているゾルトに近づいていった。

 白と紫の混じった花弁を見て、ルカは足を止めた。これから花開こうとしていた花弁は膨らみを失って倒れ、無惨に土にまみれている。

 無言でその不運な花をじっと見つめていると、ゾルトが云った。

「いま来たばかりじゃないね。ずっと見てた?」

「……まあね」

 ルカはそう云って頷いてみせた。ゾルトが苦笑し、まいったなと頭を掻く。

「……おたくのベーシストは、なかなか気難しいね」

 その言葉に、ルカは眉をひそめつつゾルトを見た。

 気難しい? そうじゃない。気難しいというのは、なにか拘りがあって神経質だったりとか、そういうことを云うのではないか。まったく違う。ゾルトもそんなことしか云えなかっただけで、本当はわかっているはずだ。テディのあれは、駄々っ子というほうがしっくりくる。

 それに、事はそんなに単純じゃないはずだ。ルカはどうしようかと迷いつつ、こう答えた。

「ぜんぶ知ってるから、本音でどうぞ」

 はっとしたように、ゾルトが目を瞠ってルカを見た。

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