scene 6. 上機嫌な恋人と憂鬱な自分
翌日。サウンドスタジオで演奏するバンドを、ゾルトはいろいろな角度から撮影していた。テディは不機嫌な顔などせず、文句のひとつも云わない。
それどころか――皆が眠そうな顔を揃えた朝食時、テディはゾルトに同じテーブルの席につくよう促した。
取り分けたり片付けが面倒だろうからこっちで食べれば、とテディが云ったとき、皆はぽかんと口を開けたまま、フォークを持った手を停止させていた。ボトルからワインを注いでいたユーリに至っては、これ旨いよとゾルトにレバーとクリームチーズのスプレッドを勧めるテディを不思議そうに見つめたまま、グラスからワインを溢れさせる始末だ。
昨日までとは一八〇度違うテディの態度に、周りの皆は全員、狐につままれたような顔をしていた。
昨日。ずぶ濡れで本館に戻ったゾルトとテディを見て、ロニーとマレク、ドリュー、ジェシは一様に驚き、早く暖炉の前に、風呂にお湯をと大騒ぎした。ふたりより先に戻ることができなかったルカはキッチンにある裏口をユーリに開けてもらって中に入り、ずっとそこにいた
ゾルトはがちがちと寒さに歯を鳴らすテディを抱きかかえたまま、自分が悪いのだとロニーと皆に詫びた。テディの態度に業を煮やし、一言云ってやろうとしつこく追いかけた所為で、逃げていたテディが誤って川に落ちたのだと、ゾルトはそう説明をした。
ロニーはなにか云いたそうな顔をしてはいたが、落ちたのはテディの不注意だし、あなたは助けてくれたのだからと、ゾルトを責めはしなかった。
ロビーからばたばたとブルーノが駆けこんできて、部屋のバスタブに熱めのお湯を張ったので、とにかく温まってきてくださいとテディに云った。暖炉の前からテディが離れるとき、ルカは肩を抱いて付き添った。
まったくなにやってんだ、川に落ちるかふつう? などと云ってやるほうが自然だと頭ではわかっていたが、そこまで演技することはできなかった。だからか、テディもなにも話しはしなかった。
そして、別館の部屋で温かい湯に浸かり、テディが着替えを済ませると、ルカはまた一緒に本館へと戻ってきた。部屋もヒーターで充分暖かいが、テディが戻りたいと云ったのだ。皆も心配しているし、なにか温かいものを飲んだほうがいいだろうと、ルカも同意した。
ラウンジの暖炉の前には既に着替えを済ませたゾルトがいて、コーヒーを飲んでいた。クッションを敷いて床に腰をおろし、靴を脱いだ足先を暖炉のほうへ伸ばしている。ソファにいたジェシはこっちを向くと「ポットにまだコーヒーが残ってますよ」と云った。ルカはありがとうと云い、ラウンジのなかを見まわした。ちゃんと温まった!? などと駆け寄ってくるだろうと思っていた姿が見当たらなかった。「ロニーとマレクは?」と尋ねると、ドリューが「気にかかる様子だったが、予定があるとかで、もうプラハへ戻った」と教えてくれた。
テディを暖炉の前に坐らせ、ルカは残っていたコーヒーで砂糖たっぷりのカフェオレを作ってやった。テディがマグを受け取るとき、肩から掛けていた厚手のストールが床に落ちた。ルカはそれを掛け直してやり、「ケーキは?」と尋ねたが、テディは「うん、あとで」と、振り向きもしなかった。
ルカは窓際のソファに坐り、テディを背後から見つめていた。暖炉の火にあたり、ふたり肩を並べているのがなんとなく映画の1シーンのようだった。両手でマグを抱え、テディが「悪かったよ」と、独り言のように呟くのが聞こえた。なにがとは云わなかったが――ゾルトはぱちぱちと爆ぜる暖炉に向いたまま、手を伸ばしてくしゃりとテディの髪を撫でた。
拗ねた子供のように、テディが口先を尖らせてゾルトの顔を見る。ルカはくすりと笑みを溢し――視線を逸らし、窓の外に向けた。
テディがすっかり落ち着いたことで、曲作りはようやく順調に進み始めた。
デモトラックは一気に三曲も増え、新しい曲のアイデアもいくつか生まれた。とりあえず
丘陵地に広がる農場はだんだんと緑に染まり始め、草原を撫でる風が春の匂いを運んでいた。あとひと月もすれば小麦が辺り一面を覆い、浜辺に打ち寄せる波のように畝る大地は緑の絨毯と呼ばれる絶景になる。
イェリネク・ドヴールでの生活リズムにすっかり馴染んだ面々は、楽曲制作が軌道に乗り始めたこともあり、昼食後から三時のお茶の時間までは休憩を兼ねて自由時間にすることにした。
根を詰めすぎてもいいものは生まれない。ユーリはランチを食べながらゆっくりと酒を飲み、ドリューは部屋でラジオを聴きながら昼寝をすることにしたようだ。ジェシも部屋に籠もっているが、ドア越しに声が聞こえたということは、スタッフであり恋人でもあるエリーと話しているのだろう。交代で来る付き人たちもそれほど雑用が多いわけでもなく、思い思いにのんびりと過ごしていた。
そしてテディは――
「……おい。いいのかあれ」
ルカが本館に戻り、飲み物を出すためにラウンジを通り過ぎキッチンに向かうと、ダイニングでまだ飲んでいたユーリが声をかけてきた。
ユーリがあれ、とスタロプラメンのボトルで指した先、暖炉の前にはテディとゾルトがいた。ふたりはテーブルの角を挟み、向かい合うようにソファに坐っていた。テーブルに置かれたコーヒーらしきマグからはまだ湯気が立っていて、テディは昨日また差し入れられたケーキの箱を開けている。
「まだお茶の時間じゃないだろ?」
「いいじゃない、みんな昨日食べてるんだし。コーヒー飲んでるとお供が欲しくならない?」
「俺は甘いもんは要らんよ。コーヒーのお供って云うが、おまえのそれのほうが甘そうだぞ」
テディは大の甘党で、カフェオレに角砂糖を四つも入れる。ふたりの会話に聞き耳をたて、確かにケーキの甘さといい勝負だなとルカは笑ったが。
「パートナーは余裕だな。俺はあの野郎にファックバディの役目を奪われるんじゃないかって、心配でしょうがないんだが」
「大丈夫だ。それはない」
冷蔵庫からマリノフカを出し、ルカはユーリの向かい側に腰をおろした。ぎりり、とキャップを開けてそのまま一口喇叭飲みし、「なにおまえ、心配であいつらのことずっと見張ってんの?」と尋ねる。
「そうじゃないが……ついこのあいだまでのテディと、あのテディは本当に同一人物なのかと不思議でな」
その言葉に、ルカはさりげなく振り返ってみた。テディはたっぷりの生クリームにダークチェリーがトッピングされたチョコレートケーキをフォークに取り、ゾルトに食べてみろと勧めている。首を振るゾルトに「美味しいのに」と唇を拗ねたように尖らせると、テディは自分の口に入れ、満足そうに微笑んだ。
「……気持ちはわかるが、あれもテディさ」
「なるほど」
とは云ったものの。幸せそうな顔でケーキを頬張り、なにか云ってはくすくすと笑うその様子は、まるで恋人とじゃれているかのようだ。ここにユーリがいるのも、自分がこうして見つめているのも、まったく目に入っていないらしい。
救けたかったと云われて懐いてしまったのか? 自分の恋人は棄てられた仔犬かなにかだったかな、と思いながらルカは横目でふたりを盗み見ていたが。
「ちょっと、そんな近くから撮らないでよ。いくらなんでもそんなアップでノーメイクの顔撮ったら、ロニーが怒るよ」
ゾルトがテディにカメラを向けていた。テディは撮るなと云いながらも楽しげに笑っている。するとゾルトが「じゃあメイクしよう」と右手を伸ばし、ケーキのクリームを指で掬った。テディの鼻先にクリームを付け、指先に残ったのを舐めとり、またカメラを構える。
「……もう一度訊くが、ほんとにあれ、いいのか?」
ユーリが片眉をあげて云う。テディは可笑しくてたまらないといった様子でソファに仰け反り、声をあげて笑っていた。ゾルトはそんなテディにカメラを向け、膝立ちで少しずつ動きながらシャッターを切っている。それを嫌がることもなく、テディは皿に残っていたチョコレートケーキを手づかみで取り、ポーズを作るように齧りついた。
「まあ、いいさ。仕事のほうは捗ってるんだし」
ルカがそう云って肩を竦めると、ユーリは信じられないといった顔でビールを呷った。それに合わせるように、ルカも残っていたマリノフカを一息に飲み干す。
テディは上機嫌で仕事は順調。そこへ、わざわざ水を差すようなことを云う必要はない。
ルカは思った――もしも、俺というものがありながら、その眼の前で他の男といちゃつくのってどうなんだ? などと云ったとしよう。きっとテディは浮かれ気味な機嫌を急降下させ、いちゃついてるって、どこが? と素っ惚けるだろう。そして見せつけるように、自分の反応を試すように、ますますゾルトにべったりとくっつくに違いないのだ。そんなことは考えるまでもなく、自分には手に取るようにわかる――否、知っている。
さらに面倒臭いことになるのはごめんだ。放っておくしかないのだと、ルカは溜息をついた。
そんな心の内など想像もしていない楽しげな声が、否応なしに同じ空間で過ごすルカの耳に届く。
「もう、服についちゃった……顔と手、洗ってこなきゃ」
そう云ってはにかむような笑みを浮かべ、レストルームに消えていくテディの後ろ姿を見つめながらルカは、はあぁ……と、もう一度、盛大な溜息をついた。
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