scene 5. Checkin' Up on My Baby

 広大な農場の真ん中にぽつんと建っている印象のイェリネク・ドヴールだが、裏手の農園を抜けるとその先にはオークの林がある。葉をつけていない寒々しい木々を横目に通り過ぎれば、そこは見渡す限りの葡萄畑。更に向こうには小さな川が流れている。川の上流のほうに目をやれば新芽をつけてからまだ日の浅い、春待つ森が続いているのが見える。

 そんな景色のなか、ルカは散歩でもしているかのようなのんびりとしたペースで歩いていた。テディとゾルトの姿はここまでまったく見かけてはいなかったが、ルカは迷うことなく林のなかへと踏み入った。姿が見えなくなるような場所など、他にない。

 案の定、暫く進むと微かに枯れ枝を踏んだような音と、話し声が聞こえた。慎重な足運びで更に林の奥へと向かう。歩いているうち、次第に耳に届く声のボリュームはあがり、会話もはっきりと聞き取れるようになった。

「――なあ、待ってくれ。一度ちゃんと話をしよう」

「話すことなんかないね。ついてこないでよ鬱陶しい」

 テディの態度は相変わらずのようだ。ルカはふたりが話すのを聞きながら、木の陰でいったん立ち止まった。

 さくさくという足音と声が響いているだけで、テディたちの姿は見えない――否。木々の間に、ちらりと人影が動いたのがわかった。思ったよりも離れている。

 ルカは引き続き話を聞くため、今の距離を保ちつつふたりの後を追った。

「話す必要はあるだろう? ……なあ待て、テオ!」

 さくり。足を止めた気配がしたのはテディだろうか。『テオ』という呼ばれ方は聞いたことがなかったが、テディの本名はセオドアだ。子供の頃はセオと呼ばれていたそうだし、ちょっとした発音の違いでテオと呼んでもおかしくはない。

 ルカはその場に留まり、木の幹にぴたりと背をつけた。コートの前を合わせて腕を組み、立ち並ぶ楢の隙間からそっとふたりを覗き見る。姿はやはり見えそうで見えない――と思ったとき、木陰からテディが飛びだした。早い動きで両腕を前に突きだしたように見え、ルカは、まさか突き飛ばしたのか? と目を瞠った。

「憶えてたのか……。俺のこともあのバーでのことも憶えてて、今まで黙って無視してたわけ!?」

「あたりまえだ! あのバーで会って以来だな、なんて云われるほうが困るだろう!?」

 やはり想像したとおりだったらしい。バーという言葉を本人たちから聞くと生々しいな、とルカは顎を撫でた。……わかってたことだ、確認がとれただけだと、自分に言い聞かせるように心のなかで唱える。

 深呼吸し、ルカはふたりの様子を窺い続けた。

 テディはなにやら難癖をつけながら、責めるように何度もゾルトの胸を押している。ゾルトはそれを止めようと両手を前に伸ばし、後退っているようだ。ふたりの姿は少しずつずれていき、やがて木陰に隠れて見えなくなった。

 憶えているのに無視していた――そんなことで怒っているのか。ということは、ゾルトがここへ来てからテディが不機嫌だったのは、自分のことを憶えていないと思い、それが気に入らなかったから?

 やれやれ。わかりやすいような、やっぱりわからないような。子供かよ、と内心で呟き、ルカはふぅと息をついた。ゾルトを本心から疎ましく思って突っかかっているわけではないとは、薄々感じていたが――。

 林のなか、ふたりの諍う声がまだ響いている。

「じゃあなんで来たんだよ、こんな仕事受けなきゃよかったじゃないか!」

「それは――」

「なんだか知らないけど、セレブに引っ張りだこの売れっ子なんだろ? なんで無理にすぐ来たりしたんだ、俺のこと憶えてたんなら断ればよかったんだよ」

「……写真のことを謝りたかったんだ」

「写真?」

 写真? ルカもそれを聞いて、なんの写真だろうと眉をひそめた。が、すぐに思い至った。バー。ブダペスト。謝られるような問題のあった写真といえば、ひとつしかない。

「……おまえとあのバーのおもてで会う前に、写真を撮ってた。壁に凭れて立ってる様子が絵になってたから、ついシャッターを切ったんだ。で、あれからしばらくして……あのバーの斜向かいにある雑貨屋のばあさんに頼んで、その写真を貼りだしてもらってた。おまえを捜すために」

「あの写真、あんただったのか!」

 そういう経緯だったのか。ルカはテディの激昂する声を聞きながら、天を仰いだ。



 バンドがブレイクして人気絶頂の頃。ブダペストのとある有名なゲイバー前に佇む、まだ十五、六歳くらいに見えるテディ――実際は十八歳であったが――の写真画像がSNSで拡散、ゴシップ誌などを賑わせる事態となったことがあった。場所といい、誰がどう見ても客を待って通りに立っている男娼といった風情だったからだ。まあ、事実そうだったわけだが。

 が、ちょうど同時期にあの動画流出事件もあり――というより、事件で賑わっていたSNSのなかでこんな画像も、とついでのように拡散されたのだが――以来、テディには元男娼でヘロイン中毒者ジャンキーという、頽廃的なイメージがついてまわるようになったのだった。



「だけどおまえをみつけることはできなくて……写真は、ずっとそのままにしてた。忘れてたわけじゃないが……まさかおまえがバンドで成功して有名になるなんて、そんなこと想像もできなかったよ。でも、あんな騒ぎになって……、あのときは本当に申し訳なかった。せめてバンドのことを知ったとき、すぐに回収していればよかった。すまなかった」

 それはわかったが、いったいどうしてテディを捜していたのか。そこを訊きたいもんだなと、ルカはふたりの様子を窺った。すると。

「ひとの写真を勝手に撮った挙げ句、それを貼りだすってのも考えられないけどさ。いったいなんだって俺のこと捜したりしてたわけ?」

 ふっとテディが、笑いを漏らした気配がした。人を小莫迦にするような、厭な笑いだ。「そんなに俺のことが忘れられなかったの? 捜してみつけて、もう一回ファックしたかったって?」

「そうじゃない。それは……もう、いいんだ。でも、写真については本当に悪かった」

「もういいってなんだよ。……いいよ? こんなチェコの田舎くんだりまで追いかけてきたんだ、どうせ仕事以外になんにもすることないし、やらせてあげるよ? どうジョルト。今夜、部屋へ行こうか?」

 からかい口調ではあったが、その台詞にルカは耳を――疑いはしなかった。ルカは額に手を当て、目を閉じた。脳裏に甦るのは、テディが次々と起こす問題と、彼の理解できない言動に苦悩した日々。


 学生の頃、テディにはずいぶんと悩まされた。他のハウスの上級生とベッドにいるところへ踏みこんだこともあるし、廊下でのキスシーンを見たこともある。部屋のドアを開けるとまさにで、相手の男――舎監教師ハウスマスターだとあとから気づいた――を危うく殺してしまうところだったこともある。

 実は、テディがそんなことを繰り返すのは彼が抱えていた問題に原因があったらしい。だが当時はそれも知らず、ルカは恋人の不実な行いに心をかき乱され、疲弊しきっていた。


 ああ、久しぶりだなあこの感覚、などと懐かしんでいる場合ではない。しかしルカは、なにを云ってるんだ許さないぞとテディの前に出ていきはしなかった。自慢じゃないが彼の行動パターンには慣れっこだ。そんなことをしても逆効果になることくらい、考えるまでもなくわかる。

 ふぅと静かに息を吐き、ルカは耳を欹て続けた。

「ばかなことを云うんじゃない、おまえにはルカがいるだろう。いや、そうでなくたって、そんなことを軽々しく云うもんじゃない。それに、俺はそんなつもりで来たんじゃない。あの写真の件を抜きにしても、ジー・デヴィールならぜひ撮りたいと思ったから来たんだ。それが仕事なんだ、そうじゃなきゃいくらなんでも来るもんか。……だから、もう昔のことは忘れて、お互いちゃんとやるべきことに集中しよう」

「なにそれ、説教くさい。仕事はともかくさ、どうせ一回やってるんだから、また愉しむくらいいいじゃない」

「テオ、そういうもんじゃないだろう。……おまえ、そういうところ変わってないな。もっと自分を大切に――」

「あ、ひょっとして若いの専門とか? だったらしょうがないね、俺もう二十九だもんな……わ、自分で云ってなんかショック。ごめんね、もう十代じゃなくって」

「そうじゃない、テオ。いいかげんにしろ、俺はそういうつもりはないと云ってるだろう」

「だって、捜してたんでしょ? やりたい他にどんな理由があるっていうの」

「それは」

 それは俺も聞きたい。テディの言い種に頭を抱え、なんともいえない表情をしていたルカだったが、他の理由と聞いてすぅっと真顔に戻った。

 暫しの静寂のあと、さっきまでより声のトーンを落とし、ゾルトが話しだした。

「……なんとなく、放っておけなかった。気になってしょうがなかったんだ。……ああそうだ、おまえのことを忘れられなかったのは否定しない。もう一度逢いたかった。でも、やりたかったわけじゃない。逆だ。俺はおまえを抱いたことを後悔してた。金で買うなんて最低だった。おまえがなんのつもりかわかってたのに、店に連れて入るべきじゃなかったって悔やんでた。でも、やってしまったことはどうにもならない……だからせめて、もうあんなことをしなくて済むようにしてやりたいと思った。救けたかったんだ」

 風が通り抜け、木々がざわめくように梢を鳴らした。風向きが変わったようだ。長い髪が顔にかかり、ルカは捻るようにまとめてコートのなかに収めた。

「……救けたかった?」

「そうだ。……勝手な思いこみだったろうし、そんな必要もなかったのかもしれないけどな」

 その言葉を聞いて、ルカはふっと笑みを浮かべ、足許に視線を落とした。――大丈夫だ。テディはともかく、ゾルトに関しては変な心配をする必要はない。

 救けたかったというゾルトの言葉を、ルカは信じた。なぜならそれは、テディに対し自分も強くいだいたことがある気持ちだったからだ。放っておけない、救けたい、護りたい――それが愛故にかどうかはわからないが、強引に奪ったり一方的に押しつける欲望の対極にあるものには違いない。

 ルカはそっとその場から後退り、踵を返した。足音をたてないよう、来たときと同じようにゆっくりと踏みしめて明るいほうへと向かう。

 先に戻って、お茶を淹れておこう。そしてテディの顔を見たら、ちょうどよかった、ケーキ食べるか? と声をかけよう。そう、何事もない、いつものとおり――ルカがそんなことを思いながら歩いていた、そのとき。

「テオ! どこへ行くんだ、そっちは――」

 鋭く名前を呼んだ声に振り返る。ざざっと駆けていく足音と、待て! 待つんだと何度も呼び止める声から伝わる緊張感に、ルカは息を詰め耳を澄ませた。

 枯れ枝を踏み折りながらふたりが駆ける足音が続いたあと――やがて聞こえてきたのはざばざばと水を掻くような音と、なにを考えてるんだ、暴れるな、どうかしてると叫ぶゾルトの声。

 なんだ、いったいなにが起こったんだ!? ルカは困惑しながら木々の間を縫い、声のするほうへと近づいた。だが林の途切れる手前で、出ていかないほうがいいと踏みとどまった。跡を尾けてきて話を立ち聞きしていたなどとテディが知れば、ますます状況が悪くなってしまう。ルカはぐっと堪え、そのまま隠れて様子を窺った。

 数分後。髪から水を滴らせてゾルトに引きずられるように歩くテディという、全身ずぶ濡れになったふたりの姿にルカは察した――なにを思ってのことかはわからないが、雪解けからまだひと月しか経っていない水温の低い川に、テディは着衣のまま入っていったのだと。

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