scene 4. ベーシストは今日も不機嫌

 現在、イェリネク・ドヴールはバンドとそのスタッフ一行で借り切っているため、客室はスタジオ横の別館しか使用していない。本館の二階にも部屋はあるのだが、オーナー夫妻とスタッフが使うようになってから部屋は充分足りていることもあり、客を泊めることはなくなったそうだ。

 別館も、部屋はかなり余っている状態だった。シングル、ツインのいずれもバンドメンバーはひとり一室を使い、一室のみのスイートはツアー時と同じく、皆が寛ぐための場として開放していた。

 普段、不規則な生活をしがちなバンドマンたちは初めの二日間、夜は酒を酌み交わしながらたわいも無い話をして、明け方近くまで過ごした。だがツアー中など、ホテルの部屋で騒いだあとのように、昼頃まで眠っていることは叶わなかった。近くにある鶏小屋から夜明けを告げる鶏の雄叫びと、それに刺激された野鳥たちの大合唱が聞こえてくるからである。

 普段、午前六時に起きたことなどないバンドマンたちは、時計を見て信じられないと嘆きながらもどうしようもないと悟った。そして皆、三日めからは日付が変わらないうちに床に就くようになった。

 夕食後、そのままダイニングでつまみが尽きるまでゆっくりと飲んだあと、ラウンジに移ってその日の各々おのおのの進捗について報告する。仮のデモなどあれば聴き、意見も交わし合う。ユーリやドリューがビールを飲んでいることはあるが、酒盛りを始めることはない。

 眠るべき時間にしっかり睡眠をとり、朝は早くに目を覚ます。起きれば他にすることもないため、皆呼ばれることもなく朝食を摂りに本館へ向かう。頗る健康的な生活である。

 おはようございます、という挨拶とともにテーブルに運ばれてくるのは、焼きたてのシュマヴァChléb Šumavaというクミン入りのライ麦パンと、採ってきたばかりの卵のオムレツ、自家製の山羊乳のチーズ Kozí sýr 、ベーコンとソーセージPárek、旬の野菜や果物を使ったサラダ。朝届けられたばかりという牛乳も、もちろんオーガニックだ。

 農場の裏手側にある林の向こうには川があり、その近くにはワイナリーがある。そのため朝食時から、樽出しのフレッシュなワインを楽しめる。

 酒好きのユーリは「もうここに家を建てて住みたい」と至福の表情で呟き、ルカは「ロニーも旨いもん食って飲むのが好きだし、こりゃポムグラネイト・レコーズ移転だな」と笑った。


 ゾルト・ギャスパーもバンドと同様に滞在し、そんな朝の光景から写真を撮っていた。

 ルカはさりげなく様子を窺っていたが、ゾルトは特にテディを気にしているようには見えなかった。テディに会えると思って飛んできたのかと思ったのは考えすぎだったか、彼のほうはブダペストで買った『男娼』のことなど忘れているのか。それともそれ自体が見当違いだったか? とルカは思ったが――


「朝飯くらいゆっくり食わせろよ! っていうかさ、ちょっと遠慮すれば? そっちにも向こうにもテーブルはいくつもあるじゃない。誰が同席していいって云ったよ?」

 と、テディのほうは相変わらず、寄ると触るとゾルトに食って掛かっていた。ラウンジとキッチンを繋ぐ位置にあるダイニングが、一瞬にしてしんと静まり返る。しかしテディは皆が途惑っているのをまったく気にも留めず、離れろ、あっちで食えとゾルトを追いたてた。

 苦笑を浮かべ、ゾルトがソーセージとオムレツの皿を持って移動する。テーブルの端にいたブルーノとドミニクが慌てて立ち、コーヒーのマグやサラダと、籠に盛られているパンを取り分けて運んだ。

「ああ、ありがとう」

 ゾルトが礼を云うや否や「ブルーノもドムもそんなことしなくていい! そいつはバンドメンバーでも事務所の人間でもないんだから!」と、テディの声が飛んできた。ブルーノとドミニクは顔を見合わせ――困ったようにルカのほうを見た。

 わかる。わかるよ。いつもはこんなふうじゃないもんな。文句を云われるようなことをしたつもりはないのに、いったいどうしたらいいのかって思うよな――ルカは内心でそうちながら、ふたりに向かって何度か頷いてみせた。

 やれやれ、とルカは溜息をついた。下手に触らないほうがいいのかもしれないが、このまま放っておいて仕事に支障をきたすのも困りものだ。ルカは端正な顔を僅かに顰め、今日も不機嫌な恋人を見つめながら、山羊乳のチーズに齧りついた。





「お、今日はマレクが来たぞ」

 コーヒーのマグを片手に窓から外を眺めていたドリューが、シルバーのザフィーラを見てそう云った。ザフィーラは脇道側の入口から進入し、そのまま駐車スペースには向かわずドリューの視界から消えた。

 ちょうど休憩にしようとスタジオから本館に戻って寛いでいたバンドと付き人の面々は、マレクと聞いて一様に期待の言葉を口にした。

「ということは、荷物が多いんだな」

 マレクは、バンドの楽器テックや付き人たちを除くと、事務所でただひとりの男性スタッフだ。しかも、ただ後ろに立っているだけで用心棒代わりになるようなマッスルボディの持ち主でもある――実際は、護身術や格闘技などとは無縁の、子煩悩な二児の父なのだが。

「おう、このあいだロニーにビールが足りなくなるって云ったからな。きっとスタロプラメンを持ってきたんだろう」

「ああ、そりゃありがたいな。ここにあるのはウルケルとブドヴァルだけだからな」

「ピルスナーウルケルは定番だし、ブドヴァルも美味しいですけど、やっぱり飲み慣れたのがいいですよね!」

「ま、ここで注文して飲むより安いからな」

「ボス、倹約家ですもんね」

「貧乏性は治らんな」

 美味しいワインが朝から飲める名産地であっても、やはりいつもの愛飲しているビールは欠かせない。持ち込みは自由と聞いていたし、ロニーは遠慮なく差し入れることにしたようだ。ブルーノが席を立ち、足早に外に出ていく。

 荷物があるため、車は本館の表に駐めたのだろう。程無くロビーにマレクとロニーが現れた。マレクは予想通りスタロプラメン二十四本入りのケースを二箱も抱えている。そしてロニーはいつもと同じショルダーバッグを肩に掛け、その両手に銀色のクーラーバッグをぶら下げていた。その後ろに、マットーニの箱を抱えたブルーノも続く。

 おーありがたい、と云いながらユーリが席を立ち、マレクの視界を遮っている箱をひとつ取る。そのまま真っ直ぐダイニングまで来ると、ビールの箱は無事空いている椅子に置かれた。

「ありがとう、助かりました」

 そう一言云うと、直ぐ様マレクは踵を返した。

「? まだなにかあるのか」

「あとマットーニがもう一箱と、マリノフカとアップルタイザーが」

 マットーニはカルロヴィ・ヴァリ産のミネラルウォーター、マリノフカMalinovkaは昔からあるラズベリーソーダのことである。そして、アップルタイザーは酒に弱いテディお気に入りのドリンクだ。

 アップルタイザーと聞いてダイニングの椅子に坐っていたテディが顔をあげると、眼の前のテーブルにクーラーバッグを置きながらロニーが微笑みかけた。

「はいテディ。お待ちかねのケーキよ」

 だがテディは嬉しそうな顔をするでもなく「ああ、うん」と頷いただけだった。

「どうかしたの?」

「いや、なんでもないよ。……あとでもらう」

 明らかにいつもと違うテディの様子に、ロニーがなにかあったのかと訊くようにルカの顔を見るた。ルカは答えようもなく、ひょいと肩を竦めて見せたが――ちょうどそのとき、ドリンクのケースを一箱ずつ抱えたマレクとゾルトがラウンジに入ってきた。

「どうもありがとう、助かりました」

「いや、ちょうどいいところに通りかかってよかった」

 にこやかに言葉を交わすゾルトに向き、テディがむっと不機嫌な表情に変わる。隣のテーブルにいたルカはそんなテディの様子とロニー、そしてゾルトの顔を視線だけで見比べるように窺った。それに気づいたロニーが眉をひそめ、なに? と尋ねるようにルカの目を見る。もちろん返事のしようなどなく、ルカは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 がたんと音がした。見るとテディが席を立ち、ラウンジを横切ろうとしていた。すたすたと足早に歩き、積みあげた箱をどこに置こうかと話しているマレクとゾルトの脇を通り過ぎる。

「テディ? どこへ――」と声をかけるロニーを無視し、ケーキの箱を覗きもしないままテディはラウンジを、そして本館を出ていってしまった。

「もう! せっかくケーキを買ってきたのに、なんなの? ねえルカ。テディ、いったいどうしちゃったの。なにかあったの?」

「いや、別になにかあったわけじゃないんだけど――」

 答えながら、ルカはなんとなくゾルトを見た。目が合った。ゾルトはなにかを問いかけるように暫しルカの顔をじっと見つめてきた。なんだ? と目を見返したままその意味を考えていると、ゾルトはマレクになにか云い、外へ出ていった。

 ――俺がテディを追わないか見ていたのか。

 自分が行かないから代わりにテディを追っていったのか、それとも、追っても邪魔が入らないかどうか、確認していたのだろうか。

 そもそも、ゾルトはどういうつもりでここへ来たのだろう。テディのことをどう思っているのだろうと、ルカは時間差でふたりが出ていった扉を眺めながら考えていたが――手伝いにいったものの、ゾルトがいたためもう運ぶものがなかったのだろう。手ぶらで戻ってきたユーリが、振り返りつつロビーに入ってきた。

 ユーリは真っ直ぐルカの元へとやってきて、小声で云った。

「おい。おまえが行かないなら、俺が行くが」

 ルカは椅子に深く凭れ、顔をあげた。

「……行くのはいいけど、どこに」

「外へ出て、裏手に向かったぞ」

「……了解」

 ユーリに任せてもいいが、短気で手の早い彼ではなにかあったとき、暴力沙汰になりかねない。それに、ただでさえ面倒な話なのに、登場人物を増やすのもうまくない気がした。


 ルカとテディが一緒に暮らしているパートナーであることは公表しているが、ふたりとユーリがオープンリレーションシップな関係を結び、テディとユーリがベッドを共にする仲なのはゴシップとして書きたてられることはあっても、認めたりはしていないのだ。隠しているわけではない。答える必要のないプライベートなことだと、自分たちは考えているだけだ。


「――だめだめ! そんなに入れたら他のものが入らないじゃない。次に飲むぶんだけ冷やすようにして。……ああもう、ケーキの箱が場所取るわね……持ってきたらすぐ一箱は空くと思ってたのに」

 マレクとブルーノはドリンク類の箱をキッチンに運び、冷蔵庫の前ではドリューに手伝ってもらいながら、ロニーがあれこれ入れ替えて整頓している。自分とユーリ以外に、テディの後を追ってゾルトが出ていったことを気に留めているらしい者はいない。

 ルカは重い腰をあげ、ユーリに目で合図をして本館を出ると、慌てることもなく開いたままの門から出ていった。

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