二一章 おとなになった

 夏が過ぎ一〇月となった。

 暦の上ではれっきとした秋。しかし、暑い。まだまだ暑い。さすがに七月、八月の酷暑とも呼ぶべき殺人的な暑さはなくなったとは言え、一昔前なら文句なしに『夏』で通ったような暑さが一〇月に入ったいまもつづいている。半袖で畑を見てまわっているだけで汗ばんでくる、そんな陽気なのだ。

 そんななか、ほだかはむずかしい顔をしてオーバーアートの区画を眺めている。腕組みし、眉間にしわをよせたその姿。いつも快活なほだからしくないと言うか、いつも素直で感情をまっすぐに出すほだからしいと言うか。

 「う~む、う~む」

 と、唸りながら目の前の光景を見つめている。

 「どうした、ほだか?」

 まことが尋ねると、ほだかはむずかしい顔のまま宣言するような勢いで言った。

 「困ってます!」

 「困ってる?」

 「だって、ほら」

 と、ほだかはオーバーアートの区画を指さした。

 そこは、さすがにまこと夏の収穫真っ盛りのシーズンとは趣を異にしていた。ハスの花はもう終わっているし、カボチャの茎葉も枯れたものが目立ちはじめた。しかし、その上の畝は……。

 オクラはまだまだ元気で花も咲かせていれば、実もつけている。トマトも元気いっぱいで緑の葉を茂らせ、花を咲かせ、これから熟していく緑の実もいっぱいにつけている。

 「もう一〇月なのに全然、枯れてくれないじゃないですか!」

 「ああ」

 と、まことは納得顔でうなずいた。

 「夏野菜も、自然に枯れるのをまつと意外と遅くまでかかるんだよな。とくにいまはなかなか気温がさがらないから、よけい長くかかる。だから、枯れる前にみんな刈り取って次の作付けの準備をするんだけど……で、お前はなにを困ってるんだ?」

 「だって!」

 と、ほだかは不満いっぱいの子どもみたいに頬をふくらませた。

 「積み重なった枯れ草のなかから新芽が伸びてくる。その姿をオーバーアートのトリにしたいんですよ。それなのに、これじゃコマツナを蒔く時期に間に合わないじゃないですか。まだオクラやトマトが緑のうちに新芽が伸びちゃいます」

 枯れ草のなかから緑の新芽が伸びてくるからこそ『生命の循環』を表現できるのに、それじゃ台無しです!

 と、ほだかは頬をふくらませて怒っている。

 「ああ。まあ、自分の思い通りにはいかないのが自然相手の仕事だから」

 まことは農家らしくそう言ってからつづけた。

 「どうしても、枯れ草のなかから新芽が伸びる様を撮影したいなら自分で刈り取ったらどうだ?」

 「それはダメです。自然のなかの生命の流れを映し出すのがライフ・ウォッチング・オーバーアート。人の手で刈り取ったら生命の流れが断ち切られちゃいます。それでは、意味がありません」

 「なら、自然に枯れるのをまつしかないな」

 「そうですね」

 と、ほだかはあきらめたように息をついた。

 「植物の生命力を甘く見ていました。仕方ありません。これも自然の営み。自然の流れに従います」

 「まあ、一二月になればさすがにみんな枯れるだろうし、ホウレンソウならその頃にも蒔けるからな。『枯れ草のなかから新芽が……』っていうのも撮影できるだろう」

 「えっ⁉ ホウレンソウ、蒔いてもいいんですか⁉」

 「なんで、いけないと思ってるんだ⁉」

 ほだかの驚き方があまりにも大きなものだったので、まことの方が驚いてしまった。

 「だって、ホウレンソウって言ったらコマツナのライバルじゃないですか。コマツナ農家にとっては不倶戴天の敵、栽培するなんてとんでもないことかと……」

 「なんで、そうなるんだ⁉ 野菜同士にライバル関係なんてあるわけないだろ。別に、コマツナ農家だってホウレンソウを栽培することぐらいある」

 「そうなんですか?」

 「当たり前だろう。同じ菜っ葉なんだから。コマツナはおれの方でちゃんと作るから伝統を破ることにはならない。お前はお前で思う存分オーバーアート作りに励めばいい」

 「う~ん……」

 まことに言われて、ほだかは腕組みして考え込んだ。頭をひねった。

 「……でも、あたしもコマツナ作りの伝統を受け継ぐ身としてやっぱり、コマツナ作りにはこだわりたいし……悩みます」

 「まあ、秋冬でも気温がさがらないって言うことは、コマツナを蒔ける時期も伸びているって言うことだしな。そうあせらずに様子を見てもいいだろう。せっかく、五つの区画を用意したんだから一つひとつちがうことを試してみてもいいし」

 「そうですね。もう少し、様子を見てみます」

 ほだかはそう言うと、ようやくいつものかのらしい笑顔になった。その天真爛漫な笑顔がまことの目にはひたすらまぶしい。

 「と。ところで……」

 「はい?」

 「お前の誕生日、もうすぐだろ?」

 「はい、そうですよ」

 「だったら、その……食事でもどうかな?」

 「食事?」

 ほだかは目をパチクリさせた。

 まことは頬を赤らめ、あわてて片手を振って見せた。

 「か、勘違いするなよ! ディナーじゃなくてランチだ。昼食だよ。お前には誕生日プレゼントももらったし、お返ししたくて……」

 そう言われて――。

 ほだかは口元に手を当ててニマッと笑って見せた。

 「あら~? あたしを誘う? 誘っちゃいます? 驚きますよお。その覚悟はありますかあ?」

 「驚くって……首でも伸びるって言うのか?」

 「あはは。それができたら『首を長くしてまっていた』を地でやれて楽しいんですけどね。さすがに、そこまで器用じゃないですよ」

 ――首を伸ばすのって器用とか、そういう問題なのか?

 なんとなしにそう思うまことであった。

 「でも……」

 ほだかは口元に手を当てたまま上目遣いにニンマリ笑った。小悪魔めいた妖しい笑みがまことの心に刺さる、刺さる。

 「女は化けますよお。あたしの意外な一面を見て惚れちゃいますよ? それでも、いいんですか?」

 「だ、大丈夫。そんな心配はない」

 まことは反射的に答えた。

 ――そ、そうとも……。おれはただお返しとして誘っているだけだ。一〇歳も年下の相手になんて、そんな……。

 まことは必死に自分にそう言い聞かせた。しかし、ほだかはその態度をかなり都合良く解釈したらしい。あるいは、わざとかも知れないが。

 「なるほど。師匠はもうあたしに首ったけだからこれ以上、惚れたりしないって意味ですね」

 「ば、馬鹿言え……!」

 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。とっておきの姿で、ちゃんと惚れ直させてあげますからね。楽しみにしていてください」

 「ちがうと言ってるだろっ!」


 そして、ほだかの誕生日。

 まこと一張いっちょうのスーツを着て、待ち合わせ場所に立っていた。

 なんとも緊張する。落ち着かない。妙に息苦しい気がしてネクタイのあたりをいじってみる。

 「……美咲みさきさんとの初デートでも、ここまで緊張しなかった気がするんだけどなあ。スーツなんて久しぶりに着たからか?」

 そんなことを呟いていると、まことの後ろで、

 「師匠」

 と、声がした。

 振り向いたまことは口から心臓が飛び出すかと思った。

 そこにいたのは長い髪をたなびかせ、パステルカラーのワンピースをまとった清楚でたおやかな、なんとも愛らしい女性だった。

 「おまたせ、師匠」

 と、ニッコリ微笑み、優しい口調で言う。

 「し、師匠って……君、ほだかなのか?」

 まことはようやくそう言った。

 『師匠』という呼びかけでほだかだとわかったが、その呼びかけがなければどこの誰かわからなかった。その自信がもててしまう。それぐらい、普段のほだかとはちがう姿だった。

 「そうですよ」

 と、ほだかは『してやったり!』とばかりにイタズラっぽい笑顔を浮かべた。その場で妖精のようにクルリクルリと回転して見せた。そのたびにスカートの裾がふんわりと浮かびあがり、白い足がのぞく。その様にまことは視線も、心も、完全に奪われた。

 「ス、スカートに……かつらか? そこまでするのか?」

 「もちろん、しますよ。どうです、師匠? これが、あたしの本気です。見事に化けたでしょう?」

 「あ、ああ……」

 まことはそう言うのがやっとだった。

 ほだかは『クスリ』と笑って見せた。

 「さあ、行きましょう」

 と、当たり前のようにまことの腕に自分の腕を絡ませる。

 「女が本気を出して準備してきたんですからね。完璧なエスコートをしてくれないと許しませんよ」

 「わ、わかってる……!」

 まことは反射的に虚勢を張った。胸を張り、威張ったような声を出した。

 ――これか、絶対に失敗できないぞ。

 と、心のなかで呟きながら。


 結論から言うとまことはこの日、エスコート役をきっちりこなした。

 選んだレストランは年頃のカップルが利用するのにふさわしい洒落た雰囲気だったし、道中のエスコートも、料理のオーダーもスマートにこなした。出てきた料理も申し分のないものだった。その姿に、今度はほだかの方が目を丸くした。

 「……驚きました。師匠、意外と手慣れてたんですね」

 「おれは、君より一〇歳も年上なんだぞ。これぐらい、当たり前だ」

 まことはいかにも当然という感じでそう言ったが、内心はひやひやものだった。

 ――よ、よかった……。なんとか、ボロを出さずにすんだ。

 実のところ、エスコートの経験はそれなりにある。美咲みさきがとにかくその手の作法にはうるさいタイプだったので、要求に応えるべく不相応な高級スーツも買ったし、マナーも勉強した。美咲みさきを満足させるために洒落たレストランやホテルにもくわしくなったし、美咲みさきをエスコートすることで経験も積んだ。それらがほだか相手に役立ったのだ。

 ――美咲みさきさんのおかげだな。いまさら、感謝することになるとは思わなかったけど……今度、会ったら、礼を言いたい。

 とにもかくにも年長者としての威厳を見せつけられて、心からホッとするまことだった。

 「ふふ」

 と、ほだかは笑った。

 「意外な一面を見せて師匠を驚かせるつもりでしたけど……あたしの方が驚かされちゃいましたね。さすが、師匠の方が一枚上手です」

 「い、いや、そんなことはない。おれだって充分、驚かされたからな」

 『ふふん』と、ほだかは得意気に笑って見せた。清楚でたおやかな美女に化けてはみても――。

 そういうところはやっぱり、ほだかなのだった。

 「君こそ、その歳でずいぶん慣れているみたいじゃないか。経験、あるのか?」

 「ああ。あまの育館いくだてでは卒業パーティーやりますからね。ほら、アメリカの学校でやるプロムみたいなやつですよ。あたしは去年、卒業するということで主賓として出席したし、それまでにも手伝いで参加してましたからね。それなりに慣れてますよ」

 「あ、ああ、なるほど。そういうことか」

 ――男と付き合いまくっていたから慣れている……って言うわけじゃないんだな。

 そうと知れてホッとするまことだった。

 ともあれ、普段とはまるで雰囲気のちがう清楚で可憐な美女に化けたほだかとともに、楽しい一時を過ごすことが出来た。

 普段よりもちょっとだけ背伸びして、それでも、気負うことなく、ゆったり過ごせる。

 美咲みさきとのデートでは味わえなかった感覚だった。

 ――美咲みさきさんとのときは、向こうの望みに応じなくちゃって、そればかりだったからなあ。楽しむどころじゃなかった。

 そう思い、いまの時間とのちがいを感じたが、

 ――いやいや、なにを考えてる。仮にも女性と食事中なのに他の女のことを考えるなんて失礼だろう。

 そう思い、美咲みさきのことは頭のなかから振り払った。

 そして、とっておきを取り出した。

 「その……誕生日おめでとう。つまらないものだけど、よかったら……」

 そう言っておずおずと差し出したのは、きれいなリボンに包まれたきれいな小箱。

 ほだかは一目見るなり表情を輝かせた。

 「わあっ、師匠。プレゼントまで用意してくれたんですか」

 「当たり前だろ。君だってプレゼントしてくれたじゃないか」

 いまのほだかを前にしては『お前』などと言うぶっきらぼうな呼び方はとても出来ない。自然に『君』となってしまう。

 ほだかはニッコリと微笑んだ。

 「ありがとうございます、師匠。一生の宝にしますね」

 「い、いや、そこまで大層なものじゃないから……」

 「いいんです。師匠からもらったはじめてのプレゼント。そこに価値があるんですから」

 そう言って嬉しそうに微笑む表情に――。

 胸を突き刺されるまことだった。

 そして、食事を終えての帰り道。

 「今日はありがとうございました、師匠。とっても楽しかったです」

 「こっちこそありがとう。満足してくれたならなによりだよ」

 「それでね、師匠」

 と、ほだかは、お得意の唇に指を当てたポーズをとった。

 「ついでにもう一組、楽しませてみません?」

 「もう一組? どういう意味だ?」

 「お父さんとお母さんの結婚記念日も、もうすぐなんですよ」

 「そうなのか⁉」

 まことは思わず叫んだ。そのことに自分で驚いた。両親の結婚記念日も知らない、そのことに。

 両親共に仕事でいそがしく、結婚記念日を祝っている姿など見たこともない。だから、仕方ないと言えば仕方ないのかも知れないが……。

 ――おれって、本当に親のことをなにも知ろうとしなかったんだなあ。

 そう思い、少しばかり胸に棘を感じた。

 「だからね、師匠……」

 ほだかは『グイッ』とまことの身を引き寄せ、耳打ちした。


 誠司せいじ冬菜とうなの結婚記念日。

 ふたりの姿はちょっと高級なレストランのなかにあった。

 夫婦の記念日と言うことでれっきとしたディナー。誠司せいじも、冬菜とうなも、着慣れないスーツにドレスという姿、そして、店の雰囲気に緊張して少々、居心地が悪そうである。

 「……な、なんか、照れるな、こういうの」

 誠司せいじが言うと、冬菜とうなも頬を赤くしてうなずいた。

 「そ、そうね。ドレスなんてめったに着たことないし……」

 「おれだって。スーツなんて親父の葬式以来だ」

 「でも、まことがせっかくプレゼントしてくれたんだから……」

 「あ、ああ、そうだな。いくつになっても頼りない息子だと思っていたが……いつの間にか、親にこんなプレゼントをするまで成長していたんだな」

 「ふふ。そうね。親だからこそ気がつかなかったのかも。さあ。せっかくの息子の心づくしだもの。今日は楽しみましょう」

 「おう。そうだな」

 そして、ふたりはワインの満たされたグラスを打ちあわせた。

 そんなふたりの様子を店の外からこっそり覗いているふたりがいた。まこととほだかである。

 「……やれやれ。どうやら、気に入ってくれたみたいだな」

 「当たり前です。子どもからのプレゼントを喜ばない親なんていませんよ」

 「親へのプレゼントか。そんなことをする日が来るとはな。なんだか、おとなになった気がする」

 「あはは。二九歳にもなって言う言葉じゃないですね」

 「……おれもそう思う」

 まことはほのかに頬を赤くして照れ笑いした。

 「でも、それが実感だ。お前のおかげだよ。ありがとう、ほだか」

 「いえいえ。師匠を育てるのが弟子の役目ですから」

 「それ、逆じゃないか?」

 「人に教えるのが一番の勉強って言うじゃないですか。師匠は師匠で、弟子を育てることで自分も成長するんですよ」

 「そうか。そうだな。そういうものかもな」

 まことは素直にうなずいた。

 確かに、ほだかが強引に弟子入りして以来、ずいぶんとかわった気がする。

 まことは店からはなれた。歩きだした。ほだかが当たり前のようにすぐ隣に寄り添い、自分の腕をまことの腕に絡めた。

 まことはほだかを見た。自分の人生をかえた笑顔。無邪気で、屈託のないほだかの笑顔がまっすぐに自分を見上げていた。

 「あ、あの……」

 「はい?」

 「い、いや、なんでもない……」

 まことは思わずそっぽを向いてうつむいた。まことは顔を赤くしたまま――。

 ふたりは腕を組んで夜の町を歩いていった。

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