二章 人生詰んでる

 東京都江戸川区小松川。

 まことの家はそこにある。もちろん代々、伝えられた畑も。

 「東京なのに畑?」

 そう思う人も多いだろう。なにしろ、東京都と言えば『世界一の大都会』とも言われる近代都市。そこに似合うものは高層ビルとネオンの光。『畑』なんてどうにもそぐわない。

 しかし、東京は実は農業もけっこう、盛んだったりする。そもそも、東京など江戸幕府が開かれるまではただのど田舎。江戸幕府が開いてからも一面に農地が広がる場所だった。有名なのはコマツナの名前に関するエピソードだろう。

 かの『暴れん坊将軍』徳川吉宗が江戸川区小松川に鷹狩りに訪れた際、そこで見かけた無名の菜っ葉に『コマツナ』と名付けた。と言うのはウィキペディアにも取りあげられている話だ。

 そのせいかどうか、現在の江戸川区でもコマツナ生産は盛んで、東京都内の生産量の四割にも達する。農業産出額は二三区最大。ちなみに、東京都のコマツナ生産量は全国四位。『大都会』のイメージばかりが強い東京だが、農業も結構、盛んなのだ。

 そして、まことの家はコマツナの語源となった『小松川』という地名をそのまま姓にいただく由緒正しいコマツナ農家。江戸時代からつづくと言われる畑を守りつづけてきた一族。もっとも、コマツナは秋に種まきして冬から春にかけて収穫する冬野菜なので、夏の間はトマトやキュウリ、カボチャ、インゲン、トウモロコシと言った夏野菜を栽培している。

 三月はじめのいまは畑一面に植えられたコマツナがちょうど薹立とうだちする時期であり、つぼみを食べる菜花なばなとして収穫して、出荷する時期。それだけに、一日たりと収穫作業は欠かせない。

 つぼみはちょっと日がたつとすぐに花と咲いてしまう。花が咲いてからでは味も落ちるし、栄養も劣る。雨が降ろうが、雪が降ろうが、毎日まいにち開く前のつぼみをせっせと収穫しなくてはいけないのだ。

 休んでなどいられない。一日休んでつぼみが開いてしまえばその分、収入が減る。もともとかつかつの収入しかない零細農家。わずかな無駄でも死活問題になる。

 だから、まことは今日も畑に出てコマツナを収穫する。まだ夜明け前の夜の闇に閉ざされたままの早朝時刻。ヘッドライトの明りを頼りに一本いっぽん刈り取り、収穫していく。江戸時代からつづく畑とあって、小さい上に形も整っていないので『農機を使って一気に収穫』などというわけにはいかない。すべて、手作業である。

 日の出前の三月の早朝。

 いくら、温暖化によって気温があがっているとは言えやはり、この時期、この時間では寒さが厳しい。防寒具を着込み、厚手の手袋もしているが、その布地を越えて冷気が入り込んでくる。

 体が冷える。

 手がかじかむ。

 そのなかをただ黙々とコマツナを収穫していく。

 ようやく、今日の分の収穫が終わった。刈り取ったコマツナの束を抱えて倉庫に運ぶ。これで朝の作業が終わり……な、わけがない。むしろ、ここからが大変なのだ。収穫したコマツナを形や大きさによって仕分けしなければならない。

 収穫したコマツナは近所のスーパーに卸しているのだが、スーパーに卸すからには形と大きさがそろっていなければならない。

 もちろん、虫食いの跡なんて断じてあってはならないし、コマツナの束のなかにたった一本の雑草でも混じっていたら買いとってもらえない。まとめて突き返される。たとえ、その『雑草』がナズナのように春の七草のひとつに数えられ、古くから食べられてきた食用の野草であってもだ。

 だから、一本いっぽん丁寧によりわける。もちろん、すべて手作業。大きすぎず、小さすぎず、規定通りの大きさで形も良く、しかも、虫食いの跡などひとつもない。そんなコマツナばかりを選び出し、まとめていく。

 収穫も大変だが、この作業がなによりつらい。

 農作物は工業製品とはちがうのだ。どんなに努力しても『規格品ばかり』とはいかない。どうしたって規格外は出る。しかし、その規格外の野菜にだって同じだけの栽培費がかかっているのだ。買いとってもらえなければその分の栽培費が丸々、無駄になる。小さな畑であればあるほど、その痛手は大きくなる。なによりも、

 ――せっかく、丹精込めて育てたのに認めてもらえないなんて。見栄えは悪くても味も、栄養も、かわりはしないのに。

 その思いがつらい。

 くやしい。

 規格外の作物だって別に捨てるわけではない。ジュースなどの加工品用として売る。しかし、これはもう情けないほどの値しかつかない。

 ――あれだけ苦労して育てて、収穫して、よりわけまでして、たったこれだけか。

 大学を卒業して以来、もう六年間もやっていることだが、収入の額を見るたび毎回、そう思う。ガックリくる。これに比べたらシンデレラが命じられたレンズ豆のよりわけなんて、どうと言うこともないように思える。

 「ああ、神さま。なんで、おれにはシンデレラみたいな助けがないんだ」

 思わず、天を仰いでそう訴える。そして――。

 「答えないでくれ!」

 『それが現実だからさ』なんて答えられては立ち直れなくなる。

 それでも、とにかく、よりわけ作業を終わらせた。選び抜いた規格品のコマツナだけを袋につめ、箱に入れ、車に運んで卸しているスーパーに運ぶ。

 すると、決まって相手に言われる。

 「なあ、もう少し、仕入れ価格を安くできないか?」

 まことは露骨に顔をしかめる。

 「無理を言わないでください。これ以上、卸価格をさげたら赤字になってしまいます」

 「でもなあ。うちだってギリギリなんだよ。なにしろ、何でもかんでも値上がりするご時世だ。仕入れ価格もあがっている。だからって、その分を小売価格に反映していたら客足が遠のく。営業努力で値上がり分を吸収するのももう限界だ。仕入れ価格を安くしないことにはやっていけないんだよ」

 そう言われてはまこととしてもなにも言えない。

 「……努力します」

 すでに安く栽培するための最大限の努力はしている。その上で、さらなる努力を約束しなければいけない。

 なにもかもが空しくなってくるようなやり取りだが致し方ない。卸先であるスーパーが潰れてしまえば、まことの家だってやっていけなくなる。

 モヤモヤした気持ちを抱えたまま帰宅する。それでようやく、朝食となる。

 古い家とあって広さだけはある居間に向かうと、すでに父の誠司せいじが席に着いていた。こちらも朝の一仕事を終えての朝食である。

 母の冬菜とうなが盆に載せた味噌汁を運んできたところだった。

 「お帰り、まこと

 「ああ、ただいま」

 まことも挨拶して席に着く。

 どうせ、畑を継ぐのにわざわざひとり暮らしするのも無駄だし、そんな余分な金もない。と言うわけで、まことはずっと親と同居している。広さと部屋数だけはある家なので、同居をつづけていても不便はない。

 食卓に今朝のメニューが並べられ、三人は黙々と食べはじめた。

 ご飯にコマツナの味噌汁、目玉焼き、それに、野菜の煮物。

 米だけは知り合いの米農家から直接、買っているが、野菜はすべて自給用に作っているものばかり。卵も少しだけ飼っているニワトリの生んだものだ。ニワトリは傷物の野菜やそこらの虫など、なんでも食べて肉と卵にかえてくれる。糞は肥料になる。収入の少ない小規模農家が生計を立てていくためには必須と言える存在だ。

 慎ましやかだが新鮮さだけはどこにも負けない朝食を、三人は黙々ととっていく。以前はもう少し、会話らしきものもあったのだが、ここ数日はすっかり黙り込んでの食事となっている。

 その理由ははっきりしている。

 美咲みさきとの一件だ。

 両親だって、ひとり息子が『将来の嫁』と思っていた相手から捨てられたことは知っている。とうに成人した息子のこととてなにかを口に出して言うことはなかったが、気を使っていることはまちがない。それが、重苦しい雰囲気になっている。

 と言って、まことにしても『雰囲気をかえるためにわざと明るく振る舞う』などということが出来る性格ではない。そのため、重苦しいままの食事風景になってしまう。

 食事が終わると食休みの時間もそこそこに、三人は再びそれぞれの仕事に向かう。

 誠司せいじ冬菜とうなは畑仕事とニワトリの世話。まことは畑の様子を撮影して、PCに向かう。

 少しでも宣伝になれば、と、毎日、畑の様子を撮影して動画配信をしているのだ。PCの画面のなかでは陽光を浴びて青々と輝くコマツナたちが風にそよいで揺れ動いている。その風景は確かにのどかで、美しく、癒やされるものなのだが、

 「……別に、それで売りあげが伸びるわけでもないからなあ」

 それが、現実。

 もちろん、動画配信で稼げるほどアクセス数が伸びているわけでもない。

 「そりゃあ、美咲みさきだって金持ちの御曹司を選ぶよな」

 結論は常にそこに行ってしまう。

 どんなに一所懸命に働いたところで、農業では大金など稼げない。会社社長の御曹司に太刀打ちなど出来るはずがない。

 ――これが、おれの人生か。

 そう思うとため息しか出ない。

 働いてはたらいて、それでもカツカツの利益しか出せずに歳をとっていく。恐らくは結婚も出来ず、子どももてないまま、歳だけをとっていくのだ。

 自分のような貧乏人が女からまともに相手にされるわけがない。

 そのことはたっぷりと思い知らされた。これから先、歳を重ねるごとに条件はどんどん悪くなる。

 両親の問題だってある。いまはまだふたりとも健康で働いている。だが、いずれは歳老い、働けなくなり、介護の問題も出てくる。

 要介護の親を抱えた零細農家。

 そんなところに嫁に来る物好きな女がどこにいる?

 いるわけがない!

 「おれは結局、一生ひとりで、結婚も出来ず、子どももてず、貧乏暮らしをつづけて死ぬ羽目になるのか」

 すでに見えてしまった人生。

 決まりきった一生。

 だったらいっそ、さっさと終わらせてしまおうか。

 そんな気にもなる。

 農業がきらいというわけではない。先祖代々、伝えられた畑を守っていくことには誇りを感じている。そもそも、両親からは『無理に畑を継がなくてもいい』と言われていた。

 いまの農家が置かれている状況の厳しさ。

 将来においてもとうてい、良くなる見込みのない現実。

 それを思えば、息子に跡を継がせる気になれないのは当然だった。

 それを、まことが自分で跡を継ぐことにしたのだ。

 先祖代々つづいた畑を自分で終わらせるのは忍びない。

 その一心で。

 しかし――。

 そう思えたのは結局『美咲みさきが嫁に来てくれる』との思いがあったからこそ。

 「美咲みさきがいてくれればどんな苦労にも耐えられる」

 零細農家の収入では美咲みさきの満足する額にはならないことはわかっていた。その分、夜勤でもなんでもして稼ぐ気でいたのだ。それはまことにとって苦労ではなく『張り合い』だった。

 ――美咲みさきとふたりの生活を守っていくんだ。

 そう思い、張り切っていたのだ。それなのに――。

 その望みも絶たれた。

 この上、どんな希望をもって生きたらいい? 

 二八歳にしてすでに、人生に希望をもてないまことだった。しかし――。

 そんなまことの人生がある日突然、かわることになる。

 それは、ひとりの少女の訪れからはじまった。

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