『第十六章~ハイナイン・プラス』
カラミティ・ジェーン。3D格闘ゲーム、ミラージュファイトの女性キャラクターの一人で、八極拳使い。保健室の主、スクールカウンセラー・露草葵の持ちキャラで、桜桃学園で唯一、アヤのエディ・アレックスと対等に戦える相手である。
その八極拳使い、カラミティ・ジェーンとなった久作は、意識を集中。激昂した空手部主将三年の新田を眼前に、思考をフルスロットルから更にスーパークルーズ(超音速巡航)へ。マッハ1.58、音速を超えた久作の世界がスローモーションになる。
新田の、胸元を狙った正拳突きがゆっくりと迫る。届くまでまだ0.二秒はある。久作は両足を並行に、二歩半の間隔で開き、爪先は正面を向いたまま。腰を少し落としている。「気を練る」ということをやったことのない久作は、コンマ二秒で試しにそれをしてみた。これが出来なければ八極拳は成立しない。……そう、久作は八極拳を「知っている」のだ。
こうだろうか、と自分の知識を総動員し、試しに、向かってくる正拳突きに左手掌を当ててみた。左足も同時に前に出る。正拳突きを上からゆっくりと叩き落とす。世界の速度が通常に戻り……。
パン! 空気が弾けた。スーパークルーズの久作は気付いていないのだが、決死の覚悟で飛び出した方城と須賀の足が止まっていた。二人共、まだ二歩しか足を踏み出していない。新田の右手から放たれた正拳突きは、久作の左足の向こうの地面に向いて、空を切る。左手にしびれはなかった。どうやら気を練れたらしい。気を練れた、つまり、「勁(けい)」が使えるようになった。
アヤと露草葵の助言と、新田の放った右正拳突きのお陰で、速河久作の「架空の八極拳」は、元々持つ知識から「音速で」現実のものとなった。先ほどの、右正拳突きを打ち払ったのは、勁の防御技である「化勁(かけい)」といったところだろう。合気道と柔道の経験と、元々ある身体能力。これらと膨大な知識、そして、速河久作の最大の武器である「桁外れの集中力」が組み合わさり、いきなり「速河流八極拳」が誕生したのだった。
渾身、一撃必殺の右正拳突きを軽く叩き落された新田は、困惑していた。
空手部主将で、バスケ部エースの方城を一撃で仕留めた彼は、たった一発の右正拳突きにより、唐突に、久作の敵ではなくなってしまったのだ。しかし新田は、そもそも何をされたのかすら理解しておらず、久作もまた「速河流八極拳」が誕生したことに気付かなかったので、新田から蹴りが放たれる。新田の、全体重を乗せた高い左回し蹴り。インパクトの瞬間に上体を軸足と一直線にするよう回転し、上から足を蹴り落とすそれは、方城でも気絶するであろう。顔面に決まれば鼻の骨は折れ、最悪、死に至る、それほどの回し蹴りだ。その強烈な左回し蹴りは、インパクトのコンマ一秒前に久作の右鉤手(かぎて)で打ち上げられた。
バン! と鈍い音が響き、新田が姿勢を崩す。顔面を狙った高い左回し蹴りをさらに上に向けられた新田が、軸足を滑らせて倒れる。こちらも化勁、防御だった。久作の右手に痛みはない。素早く立ち上がり、再び右に構えた新田が何か叫んでいたが、スーパークルーズ(超音速巡航)の久作の耳にそれは届かなかった。リカ、アヤが悲鳴をあげているので、「殺す」だとかそういう言葉なのだろう。しかし久作には、自分の呼吸音と、普段より少し早い鼓動、この二つしか聞こえていない。
「次で決める」
無意識にそんな科白が出た。新田が上段か中段か下段か、選択肢はたったの三つだった。それが拳だろうが足だろうが肘だろうが肩だろうが、速河流八極拳にはもう関係ない。上中下、そのどれなのかが解かればそれでよかった。新田は、高い右回し蹴りを出した。こめかみ、いや、顔面を狙っているらしい。顔面を狙う攻撃、それに久作の思考は一旦停止した。
記憶を辿ると、あの佐久間準の顔が浮かんだ。いつだったか、体育館への通路で「死ね」と叫んだ佐久間準が、自慢の右ストレートを久作の顔面に向けた。顔面を狙った上段右回し蹴りと佐久間の右ストレートが重なった。
思考再開、コンマ一秒でスーパークルーズに到達。更に、ステルス性能を無視してアフタバーナー全開、マッハ1.7を超える。久作の世界が再びスローモーションとなり、ラプターは更に音速から光速へと加速、成層圏を突破。光の赤方偏移現象により、夕日が青くなる。
亜光速思考、宇宙の彼方に無数の星がきらめく。
その一つ。オリオンの脇、久作の銀河の中の二十万光年先にある小銀河、NGC999999999+、通称「ハイナイン・プラス」が鮮やかに輝いている。
久作が空想上の宇宙旅行をするときに、いつも目印にしている小銀河ハイナイン・プラス。それにより自分の位置を確認し、状況を把握。新田の蹴りがまだ伸びきっていない段階で、久作は始めて構えた。
左構え。格闘ゲーム、ミラージュファイトのキャクター、合気道と空手の達人ビリー・ヴァイと同じその左構えは、速河流八極拳の唯一の構えでもあった。
新田の上段右回し蹴りに対して姿勢を低くして、くるぶしを狙って左拳を下から打ち上げる、化勁だ。と、同時に右足を大きく前に踏み込み、右構えにかわる。大地の震動をそのまま右肘に伝え、みぞおちに向けて、勁の攻撃技「発勁(はっけい)」を放つ。
新田のみぞおちがへこむより先に右掌を上に見えた新田の顎に打ち付ける、こちらも発勁。踏み込んだ右足を軸にして左足を背後から地面すれすれで滑らせ、左肘を高く上げ、右掌の発勁でゆがんだ顎のさらに上の左こめかみに、発勁の左肘を突き刺す。左肘をそのまま流してもう一度左回転して右構えとなり、同時に右足を大地に打ちつけ、久作がその時点で持つ最大の発勁である右肩を、新田の胸元に叩き込んだ。
久作の認識で十二秒、そのくらいだっただろうか。現実世界で何秒なのかは解からない。久作は大きく息を吐き出し、吸った。目を閉じ、上を向き、しばらくして、小銀河ハイナイン・プラスを探してまぶた開くと、小さな雲が見えた。夕日で紅いそれは、ゆっくりと移動している。もう一度深呼吸をすると、全身から汗がにじみ出た。が、疲労は思ったほどではなかった。掌や肘にも痛みは全くなく、かすかに何かしらの感触だけがあった。
瞬間的にかなりの運動をしたはずの体が、普段と殆ど変わらず軽かった。佐久間準と戦ったときには、翌日、歩けないほどに消耗したが、今はその予兆の欠片もない。見よう見まねで力に任せただけの合気道もどきと、勁を自在に操る速河流八極拳は雲泥の差だった。思い出したように前方を見ると、空手部主将、3‐Aの新田がそこに転がっていた。
単なる打撃ではなく、気を練った最大級の発勁を、みぞおち、顎、こめかみ、胸元に喰らった新田は、ぴくりともしない。発勁の大爆発を十二秒に四回も浴びた空手部主将の新田は、その爆風で吹き飛ばされ意識は完全に粉々である、動けるはずもない。
ふと気付くと、何やら騒ぐ気配があった。方城と須賀によって打ちのめされた連中が意識を取り戻して、新田をぐるりと囲んでいた。そういえばこんな連中もいたかな、久作は特に何とも思わずその様子を眺めていた。新田はどうやら生きているらしい。最初に全員の前で「死んでもいい」と宣言していたので、久作は新田がどうなったかは全く意識していなかった。誰かが駆け寄ってきて何かを言ったが、聞き取れなかった。
思考がまだ亜光速だった。アフターバーナーを止めてゆっくりと減速し、スーパークルーズからフルスロットル。そこからアクセルを徐々に閉じて、三十秒ほどして、ようやく久作の思考は通常のそれに戻った。五感が蘇り、にじんだ汗に風が当たって心地良い。
「速河! お前! やったのか? あのデカブツを? マジかよ、おいおい!」
方城だった。横腹を押さえつつ、満面の笑みで片手のガッツポーズをした。
「お前が凄いのは知っていたつもりだったが、まさかそこまでとはな。未知数にもほどがある、もう完全にSFの世界だ」
竹刀を下ろした須賀が、方城と同じく笑顔で言った。
「速河くん! あの……何ていうのか、あ、ありがとう!」
リカが涙を浮かべていた。須賀の後ろから飛び出して、久作の両手を強く握る。その手に涙がぽたぽたと落ちてくる。
「速河久作ー! ハイパーウルトラ秒殺コンボ! カラミティどころの騒ぎじゃねーぞぅ! いったいお前は何者だー!」
アヤが二つの金髪を揺らし、方城の横で飛び跳ねて叫んでいる。どん、と腰の辺りにぶつかってきたのは、レイコだった。ぐっと久作の腰を握り、大きな栗色の瞳で空を見上げている。
「久作くん! すごいありがとー!」
満面の笑みで半分暗号のようなことを大声で怒鳴った。つられて空を見上げる。先ほどの紅い雲がかなり移動していた。腕のデジタル時計を見ると、十八時00分と表示されていた。十七時五十三分にラベルダ750SFCが滑り込んできて、相手が脇田から新田に代わり、舌戦(ぜっせん)と実戦。とても長い七分間だったが、それは終わった。
「新田ぁ! 何を寝ているんだ! 速河を! あいつをさっさと打ちのめせ!」
誰かが叫んでいた。脇田だ。脇田が、気絶している新田を特殊警棒で叩いていた。
「河野! 元木! お前らもだ! あそこの速河久作を全員で袋叩きにしろ!」
絶叫しつつ特殊警棒を振り回す脇田。完全に錯乱(さくらん)している。久作は第二ラウンドに一瞬警戒したが、結局、その言葉に従う者は一人もいなかった。
「何だ、あの脇田とかいう男は? まだ速河に手を出す馬鹿がどこにいる?」
須賀が呆れた声で言った。と、新田を打ちのめしていた脇田哲平がいきなり声色を変えた。
「ちっ……どいつもこいつも邪魔ばかりで役立たずだな。邪魔といえば、1‐C、速河久作、お前だよ。お前が一番邪魔なんだよな? 僕の切り札だった新田を倒す生徒が、この平和ボケした桜桃学園にいるなんて、誰が想像できる? とんでもなく邪魔な奴だよ、お前は。たかが高等部一年の一人が教師に逆らうとどうなるのか、教えてあげようじゃないか……」
ワーズワースを歌うでもなく、新田よろしく威圧するでもなく、かといって錯乱しているようでもない。ただ一つ解かるのは、危険だということ、これだけだった。強烈に危険な匂いがする。
警戒を、と思った直後に、ドン! と大きな音がして、突然、目の前が真っ白になった。久作は勿論、その場にいる全員が視界を失った。
「うおっ! なんだこりゃ! 前が見えねーぞ!」
方城が叫んでいるが、声の方向は真っ白だった。
「速河! リカ君! 大丈夫か? これは……閃光手榴弾か! 英語教師がこんなものを、違法どころの騒ぎではないぞ!」
「方城? 須賀? 僕は大丈夫だ! 大丈夫だけどフラッシュ・グレネード? 目をやられて状況が解からない! 露草先生?」
目を閉じて開いてを繰り返し両手を漂わせるが、何もない。危機感と焦燥感が頭を埋め尽くす。視界を失うことがこれほど危ういと知らなかった久作は、完全に混乱していた。
「ウチなら平気や! それより脇田センセや! フラッシュ・グレネードいうんは確か、殺傷能力はなかったはずやけど、それ使ういうことは――」
「はい、そうですよ、露草先生。先生は先ほど、僕が薬をやっているだとか、色々と酷いことを言ってくれましたね。まあ、正解だから構いません……けどねっ!」
ゴン! 打撃音と露草の悲鳴が聞こえた。脇田の特殊警棒が露草を打った音に違いない。
「あなたには言いたいことが山ほどあるんですが、まずは僕の本来の目的、こちらが先だ。あなたは後回しにしましょう」
「何? 痛い痛いー! 見えないー!」
「レイコさん!」
久作の鼓動がドス黒い血液を体中に送り込む。自慢の冷静さが全く戻らない。全身から汗が流れ、しかし視界は白一色のまま。頭のネジの飛んだ英語教師など空手部新田に比べればどうということはない、はずなのに、頭は混乱したままで、一歩も足を踏み出せず、手は空を切るばかり。
「皆さんは事態をご理解していないようなので、僕が解説してあげましょう」
「いやーだー! 痛い! 放してー!」
「レイコ? 脇田先生! レイコに何やってるのよ!」
リカの叫びが左側から聞こえた。リカは無事で、方城と須賀もどうにか。露草が小さく唸っている、かなり酷い状態らしい。
「ははは! 速河久作くん。君のお陰で僕は、この平和ボケした桜桃学園にい辛くなった。だから別のところに行くことにするよ。手土産に加嶋くんを頂いてね」
「何? レイコさんを放せ!」
久作は力一杯叫んだ。皆を心配するのはとりあえず後回しで、今はレイコだ。
「脇田哲平! 今でさえお前は犯罪者だ! 逮捕されればどうなるか!」
「賢い賢い速河くんの言う通りさ。だがね、僕は一昨年に気付いたんだよ。犯罪というのは検挙されなければ犯罪ではない、とね。言っている意味が解るかい? 橋井くん、彼女の件で僕には何も起きなかった。逮捕どころか聴取もされなかったのさ」
見えない脇田が笑いを含みつつ、どこかから言う。どう聞いても屁理屈だが、実際の一部は脇田の言う通りではある。二年前のリカに対する襲撃。脇田が企てたらしいそれは公の事件にはならず、単に学園の噂の一つに収まっている。リカか露草がそうなるように仕向けたのかもしれないが、しかしだ。
「今回は違う! 目撃者の数から被害者の数までまるで違う! その上レイコさん? 逃げおおせると思ってるのか!」
手探りで辺りを伺いつつ、久作は脇田に叫ぶ。まだ視界は真っ白だ。最初の位置とは違う方向からレイコの悲鳴と脇田の冷笑が聞こえる。
「どうだろうね? いざとなれば海外にでも飛べばいいし、ギリギリまで加嶋くんと楽しく過ごすというのもいいし……こういうのはどうだろう?」
くくく、と脇田の笑いが響く。
「いっそのこと、逮捕されるのを前提に、この加嶋くんで目一杯遊んで遊んで、遊び倒すというのは、どうかな?」
レイコの小さな悲鳴が重なる。普通ではない、久作は改めて気付く。この、今は白く消える脇田哲平という男は既に普通ではない。生徒を使ってリカを襲撃させたりミス桜桃を裏で操ったりという時点でかなりだが、現場に姿を見せて警棒を振り回し、自白めいた科白を吐いたかと思えば閃光手榴弾。しかもそれで逃げるでもなく、露草を襲ってレイコを拉致し、果ては逮捕されることを解った上での……狂気。そう、狂気だ。
犯罪者のそれとは質が違う。犯罪者になりうる者はたいていは罪に、警察に怯えて暮らす。しかし脇田は知る範囲の犯罪者のそれを越えている。錯乱でないことは口調と言い分、納得など到底出来ないがそれでも筋の通った論法が示している。先刻、須賀の一撃で倒れたサッカー部河田のものに似た、あの数倍の冷たさを秘めた狂気だ。
ゴン! 再び鈍い音がした。おそらく、いや、間違いなく脇田が露草を打ったに違いない。既にかなりのダメージの露草からは呻き声がかろうじて聞こえるだけだった。
「ふはは! 露草先生はとっても色っぽい悲鳴を挙げるんだね? いやー、しかし。人を殴るというのは一種の娯楽だね? 何とも形容しがたい、清々しい気分だよ。新田くんを吹き飛ばした速河くんのあれも、遊びなんだろう? ははは!」
ダメだ! 久作は奥歯を噛み締める。
脇田哲平、英語教師であった男はもう、常人の届かぬ位置に辿り着いている。誰しもが持つどうともない欲求や願望。それらが次第に大きくなり、遂に理性で制御できなくなり、各種犯罪が発生するのだろう。再犯もあるが殆どは更正し社会復帰する。だが、犯罪と呼ばれる状況から先、決して見てはならない領域というものが人間にはある。見たが最後、自然と足を踏み入れ、そして二度と戻れない禁断の領域に、この脇田哲平は踏み込んでいる。それは或いは二年前のリカに対する脇田かもしれないが、どちらにせよ既に説得だの裁判だのが通じる次元ではない。人であって人でない、人の姿をした人に良く似た違う生き物には、一切の常識は通用しない。そんな脇田をあえて常識に照らして表現するなら……。
「サイコ、パス?」
「そうだ! 加嶋くんで色々と試してみたいことがあったんだが、殴るというのは今の今まで思いつかなかったよ。きっとワーズワースのように素敵な唄を聞かせてくれるに違いない。だろう? ナイトの速河久作くん?」
「脇田、哲平。お前は……」
返す言葉が続かない。脇田が単に暴走しているのなら話は簡単だが、そうではない。サイコパス、精神病質、もしくは人格障害。己の欲望に異常に執着し、良心の尺度が他者と極端に異なる、社会が内包する潜在的な捕食者。見て聞いた限りだが、脇田哲平はサイコパスなのだろう。
今回のミス桜桃に際して、仮に脇田教師が最初から噛んでいたとすれば、久作達の展開したバクラチオン作戦は全くの無意味だったのだろう。リカ、アヤ、レイコの誰がミスに選ばれていても脇田は同じように動いただろうし、リカちゃん軍団ではない女子が選ばれていても結果は似たようなものに違いない。
久作の描いた戦術は、見えない膨大な相手に対する牽制であり、それによって相手側の動きを封じるのがそもそもの目的で、その相手を直接どうこうするものではなかった。裏で画策する誰かを燻り出すものでもなく、裏なら裏でじっとしていろ、そういう戦術だったのだ。そして久作は、裏側の相手が表に出てきた場合のことを想定していなかった。
放課後にリカちゃん軍団を集団が囲い、方城と須賀が活躍し、久作も新田という空手部主将と対峙したが、脇田哲平が出てくることを含めて全てが想定外だった。久作の戦術のその後はしかし、方城と須賀のフォローと露草の登場でどうにか幕に見えたのだが、想定外の更に上で脇田は、笑っている。つまりは、結局のところ自分は、脇田哲平という今は見えない男の掌の上で踊っていた道化の一人だったのか……。
高まる焦燥感と自身に対する怒り。まただ、また僕は何も出来ない。歩くことも出来なければ、助けを求めている人に近寄ることさえ出来ない。焦燥感が無力感と重なり、怒りで涙が出そうになる。
と、アヤが涙声で怒鳴った。
「The path of the righteous man is beset on all sides with the iniquities of the selfish and the tyranny of evil men!」
リカが、まだ英語教師であった頃の脇田に訳せと言った例の英文だった。両手を効かない視界に翳(かざ)していた久作は、アヤの声を聞き、突然ぴたりと止まった。そして頭の中でアヤの科白を訳してリフレインすると、脇田に対するどす黒い負の感情が、ゆっくりとだが全て消えた。
そして残ったのは、たった一つの疑問のみ。唐突に静まった脳みそを無視して、久作の口は自動的に言葉を発した。
「その通りだよ、アヤちゃん。さあ、どうする、速河久作? ……こうするんだよ!」
完全停止からアクセル全開で一気にレブリミット。視界は未だに白いが、更に加速、スーパークルーズ。アフターバーナー点火、マッハ1.7に到達。ここまで0.0一秒。
「レイコさん! 何でもいいから叫んで!」
スーパークルーズから更に加速、亜光速思考のハイナイン・プラスまで、もう0.0一秒。目印の小銀河は……。
「がぶがぶクリームソーダ!」
レイコの絶叫に亜光速の久作が振り向く。先のアヤ、リカ、方城、須賀の声。脇田哲平の科白と、露草を打つ音、そして自分の呼吸音……「脳内地図」が瞬時に描かれた。
「そっちか! 脇田!」
「かぶかぶ――」
眼を閉じたまま地面を蹴り、「がぶがぶ」へ全速力で飛ぶ。地面に向けた蹴り足は大爆発の発勁だった。
「――クリーム」
0.五秒で到達し、左手を伸ばす。「クリーム」の柔らかい感触が手に伝わる。レイコの頬だかのそれを支点に、右足を大きく前に踏み込み地面にめり込ませ、姿勢を低く、右構えに重心を落とす。
「――ソーダ!」
その瞬間、亜光速思考が限界を突破した。光速の壁を超えるそれは、あらゆる物理法則を無視して銀河を一閃。超重力さえ無視して宇宙を駆け抜ける、ただ一筋の純粋な光そのものであった。
「そうだ! 脇田哲平! ロック・オン!」
左手でレイコの首を軽く手繰り寄せて、かばうような姿勢をとりつつ、踏み込んだ勢いのまま、右肩から渾身最大級の、空手部新田に向けたものの倍以上の発勁が放たれた。久作の右肩は脇田哲平の左胸元を完璧に捉えた。ドン! と衝撃音が響く。周囲の空気が弾けるそれは、大切な「がぶがぶクリームソーダ」を奪おうとした脇田の意識が、光の矢によって爆散する音だった。
脇田の気配が彼方に飛び去り、左手にレイコの感触だけが残った。久作は荒れた呼吸を整えつつ、見えない脇田に言う。
「脇田、お前はレイコさんっていう高性能ジェット機を連れていたから撃墜されたんだ。ジェットエンジンの排熱パターンさえ解かれば、ステルス機をレーダー捕捉することだって可能なんだ」
脇田哲平から解放され左手にあったクリームの感触が、どん、と久作の胸元に来た。
「がぶがぶ、クリームソーダ!」
「レイコさん、まだ見えないけど、もう大丈夫、泣かなくてもいい。僕は、速河久作は、いつだって光の速さで敵をやっつける、何も心配はないんだ」
久作は、真っ白なレイコをぐっと抱きしめた。いつだったか、保健室のベッドでの感触と同じ、クリームのように柔らかいそれが、小さく「がぶがぶ」と繰り返していた。小さな温もりはきっと、小銀河ハイナイン・プラスの輝きのそれだろう。久作はそうだと確信した。
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