『第十五章~カラミティ・ジェーン』

「いやーだ! 何ー! 痛いー!」

 久作の背後から女性の悲鳴が聞こえた、レイコだ!

 しまった! 前方ばかりに注意がいっていて、後ろががら空きだ! 久作はリカとアヤを強引に押しのけ、高等部校舎を向いた。ちらりとデジタル時計を見ると、表示は十七時三十二分とあった。

 すぐ後ろにいたはずのレイコは、紅く照らされた校舎入り口前の階段の辺り、久作たちより二十メートルほど離れていた。そして、そのレイコの横に男性がいた。


「O BLITHE New-comer! I have heard,I hear thee and rejoice.

O Cuckoo! shall I call the Bird,Or but a wandering Voice?

While I am lying on the grass Thy twofold shout I hear,

From hill to hill it seems to pass,At once far off, and near.

Though babbling only to the Vale,Of sunshine and of flowers,

Thou bringest unto me a tale Of visionary hours.

Thrice welcome, darling of the Spring! Even yet thou art to me

No bird, but an invisible thing,A voice, a mystery」


 レイコの横にいた男性が、歌うように言った。どこかで聞いたフレーズだ。久作はレイコとの距離を縮めつつ、隣の男性を凝視した。

「君は確か、1‐Cの速河久作くん、だったかな?」

 軽い口調だった。レイコの左腕をがっしりとつかんでいる。

「月末の学力テストではかなりの点数だったよね? 最初の成績からいきなり学年四位とは、見事なものだよ」

 見覚えのある顔と、言葉遣い。

「コールリッジもいいが、僕はワーズワースの、この詩が大好きなんだよ。素晴らしい詩だと思わないかい、速河くん? おや? 速河くんは英語は苦手かい?」

 返事はせずに、距離を詰めつつ言葉を待つ。


「おお、陽気な訪問者よ! 確かに汝だ! 汝の歌を聞き、私は喜びに満たされる!

 おお、郭公よ! 汝が鳥であろうはずはない! 彷徨える聖なる声ではないのか?

 緑なす草の上に横たわって 二重の叫び声を私は聞く

 丘から丘へとその歌は通り過ぎる ひとたびは遠く、ひとたびは近く

 ただ谷間へとあどけなくも呼びかけるが 太陽の光に満ち、花々の香りに満ち

 汝は私に、かの秘密の物語を語る 地上を離れた想像の時をもたらす

 みたび歓迎の言葉を、春の寵児よ! 私にとって、汝はまさに 鳥ではなく、不可視の存在である その霊妙な声は神秘の精髄である!」


 レイコの左腕をつかんだまま、男性はまた歌うように言った。夕焼けだろうか、全体がかすかに赤い。

「「カッコウに寄す」、いい詩だ……僕の気持ちを代弁しているようだよ」

「あなたとは会話をしたことはありませんが、何故だかよく知っていますよ……先生」

 久作は静かに言った。遠くでエキゾーストが聞こえた。脳内ではない、どこか遠くだ。

「IFDL、作動」

「うん? 何かな?」

「イン・フライト・データリンク、照合……脇田哲平(わきた・てっぺい)、二十八歳。私立桜桃学園高等部、英語Ⅱ教師」

 凝視したまま、久作は淡々と喋る。

「あははは! おお、陽気な訪問者よ! 何だ、僕のことを随分と詳しいみたいじゃあないか? 速河くん?」

「二年前、リカさんを襲わせた理由、まずはそれが聞きたい」

 思考が一瞬でフルスロットルとなり、脳が悲鳴を上げている。もうしばらく我慢しろ、そう自分に言い聞かせる。

「ひとたびは遠く、ひとたびは近く! リカさん? ああ、橋井くんか! 何、大した理由じゃあないよ。ちょっと夜に遊ぼうかと何度か誘って、それを全て断られたから、ただそれだけだよ?」

 当然だ、といった調子で、英語Ⅱ教師、脇田哲平は言った。久作の思考速度が限界域に達するまで、残り十秒あるだろうか。

「ただ、それだけ……今回の、ミス桜桃で、リカさんとアヤちゃんとレイコさんを選んだのは?」

「みたび歓迎の言葉を、春の寵児よ! 三人ともとても魅力的だからね、迷ったんだ。迷って迷って、じゃあ三人にしようと、自然な判断だろう?」

「……レイコさん、彼女が隣にいますね?」

 遠くのエキゾーストが少し大きく聞こえた。

「迷ったんだけど、あえて順番をつけるとすると、加嶋玲子くん、この子が一番の好みなんだ。私にとって、汝はまさに鳥ではなく、不可視の存在である!」

 思考をねじ伏せて淡々と言う久作に対し、脇田哲平は歌うように喋る。よし、とつぶやくと、久作の思考はぴたりと止まった。大きく深呼吸し、脇田哲平とレイコに向けて歩を進める。脇田が右手に何かを握っていたが、無視して歩く。視線は、レイコを握っている脇田の左手に固定されたままだった。

 残り五歩、四歩。

「速河くん。君が何かの格闘技が使えるということは佐久間くんから聞いているよ」

 三歩、二歩。

「だから、これを使わせてもらうよ!」

 久作の右肩に激しい打撃痛が走ったが、それも完璧に無視した。最後の一歩、左足を地面にゆっくりと置き、久作は脇田の左手をつかんだ。

「久作くん!」

「速河くん? あぁぁっ!」

 脇田が悲鳴をあげた。関節の稼動域を無視してひねり上げられた脇田の左手が、レイコを放した。解放されたレイコが久作に抱きついた。涙声で「ありがとう」と言っていたが、その科白もそっと横に置いた。

「レイコさん、向こうに方城と須賀がいる、走って」

 言われたレイコは素早くうなずくと、持ち前の俊足でリカやアヤがいる方向に駆け出した。左手をさすりつつ、脇田哲平が笑った。

「あはは! そういえば、加嶋くんと君は付き合っているんだったかな? ナイト様の登場と、そういうわけか?」

「ナイト? 違うぞ脇田哲平。僕はラプターだ」

 久作は、未だに笑みを絶やさない脇田に、押し殺した声で言った。

「ラプター? 鳥? 速河くんは鳥だったのか、ははは! 小鳥が何かをさえずっている! あはは! ……はぁっ!」

 脇田の右手が振りかぶられ、棒のようなものが久作の額をかすめた。

「避けたねぇ、速河くん。佐久間くんの言っていたことは本当らしい。君は格闘家か?」

「僕は格闘家じゃあない。それよりも、英語の授業に特殊警棒が必要か?」

 久作は、笑顔の脇田と、その右手に握られた特殊警棒を交互に見た。

「まあね。ほら、最近は物騒だろう? それに、生徒の中には教師に暴力を振るう不届き者もいる、君のようなね。これはあくまで護身用だよ」

「僕は何もしていない、まだ」

「まだ? つまり、これからやると、そういう意味かい? 何とも物騒な話だねぇ」

 特殊警棒がぎらりと光った。そして、久作の目も鈍く輝く。しかし、思考はローギアのままだった。

「一つ質問がある」

「何かな?」

「リカさんが訳せといった英文、それが聞きたい」

「おっとっと、何かと思えば英語の授業かい。あれは、あった、これだな、えーと」

 脇田はスーツの胸ポケットから小さな手帳を出して、それを読み上げた。

「公正な男性の経路は四方で、利己的不正行為と不吉な男性の圧制で悩まされます。

 祝福されているのは、慈善活動と好意の名にかけて、暗黒の谷を通る弱さを見張る彼です。

 彼が本当に彼の兄弟の保護者と迷子の救済者であるので。

 そして、私はかなりの復讐があるそれらと、激怒をもって私の兄弟を毒殺して滅ぼすのを試みる人を、打ち倒すつもりです。

 そして、あなたは、私があなたに復讐を横たえるとき、私の名前が支配者であることを知るでしょう」

 ははは、と脇田は笑った。

「訳したはいいが、内容がさっぱりだよ。橋井くんはどこからあの英文を持ってきたのかな?」

 久作の思考がゆっくりとその速度をあげていく。

「何だその直訳は、脇田哲平。お前は中等部一年から英語をやり直せ。いや、訳しておいてその意味が理解できないのなら、小学生からだな。まずは国語の授業をきちんと受けて、日本語を理解しろ。そして、航空支配戦闘機のラプターがシーカーを点滅させている間に、目の前から消えろ。それで許してやる」

「小学生? 許す? あはは! 速河くん、君は面白い奴だ! この警棒が――」

「棒きれでサイドワインダーを防げるのか? 無理だろう? いいから消えろ」

 依然、押し殺した声で、久作は脇田に怒鳴った。この脇田という男の言動は、自分を酷く乱す。とにかく邪魔だ、久作は乱れそうになる思考をとどめるのに必死だった。

「いい提案だね。ところで、さっきから気になっていたんだが、君は僕を呼び捨てにしているね? タメ口でもある。生徒が先生にそういう口の聞き方をするのは、良くないなー。少し説教が必要だ、そうだろう? なあ……速河!」

 脇田の右手の特殊警棒が振り上げられるのと同時に、爆音が響いた。

 リカたちと久作の間に、オレンジ色の物体が猛烈な速度で滑り込んできた。十メートルほど地面を削ったそれは、停止しても低く唸っていた。三十秒ほどして、全員が見詰めているそれから音が消えた。その物体の上に女性の姿が見えた。かなりの身長だ。百七十センチはあるだろうか。

「ぷっはー、ああ、しんど。えーと、何や知らんけど、殆ど終わってるんか? 気になったから飛ばしてきたんやけど、ん? 脇田センセか? 何でアタンがここにおるねん? そらおかしいやろ?」

「ラベルダ750SFC? fast! 露草先生?」

 鮮やかなオレンジ色のカフェレーサーバイク「ラベルダ750SFC」と、「fast」の刺繍が入ったトリコロールジャケットを羽織った露草葵がそこにいた。

「おお、速河。何や妙なメールが届いたから、気になって駅前からここまで飛ばしてきたでー。ミス桜桃は終わったんやろ? やのに何でここにあれこれおるねん。しかも脇田センセまで」

 トリコロールジャケットを脱いだ露草がケータイを取り出して、久作が送信したメールを見ている。


「リカさん、アヤちゃん、レイコさん、おめでとう。いろいろと複雑に思ってるかもしれないけど、今は素直に喜んでいいよ。ほかのみんなも、三人を祝福してやってあげて。――速河」、十四時十四分


 久作の腕のデジタル時計の表示は十七時五十三分。あのメールを送信してから、三時間三十九分。確かそのメールを送信した直後に露草葵と会っていて、十四時過ぎに露草にも届いているはずだ。露草にとって、久作のメールは特に不思議な内容でもなく、着信タイミングも同じくだ。しかし、目の前にオレンジ色に輝くラベルダ750SFCに乗った露草は、いる。

「露草先生? あの、気になって、というのは?」

「んん? ああ、何や、ミス桜桃を喜べて書いといて、その前に「今は」てあるやろ? 今はてのはつまり、その後は喜ぶないう意味やんか。ウチは用事があったからミス桜桃の後は市街地をウロウロしてたんやけど、ずーっとそれが気になっててな、まあとりあえず様子でも見ようか思うて、愛しのラベルダちゃんを飛ばしてきたんや。ラベルダ、ええやろ? 羨ましいやろ? 速河?」

 久作はこれで何度目かは解からないが、驚いた。露草のラベルダは羨ましいが、そうではなく、それに乗る露草の頭脳と機動力だ。何気なく入力したメールの短文の、たった一言でそこまで予想が立てられ、そして明日でも明後日でもなく、今、この瞬間に目の前にいるという事実。それらに他を一切寄せ付けない美貌と、独特の性格。無敵、久作の頭にその単語が浮かんだ。

「露草先生、あなたは無敵の保健教師だ! 凄い! ラプターの四機目だ!」

 距離があり、そして若干興奮していたので久作は露草葵に向けて叫んだ。

「おやおや? 誰かと思えば、露草先生じゃあありませんか? どうかしましたか? こんな時間に?」

 すっかり存在を忘れていた脇田が、露草に発した。そういえば、こんな奴がいたか。露草はラベルダから降り、トリコロールジャケットとフルフェイスをそれに預け、久作と脇田に寄ってきた。細いジーンズに傷だらけの黒いミドルブーツ。上は普段と同じ、半そでのシャツだった。胸元のシルバーネックレスが揺れている。久作と脇田の目の前に来た露草は、メタルフレームを指で上げ下げして、二人を交互に見る、ゆっくりと。視線が振り上げられたままで止まった特殊警棒にいった。

「はーん。だいたい解かったわ。何や妙な噂があったけど、アレ、ホンマやったんやな。なあ、脇田センセ?」

「はは、噂? 何でしょうかそれは? 露草先生?」

 露草がメタルフレームに手をやって、脇田を睨んだ。

「脇田センセがミス桜桃を利用して、女子に手ぇ出しとる、そーいう噂や。知らんのかいな? 他のセンセはみんな知っとるで? 本人が知らんいうことは、噂しとったセンセたちもそうやと思うて耳に入れてなかった、いうことやな。んで、その噂はホンマで、橋井やら加嶋やらに手ぇ出そうとして、あっちの……」

 露草は軽く振り返り、リカや方城のいる方向を見た。

「あっちの生徒使こうて速河たちを追い払おうとして、でもそれは失敗したと、そないなところか? 脇田センセ、アンタがそれ持ってるゆーことは、つまり、そーいうことやろ?」

 だいたい解かった、と露草は言っていたが、完璧であった。洞察力と分析能力、その頭脳は須賀に匹敵するか、あるいは超えているかもしれない。露草の言葉に脇田はしばらく呆けていたが、次に出たのは……高笑いだった。

「あはははは! 露草先生、その通りですよ! 方城くんと須賀くん、そしてこの速河くんが、僕の授業の邪魔をして困っているんですよ! 先生からも叱ってやって下さい!」

 何だこの男は? 久作は、笑いが止まらないらしい脇田を見て、背筋に悪寒を感じた。この状況で、どうしてそんな科白が出る? 桜桃学園のスクールカウンセラー、保健体育教師でもある露草葵の出現により、脇田の卑劣な陰謀は白日の元に晒(さら)された。もう、桜桃学園に脇田のいる場所はない。いや、教師という肩書きもなくなり、代わりに犯罪者という肩書きが付くだろう。にも関わらず、この男は笑っている。

「速河! アカンわ。こいつ、完全にイってもうてる。薬でもやっとるかも知らん。ケーサツ呼んで――」

 露草が突然左に飛んだ。いや、飛んだのではない、飛ばされたのだ。脇田が特殊警棒で露草を殴りつけたのだ。完全な不意打ちだったので久作はそれに気付けなかった。

「露草先生! ……脇田ぁ!」

 久作は露草と脇田の間に立ち、特殊警棒と脇田の顔を睨み付けた。

「ははは! 速河くんは露草先生ともお付き合いがあるのかね? 羨ましいねぇ。彼女は桜桃学園で一番だ。生徒で一番の加嶋くんと教師で一番の露草先生、二人を独り占めとは、さすがは二枚目の格闘家だ。是非とも手ほどきを願いたいねー」

「あいたた……何や? えらい強烈な、いたたた! アカンわ、骨いっとるわ、これ」

 久作の横で露草が唸っていた。意識があったのは幸いだが、かなりの重症らしい。とにかくこの脇田という男を止めないことには話にならない。

「脇田! お前は全力で……潰す!」

 左に構え、大きく深呼吸を一つ。まずは冷静に。と、脇田が割り込んだ。

「速河くん? そうしたい気持ちはよーく解かるんだがね、君の相手は別だ。新田くん、出番だよ」

 脇田が叫んだ方向は、リカたちのいる場所だ。

「速河! そいつはヤバい! マジでヤバいぞ!」

 方城の声がした。須賀の肩を借りて、かろうじて立っている。方城と須賀、リカ、アヤ、レイコがこちらに向かって来た。

「速河久作! 方城護のエアウォークがあのデカブツに撃墜されたぁー!」

 方城の腕にしがみついたアヤが、泣きながら叫んでいた。須賀が竹刀を構えたまま、久作に擦り寄る。

「新田、下の名前は知らんが、3‐Aの奴は空手部主将だ。桜桃空手部は弱小だと聞いていたんだが、あいつはどうやら別格らしい。リカ君とアヤ君、レイコ君を守るだけで手一杯だった。方城が挑んだんだが、一撃で終わった」

 須賀は息を切らしていた。

 IFDL、データリンク。ラプターズ、加納勇介からのメール。


「真樹と大道からの情報だ、役に立つと思う。

・ミス桜桃学園実行委員会

・井上~2‐B~野球部ベンチ

・藤原~2‐B~野球部ベンチ

・元木~2‐D~サッカー部レギュラー、ミス桜桃副実行委員長、ラプターズ大道と同じクラス

・河野~3‐E~サッカー部キャプテン、ミス桜桃実行委員長、橋井利佳子襲撃実行犯1

・新田~3‐A~空手部主将、橋井利佳子襲撃実行犯2

 ――加納」


 新田、3‐A、空手部主将。そして、リカさん襲撃実行犯の2。その単語に対して、久作の思考は恐ろしいほど平静だった。これほど冷静だったことが過去にあっただろうか、と思うほど、頭がクリアになっている。

「3‐Aの新田先輩。リカさんを襲ったのはあなたですね?」

 巨漢、百九十センチをゆうに超える上背と、全身を覆う筋肉。スポーツウェアの上からでもそれが解かる。

「一年の速河というのはお前だな? 佐久間を倒したという。佐久間はあれでなかなかの奴なんだが、それを倒したとなると、お前もかなりの奴か。柔道か空手でもやっているのか?」

 威圧する声色。あの方城を一撃で仕留めたという、この新田。どうやら本物らしい。

「柔道は授業で少し。空手の経験はありません」

 丁寧な口調で返し、意識を無へと集中させる。更に思考をクリアにする必要がある。全身の力を抜き、目を閉じる。

「ほう、ならばボクシングか何かか? いや、そういえばゲームがどうとか話をしていた奴がいたな。合気道か」

 空手部主将、三年の新田がゆっくりと久作に迫る。距離は、あと二メートル。

「空手でも柔道でも何でもいいですが、格闘技はそもそも精神を鍛えるものでしょう? 新田先輩、河野だとかと組んで、あそこの脇田と行動を共にするのは、空手道とはかけ離れていませんか?」

 完全に力が抜けた。思考も真っ白だ。言葉は自動的に出ているだけで、目は未だ閉じたまま。完全に無防備である。

「空手道か、まあそうだな。精神鍛錬は必要だ。だが、技術が伴わなければ格闘技とは呼べんだろう。どちらを先に鍛えるか、俺は技術、技を選んだ。河野や脇田先生と一緒にいる理由は、さっき脇田先生が言ったのと同じだ。息抜きは必要だ」

「息抜き? 息抜きでリカさんを襲って、脇田たちとミス桜桃を裏で操って、今度は三人を襲おうと? 大した空手道ですね」

 澄んだ意識、晴れ渡る思考、一点の曇りもない久作の頭には、何も浮かんでいない。

「さっきの男、方城とかいったか? あいつもなかなかのようだが、バスケットボールは単なるスポーツだ。格闘技じゃあない。だから拳の一撃で終わった。そこの、竹刀を構えている、須賀だったか? あいつはかなりの腕前らしいがブランクがあるのか、体力がないようだ。竹刀を振り回したところで、一分と持たんだろうよ。で、残ったのはお前、速河だ。どうする? 逃げるか? それも格闘技ではありだろう?」

「逃げる? そうですね、相手は空手部主将の三年、全員で走って逃げるのが一番でしょう。でもね、駄目なんですよ。なぜかというと、僕は昔、合気道を少しかじったことがあるからです。格闘技の何たるかを学びました」

「やはり合気道か。護身術のそれで、空手に挑もうと?」

「それも違います。合気道はあくまでかじった程度です。基礎だけですから柔道とさほど変わりありません。合気道を少しだけやった後に別の格闘技をやりました。新田先輩、何だか解かりますか?」

 久作の目が開いた。ここでようやく新田という男の顔を見た。色々と特徴があるが、空手部主将、とだけ表現すればそれで足りる。

「合気道を少しで、柔道でもなく空手でもボクシングでもないか、シュート、プロレス、ジークンドー、ムエタイ――」

「全部外れです。僕は……アヤちゃん!」

 唐突に呼ばれたアヤが驚いて飛び跳ねた。リカやレイコも同じくで、方城と須賀は目を丸くしている。英語教師の脇田と空手部主将の新田という、たった二人の男の出現で、再び窮地に立たされた面々、方城と須賀は体力を使い果たしている。唯一残っているのは久作だけなのだが、肝心の久作は、こう続ける。

「アヤちゃん! 格闘技で一番強いのって、何かな?」

「……へ? 何? 速河久作? えと、うん? うーんと、ビリー・ヴァイは合気道と空手で、エディ・アレックスは八卦掌(はっけしょう)と劈掛拳(ひかけん)ベースの各種中国拳法で、マイケル・ジョーはテコンドーで、どいつも使いこなせばチョー強いし……」

「アヤ? アンタ、ウチの持ちキャラ無視かいな? 速河、格闘技でめっちゃ強いのはな、ウチの持ちキャラ、カラミティ・ジェーンの八極拳(はっきょくけん)や。柔術もバーリトゥードも通用せーへんで?」

 地面に座り込んで右腕をさすっている露草が、アヤと久作に向けて言った。アヤが、なるほど、と手を叩く。

「カラミティ・ジェーン! そうそれだ速河久作! 溜め技がメインだけど、あいつの一撃、ハンパなくデカいから手強いんだよ! あ、でも、あたしは葵ちゃんのカラミティ・ジェーンに勝てるけどねー……って何の話だよ!」

 久作は呼吸を整え、腰に少しだけ力をいれた。

「アヤちゃん、露草先生、ありがとう。よし、本題に戻ろう」

 久作と、アヤと露草のやり取りを険しい目付きに睨んでいた新田が、久作にその視線を戻す。

「聞いての通りです。僕は八極拳使いです。さあ、どうします? 空手部主将の新田先輩。逃げますか? それもありですよ?」

 久作の言葉を聞き、新田は一瞬の間を置いてから、腹を抱えて土間声で笑った。

「ははは! お前はバカか? ゲームと現実の区別も付かん奴が、八極拳? 中国拳法か何かの一種か何か知らんが、ゲームの話で今それになったという、お前、速河だったな。それで俺が驚くか? 頭は大丈夫か?」

 新田はまるで、足元の蟻にでも言うように尋ねるのだが、対する久作は、同じく笑う。

「あはは! 八極拳を知らない格闘家がいるなんて! まあいいです。ごくごく簡単に言えば、僕はあなたの百倍強い。何せ八極拳ですから。空手と八極拳では勝負にすらならない。新田先輩、逃げたほうがいいですよ?」

「ふは! 速河、見え見えとは言え大したハッタリだな! 俺の百倍強いか、それは凄いな! 逃げ出したくなったよ! ははは!」

 眼光はそのままで、新田は再び大声で笑う。もはや久作など眼中にない、そんな笑いである。

「逃げ出したいが、是非ともその八極拳とやらと手合わせしたいなぁ! 勝負にすらならないほど強いか! ははは!」

「逃げない、と、そういう意味ですね? 相手が空手部主将じゃあ手加減できない。最悪、死んでも責任は取れませんよ?」

 笑顔のまま、久作は新田の眼光を軽く弾き返す。

「死ぬ? それはまた凄いな!」

「それでもいいと? だったら、ここにいる全員、露草先生を含めた全員が、先輩の意見に同意した、証人だということで。これなら新田先輩が死んでも僕には責任はない」

 アヤが悲鳴をあげた。リカとレイコは声すら出ない。方城と須賀は完全に凍り付いている。ただ一人、露草葵だけが何やら意味ありげな眼差しを、メタルフレームの下で光らせていた。

「速河、それは、お前が死んでも俺に責任がないという意味だぞ?」

「無論、そうですね。まあ、そんなつもりは欠片もありませんけど。最後に、もう一度だけ言っておきます。新田先輩、八極拳使いの僕、速河久作から、あなたは逃げたほうがいい。でないと死ぬかもしれない」

 新田が構えた。

「解かったよ、速河久作。八極拳だか何だか知らんが、口ではお前の勝ちだ……さあ、かかってこい!」

 構えた新田が叫んだが、久作は動かない。

「どうした? 構えないのか?」

「構え? 八極拳には基本的に構えなんてありません。それでもこうやって立っている、この姿勢がまあ構えみたいなものです。新田先輩、僕はあなたに八極拳を伝授するつもりでここにいるんじゃあない。もう勝負は始まってます。早くかかってきてください。時間が勿体無い。自慢の空手は実はハッタリでしたか?」

「な? は、速河ぁ!」

 蟻のごとき久作が、突然アヤや露草とゲームの話を始めて、それで空手部主将の自分と勝負して必ず勝てて、しかも死ぬかもしれないと言う。新田はキレる、当然ながら。空手道だとか格闘技だとか、そういう以前の問題だ。

「あら? カラミティに構えあるで? なあ、アヤ? 今度のミラージュ2で何か変わるんかいな?」

「うんうん……うん? もしかして速河久作、八極拳知らねーんじゃねーの! ヤバいヤバい! 葵ちゃん! 久作が死ぬかも! あたしのせい? ヤバいー! 誰か止めれーー!」

「須賀! 俺が行くからアヤとかを頼む! 速河が言ってただろ? 逃げるのもいいって。その時間を稼ぐ! 速河! こんな下らねーことで死んだらシャレになんねー! くそっ! 肋骨やられてるのか? っつーか、肋骨が何だってんだ! 少し待ってろ! 桜桃バスケ部エースの底力、ナメんなよ!」

「お前がそういう奴だということは知っているが、この状況下でその選択は得策じゃあない。卑怯かもしれんが、俺も出る。どうせ勝負は一瞬だ、リカ君たちは、あの脇田という教師に注意しつつ、いつでも逃げられるように心構えをしておいてくれ」

 リカの返事を待たず、ほぼ同時に、方城と須賀が駆け出した。新田の咆哮が高等部校舎に跳ね返り、全員の耳を揺さぶる。

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