『第十三章~ハウリング』

 祝日とゴールデンウィークを挟んだ十一日後の五月七日木曜日。ミス桜桃学園投票の締切りの日、桜桃学園の中等部と高等部では、そのミス桜桃と、1‐Cの三組のカップルの話題で埋め尽くされていた。

 一昨年の準ミス、クラス委員を務める橋井利佳子と、頭脳明晰・沈着冷静で寡黙(かもく)な二枚目、須賀恭介。

 ミラージュファイトで負け知らずのゲーマー・橘絢と、桜桃バスケ部のエースにしてスコアリングマシン、PFの方城護。

 今回のミス桜桃最有力候補と言われる噂の加嶋玲子と、素性の知れない美男子、速河久作。

 昼休み、高等部校舎入り口前の廊下に設置された投票箱に人だかりが出来ていたが、話題の半分はミス桜桃ではなく、そのミス桜桃にふさわしい男子は誰か、先の三人ではないのか、という内容だった。それらは当然、教師連中の耳にも入っており、若い教員が教頭などの目を盗んで、そのお祭り騒ぎを楽しんでいた。

 昼休みの終わり頃、ミス桜桃学園実行委員会の面々が投票箱を回収しに行った際、「ミス桜桃ではなく、桜桃ベストカップルにすべきだ」という多数の意見をぶつけられて、実行委員は「次回までに検討します!」と慌てふためいていた。

 四月二十七日月曜日の十三時以降、久作たちが取った行動は、ごく単純なものだった。数学、英語、世界史、古文、日本史、理科、科学、音楽、体育……授業と呼べる全てのもので、それぞれが得意な分野で活躍し、朝、昼、夕方、授業の合間、ずっとペアで行動していた、ただそれだけだった。

 数学では須賀とアヤ、世界史と英語ではリカと須賀、理科と科学ではアヤ、日本史と古文ではレイコ、体育では方城とレイコがその才能・能力をフルに発揮して、他を圧倒し、全てのテストのハイスコアを連続で塗り替え、五月頭の学年成績のベストワンは須賀、続いてアヤ、次にリカが並んだ。ほぼ全てをこなす久作もまた同じくであり、学年成績はリカの次の四位。四位といっても限りなく一位に近いものだった。四人の順位こそ違うが、総合成績では十点の誤差範囲内であり、実質、四人が学年成績のベストワンという状態である。高等部一年のクラスのある校舎の廊下に学年成績順位が張り出され、紛れもない数字が一年全員と、それらを担当する教師を驚かせた。

 体育の授業での方城の活躍は、凄まじいものであった。

 バレーボールでは強烈なレシーバー&アタッカー、サッカーでは華麗なドリブルからのロングシュートにスーパーセーブ、野球では剛速球の四番ピッチャーで完全試合、卓球ではナックルサーブにエンドレスのラリー、百メートル走と四百メートル走では陸上部員を無視して全て一位、バスケットは言うまでもない。体育の授業が終わるたびに方城は、各スポーツ部からの熱烈なヘッドハンティングを受け、女子のスポーツ部はこぞってレイコを誘っていた。方城ほどではないが、久作もそれなりに活躍を見せていたので、色々なスポーツ部から勧誘を受けていた。

 五月二日土曜日の時点で、久作、方城、須賀、リカ、アヤ、レイコに宛てたラブレターが山ほど届いていた。

 下足箱のない桜桃学園なので、それらは友達の友達からの手渡しでそれぞれの手元に届けられたのだが、あまりの量だったので開封する暇すらなく、丁寧な封筒の裏に書かれた差出人を確認するのがやっとだった。どうにか時間を見付けて何通か開封すると、どこそこに何時に来てくれ、とあったが、全てが前日や前々日の日付だったので、行こうにも行けなかった。

 さすがにそれは無礼だろうとリカが言ったので、須賀がどうにか間に合いそうな封筒を見付け、体育館裏にいた二年だか三年だかの女性と話をしたらしいが、「俺は今、リカ君と付き合っているんです」の一言でそれは終わった。同じくリカも、時間の合間に二階へと続く階段そばで別クラスの同級生と会ったが、「今は須賀くんと」の一言で相手の、クラスも知らない男子は立ち去っていった。

 久作の戦術は、当人を含む全員にかなりの無理を強いられていたので、休憩に、あの露草葵の部屋、保健室を利用した。

「またアンタらかいな? ここはウチの部屋やて。まー、なんや知らんけど、外が騒がしいみたいやから、休んでいき。ほれ、須賀、アスピリンや。方城は点滴でも打つか?」

 白いわっかと共に、コーヒーが差し出され、一同は文字通り一服した。点滴は方城が怯えて辞退し、須賀はアスピリンをコーヒーで流し込んでいた。

 同じ日、五月二日土曜日の夕方頃、久作は、ラプターズの面々と一度会った。

「よお、速河。久しぶり、でもないかな? 一週間ぶりくらいか? そっちが噂の加嶋玲子さんか? 凄い美人じゃないか。ああ、すまん、茶化すつもりじゃないんだ。っていうか、速河、お前と、方城と須賀、二年でも話題になってるぜ。それぞれが美人連れて歩いてるだとか、授業で先生をこてんぱんにしただとか。何だか知らんが、そっちは忙しいみたいだな? ヒマになったらまた一緒にやろうぜ!」


 四連休のゴールデンウィーク明け、五月七日木曜日、十七時四十三分。

 ミス桜桃学園投票箱が持ち去られた廊下に、久作を筆頭に全員が集まっていた。四月二十七日月曜日の午後から始まった久作の戦術、バグラチオン作戦は終盤に差し掛かっていた。

「ミス桜桃学園開催! アイドルを探せ!」


 オレンジやピンクで彩られたポスターに、大きなフォントで印刷された例のロゴ。

「みんな、お疲れ様。もう一息だ。明日と明後日は少しペースダウンして、九日土曜日に備えよう。僕の予想だと、土曜日の午後には体力と集中力が必要になると思う」

 笑顔の久作の声には疲労が混じっていた。

「今日、明日、明後日の午前中でどうにか回復しておかないと、肝心なところが台無しになる。方城、悪いけどこの間はバスケ部の練習も控え目にしておいてくれないかな?」

 大きな溜息が方城の口から出た。

「言われなくったって、そのつもりだよ。もうヘトヘトだ。全く、体調管理も何もあったもんじゃあない。まるでインターハイ予選だよ、なあ? アヤ?」

 廊下にぺたりと座り込んでいるアヤが、ゆっくりと顔を上げる。

「あたし、もー無理っぽい。体力ゲージ1ミリしか残ってねーってば」

「疲れはしたが、久しぶりに頭を使ったからか、俺は逆に心地いい。無論、体力は殆ど残っていないが」

 普段通り、とまではいかないが、須賀はかろうじて元気だった。

 隣の、公認カップル、彼女であるリカが、ふう、と小さくもらす。

「何の作戦だったか忘れちゃったけど、学年成績を見て驚いたわよ。私って出来る子なのね?」

「リカちゃんは出来る子ー! 私は出来ない子?」

 桜桃学園高等部、女子陸上百メートルと二百メートル、そして四十二キロフルマラソンのレコードを書き換えたレイコが言った。声色に疲労は感じられない。フルマラソンを走りきる、そのスタミナからだろうか。

「レイコ、学年二十位は出来る子よ? アヤも凄いけど、あなたも凄いじゃないの」

 リカが、レイコの頭をぽんぽんと叩いた。

「みんな凄いんだよ。さあ、もう帰ろう。とにかく今は休息が第一だ。明日以降、もし具合が悪くなったら迷わず露草先生のいる保健室だ。僕もだけど、みんなも注意しておいてくれよ」

 そう言うと、久作は廊下に置いてあったフルフェイスを持ち上げた。アヤが方城に引っ張り上げられ、全員で駐輪場へ、ゆっくりと向かった。十七時五十九分、夕焼けで出来た六つの影が、紅く地面に伸びていた。


 五月八日金曜日と翌九日の午前中は、驚くほど平穏に過ぎた。

 周囲は相変わらずミス桜桃だとか何だとかでやかましいのだが、それらが久作たちに向けられることはなく、また、久作たちも行動を穏便にしていたので、のんびりと過ぎていった。それぞれの体調もどうやら回復したようで、戦術を開始する前の、普段どおりのそれになっていた。金曜日の授業内容は全く覚えていない。体と共に頭も休めておこうと、ずっと窓の外を見ていたからだ。

 九日土曜日の午前中、窓の外には巨大な積雲があった。凝視するが殆ど動いていない。上空は無風なのだろう。巨大な積雲と相変わらずの晴れた空。二限目の授業が野中教師のスローな日本史だったこともあり、久作の頭は完全にクリアになっていた。体調も万全、これ以上ないくらいのベストコンディションである。昼休みを告げるチャイムと同時に、方城やリカさんをはじめ、全員が久作の机に集まった。

「今日の午後、あとちょっとで始まるのね、ミス桜桃……」

 表情は笑顔だが、リカの口調には若干の不安が感じ取れた。久作は笑顔でこくりとうなずき、再び積雲を見た。

「大丈夫、問題ない」

 断言して、須賀と方城を見る。

「速河がそう言うんなら、そうだろうよ?」

「ほぼ完璧な戦術だ。速河と同意見だ」

 リカが三人の顔を順番に見つめて、うん、とうなずいた。アヤのアサルトライフルトークを聞きつつ、久作らは昼食をとった。話題は、ミラージュファイトの2が家庭用ゲーム機で発売されるだとか、その際にキャラクターが増えるだとか、そういった内容だった。他愛のない雑談、それを打ち消すように、教室の天井に埋め込まれたスピーカが喋りだした。

「えー、ごほん。ミス桜桃学園実行委員の井上です。昼休みが終わったら、皆さん、体育館に集合してください。十三時三十分から、遂にミス桜桃学園が決定します! 繰り返し――」

 さて、久作はつぶやいた。

 デジタル時計は十二時四十五分と表示されていた。まだ時間はあったが、皆さん、つまり桜桃学園の中等部と高等部、そして教員の殆どが体育館に集まる。行列にもまれて体力を消耗するのは避けたい。

「早いけど、行こうか、体育館に」

 残った弁当を口に入れ、ジュースで流し込み、久作は立ち上がった。アヤとレイコがまだ昼食を終えていなかったが、こちらもさっさと片付けてくれて、五分ほどしてから全員で体育館に向かった。久作の歩調は軽かった。完璧とまでは言わないが、即興で練った戦術が思った以上の成果をあげて現在に至るので、気分も楽だった。不安要素はいくつかあったが、どれも許容範囲だった。臨機応変に対応すればどうにかなるだろう。

 教室を出て体育館に続く廊下に差し掛かった辺りで、行列に遭遇した。どうやら、皆、似たようなことを考えていたらしく、既にかなりの人数が、体育館へ入ろうとじりじりと進んでいた。それに合わせつつどうにか体育館に入ると、既に満員だった。


 私立桜桃学園の体育館は、スポーツ競技の公式戦の舞台の一つでもあるので、かなりの収容能力と設備があるのだが、中等部を含めた千二百人強の人数は、その許容範囲ギリギリだった。コート面には高等部生徒と教師、階段状の観覧席は中等部の生徒が占領してるようだ。

 六百個近くのパイプ椅子がずらりとならび、その八割には既に高等部生徒が座っている。体育館の中央辺りに並んだ空席があったので、久作らはそれに腰掛けた。

「改めまして! ミス桜桃学園実行委員会の井上です!」

 壇上の井上という男が、やたらとハウリングの激しいマイクで叫んでいた。久作のデジタル時計は十三時十三分とある。まだ定刻ではないのに、その井上という男はミス桜桃の進行を開始した。時間も守れないのか? 久作は少しイラついた。

「今回で十周年となる、伝統あるミス桜桃学園! 皆さんからの熱烈な投票にまずは感謝いたします! そして! それらを集計し、実行委員で検討し、皆さんが待ち望んだミス桜桃が、決まりましたー!」

 拍手でも求めたのだろうか。そこで演説は一旦区切られた。井上という男に応えてか、体育館の前列からほどほどの拍手の音がした。壇上の井上がカーテン横を見て手招きをしていた。しばらくすると、楽器を抱えた三人組が現れた。遠めだったが、それがラプターズ、加納勇介、真樹卓磨、大道庄司だとすぐに気付いた。

 ドラムが、マーチなのかワルツなのか、適当なリズムを刻み、ベースは単調なリズムを繰り返すだけ、ドラムやベースと同じく、適当にギターがガシャガシャと鳴っている。当然、ハーマン・リーモデルではなく、以前久作が借りたストラトキャスターよりもかなりくたびれたものらしい。チューニングも適当らしく、音が外れている。ラプターズのそれが、ミス桜桃学園のミス決定の瞬間に添えられた音楽、BGMだと気付くのに、かなりの時間がかかった。もうしばらくして、ラプターズの演奏がアメリカ国家の「星条旗(The Star-Spangled Banner)」に変わり、ようやく壇上の井上がマイクに向かって喋りだした。

「BGMは、ご存知、二年生のバンド、ラプターズです!」

 どうやら井上という男には、ラプターズ加納の皮肉は通じていないようだった。

「さてさて、気になる今年最初のミス桜桃学園はー……」

 また溜める。余りにも馬鹿馬鹿しいので立ち去ろうかと久作は一瞬だけ思ったが、さすがにそうもいかない。

「本年度、記念すべき十周年のミス桜桃学園は……一年の橋井利佳子さんです!」

 久作の表情があからさまに濁った。が、壇上の井上が続けた。

「そして! 同じくミス桜桃に輝いたのは、同じ一年の橘絢さん!」

 何? リカさんとアヤちゃん? 久作の思考が曇る。

「さらに! 同じ一年の加嶋玲子さん! この三人が、今回のミス桜桃学園です! ミス桜桃は通常、一人なのですが、投票数がほぼ同一であったので、驚くべきことですが、三人全員が今回の一位、ミス桜桃学園なのです!」

 体育館全体がざわめいた。リカとアヤとレイコが、三人がミス桜桃? 久作は、自身の描いていた戦術に舌打ちした。かなりのことは想定してあったつもりだが、さすがに三人がミス桜桃という結果は予想していなかった。

「それでは! 橋井利佳子さん! 橘絢さん! 加嶋玲子さん! 壇上におあがりください!」

 その場にいないかもしれない三人を、井上は呼んだ。幸いその場にいたリカ、アヤ、レイコがゆっくりと席を立ち、ゆらゆらと壇上にあがった。何が起こったのか理解していない様子だ、無理もない。聞かされた久作とて、未だに状況が飲み込めていないのだから。

「では、こちらにお並びください! こちらが橋井利佳子さんと――」

 リカを手招きしている。

「橘絢さん、そして加嶋玲子さん、三人が今回のミス桜桃学園です!」

 体育館のどよめきが、歓声に変わる。

「それでは、こちらをどうぞ!」

 そういった井上は、どこかの量販店に置いてありそうな安い作りの王冠を三つ、リカとアヤとレイコにかぶせた。それから、賞状か何かをそれぞれに手渡し、再びマイクを握り、ハウリングだらけで叫ぶ。

「まさかの三人のミス桜桃学園! 十周年にこれほど素晴らしいことが起こるとは、我々実行委員会も想像しておりませんでした! 検討の際、順位をという意見もあったのですが、ご覧の通り、三人は素晴らしい美貌を持っていらっしゃる! 皆さんもでしょうが、我々実行委員会に、彼女たちに順位をつけることなど出来ません! 三人のミス桜桃学園は、これから学園のアイドルとなるでしょう! そして、彼女たちがテレビや雑誌の向こうに行ってしまうことも当然でしょう! 憧れの三人のミス桜桃には、付き合っている男性がいるそうなので、皆さんは彼女たち三人を憧れの眼差しで見ることしかできません! が! いずれ全国に、いや、世界に羽ばたくであろう彼女たちは――」

 久作はうつむいたまま、こめかみを強く押さえていた。何だ? この意味不明なハウリングは? 何が言いたいのかさっぱり解からない。久作は「須賀、何か変化があったらIFDLで頼む。僕は外の空気を吸いたい」、須賀にそう告げ、返事を待たずにパイプ椅子から立ち上がり、体育館出口に向かった。

「了解だ、ボギーワン」

 須賀の声がかすかに聞こえた。

 体育館へと繋がる通路に出た久作は、そばの柱に背を預け、思考の底に潜る。リカとアヤとレイコが、三人同時にミス桜桃学園に選ばれた。これは……いいことだ。そもそもの戦術がそうだったから、いいというより、一番効果的で最大の成果かもしれない。一人では三人をカヴァーできないからこそ、方城と須賀に二人を任せたのだから、この結果は頭で描いていた戦術のもっとも理想的な姿だ。

 リカたちが全員、ミス桜桃になったということは、下らない連中やそれらの言動が一点に集中するということだ。十三日間、それぞれが半ば独自で行動していたが、意味不明な相手が一点集中となれば、こちらも三機編隊が組める。そして、相手が五百人だろうが千人だろうが、こちらは世界最強の航空支配戦闘機、F‐22・ラプターの編隊だ。

 ……混濁(こんだく)した思考が徐々に静まる。持ち前の冷静さが戻りつつあった。ミス桜桃の結果は出て、リカとアヤとレイコがそれに選ばれた、これが紛れも無い事実だ。井上とかいう男のハウリングで思考を乱されていたのかもしれない。三人がミス桜桃学園となり、こちらは健在。ロックオンすらされていない。

「何だ、状況は変わっていないじゃないか」

 久作は声に出した。言葉にして自分に言い聞かせているのだ。

「僕と方城と須賀はラプターで、桜桃学園の制空権は完全に掌握(しょうあく)している。ミス桜桃という歩兵部隊が進軍していたが、こちらは空だ。ラプターの戦闘力は十三日間で見せ付けた。もう威嚇射撃の必要すらない。ラプターに高射砲を向けたらどうなるのか、そんなことは誰にだって解かる。サイドワインダーとアムラームで木っ端微塵だ。相手に航空戦力があったとしても、全く問題ない。どんなエースパイロットだって、僕のラプターを捉えるのは無理だ。ステルス戦闘機でレーダーに映らないんだから、ドッグファイトにすらならない。背後を取って、ウェポンベイを開けば、それで相手は逃げ出す。ミサイルどころか機関砲の一発も必要ない……つまり」

 久作は体育館の天井の向こうで止まっている積雲を見た。すこし形が変わっていた。

「つまり、勝負はもう終わった? そう、終わったんだ!」

 右拳に力が入る。久作は小さくガッツポーズをした。

「まあ、余韻みたいなことはあるあろうけど、そういうのは方城や須賀に任せよう。僕は、そうだな、保健室にでも行って、一休みするかな?」

 デジタル時計を見ると、既に十四時を過ぎていた。まだ体育館が騒がしいようだが、久作はちらりと見ただけで、体育館に背を向けて、露草葵の部屋、保健室へとゆっくり歩いた。

 保健室は無人だった。保健体育の露草葵も、おそらくミス桜桃学園のメインイベントに列席しているのであろう。主のいない保健室で、久作はケータイで文章を入力し、それを送信した。

「リカさん、アヤちゃん、レイコさん、おめでとう。いろいろと複雑に思ってるかもしれないけど、今は素直に喜んでいいよ。ほかのみんなも、三人を祝福してやってあげて。――速河」、十四時十四分。

 ケータイのアドレスに登録された、桜桃学園関係者全てに対して、久作はそのメールを送信した。ベッドに腰掛け、事務机から拝借した飲みかけのコーヒーを口に入れ、ごくりと飲み干す。糖分ゼロ、ブラックだったので少しむせた。

「フレディ君……」

 久作は、保健室で無言で立つ骨格標本、トリコロールジャケットを羽織ったフレディ・スペンサー君に声をかけた。

「思いつきと即興で練った戦術だったんだけど、結果は見ての通り、大成功だ。全十三週のミス桜桃GPのファイナルラップだ。あと半周でチェッカーフラッグ、優勝は目前だよ」

 ぴくりともしないフレディ・スペンサー君が、こくりとうなずいて笑顔で久作を見た。

「そう、あと半周、五百メートルもない。後続は完全に引き離している。僕のバイクはホンダXL50S。SはスーパークルーズのS、そう、XLは四十九ccなのにスーパークルーズができるんだ。アフターバーナーなしでマッハ1.58の超音速巡航、これについてこれる奴はいやしない。残り半周なんてコンマ数秒だ……」

 久作はベッドに倒れこんだ。


「……河、速河! おきんかい!」

 大声が耳の傍で鳴り、久作は頭を上げて素早く周囲を見渡した。何だ! 何が起きた? ここは……。

「ここは、保健室? あれ?」

「やっとお目覚めやなー?」

 目の前、五センチ先に物凄い美人の顔があった。シルバーで細長いメタルフレームの奥に、大きくて鋭い目と薄いアイライン。すっと通った鼻筋の下に、きらきらと桜色に輝く唇。紺色の髪の毛がまっすぐに伸び、いくつかの束がメタルフレームをおおっている。

「露草葵、先生?」

「おう、速河、ウチのフルネーム、覚えとってくれたんか。そや、露草葵。あおい、言うんは草冠ので、ブルーよりもっと和風で、「源氏物語」五十四帖第九帖の、あの、あおいや。ええ名前やろ?」

 確かに、露草葵とその名前の人物のイメージはおおよそ一致する。性格や言動がもう少し、しとやかなほうが……。

「しまった! 眠っていたのか! 時間は、十七時〇五分……三時間! データリンクは?」

 久作は慌ててケータイを取り出して開く。二通のメールが届いていた。一通はリカからで、着信は十六時三十二分。もう一通は、2‐Aの加納勇介から、着信は十六時五十六分。

「あれこれとどたばただったけど、どうにか終わりました。みんな疲れたっていってるから、帰りましょう? 駐輪場でみんなと待ってるから、早く来てください。――橋井利佳子」

 三十分も待たせてしまっているのか、急いだほうがいいな、そう思いつつ久作は、加納からのメールを開いた。


「真樹と大道からの情報だ、役に立つと思う。

・ミス桜桃学園実行委員会

・井上~2‐B~野球部ベンチ

・藤原~2‐B~野球部ベンチ

・元木~2‐D~サッカー部レギュラー、ミス桜桃副実行委員長、ラプターズ大道と同じクラス

・河野~3‐E~サッカー部キャプテン、ミス桜桃実行委員長、橋井利佳子襲撃実行犯1

・新田~3‐A~空手部主将、橋井利佳子襲撃実行犯2

 ――加納」


 加納勇介からのメールは、久作を絶句させた。

「橋井利佳子襲撃実行犯」、この単語が脳みそに突き刺さった。冷静になれと自分に言い聞かせつつ、加納に「ありがとうございます」と返信し、ベッドから立ち上がり、リングブーツを履いた。もう十七時、いや、まだ十七時だと頭の中で繰り返す。三時間というタイムラグは頭と体を休息させるには十分だった。データリンク、メールがまだ二通で着信履歴もないので、何事も起きていない。露草葵とフレディ君に挨拶をして、久作は保健室から飛び出した、駐輪場に向かって。保健室から駐輪場までは全速力で一分ほどだった。途中、もう一度、加納からのメールを見て、それを頭にインプットする。

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