『第九章~スターティンググリッド』

「おーい、生徒諸君。チャイム鳴っとるでー。お仕事の時間や、って今日は土曜日やんか」

 煙草をくわえたままの露草が、かろうじて教師らしく言った。

「世界史に用事はない。俺はここでもうしばらく休むことにするから、みんなは教室に戻ってくれ」

 須賀がダルそうに、しかし優しく言う。

「僕ももう少し休憩するよ。フレディ君と話がしたいし、まだ体が本調子じゃないから」

「だったら俺も――」

「アカンアカン。アンタら、全員で授業サボる気やろ? 別にかまへんけど……いやいや、いちおうウチもセンセやからな、かまへんことはない。六人も同時にサボられたら、また教頭に文句言われんのはウチなんやで?」

 渋る方城をハエでも追い払うようにして、彼を筆頭に、リカ、アヤ、レイコは保健室から追い出された。保健室に静寂が戻る。

「速河、仕切り直しだ。客観性や第三者意見は重要だが、基礎理論の部分は少人数のほうがいい、持論だがな。まず、そうだな……露草先生」

「なんや? ウチかいな? 速河と違うんかい?」

「先生です。今度のミス桜桃学園という行事、率直なところ、どう思われますか?」

 須賀の科白に久作は慌てて上体を起こした。思えば、肝心な話が殆ど進んでいない。

「ミス桜桃て、あのミス桜桃か?」

「そのミス桜桃です」

 露草はのんびりと喋っているが、須賀は素早く返す。

「どう思う言われてもなー。ウチは生徒ちゃう、センセや。ミス桜桃は生徒のお祭りやから、あー、そういえば須賀恭介。アンタ、なんや物騒なこと言うとったな? 暴力沙汰やとか停学やとか、ミス桜桃潰しやとか……」

 相変わらずのんびりの口調だが、どこか光るものを久作は感じた。この露草という教師は、保健体育の教員としては型破りではあるが、どこか他の教師とは違うものがある、そんな気がした。そもそも見た目から、他の教師とは全くの別次元なのだが、久作が感じたのはその容姿ではなく、言葉、科白だ。

「アンタがなんや物騒なこと言うて、橋井が泣いて、ミス桜桃いうんは危ないて……うーん、生徒主催やから管理者がおらんで、ミス桜桃に興味ない女子やらがそれにされたら、まー、危ないっちゃ危ないか」

 煙草の先が落ちそうになったので、一旦そこで言葉を切り、灰皿にそれを押し付け、マグカップのコーヒーか何かを二口ほど飲み、露草はメタルフレームを上下させる。

「去年、いや一昨年やったかな? 橋井が、ミス桜桃の準ミスになったんは?」

 久作と須賀が同時に声を上げた。

「リカさんが、準ミス? ミス桜桃学園の?」

「一昨年というと、中等部二年か! 方城の奴、また肝心なことを言い忘れていやがる!」

 保健室で目覚めてからのちょっとした騒ぎ。リカの態度が普段とかなり違っていた原因が解かった。おそらく須賀も同様だろう。もう少し時間を戻して、今朝、須賀がミス桜桃学園の話を切り出した辺りからずっと、リカの様子が奇妙だったが、全て繋がった。

「露草先生、リカ君……橋井さんのプライバシーを損なわない程度で、一昨年のミス桜桃のことを教えてもらえませんか?」

 慎重に、押し殺して、須賀は露草に尋ねる。須賀の頭脳が高回転する音が聞こえたような気がした。

「あれはなー、ちょいと盛り上がりすぎやったな。生徒主催やからウチらセンセは直接あれこれ言われへんのやけど、この保健室はウチの城やから、橋井を隠すのには最適やったし、それでどうにかなったけどな」

「保健室に隠す? リカさんを?」

 久作が小さく叫んだ。須賀は、ちっ! と吐き捨て、潰した声で説明を促す。

「トラブルがあったんですね? リカ君に。露草先生がここに彼女をかくまうほどのことが」

 かちり、と音がした。露草が何本目かの煙草をくわえている。口元と天井がゆっくりと繋がる。

「……あったな。準いうても、殆どミス桜桃や。橋井はべっぴんやから男子にもてとったみたいや。せやけど、橋井はそーいうんは嫌いみたいで、裏方いうんか、地味にしとったらしいわ。ここは後から聞いた話やけどな? そないな橋井が、ミス桜桃にエントリーされて、ほいほいという間に準ミスや。中等部でミス桜桃のベスト3に入ったんは橋井が何年かぶりやったらしくて、一位のミス桜桃そっちのけで大騒ぎになっとったわ。

 んで、大騒ぎが大騒ぎを呼んで、いつやったか、橋井は足に真っ青なアザつくって、ウチんところに来た。あれは野球部のバットかなんかやろうな。骨いってなかったのが不思議なくらいなアザや。足の骨までいっとったら、ここの設備やときちんとした手当てできんからな。橋井、泣いとったわ、当たり前やけど。ミス桜桃から一週間後くらいに、そんときの一位のミスとガラの悪い男子連中にかこまれて、足にでっかいアザ。肘やらに擦過傷(さっかしょう)、擦り傷な? 頭にも小さいのがあったな。

 体のほうは名医のウチが手当てしたから完璧やけど、心の傷いうんは、絆創膏では塞がらん。体を手当てしながら、後はずーっとカウンセリングや。ああ、うち、臨床心理士の資格も持ってんねん。橋井がタフやったから、精神的にな? やったから半年でどうにか回復したんやけど、その辺の普通の女子やったら、そのまま不登校、引きこもり、対人恐怖症、そのほかのオンパレードや。須賀恭介が心配してるんは、まあ、そーいうことやろ?」

 久作は唖然としていた。頭がぐるぐると回り、思考が全く整頓されない。保健室で眠りに入って、その後、リカちゃん軍団に羽交い絞めにされていた辺りで、久作は、須賀が少々過敏に、神経質になっているような気がしていた。注意するに越したことはないが、百手先まで読むほどでもないだろうと。

 しかし現実は、露草葵のそれだった。若干、須賀につられて神経質になっていた久作は、それをほぐしていて、須賀にもそうしろと言ったのだが、ゆるぎない現実は、それを良しとはしなかった。

「速河……」

 声が聞こえた。須賀だろう。

「俺はな、神経質で間の抜けた人間だ。些細なことを大袈裟にして、自分で掘った落とし穴に落ちる、そういう人間だ。そして、方城に言われるまで、リカ君がどうして泣いているのかさえ気付かないほど、無神経な人間でもある。こんな頭の悪い俺が、今、その鈍い頭で何を考えているか、解かるか?」

 頭を須賀に向けようとしたが、鉛のように重たく、その動作はゆっくりだった。どうにか須賀の顔に目がいった。その表情は、ハードボイルド探偵小説の主人公のようであり、そして、険しかった。

「何を考えているか、解かるか? ……解かる、いや、解かるというよりも、たぶん全く同じことを考えていると思う」

 自分に向けての科白だった。露草に目を向けると、こちらの表情もまた、険しかった。メタルフレームが上下する。白いわっかがぷかぷかと浮かんでいるが、気休めにもならない。事務椅子の向こうに小さな窓があり、青空が広がっていたが、久作の視界はモノトーンだった。久作は思考の海に潜る。

 須賀からのメール、ミス桜桃学園、リカちゃん軍団。リカの涙声と、須賀の太股を打つ音。何かを告げるチャイム、

 足のつった方城とそのチームメイト、全員が高等部一年。露草葵の話と橋井利佳子、そしてミス桜桃学園という行事。

 そういった言葉を並べると、何かが浮かんできた。久作は保健室の壁に鋭い視線を放つ。

「四月二十五日 土曜日 十四時三十四分」

 デジタル表示で数字が並んでいた。途端に思考が加速する。

「須賀! ミス桜桃学園は、いつ始まる!?」

 須賀に向けて強く怒鳴った。何故怒鳴ったのかは久作自身にもわからないが、それを特に気にしている様子もなく須賀はゆっくりと応える。

「来週月曜日に、方城の言っていた集計用紙が配られる、そうポスターに書いてあった。五月七日木曜日、つまりゴールデンウィーク明けから集計作業が始まり、その二日後、五月九日土曜日の午後に、ミス桜桃学園が決まる」

 週明け月曜日、つまり二十七日に集計用紙が配られ、一週間置いて、四連休。集計に十日の間があり、十一日後にミス桜桃学園候補の選抜が始まる。集計日を含めた三日後に、ミス桜桃学園決定。

 十日間と三日間、フルスロットルの久作の思考が減速した。

「十プラス三は?」

「何? 速河? いうまでもなく十三だが――」

「そうだ須賀! 十三だ! それが答えだ!」

 須賀は全く久作についていけていない。露草も同じらしく、不思議そうに、怒鳴る久作を眺めている。その気配に気付き、久作は思考を法定速度まで落とした。

「タイムスケジュールだよ、須賀。ミス桜桃が始まるまでの、つまりこちらが作戦なりで動ける時間だ」

 ぱん! と音がした。須賀が自分の膝を叩いた音だ。そして、須賀の表情に感情が戻った。いつもの、冷静沈着なハードボイルド探偵だ。

「タイム……なるほど、そうか。肝心なのはそこだったか。全く、またしても俺らしくない」

「あんたら、さっきから何の話してるんや? ウチにはサッパリやで?」

 スクールカウンセラーの露草葵。保健体育の教師にして、保健室の主。医師免許と臨床心理士の資格を持ち、メタルフレームと白衣をまとった、型破りな謎の美女。この人物を逃すのは惜しい。

「露草先生、協力してもらいます!」

「へ? なんや? 何の話や?」

 それには応えず、久作はにこりと微笑むだけだった。保健室の隅に静かに立つ骨格標本、トリコロールジャケットを羽織ったフレディ・スペンサー君と目を合わせる。

「全十三周のミス桜桃GP、厄介なコースだが、もうスターティンググリッドで、フラッグが振られるのは月曜日。たったの十三周だ、とにかくアグレッシブなライディングで攻めるしかない。マジョリティ対マイノリティのデッドヒート、この勝負は、絶対に負けるわけにはいかないんだ。解かるだろう、フレディ君?」

 骨格標本、フレディ・スペンサー君が無言でうなずいた。

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