『第八章~シミュレートA』
空冷4ストロークのシリンダーヘッドカバーが大声で唸っている。法定速度を完全に無視したホンダXL50Sを、国産スクータが取り囲んでいた。どうにか振り切ろうと更にアクセルを開けるが、距離は逆に縮まる。黒いフルフェイスの一人が「死ね」と叫びつつ、鉄パイプを振り上げた。
「さあ、どうする! 速河久作!」
自分に向けて怒鳴り、久作は鋭い視線を放った。が、眼光の先に鉄パイプはなく、スクータ軍団もいなかった。
「あ、あれ?」
間の抜けた声を出して、辺りを見回す。そこは荒廃した市街地、ではなかった。何やら狭苦しい部屋に、よく知った顔が並んでいる。
「……方城? 須賀?」
身を乗り出そうとしたが、体が動かなかった。右腕も腰もピクリともしない。かろうじて、左手と頭だけが自由だった。
「速河、とりあえず目を覚ましてくれ。でないと話が一ミリも進まない」
「お前さあ、それって、はっきりいって、物凄い羨ましい状態なんじゃねーか?」
須賀、方城が言った。深呼吸を一つ、持ち前の冷静さが戻った。改めて周囲を見渡す。ここは、保健室か。体力を消耗していたのでここに運び込まれ、眠った。そう、今朝、歩くことさえできない状態だったから、ここに方城に運ばれたのだ。早朝、駐輪場から校舎まで、レイコに運ばれた。校舎から教室までは、レイコとリカに引きづられた。そして、保健委員のレイコと一緒に保健室に預けられ、眠り――。
「夢、か?」
「夢? そうだな、まるで夢みたいな状態だよ、それは」
呆れるように方城が応える。
「状態? 随分と眠ったはずなんだけど、体がまだ動かないみたい……で!」
久作の語尾が叫びに変わった。右腕に黒いロングヘアの女性がしがみついている、がっしりと。視線を落とすと、少しはねた栗色の髪があった。タックルされたような格好で腰を掴まれている。背中に柔らかく、それでいて強い感触があった。こちらは胸元辺りに両腕を回して、栗色の髪と同じく、背後からタックルされているような状態だ。なるほど、どうりで体が動かないわけだ。状況が解かり冷静さが戻る……ことはなかった。
「リ、リカさん? レイコさん! 後ろは! アヤちゃんだろ? そうだろ! 須賀! 何だこれ?」
「それはこちらの科白だ、速河。お前のプライベートに首を入れるような趣味は俺にはないが、それでも状況の説明が欲しい」
「これっていったな! 速河久作! うりゃー! 背面サバ折りだー!」
須賀と、アヤであろう声が重なる。背後から回された腕に力が入り、あの柔らかい感触が増す。
「ほーんと、失礼な話よ。レイコ? そろそろ起きなさいってば」
右腕は、リカだ。しかし、科白と行動が伴っていない。どうして彼女が右腕にしがみついている? レイコ?
「リカちゃん? ふぁーい。んー、起きたー、かなー?」
あくびと生返事でレイコが返答するが、両足に全体重を乗せて腰をがっちりと握ったままなので、体が自由にならない。とりあえず危険ではなさそうだが、いや、危険だろうか? 解からない。
「あのさ、あっちのあれ、名前知らねーけど先生か? あれもどうにかしたほうがいいんじゃねーか? さすがにあのままってのはマズいだろ?」
方城が、保健室の、久作の座る隣のベッドを指差す。誰かが倒れていた。女性か? 気絶しているのか? しかし、方城の口調にそういった雰囲気はない。
「確かに、とりあえずあちらにも目覚めてもらいたい、方城、任せる」
須賀が面倒そうに言った。
「あ、あのさ、リカさん? レイコさん? 後ろは、アヤちゃん? その、身動きが取れない、放してもらえないかな?」
ぎくしゃくと久作は訴えたが、返答はというと。
「ダメね、まだ許してあげない」
「速河久作ー! とどめだぁー! うりゃー!」
「ふぁぁーー」
見事に却下された。
「許すって? 何? 僕はたぶん何もしてない! 須賀! そうだろ?」
パイプ椅子に腰掛け、浅い溜息を漏らしている須賀に助けを求めた。
「何をしたかしていないか、そんなことは知らん。そういったことは当事者に聞くのが筋だ、速河」
「おい、こっち、起きたみたいだぞ?」
須賀と方城がほぼ同時に言った直後、ごん、と鈍い音がした。
「あいたっ! なんや? ウチの安眠を妨げるとは、ふぁっ……」
少し低めの女性の声が聞こえた。語尾から察するに、どうやらあちらも寝覚めのようである。見ると、やたらと露出の激しい女性が床に落ちていた。
「メガネ、どこや? あんた、よう見えへんけど、そこの男子。ウチのメガネ、知らんか?」
問われているのは方城らしい。方城がそのメガネとやらを探して辺りを見回し、見つけ、その女性に手渡す。ようやく視界の戻ったその人物は、再び大きなあくびを一つ、ゆっくりと床から立ち上がり、二歩ほど進んでから、そこ、保健室を見渡した。
「なんや? アンタら、ウチの部屋で何やってんねん?」
……部屋? 確かここは保健室ではなかったか? また久作の思考が乱れる。その女性、おそらく教師であろうその女性は若干憤慨(ふんがい)したような口調だった。もしかすると、寝ぼけて何かをやらかしてしまったのか?
「露草先生、私たちは今、速河くんをこらしめてるんです」
「葵ちゃん! 速河久作が抜け駆けのエロエロだ!」
「ふぁーー、おはよーございまーす」
リカちゃん軍団が、その、露草とかいう女性教師に説明、らしき言葉をかける。当然、久作にはさっぱり意味不明なのだが。ふらふらしつつ事務椅子にたどり着いた露草が、何度目かの大あくびをして、紺色の髪を軽くほぐし、口に煙草をくわえた。大きな伸びをしつつ、天井に向けて白い煙を吹き上げ、それでどうやら目覚めたようだった。そして、言う。
「そらアカンな。アヤ、橋井、えーと加嶋か、……とどめさせ!」
はい? と、右腕がひねられ、背後から背骨を逆方向にそらされ、みぞおち辺りに頭突きが入った。
「お、おい! 待ってくれー!」
久作の悲鳴が狭い保健室に響き渡った。
「す、すげーな、リカちゃん軍団。速河、大丈夫なのか?」
「あのまま死んでも本望だろう、知らんがな」
方城と須賀の声が聞こえた、ような気がした。からからと笑い声がした。露草とかいう女性教師のものだろう。保健室? 柔道か何かの道場の間違いじゃないのか? かろうじて残った思考で、久作はそう思った。
「さて……」
いつの間にか保健室奥のベッドに腰掛けた須賀が、全員に聞こえるように言った。
「いくつか重要な話がある。リカ君、速河を許せとは言わんが、そいつに今の状況に至った経緯を説明してやってくれ」
久作の右腕に抱きついたリカが「そうね」と言い、ひねりあげられた腕から痛みが少し和らいだ。
「今日の一限と二限、数学と英語Ⅱだったんだけれど、大変だったのよ? 数学の仲迫先生、ほら、あの人。何したと思う?」
仲迫、確かそんな名前の教師がいた、かすかではあるが記憶にある。何かとは、手でも出したのだろうか。
「大学入試の問題! それも工科大学レベルの。それを、須賀くんに解けっていったのよ!」
「工科大学の入試問題? そんなもの、須賀なら簡単だろう?」
当たり前のように久作は返した。須賀の頭脳ならば、その程度は問題にすらならない、そう思ったからである。
「速河くんも同じように言うの? あのね! 私たちはまだ高等部一年になったばかりなのよ! そんな問題、解けるわけがないじゃない!」
「え? ああ、そうか。でも、そのナントカっていう数学教師はそうしたんだろ?」
復唱するように言った。リカの説明が正しいのなら、間違いは一切ないはずだ。
「普通は解けないような難しい公式! 須賀くんだから解けたの! 私や他のクラスメイトだったら絶対に無理なのよ! そういうことを仲迫先生はやったの!」
口調が荒い、若干興奮しているようだ。工科大学入試レベルの問題を、須賀に向けた?
「仲迫先生? その人って、何がしたかったんだ?」
「須賀くんが気に入らなかったのよ! ずっと! だから物凄く難しい問題で、須賀くんをやっつけたかったの!」
なるほど。そういうことか。仲迫なる教師がどのような人物かは知らないが、教師にしてみれば、須賀のような生徒はかなりの厄介者だ。実際はできることをあえてやらず、テストだとか成績だとかに無頓着。にも関わらず、いかにも出来そうな雰囲気や言動。仲迫という教師に限らず、須賀は厄介者であり変人だ。どう接すればいいのか、まずそこから解からないだろう。
「よーく解かったよ。ちなみに、須賀はその難問だとかは、当然解いたんだろ?」
「難問でも何でもない。十秒かそこらで解ける、簡単な、小学生レベルのものだ」
「仲迫先生? その人が難しい問題を出して、須賀が答えた。リカさん、別に大したことじゃあないんじゃないの?」
久作は思ったことをそのまま言った。どれほどの難問だったかは知らないが、とにかくそれは解かれ、事態は収束した、そう思ったからである。しかし、リカの反応は少し違った。
「それは! たまたま、いえ、たぶんわざとでしょうけど、須賀くんだったから! もし私だったら、泣き出してても全然不思議じゃあないのよ!」
「まあ、そんなことが一限目の数学であったんだ。俺がどうとか、それはいい。次に進もう、リカ君」
興奮したリカをなだめるように、須賀が柔らかく、静かに言った。
「二限目はねー、英語Ⅱだ! センセーはあの脇田! ベラベラうるせーあいつ!」
背後のアヤが切り出した。
「脇田先生? まあいいや、またそこで難問でも?」
「こちらは少々、事情が複雑でな。まず――」
「脇田先生、方城くんにワーズワースを翻訳しろって、そういったのよ!」
リカが半ば強引に入ってきた。リカの様子が明らかにおかしい。
「ワーズワースって、あの詩人の? 英語Ⅱで何でワーズワースが出てくるんだ? 変じゃないか。ワーズワースと英語Ⅱ? 何だ?」
背後のアヤが彼女なりに説明した。
「ベラベラ脇田がさ、リカちゃんに無視られて、それに頭きて、方城護にワーズワースを翻訳しろって、そーいったんだよ」
リカが無視して、だから方城? そこにワーズワース? 何だか妙な話だ。
「方城は英語、あんまり得意じゃないよな? 方城って、その脇田とかいう教師に恨まれるようなことでもしたのか?」
「英語は世界共通言語だから、バスケットをするならワーズワースくらいは翻訳しろ……」
リカが静かに言った。何だ? 久作は声に出した。
「何だそれ? そこでどうしてバスケの話が出る? 世界共通言語? だったらワーズワースが出てくるのは妙だろう? ワーズワースは確か、イギリスの詩人だろう? 翻訳本は山ほど出てるけど、英語の授業とは関係ないじゃないか?」
「だから! リカちゃんのチョーウルトラコンボ炸裂で、脇田秒殺! なあ、須賀恭介?」
「リカ君が脇田に叩き付けたのは、この文章だ」
アヤの振りに、須賀がノートの一枚を差し出した。びっしりと英文が記されてあった。久作はそれを素早く読む。
「心正しき者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐の行いによって……これを、脇田? 英語教師にリカさんが?」
強烈な文面に、久作は驚いた。
「リカさん、これは、何というのか、少しやり過ぎじゃあないかい?」
「わ、私だって、怒ったり泣いたりすることはあるわよ! 脇田先生が方城くんのバスケをバカにしたようだったから、頭にきて、思わずカッとなって、その……そういうことなの!」
「まあ、つまり――」
リカの戸惑いを継ぐように、須賀が喋る。
「こういったことがあったんだ。速河、お前がここで眠っている最中にな。お前と話しておきたことがいくつかあったし、皆にも伝えておきたいことがあったから、こうして全員がここにいるわけだが、肝心のお前は、ぐっすりと眠っていた……」
「レーコとラブラブでなー!」
アヤの一言で、事態がかなり読めた。
「だいたいのことは把握した、と思う。でも、リカさんとアヤちゃんが僕を羽交い絞めにしている、そこが――」
「こっちが大騒ぎだったのに! 速河くんはレイコと抱き合って! べ、別にレイコと速河くんが付き合っててもいいんだけど、でも! そういうのを見せられたら、こ、困るじゃないの!」
リカが説明していたが、要点がつかめない。
「リカさん! 呼び方が変わっただけで付き合ってるってことにはならないよね? で、手を引っ張ってもらっても、それも付き合ってるとかにはならない。保健室のベッドで寝て、その、レイコさんと、そういうつもりは全くなかったんだけど、抱き合ってても、それは付き合ってるとかそういうことには――」
「ならないって? 速河くん、だったら、どういう風にしたら、ある男女が付き合ってるように見えるようになるの?」
「どういう? って、それは、その……」
久作の思考がぴたりと止まった。何も浮かんでこない。完全にエンストしている。
「こんな風にされて――」
未だに久作の右腕を捉えたままのリカの両腕に力が入る。二の腕に柔らかな感触が押し付けられる。
「――僕たち、友達だよねって? そんな話、聞いたことないわよ!」
「くらえ! 友達潰しのエディ・ハグハグー!」
背中のアヤが叫び、ぎゅうと久作を締め上げる。膝の上のレイコが何も仕掛けてこなかったのが唯一の救いだった。
「お前はただ眠っていただけでのつもりで、しかしリカ君とアヤ君の逆鱗に触れた、まあ、そんなところだ、速河」
須賀が、かなり強引に結論を出した。話を進めたかったのだろう。仕切りカーテンを開いて、奥のベッドに腰掛けた。同じベッドの端、久作に近い位置で横になる方城。その隣の入り口側ベッドに、久作と、リカちゃん軍団全員がいる。須賀がそこに座ったのは、全員に向けて喋れる位置だからだろう。
「さて、今朝の話に戻るんだが、例の、ミス桜桃学園、あれだがな。と、その前に……」
ゆっくりと語りだした須賀だったが、すぐに途中で言葉を切り、久作たちとは別の方向に視線をやった。二つのベッドから三歩ほどの位置に事務椅子と小さな机があり、白いわっかがぷかぷかと浮かんでいた。白衣をまとった、露草とかいう女性教師だ。須賀の視線に気付いたらしく、煙草を小さな灰皿に置き、首をぽきりと鳴らした。
「なんや? 須賀? ウチがどないかしたか?」
小さなあくびと大きな伸び。事務椅子がぎしりと唸る。
「露草、先生でしたか? これからの話は俺たち生徒にはかなり重要な話なんですけど、できればまだ、教師……先生方の耳には入れたくないんです。無理にとはいいませんが――」
「ははは! 1‐Cの須賀恭介やったな? なんや知らんけど、それは大丈夫や」
須賀の押し殺した口調とは正反対に、露草は大声で笑って言った。
「ウチは貝殻のような、かったい口してるで? 何の話するんか知らんけど、スクールカウンセラーとか保健教師には守秘義務ゆうんがあるんや。ていうかな、そもそもウチの話なんて、センセのだーれもまともに聞かへん!」
半ば笑うように、大声で露草は言った。スクールカウンセラーや保健教師に守秘義務があるにしても、だから誰も話を聞かないとは、どうやらこの露草という女性教師は少々、いや、かなり変わった類の人種らしい。そもそも、保健室で煙草を吸っている時点でおかしいのだが。方城から後で聞いたのだが、胸元をはだけさせベッドで寝ていたり、保健室を自分の部屋だと言ったり、なにもかも型破りである。
須賀が、その露草――確かアヤが「葵(あおい)ちゃん」と呼んでいたので、露草葵(つゆくさ・あおい)という名前なのだろう――この教師は懸念要因でないと判断したらしく、再び喋りだした。
「ありがとうございます、露草先生。では、本題のミス桜桃学園だ。少しおさらいになるが、ミス桜桃学園という行事の危険性は、まず、立候補からの選抜ではなく他薦ノミネートであること。次に生徒主催なので管理者がいないという点だ。最後が、ミスだとかに全く興味のない女性が、下らん連中に囲まれて、何かしら事故なりが発生する可能性が極めて大きい、ということだ」
久作の右腕が強く握られる。リカが須賀の説明に反応したらしい。
「昨晩、全員にメールを送ってから今朝までに、俺なりにその対処法を幾つか考えてみたんだが……」
ここだ、久作は思った。ようやく本題に入った。須賀のメール、ミス桜桃学園に対する須賀の見解は既に聞いた。肝心なのはここから先だ。
「三パターンほど戦略を練ってみた。まあ、どれも机上の空論、あくまでシミュレーションで、現実的かどうかは怪しいものなんだが、あまりに不確定要素が多いので、その辺りは勘弁してくれ。仮に、シミュレートAとでも呼ぶか。三つのうちで一番、現実味のありそうなもの……」
そこで言葉を切り、須賀は深く深呼吸をした。全員の息が止まっている。
「シミュレートAは……ミス桜桃学園潰しだ」
背後から回された手が久作の胸元を締め上げた、アヤだ。何だ? その単語の発する危険な匂いは? 久作の鋭い視線に気付いたのか、須賀が続ける。
「シミュレートAはごくシンプルだ。具体的に言うと、まず、ミス桜桃の実行委員なりを探し出す。そして、俺がミス桜桃という行事には反対だと攻め立て、そこで事件を起こす。事件、相手が手を出してくれれば御の字だ。暴力沙汰にでもなれば、学園は大騒ぎとなり、ミス桜桃なんていうお遊びをやるどころではなくなる。当然、学園の教員連中も動き出す。事件をどう処理するのか、それで学園上層部は大慌てとなり、結果、ミス桜桃学園は綺麗さっぱり消えてなくなる……」
結論部分、ミス桜桃学園が消えてなくなる、ここには何ら反論はない。それがもっとも良いからだ。しかし――。
「す、須賀くん! そんなの滅茶苦茶じゃないの!」
リカが叫び、右腕が解放された。急いでローファーを履いたリカが、須賀に迫る。
「暴力沙汰? それでミス桜桃が消えるって? 須賀くんはどうするのよ!」
そうだ。結論は確かに正しいが、方法が無茶だ。久作は須賀を意識して睨み付けた。
「だからだ。このシミュレートAの場合、仮に実現したとしたらだが、下らん迷惑をこうむるのは俺だけで済む。方城にも速河にも全く影響が出ない。ちょっとした騒動を起こした俺一人が、停学だとか退学だとか、その程度で済む。シンプルでいて効果的で、しかも被害は最小限で――」
「下らん迷惑? 俺だけで済む? 須賀くん! あなた、自分を何だと思ってるの!」
どしりと音がした。須賀の目の前、ベッドにリカが座り込んだのだ。
「須賀くんが停学してミス桜桃が消えてなくなる? 肝心のあなたが消えてなくなってるじゃないの!」
「いや、リカ君、さっきも言ったが、俺一人の動きだけで、ミス桜桃学園という大規模行事が消えるのなら、これほど合理的な作戦はないと……リカ君?」
須賀の言葉が止まった。須賀の前、ベッドに上がったリカの肩が、小さく、ゆっくりと揺れている。
「……リカ君が暴力の類に反対なのはよく解かる、俺も同じくだからだ。しかし、だからといって泣くことはない。暴力沙汰といっても、俺は別に木刀や何かで殴りこむつもりなど微塵もない。単に軽いもみ合いにでもなれば、高等部生徒ならばそれで立派な暴力沙汰だ、その程度だ。さっきは退学といったが、そこまでの処罰にはならないだろう。停学、二週間ほどの休養をもらえたと思えば――」
ばん! と大きな音がした。リカが、須賀の太股辺りを平手打ちをしたのだ。
「須賀くんは凄く頭がいいから、仲迫先生のあの問題も簡単に解ける……」
背中しか見えないが、リカが泣いているのは明らかだった。
「今度のミス桜桃が危ないって、それも解かってて、だからナントカAって言って、ミス桜桃を台無しにしようとしてて……だから停学? どういう方程式なのよ! 私は須賀くんみたいに頭よくないけど、それが間違ってるって解かるわよ!」
リカの平手打ちの音が数度、その叫びと共に保健室に響き渡る。
「最初に言ったが、これはあくまで机上の空論で、現時的かどうかは――」
「違うんじゃねーか? 須賀?」
押し殺した声、ベッドに横になったままの方城だった。その科白は天井と、須賀に向けられている
「1‐Cって確か、三十五人くらいだったよな? AからEまでクラスがあって、高等部が一年から三年。でもって中等部。合計すると何人だ?」
「それは、千五十人だが、方城、何の話だ? 今は――」
「千五十人対一人? お前はアヤの言ってた、ナントカっていう拳法の達人だったのか?」
ゆっくりと方城が起き上がり、続ける。
「とりあえず目の前を見ろよ、誰がいる? きちんと見えるか? 須賀?」
言葉尻に若干の棘があった。言われた須賀は、真正面でうつむいてる、泣いているリカを見る。が、すぐに方城に視線を戻す。
「リカ君だ、言われなくとも解かって――」
「ほら見ろ! 全然解かってねーよ、お前!」
須賀の科白を方城が強くかき消した。
「頭いいくせに、肝心なことが見えてない。昔からだが、須賀、お前の悪い癖だ。そこにいるのはリカ君じゃなくて、泣いてるリカちゃんだ。何で泣いてるのか、それも全く解かってねーだろ? お前が滅茶苦茶なことを言ってるからだよ。何がシミュレートAだ、毎度の冗談にしちゃ、やり過ぎだ。千五十人だったか? その前にやることがあるんじゃねーのか? 目の前の一人にさ」
須賀に向けて、まるで説き伏せるように方城が言った。須賀がおよそ彼らしくなく、呆けている。方城とリカに視線を交互させ、しかし言葉が出ない。
「先週だったか、とりあえずのポジション決めのためにチーム内対抗の練習試合があったんだ。一年のレギュラー候補と、二年と三年の合同チームとな」
無言の須賀を無視して、方城は続けた。
「一年の今のレギュラー陣は、まあそこそこなんだが、相手が二年三年の合同だからな、こてんぱんだ。その試合の時にな、ちょっとがんばり過ぎて、左足がつったんだ。俺が交代で抜けると一年チームは全く歯が立たなくなる、オフェンスが弱いんだよ、今の一年メンバーは。ガンガンに点を取られてる時間帯でディフェンスに回ったら、もう試合になんねー。だから俺は、交代せずに、つったままの足でコートに残った。
自分じゃ隠してたつもりだったが、バレバレだったみたいでな、キャプテンにもマネージャーにも交代しろって言われたよ。単なる練習試合だ、別に交代してもいい、少しだけそう思ったんだが、残りの四人と交代メンバーの一人、全員一年だけど、こいつらはどうなる? みんなレギュラーになりたがってる、当たり前だ。バスケやってて、ベンチ要員でいいなんて思ってる奴は一人だっていねーよ。点では負けてても、いいプレイを見せりゃ、一年でレギュラー入りすることだって出来る。
バスケ部にとっちゃそれは単なる練習だが、なりたての一年にしてみりゃ、インターハイレベルに大事な試合だ。別に自慢したいんじゃねーが、そんな試合で俺が五分でも抜けたらどうなるか、一年全員がわかってた。だから、一年四人が俺のとこにきて「立ってるだけでいいから、もう少しだけ頼む」そんなことを言われた。そこまで言われて、足がつったなんて知るか!
全開のドライヴで切り込んで、キラーパスのオンパレードだ。山ほどフェイクを入れてやって、シューティングガードにボール回して、連続スリー。二・三年チームのパスを全部スティールしてやって、ポイントガードに渡した。
そしたらだ、センターとそのポイントガードの二人が、アリウープを決めた! 二年も三年も、キャプテンもマネージャーも、全員度肝を抜かれたみてーになって大騒ぎだ! ……あれ? 俺、何、喋ってんだ?」
方城の熱弁は唐突に終わった。全員が聞き入っていたのだが、そうだと方城が気付くのに少し時間がかかった。須賀の表情にいつもの知性が戻り、リカがくすりと笑い、アヤがベッドから飛んだ。背後からの羽交い絞めが解けたので、久作は大きく伸びをして、こわばった関節をほぐす。どすん、と音がした。アヤが方城のマウントポジションを取っていた。
「ストイックなバスケバカの方城護! お前、カッコイイぞ!」
そこで何故、右ストレートが方城に向けられたのかは定かではないが、ギリギリでそれをかわした方城が、何事かをアヤに怒鳴っていた。
「方城くん、凄いのねー?」
未だ膝の上に寝転んだままのレイコが下からささやく。体に自由が戻った久作は、そっとレイコの肩に手をやり、ゆっくりと、慎重にレイコを膝の上から隣に運んだ。
「須賀!」
少し大きめに、久作は言った。
「今、大事な用件は、リカさんだ、違うかい?」
リカが振り向いてうなずき、言われた須賀は、一瞬考える。
「そうか……そうだな。リカ君、さっきのシミュレートA、あの話は忘れてくれ。どうやら俺は寝ぼけていたらしい。机上の空論だ、全く現実味のない――」
言いかけた須賀に、リカが素早く抱きついた。
「そう! 須賀くん! それが正解!」
「リ、リカ君? ちょっと待ってくれ! その、何だ、俺はこういったことは苦手で……」
「あらそう? 須賀くんの弱点、発見ね? 相対性理論だとかで、どうにかしてみたら?」
からかい口調、ようやく普段のリカに戻ったようだ。
「くらえー! エディ・エルボー!」
「ゴフッ! お、お前! 今の、マジで入ったぞ! 中国拳法にエルボーあんのかよ!」
両手を天井に向けて、久作は大きく伸びをした。小さなあくびを一つ、思った。これでいいんだと。気付くと、保健室の主、露草葵教員と目が合った。メタルフレームの奥に、ゾッとするほど鋭い、魔女か何かを連想させる目があったが、敵意や不快感などは感じ取れない。横長のメタルフレームをその細い指で上下させ、くわえた煙草を灰皿にごしごしと押し付け、こちらもあくびを一つ。白衣からやたらと艶かしい足が突き出ている。
「1‐C、速河久作やったっけ? あんたと、須賀恭介と、えーと、方城護か。なんやよーわからんけど……気に入ったわ!」
ははは、と大声で露草は笑い、足を組み替え、再び煙草をくわえた。チャイムの音が聞こえた。どうやら昼休みは終わったらしい。三限目が何なのかは覚えていないが、今は授業などどうでもいい、久作は思った。
どこにともなく視線をめぐらせていた久作と、保健室隅の骨格標本の目が合った。いや、骨格標本に目はないのだが。その、彼だか彼女だかは、分厚い皮のレプリカジャケットを羽織っていた。トリコロールカラーの胸元に小さく「fast」とある。
「あの、露草、先生? 先生は桜桃までNS500で通ってるんですか?」
「んん? いや、ウチはラベルダやけど? おー、そいつな、ガイコツのフレディ・スペンサー君いうねん、よろしゅーな!」
久作は眩暈(めまい)を感じて、ベッドに倒れた。誰かが久作に声をかけたようだったが、久作は「ありえない」と繰り返すだけだった。
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