『第七章~カウンターアタック』
桜桃学園高等部1‐C、速河久作と加嶋玲子の抜けたそこでは、ちょっとした騒動がいくつかあった。
同時刻、1‐Cとはかなり離れた廊下に、かつかつと軽快な音が、リズムを刻むように響いていた。ピンヒールで刻まれるそれは、硬質タイルをのんびりと弾いていた。時折、両手を突っ込んだ白衣をはためかせ、鼻歌などをもらしつつ、その女性教師は、男子生徒全員を釘付けにする脚線を無造作に前後させながら、自分の仕事場にして城である、保健室に到着し、自宅に入るような感覚で入り口をくぐった。
「ふぁ……眠い。教頭の長話、アレはどうにかならへんのかなー?」
見事なまでの大あくび。桜桃ブレザーと同じ色の唇が開かれ、あくびと愚痴が同時に出る。薄くグロスを引いているその唇は、女子生徒の着るブレザーの桜色を更につややかにしたようで、キラキラと輝いている。その唇に、一本の煙草が放り込まれた。かちり、と音がして、あくびなのか溜息なのか、その両方なのかと一緒に、白い煙がすっと吐き出された。黒、いや、紺色を思わせる、背中を覆う髪。その頭頂部を指で無造作にガシガシとやって、白いわっかをいくつか作り出しつつ、白衣の女性教師は事務椅子をぎしりと軋ませた。あくびの次は伸びだった。
「アカンな、眠気が全然とれへん。ふぁー、ちょいと昼寝でもせんと放課後まで持たんな、コレは」
白衣を脱ぎ捨て立ち上がる。白衣のネームプレートに「露草(つゆくさ)」と記されてあった。白衣と同じ真っ白な半そでシャツは、上から四つ目までのボタンが外されており、胸元が完全に露出していた。シルバーのシンプルなネックレスが首から下がっているが、おそらく男性陣の誰一人として、そのネックレスに視線がいくことはないだろう。下は黒いミニスカート、ではなく、更に短いマイクロスカートだった。先端に同じく黒いピンヒールがあったが、太もも付け根からくるぶしまでの鮮やかなラインが、マイクロスカートやピンヒールの存在を忘れさせ、そこそこ高価なブランド品である両方は、やはり男性陣からは無視されるだろう。
メタルフレームの細長い眼鏡を指先で軽く上下させ、事務椅子の横で軽いストレッチを始めた。
露草葵(つゆくさ・あおい)、年齢は二十六歳。性別は言うまでもなく、女性。煙草でわっかを作る保健室の主、その保健教師兼スクールカウンセラーの名前は、桜桃学園中等部から高等部、教員にまで知れ渡っている。その評判はというと、「憧れの女性ベストワン」、とてもシンプルだった。
しかしながら、教員の間では、露草に対する評価は真っ二つに分かれていた。露草と同世代か少し上の教員、男女問わずでの彼女の評判は、非常に良い。スクールカウンセラーで保健体育の教員でもある露草は、同世代の教員の相談役だとか愚痴を聞く係だとか雑談の相手だとか、そういったポジションにあった。保健体育の教師である露草が数学や英語の教員の相談に乗れるのは、話題が学科に関してではなく、それを受ける生徒に関してだからであった。
一方、露草葵よりかなり上の世代の教員や、教頭という連中の彼女に対する評価は、「不真面目」「ずぼら」「手抜き」「ふしだら」「無礼」その他あれやこれや。露草がそれらを殆ど気にしていないのは、それら全てが「図星」だからである。彼女の性格は、上の世代の教員連中が言う、まさにそれであり、反論の余地などないのだ。ゆえに露草は、時折聞かされる教頭だか年配の教員だかの小言を聞き、流していた。小言の間に必ずといっていいほど、露草の服装のことが出るのだが――内容は「多感な男子生徒の前で云々」――生徒でもないのに服装にまで文句を言われると、さすがの露草もいくらか反撃を試みることがあった。
「ウチは、私は単に蒸し暑いからこういう格好してるだけで、多感な生徒? そんなの知りませんて」
正論が通じないのはどこの世界でも共通であり、軽い反撃を年配の理屈で潰されることを何度か繰り返した露草は、半ば諦めつつ、しかし閃いた。保健体育と理科・科学教師の特権、白衣をその身にまとったのだ。この作戦は見事に的中し、露草に対する年配の屁理屈は激減した。こういった経緯を経て、露草葵という保健室の住人が完成した。無論、保健室の外では、という意味であるが。
軽いストレッチを終えた露草は、昼寝、まだ午前中だが、それをするために、二つあるベッドの一つのカーテンを引き、そこで止まった。
「なんや? 先客がおるやん。あー、そういや朝に1‐Cの男子がなんか言うとったな、あれか」
メタルフレームを再び指で上下させる。どうやら癖らしい。
「しっかしまぁ、えーと、速河久作と加嶋玲子、やったかな? 二人してがっちりと抱き合って、ここはウチの部屋や、っちゅーに」
そこが彼女の部屋かどうかは別として、露草はカーテンをゆっくりと閉じ、もう一つのベッドに向かい、ピンヒールを無造作に投げ捨ててから横になった。
「青春ど真ん中やな、ふぁっ、ま、ええわ。寝よ」
メタルフレームを外し、手近のパイプ椅子の上に置いて、露草は昼寝に入った。二限目開始のチャイムが聞こえたが、速河久作、加嶋玲子、そして露草葵はそれには気付かず、寝息を立てていた。保健室の小さな窓、その外は今日も晴天であり、世界はどうだか知らないが、保健室はとても平和だった。
平和な保健室に対して、1‐Cの一限と二限は、対極的であった。ことの発端は、方城とレイコが久作を保健室に運んでから後、一限目、数学だった。
ミス桜桃学園の話が先にあったので、リカ、アヤ、方城、そして須賀は、その授業は上の空だった。それぞれがそれぞれなりにあれこれと、真面目に考え事をしていたのだが、その態度は、仲迫(なかさこ)という名の年配数学教師の勘にさわったらしい。仲迫教員は、年功序列だとか、そういった化石のような人間で、自分より年下の人間を見下している節があった。そこが桜桃学園という学校で、周囲が若い学生だらけだという当然のことにさえ、不快感を示している。何故、その仲迫という男性が教師などをやっているのか、そもそもそこが謎なのだが、残念ながら彼は数学の教師であり、その相手は桜桃学園高等部の生徒、子供であった。
数学の仲迫教員の生徒間での評判は、すこぶる悪い、当たり前である。それでいて科目が生徒を苦しめる数学なので、評判の悪さは更に増す。中迫の、生徒を見下した態度と、それに対する生徒の評判、組み合わせでこれほど最悪なものはないだろう。そして、高等部1‐Cに話を絞ると、仲迫の標的は……。
「この公式を、そうだな、須賀、解いてみろ」
そうだな、と仲迫は迷ったようなことを言ったが、最初から標的は須賀恭介と決まっていた。そして、教室が騒然となった。というのも、巨大なホワイトボードにずらずらと書かれた公式、図形などが、強烈に難解なものだったからである。高等部一年になってすぐ、まだ四月が終わるかどうかというこの時期には、およそ似つかわしくない、というより、ありえないレベルだった。数学が苦手な方城にしてみれば、ホワイトボードのそれは、まさしく暗号の塊であり、それを須賀恭介に解けと言い放った仲迫という数学教師に、リカは心底呆れた。
「参ったな、そんな難しい問題を俺なんかが解けるわけがないですよ、中迫先生」
仲迫が、はん、と鼻を鳴らして喋ろうとしたが、それを無視して須賀は続けた。
「方城? フリースロー二本とスリーポイントが三本決まると、何点だ?」
教室の中央から、入り口そばの方城に声が届く。距離があるので少し大きめの声だった。
「何? えー、フリースロー二本で二点。スリー三本で九点だから、そりゃ合計で十一点だ。何の話だ?」
方城の問いには答えず、須賀は、仲迫の額を睨みつけて、口元をにやりとさせ、言った。
「十一です」
十一、その数字に教室の生徒は誰一人として反応しなかった。が、一人だけそれに応えた。
「……せ、正解だ。な、なんだ、須賀。お前はその、なかなかに優秀じゃないか。テストでも、その、何だ、もう少しいい点を出せ」
巨大なホワイトボードと、そこの難解な公式を背にした数学教師、仲迫は酷く狼狽していた。そこで一限目終了のチャイムが鳴り、仲迫は1‐Cから、須賀恭介から逃げるようにそそくさと立ち去った。チャイムが鳴り止まないうちに、教室中央に人だかりが出来た。須賀の机を、クラスメイトが取り囲んでいるのだ。
「おい、須賀! さっきの、何だあれ? スリーが三本って……」
「須賀くん! す、凄い!」
方城とリカの言葉が重なる。二人より距離を置いたクラスメイトも似たようなことを言っていた。
「仲迫撃退だよね!?」だとか「須賀、すげーぜ! ざまあみろだな!」だとか。とりあえず、賞賛の類であるようだ。
「なあ、須賀恭介。さっきの公式ってさ、去年の大学入試の問題だろー?」
アヤが、当然、という風に言った。
「さすがはアヤ君、その通りだ。あれは去年の、工科大学の入試問題の丸写しだ」
「え! じゃあ、須賀くんは、その入試問題をあの短時間で解いたってこと?」
リカが呆然としている。方城もしかり。
「解いた? あんなもの、四則演算(しそくえんざん)ができれば誰にだって解かる、単純な問題、下らんパズルだ」
「方城護! 四則演算ってわかるか? わかってねーだろ? +、-、×、÷、この四つだぞ?」
方城が呆けている、無理もない。
「そんな! それじゃあ小学生の算数じゃないの! さっきのは数学の、それも大学入試レベルの問題よ?」
リカが驚いて声を上げたが、須賀はそれを小さく制する。
「算数と数学に本質的な違いなんてない。無論、受験算数と純粋数学は全く違うものだと言っていいが、高等部一年でも大学入試でもどちらでもいいが、ユークリッド幾何学だとか一般相対性理論だとかが登場するのは、そんなものの遥か先の話だ。仲迫といったか? あの数学教師が得意げに書きなぐった問題、あんなものは少し方程式を組みさえすれば、自動的に答えがでる、ごく単純なものだ。そうだろう、アヤ君?」
「須賀恭介の言うとおりだ。数学ってのは、本質的な概念なり定理なりを得て、いかに体系的に構築することがが重要で、数学的対照を記述するのに適した概念や空間を定義したり、数学的事象をうまく表現したり定理を得たりすることが主な仕事で――」
「ちょっと待てぇ!」
アヤの言葉を、方城が叫んで止めた。
「須賀! アヤ! 日本語で喋ってくれ! 何を言ってるのか、さっぱり解からんぞ?」
「いやいや、方城護。日本語だってば。ねー、リカちゃん?」
リカはぶんぶんと首を横に振った。
「日本語じゃあないわよ! アヤ、須賀くん。あなたたちって……何者?」
「リカ君、俺はごくごく普通の高等部一年生男子、須賀恭介だ。それ以外の何者でもない」
「あたしは、ご存知、エディ・アレックス使いのアヤちゃんだぞ? スーパー強いぜ!」
リカ、続けて方城が椅子に落ちる。
「須賀、お前が数学が得意だってことはよーくわかった。いや! だから受験算数とかナントカ幾何学とか、そーいう話はもういいって! アレックス使いのアヤ? お前がスーパー強いのもわかった。わかったから、日本語で喋ろう。いやだから! 話聞けよ! 空間の定義とかそーいうんじゃなくって、日本語! 俺でもわかる内容って意味だよ!」
「方城くんに同意! 激しく同意! 高等部一年生になってまだ一ヶ月も経っていない、そんな私でもわかるような内容、それが私たちのいう日本語なの!」
リカと方城は、それぞれ力説したが、それがアヤと須賀に届いたかどうかは定かではない。
「何だか知らんが趣旨は理解した。努力してみよう」
「りょーかーい!」
両名から返事があった。どうやら伝わっていたらしい。リカと方城が安堵の溜息を同時に吐いた。
それから十分ほど経過しただろうか。二限目開始のチャイムと同時に、仲迫よりかなり若い男性教員が姿を現した。英語Ⅱ担当の、脇田(わきた)という教師である。保健室の主、露草葵(つゆくさ・あおい)と同年代か、少し上、その辺りだ。
この、脇田という教員の生徒間での評判は、微妙であった。まだ若く、容姿もほどほど。スポーツ関連の生徒に比べれば若干背が低いものの、その印象はそう悪くない。唯一の、そして致命的な要因は、その性格にあった。
簡単にいえば、脇田という教員は、典型的なナルシストなのだ。
授業の合間に、学生時代に世界各地を歩き回っただとか、住むのならマンハッタンよりもロスが快適だとか、カリフォルニアの空気は最高だったとか、そういった彼なりの自慢話をし出すのだ。英語に疎く、海外や旅行ということに興味を示す女子が1‐Cにもかなりいて、その女子と脇田との、授業とは全く無関係な雑談で終わることさえ、何度かあった。
こういった接点を持ち、教師が生徒と仲良くなることは良いことではある。ただし、物事には限度というものがあり、それを過ぎている脇田の授業内容は、主に男子生徒にとって芳しくなかった。当然、それが英語Ⅱ教師、脇田という男の評判と直結する。
女子と喋る云々は関係ないのだが、英語が苦手な方城にしてみれば、脇田という教師は天敵のようなもので、二限目、英語Ⅱが始まって五分もすると、方城は教科書に隠れるようにしつつ、ただただ時間が過ぎるのを待つのみだった。
リカこと橋井利佳子は、英語に関してはそこそこだったので、授業自体には特に何も思うところはなかったのだが、脇田という男性教師のナルシストぶり、女子生徒とのお喋りには、心底ウンザリしていた。若干、潔癖の気があるリカにしてみれば、授業中に女子生徒に自慢話をするなどということは、およそ考えられないことだったからだ。授業なのだから教科書にしたがって何かを教えなさい、それが教師の仕事でしょう、英語Ⅱ脇田を見るたびにリカはそう思っていた。
「……じゃあ、この文章を、委員長の橋井さん? 訳して――」
「わかりません!」
脇田の柔らかい口調に、リカが鋭く返した。およそリカらしくないその言動に、アヤが驚いていた。クラス委員である橋井利佳子のことをほどほどに知っているクラスメイトも同じで、教室がざわついた。
「おや? 橋井さん? どうしたんだ? 君は確か、英語の点数はかなり良かったはずじゃあないか? この英文を訳すくらい、ああ、なるほど!」
脇田が芝居がかった様子で自分の頭に軽く手を当てる。
「そうかそうか、こういう書き方だとイギリス訛りになるのか。堅苦しい表現だから、難しく見えたんだね?」
はははと笑い、脇田はホワイトボードの英文を少し書き直している。須賀敬介の右後ろに位置するアヤが、シャープペンシルで須賀の腕をつんつん、合図を送る。
「なあ、須賀恭介。あれのどこがイギリス訛りなんだ? ごくフツーのアメリカンだろう?」
須賀は、さあ? とゼスチャーして見せた。須賀にとってこの授業はどうでもいいらしい。
脇田が英文を書き換え、再びリカに「これでどうだろう?」と言ったのだが――。
「わかりません!」
クラス全員が驚いた。脇田の科白をかき消すように、リカが鋭く同じ言葉を返したからである。リカの英語能力と学力はクラスの殆どが知っていた。ホワイトボードに書かれた英文はほんの二行、彼女にそれがわからないはずがない。英語Ⅱ教師、脇田の表情が若干曇る。対処に困っているのだ。しばらく考えた脇田は、「じゃあ」といって、教室入り口近くを見た。
「方城くん、これを訳してみてくれないかな?」
教科書を盾にしていた方城の背中が跳ねる。リカのそれと同様に、方城の英語関係の学力もクラスメイトに知れ渡っていて、ホワイトボードに書かれた英文は、いきなりそのハードルを上げた。そもそもホワイトボードすら見ていなかった方城が、ぎこちなく立ち上がり、教科書を机に落としてその英文を見て、呆けた。
「While I am lying on the grass. Thy twofold shout I hear」
ホワイトボードに並ぶ英文。それは、最初に脇田が書いたもの、ではなかった。リカの「わかりません!」の後に、脇田によって新たに書き加えられたものだった。それが、方城を硬直させている。
「なるほど、そう来るか……」
須賀が険しくつぶやいた。
「えーと、アイ・アム……オン・ザ・グラス? グラスってコップの? えっと……」
方城が必死に、ホワイトボードの英文と格闘し、かろうじてわかる単語を拾っている。と、脇田が笑った。
「はは! 方城くんは確か、バスケットボール部だったよね? かなりの腕前だと先生の間でも話題だよ。ゆくゆくは世界に飛び立つんじゃあないかって。バスケットは六人だったかな? チームプレイでコミュニケーションが取れなければ、いくら君の腕が凄くても、試合には勝てないんじゃないかい? 英語は世界共通言語だよ。バスケットボールで世界を目指すのなら、この程度は理解できなきゃあ駄目だよ」
その「演説」は、方城を通して、1‐Cの主に女子連中に向けられたものだった。数人がなるほど、とうなずいている。しかし、苦手な英語と、人生を奉げているといっても過言ではないバスケを結びつけ、そして否定された方城は、頭が真っ白になっていた。棒立ちになり、口を少し開いたまま、ピクリともしない。須賀の眉間に皴(しわ)が入り、アヤが椅子から勢いよく立ち上がった。
「みどりなす草のうえに横たわって、二重のさけび声をわたしは聞く」
誰かが言った。しかし須賀ではない。アヤでもない。須賀が視線を巡らせると、橋井利佳子、リカが立ち上がっていた。
「緑なす草の上に横たわって、二重の叫び声を私は聞く」
リカが繰り返す。そして、脇田がリアクションを取るより先に続ける。
「ワーズワースの詩の一部ですよね? それ。私の英語の教科書にはワーズワースの詩は一編も掲載されていなんですけど、これってミスプリントなんですか?」
英語Ⅱの教科書を持ち上げ、二度ほど振って、リカはそれを机に叩き付けた。ばしん! と大きな音がして、クラスメイト数名が体をびくりとさせる。クラス委員、リカに視線が集まる。視線だとかクラスメイトの反応だとかを一切無視して、リカは自分の席から離れ、脇田のいる教壇、その先のホワイトボードに向かった。
「先生、わからない英文があるんですけど、訳してもらえませんか? 私、英語は苦手なんです」
早口でそういうと、手近の黒ペンを握り、リカが素早くホワイトボードに何やら書き出した。
「The path of the righteous man is beset on all sides with the iniquities of the selfish and the tyranny of evil men.
Blessed is he who in the name of charity and good will shepherds the weak through the valley of darkness.
for he is truly his brother's keeper and the finder of lost children.
And I will strike down upon those with great vengeance and with furious anger those who attempt to poison and destroy my brothers.
And you will know that my name is the lord when I lay my vengeance upon thee.」
黒い英文がずらりと並んだ。先のワーズワースの詩の一部とは全く違う、物凄い長文だ。ホワイトボードの半分ほどを占領している。書き終えたリカは、方城をちらりと見てから、脇田を睨み付けた。
「脇田先生、ロスで暮らしていたことがあったんですよね? こんなことも何度か言われたこと、あるんじゃあないですか? 私、英語はてんで苦手で、この英文をきちんと訳せないんです。意味、教えてもらえますか?」
脇田が、リカと、リカによって書かれた長文を交互に見て、ぽかんとしている。言葉が出るまでに一分ほどかかった。
「……え? あ、ああ、ロスには数ヶ月……。こういったことを言われた覚えは……ちょ、ちょっとない、かな?」
「こういったこと? あの、これってどういう意味なんです? 英語って世界共通言語なんですよね? これが理解できないと私、日本から一歩も出られないですけど?」
「い、いや、これだけ書ければ充分に海外で――」
「コミュニケーションが取れないと試合には勝てない、でしたっけ? ですよね? 方城くんも困ってますし、私も困ります。ざっとでいいんで訳して下さい」
須賀がにやりと微笑み、後方のアヤに言った。
「素晴らしい、リカ君のウルトラコンボだ。あの攻撃に対応できる奴が、桜桃学園にいるかい? アヤ君?」
アヤが須賀と同じく、にやにやしながら応える。
「いるわけねーじゃん! あたしと須賀恭介、あと速河久作くらいじゃねーの? ひひひ!」
リカの言葉が止まり、脇田は制止したまま。クラスが少しざわついてるが、脇田はそれには全く気付いていない。その額に汗が浮かんでいる。
「そ、そ、そうだね! コミュニケーションが取れないと、その、困るよね? えーと、あー、正確に……そう! 正確に訳さないと橋井さんは困るだろ! そうだろ! ちょっと長い文章だし、難しい表現も少しあるから、放課後、いや、数日後にきちんと訳して渡すよ! えーと……」
英語Ⅱ教師、脇田は自分の手帳に、ホワイトボードの長文を必死の形相で書き写し始めた。かなり時間をようしてそれを終えた頃、二限目終了のチャムが鳴り響いた。脇田が大きな溜息を付いた。
「じゃ、じゃあこの続きはまた。ああ、もうすぐテストがあるから、その、忘れないように!」
そんなことを言いつつ、脇田教師は1‐Cの入り口に走り、そして消えた。脇田が消え、チャイムの音に気付いたリカは、小さくうなずくと、自分の席ではなく、方城の机に向かった。須賀とアヤも駆け寄る。
「方城くん? 授業、終わったわよ? 座ったら?」
リカが、優しくつぶやき、方城は、ああ! と声を上げてから座った、というより、落ちた。アヤがリカに飛んで抱きついた。
「ナイスコンボ! リカちゃーん! 脇田にフルコンボ炸裂ー!」
「え? 何?」
「リカ君、見事だ。ワーズワースに対してあの切り替えし、ああいうのを必殺技とか呼ぶんだろうな。なあ、方城?」
「……何? 必殺? ワーズ? フルコンボ?」
方城は状況を理解できていないらしい、当たり前だが。方城は記憶を辿る。苦手な英語の授業が始まり、リカが何やら険しく喋り、脇田が自分を指名した。そこで脇田はバスケをするのならば英語は、と続けて――。
「さっきの奴、脇田とかいったか? 何だよあの教師! 何で俺がバスケやるのに英語が出てくるんだよ!」
ようやく、方城に感情が戻った。
「世界がどうとか言ってたよな? っつかー、バスケは五人だよ! コミュニケーションが取れないと試合に勝てない? 当たり前じゃねーか! バスケってのはそういうもんなんだよ! 言われなくても知ってるよ、そんなこと! だからバスケ部は全員練習してんじゃねーか! ワーズナントカなんて、キャプテンからもマネージャーからも、誰からも聞いたことねーぞ? NBAの選手か誰かなのか?」
何故かリカに向けて怒鳴っていた。
「ウィリアム・ワーズワース、昔のイギリスの詩人で、バスケットボールとは全く関係のない人よ」
怒鳴られているリカは、くすりと笑って簡単に解説した。
「補足するならば――」
須賀が続ける。
「脇田という英語教師の言っていたことも、方城、お前とは全くの無関係だ」
「……無関係? あいつ、脇田? バスケに英語がどうこうって――」
「それはだな、一種のカウンターだ、あいつなりのな」
須賀の説明は方城にはピンとこなかった。須賀が説明を足す。
「簡単な話だ。まず、脇田という英語教師はリカ君に、そのご自慢の英語力を披露しようとした。しかしながらリカ君はそれに応じず、何というのか、そう、防御に徹した」
うん、と方城がうなずく。
「リカ君の防御が完璧だったので、あの教師はプライドだかを損なわれた気分になり、それを晴らそうと、あえて英語が苦手な方城、お前を狙った。文面をワーズワースの詩に変えたのは、そうだな、奴が自分の知識を披露したかったからだろう。抜粋だが、方城に限らずあの英文を正確に訳すには、そこそこの英語力が必要だ。それを解かった上で、あの英語教師は方城にそれを向けた」
状況が読めてきた方城が、リカとアヤ、そして須賀の顔を順番に見る。
「ここまでだったら話は単純だが、脇田という英語教師はそこで、バスケの話題を持ち出した。当然、お前がバスケ部のエースだと知った上でな。得意なバスケと苦手な英語を組み合わせた、卑怯極まりない攻撃だ。方城が立ち尽くすのは当たり前だ。おそらく他の奴でも同じだろう。そういった脇田と方城を見たリカ君は……アヤ君?」
急に振られたアヤは一瞬止まったが、すぐに飛び跳ねた。
「リカちゃんのウルトラコンボ炸裂! 英語教師の脇田、秒殺!」
「そういうことだ」
どういうことだ? 方城、そしてリカが尋ねる。途中まで話についていっていたリカだが、アヤの科白、つまり結論のところが見えなかった。方城も同じくである。
「……心正しき者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐の行いによって行く手を阻まれる。
慈悲と善意の名において、弱き者を暗黒の谷から導く者は幸いである。
なんとなれば、彼は真に同胞の保護者であり、迷い子の救済者であるから。
我が兄弟を毒し滅ぼさんとする者に、我、怒りの罰をもて大いなる復仇を彼らに為さん。
我、仇を彼らに復す時に、彼らは我こそ主なるを知るべし……」
須賀がゆっくりと言い、ホワイトボードを指差した。
「ざっとだが、こんなところかな? リカ君?」
「……須賀くん! あれ、解かったの?」
「俺もいちおう、中等部で三年間、英語の授業を受けているんだ。大体の意味は解かるさ。まあ、細部はかなり間違っているかもしれんが――」
「間違ってる? 完璧じゃないの! 驚いた!」
リカがホワイトボードと須賀の顔を交互に見る。
「驚いたのは俺だよ。能力はともかくとして、いち英語教師に対して、あれだけの挑発的文章を叩き付ける、リカ君は博打打ちかい?」
一瞬止まり、言われたリカは、頬を火照らせた。
「あ! あれはその! ちょっと気分がイラついたというのか、何というのか……」
「あれー? リカちゃん、照れてるー? くくく! そんだけ方城護を守りたかったって、素直に言えよ、このー!」
抱きついたままのアヤの科白にリカは顔を真っ赤にして、視線をホワイトボードの英文と方城の顔に素早く左右させた。まさしく図星だったようで、およそリカらしくなく動揺している。
「俺を守る? リカが? あのさ、また話についていけなくなってきてる気がするんだが――」
「そういう意味じゃないのよ! ただ! 脇田先生が方城くんのバスケットボールを土足で踏みつけたみたいで、それで!」
「それであの英語教師を秒殺してやったと、そういうことだ、方城。リカ君に感謝しろ。まだ礼の一つも出ていないぞ?」
大体把握した、つまり細部は把握していない方城だったが、須賀とアヤの説明で、自分がリカに助けられたらしいと気付いた。
「えっと……いまいちよくわかんねーんだけど、リカ、ありがとな」
「いいのよ! 私が勝手に、自分の都合というのか気分というのか、それでやっただけだから!」
軽く頭を下げる方城に対して、リカは慌てふためいていた。リカが次にどう言葉を発すればいいのか迷っているうちに、チャイムが鳴った。昼休み、昼食時間だと告げるそれが、リカの頭の中で響いていた。
「ランチターイム! 今日のおべんとは何が入ってるっかなー!」
アヤが駆け出し、須賀が「もうそんな時間か」とつぶやきつつ自分の机に向かい、リカもくるりと反転した。状況が未だに飲み込めていない方城は、呆けたままゆっくりと弁当を持ち出しつつ、少し考える。
「よくわかんないんだが、リカ、ありがとうな?」
礼をしておけと言われた方城がもう一度言い、反転したリカが飛び跳ねそうになった。
「ほーひへや……そういえば、速河久作、大丈夫かー?」
口にミートボールをほおばったまま、アヤが言った。
「レイコが一緒だし、保健室なんだから大丈夫でしょう?」
方城が、ああ! と声を出した。今朝の久作の様子を思い出したようである。
「昼食を済ませたら、保健室? どこだか知らんが、そこに向かおう。速河と話もあるしな」
「須賀くん、保健室の場所知らないの?」
リカが少し驚いて言う。
「用事のない場所の位置までは、さすがに頭に入っていない。俺が保健室にいる姿なんて、想像できやしない」
「転んで怪我でもしたら、須賀くんでも保健室に行くでしょうに。まあ、そこに行くんだから、しっかりとその頭に入れておきなさいよ?」
リカが久しぶりに委員長らしく言った。
「保健室っていや、確か、高等部の保健の先生って、凄い美人らしいな? チームの奴がそんなこといってたよ」
「葵(あおい)ちゃんはスゲー美人さんだぞ! でもって、スゲーエロエロだぜー? いひひ!」
須賀は、アヤの情報網に感心したが、保健教師の姿までは思い描けなかった。まあ、かなりの容姿なのだろう、そんな程度だった。一同は昼食を済ませ、数学と英語Ⅱの授業のことや、両教師のことなどを喋りつつ廊下を歩き、「保健室」と書かれた場所に到着した。
「失礼しま――」
「葵ちゃーん! おじゃましまーす! ……ってををををいい!」
リカとアヤが先にその狭い保健室に入り、アヤが絶叫した。保健室奥のベッドに仰向けになって、頭が床に当たりそうな格好になっている露草葵。両手がだらしなく床に落ちて、胸元がはだけている。手前のベッドでは、速河久作と加嶋玲子ががっちりと抱き合ったまま、小さな寝息を立てていた。
「な、なんだこりゃ?」
「……頭痛がしてきた。速河とレイコ君からの、強烈なカウンターアタックだ」
つぶやく二人と、放心する二人。保健室の小さな窓の外は今日も晴天。飛行機雲が薄く筋を引いている。
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