『第六章~エマージェンシー』
ホンダXL50Sで心臓破りの坂を越えた久作は、普段より二十分ほど早くに桜桃学園高等部の駐輪場に入った。前日の夜、須賀敬介から一通のメールが届いたからである。
「重要な話がある。明日は少し早く登校してくれ。――K.SUGA」
須賀や方城とはずいぶん前にメールアドレスを交換していたが、須賀からメールが届いたのはそれが初めてだった。よほど重要なのだろう、そう思い、久作は筋肉痛と節々の痛みをこらえて早くに目覚め、XLを慎重に法定速度で走らせ、駐輪場に到着していた。昼食と飲み物、分厚いルーズリーフ、教科書が数冊入っただけのいつものリュックが、やけに重たく感じられた。フルフェイスをミラーにかけ、リュックを地面に置いて、久作はXLに寄りかかって深く深呼吸をする。それで疲労がいくらかマシになったような気がしたので、フルフェイスとリュックを持ち、1‐Cのある校舎に向けて歩き出そうとしたのだが、足は一歩動いただけで止まった。真っ赤なランブレッタ48が久作の視界に入ったのだ。ランブレッタ48、加嶋玲子も久作の存在に気付いたらしく、とことこと軽い音をたてて、ランブレッタと加嶋玲子が久作のそばにやってきた。ランブレッタをXLの隣に入れ、ジェットヘルをぽんと脱ぎ、桜色のブレザーとばさばさになった髪の毛を整える。
「おはよー、久作くん!」
今日も空は晴れ渡っており、加嶋玲子の表情もまた、澄み切っていた。元気がありあまっているのか、挨拶の声にちょっとした迫力さえあった。
「おはよう、レイコさん」
久作はというと、疲労が抜けていないので、声に力が入っていない。
「昨日の夜にね、須賀くんからメールが届いたの、ほら、これ」
真っ赤なケータイ。その液晶画面に表示されている文面は、久作宛てのそれと同一のものだった。普段、メールなど一切使用しない須賀が、レイコにまで同じ文面を送っている。おそらく、リカやアヤにも、方城にも送信しているに違いない。重要な話。これは須賀の、毎度の洒落ではなさそうであった。
「久作くん?」
レイコに言われて我に帰る。何かを考えだすと止まらない、久作の欠点の一つである。
「ああ、ごめん。須賀の奴、ひょっとしてもう教室にいるかもしれない。少し急ごうか?」
リュックを肩にかけ、フルフェイスを握り、二歩ほど進んだところで、久作の右膝がいきなり落ちた。
「久作くん! どうしたの!」
びっくりしたレイコが慌てて駆け寄る。自分でも何が起こったのか解からなかった。いきなり足から力が抜けた。倒れなかったのが不思議なほどである。
「大丈夫? もしかして、怪我とか? ほら、昨日の……」
昨日? そうか、と久作はそこでようやく気付く。昨日の夕方、体育館通路での佐久間準とのやりとり。筋肉痛と疲労の原因はあれだった。かなり体に無理をさせて、その反動が今日になって出てきているのだ、当然といえば当然であるが。
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけだから。さあ、教室に――」
驚いたことに、立ち上がって一歩目がまたいきなり落ちた。左膝が地面に激突し、フルフェイスがごろごろと転がった。
「久作くん! 全然大丈夫じゃないじゃない! やっぱりどこか怪我してるんじゃないの?」
久作は冷静だったが、レイコのほうが少々パニックになっていた。ともかく、教室なり校舎なり、どこかに入らないと話にならない。が、久作の両足はどうにも言うことを聞かない様子である。
「ごめん、レイコさん。悪いんだけど、肩、貸してくれないかな?」
「え?」
「怪我はない、大丈夫。ただ、ちょっと疲れていて、きちんと歩けそうにないんだ」
膝を突いてレイコを見上げ、その大きな瞳に向かって状況を伝える。青空をバックに、柔らかい髪の一部がちょこちょこと跳ねたレイコがこくりとうなずく。転がった久作のフルフェイスを重そうに持ち上げ、隣に腰掛けたレイコが、頭を久作の右脇にねじ込み、「よいしょー!」と声をあげた。いやいや。ちょっと肩を貸してくれればそれでどうにか歩ける。脇を抱えてもらわねばならないほどでは、あるか?
「うーーん! 重たいー!」
「レイコさん! 無理しなくていい! 少し手伝ってくれればどうにか――」
「がんばれ私ー! うーー!」
レイコが久作の体を引きずり、それに合わせて足を出し、二人は徐々に進み始めた。普段ならば一分そこそこでたどり着ける校舎に五分以上かけてたどり着き、久作とレイコは、一旦、校舎入り口に座り込んだ。
「はふー」
レイコは大きな溜息を空に向けてから、校舎入り口、階段上の硬質タイルの上で、足を広げて仰向けになった。
「……レイコさん、凄いね? あそこから、ここまで、かなりの距離があるのに」
「ぜはー」と再び溜息を付いたあと、レイコは首を久作に向けて傾け、にっこりと微笑む。
「陸上部! 私、中等部では陸上部だったんだよ? スタミナには自信あるのだー」
レイコが陸上部とは初耳であった。中等部では、ということは現在は違うのだろうが、これでいくつか解かった。最初、加嶋玲子を見たときに、華奢(きゃしゃ)で小柄、細長い足、というような印象だったが、華奢で細長い足、ではなく、陸上部の、種目は知らないが、それで鍛えられシェイプされたものだったのだ。いつ会話をしても元気なのは、性格もあるのだろうが、そのスタミナがゆえなのかもしれない。今、隣で地面に転がっているのも、自身が桜色のブレザーではなく、スポーツウェアでも着ている感覚だからなのだろう。
とはいえ、階段上という位置でそういう格好でいられると、誰かの視線がレイコの足だとかスカートだとかに行きそうで、本人がどう思っているかはともかく、あまりよろしくない。
「ありがとう、レイコさん。お陰でかなり回復したし、無事に校舎までたどり着けた、ところで」
ここで言葉を切り、レイコが起き上がるのを待つ。しばらくかかったが、レイコは仰向けから上体を起こし、階段に座るような格好になってくれた。
「ところで? 何?」
「え?」
レイコの姿勢にばかり気がいっていたので、肝心の会話を考えていなかった。
「えーと、ああ! そうだ! 教室に向かおう! 須賀だ」
「おはよう、レイコ、速河くん。どうしたの? 二人して早朝からこんなところに座り込んで?」
リカ、橋井利佳子が階段下から上がってきて、不思議そうに二人を眺めていた。
「おはよー! リカちゃん!」
「お、おはよう……」
対照的な挨拶に再び不思議そうな顔をしたリカ。しかしそれは大して気にしていないようで、鞄からケータイを取り出し、例の須賀の文面をこちらに向けた。
「これ、須賀くんからのメール。昨日の夜だったかしら? 須賀くんからメールなんて初めてなんだけど、よっぽど大事な話なのかしら?」
「それー! 私にも来たよ!」
リカの表情は若干曇っていたが、レイコは明るく返す。
「須賀は、冗談や何かでそういうことをする奴じゃない。きっと大事な用件だろう。教室に向かおう」
久作は立ち上がり、くるりと回転して校舎入り口に向かい、そしてよろめいた。
「速河くん? 何? どうしたの?」
姿勢を立て直そうと足を出して、それがまた落ちる。リカが慌てて寄ってきた。
「久作くん、全然大丈夫じゃないじゃん! リカちゃん、久作くん、凄い疲れてるんだって」
「疲れてって、いきなり倒れそうになるほどなの? ひょっとして、昨日の――」
「怪我とかは一切ない、大丈夫。単なる過労だよ」
リカが、昨日の佐久間との一件を持ち出そうとしたのでそれを制し、大丈夫と、膝をついたまま繰り返した。当然、全く説得力はないのだが。
「保健室、はまだ誰もいないし、ここでもうしばらく休んでいく? 歩けないんでしょう?」
「レイコさんに助けてもらって、休憩もそこそこした。机と椅子までたどり着ければ、後はどうにでもなると思う」
「リカちゃん左! 私が右ね?」
レイコが何事か言い、それにリカがうなずくと、久作は、まるで粗大ゴミのような格好で二人に引きずられていった……。
「なんだそりゃ? 速河? お前、どうしたんだ?」
「リカ君にレイコ君、両手に華とは文字通りこのことだな。他の男子が見たら石でも投げつけられるぞ」
「ガビーン! 速河久作って、リカちゃんとレーコ、二人と付き合ってんの?」
レイコとリカに助けられ、ようやく自分の椅子に到着した久作に、あれやこれやと言葉が降り注ぐ。
「電池切れの久作くん、重いよー?」
「だからアヤ、手を引っ張ったら、あなたはその相手と付き合うの?」
久作は、方城の「どうしたんだ?」という科白にだけ応えた。
「運動不足がたたった。ちょっと運動しただけで全身筋肉痛で、まともに歩けやしない。昨日の方城の練習を見て、つくづく痛感したよ」
「昨日? 昨日は確か、基礎を延々とやってただけだぜ?」
方城の、華麗なレイアップが脳裏をよぎる。
「ああいうことの積み重ねが、方城を方城にしているんだ。僕にはそういうものがない。だから、こんな、ていたらくってこと」
「こんなって、速河。確かお前、昨日は体育館に来る前に佐久間とトラブってたんだろ? アヤがそんなこといってたよな?」
「待て方城護! 今、お前、あたし呼び捨てにしやがったなー!」
橘絢がぐいと前に出て、方城を下から睨みつける。鋭いアイラインがカッターナイフのようだ。
「いや、だって、お前、橘絢だろ? ……ほら、やっぱアヤじゃねーか? なあ?」
「アヤじゃなくて、アヤちゃんだ! リカちゃん軍団の雑魚扱いしてたら、アレックス・フルコンボで瞬殺すっぞ!」
「アレックス? なあ、委員長。俺、また何か間違ってるのか? アヤのいってることがさっぱり解かんねーよ」
噛み付かん勢いのアヤを半ば強引に押しのけ、リカが溜息を一つ。
「もういっそのこと、アヤ様とでも呼んだら? それよりもね、方城くん。私、橋井利佳子。委員長なんて名前じゃないわよ?」
どうやら、今朝の獲物は方城らしい。久作は方城の無事を小さく祈り、疲弊した体を椅子にあずける。
「アヤ様? 委員長? ちょっと待ってくれ! お前らリカちゃん軍団と俺って、まあまあ親しいよな? 友達? そんなかどうかはともかく、他の奴らよりは話が通じるよな?」
「うむ」とリカ、アヤがうなずく。
「で、こないだ速河が名前がどうだこうだって話してたじゃん? その時にお前ら、下の名前で呼べって、確かそう言ったよな? なあ、速河?」
我関せず、小さくうなずき、視線は窓の外。
「それで、えーと、委員長が橋井利佳子、こいつが橘絢、あっちが加嶋玲子。委員長って呼び方は、そうか、すまん。リカコ? リカ? どっちかでいいのか?」
「速河くんと一緒で、リカでいいわよ。それより――」
「方城護! 今、あたしのこと「こいつ」って言っただろ! だーかーら! 雑魚じゃねーって!」
アヤの左フックが方城の脇腹を捉えた。なかなかのスピードだ。体重を乗せていれば方城でもぐらついたかもしれない。
「! ゲフッ! ちょ! 待てって! いきなり殴るか普通?」
「アレックスの左、どうだ! 思い知ったか! 方城護! これがアヤちゃんの実力だ!」
バスケットボールに全てを奉げている方城が、3D格闘ゲーム、ミラージュファイトのキャラクター、エディ・アレックスを知るはずもなく、しかし、アヤちゃんの実力とやらは知らされたようだ。
「誰だよアレックスって? それよりさ、橘絢はアヤだろう? で、加嶋玲子はレイコ。委員長は、リカ。リカ、アヤ、レイコ、でリカちゃん軍団……ほら見ろ! 何も間違ってねーじゃねーか!」
それまで、にやにやと傍観していた須賀が、ゆっくりと口を開いた。
「要するに、敬称が抜けている、ただそれだけだ、方城。そうだろ? アヤ君?」
「須賀恭介の言うとおり!」
一瞬ぽかんとした方城。
「敬称? あの、さん、とか、様とか、殿とかってあれか?」
アヤ「様」が大きくうなずいた。
「こいつを……だから殴ってくんなって! こいつを「アヤ様」って呼べってか? だったら、リカ様にレイコ様?」
「リカ様って……リカでもリカちゃんでも、何でもいいわよ、私は」
「私は、レイコ! レイコちゃん? どっちでもいいよー!」
残る一人はというと……。
「アヤ様! アヤちゃん! アヤ殿でもいいぞ?」
「アヤちゃん? ……あのな、俺はそーいうの、ガラじゃねーんだよ。リカ、アヤ、レイコ、呼び捨てで失礼? すまんが俺はそういう奴なんだよ!」
力説する瞳に涙でも浮いていそうだった。アヤのいうことももっともだが、方城にだって彼なりの都合というのか、そういったものがある。さて、どちらが折れるのやら。
「むーー!」
アヤが考え込んでいる。彼女にとってこれは、なかなかの問題らしい。方城は左右どちらかからのパンチを警戒しつつ、アヤをじっと見つめている。
「よし! んじゃ、「エディ・アレックス使いのアヤ」これで許してやろう!」
話があらぬ方向に飛び、久作はがくりとうなだれた。
「……何使い? 何の話だ?」
「エディ・アレックス! 中国拳法の達人で、チョー強い奴だよ! それ使いのアヤ!」
どこから始まったのか定かではないが、「エディ・アレックス使いのアヤ」、これで話は一段落した。方城がふらふらになって、手近の椅子に座り込んだ。その気持ちは痛いほど解かる。経験者である久作は、窓の外を眺めつつ思った。
「須賀くーん! メール! メール!」
アヤ「様」の件ですっかり忘れられていた本題。レイコが真っ赤なケータイをぶんぶん振り回しつつ言い、久作を含め、全員が我に帰る。須賀を除く各自がそれぞれのケータイを開いて、例のメールを再確認した。
「重要な話がある。明日は少し早く登校してくれ。――K.SUGA」
須賀の表情が、若干険しくなった。ゆっくりと辺りを見回し、ふむとうなずき、ささやくように言った。
「かなり時間を労したが、全員が早くに来ていてくれたから、まだ他の連中は少ない、大丈夫だろう」
やけに慎重な切り出し方だった。他の連中とは、つまり、クラスメイトのことか? まだ十人といない。名前は知らないが、二人組みが雑談している。他は、退屈そうに机に肘を付いているだけだ。
「これを見てくれ。廊下に貼り付けてあったものを拝借してきた」
そういって須賀が持ち出したのは、一枚のポスターだった。A1サイズ、594メートルメートル×841メートルメートル、かなり大きい。業務用印刷機でプリントアウトしたのであろうそれは、ピンクやオレンジといった鮮やかなもので、ひときわ目立つ角の丸まった大きなフォントで、こう書かれてあった。
「ミス桜桃学園開催! アイドルを探せ!」
久作の思考が濁る。須賀のメールと態度に対して、そのロゴは、明らかに不釣合いだったからだ。須賀のメールには確か「重要な話がある」とあったはずだ。それと「ミス桜桃学園」という単語が、噛み合わない。須賀の意図するところが掴めず、久作は思考の海へと潜った。
「ミス桜桃って、まだ四月の終わりなのに、これやるの?」
最初に口を開いたのは、リカだった。口調も表情も険しく、どこか棘があった。
「何が「アイドルを探せ!」だ。馬鹿じゃねーのか? こいつら?」
方城が繋ぎ、続けた。
「ミス桜桃って、あれだろ? 桜桃学園の中等部から高等部まで全部ひっくるめて、女子集めて、投票だかでどいつが一番美人かとか、そーいう奴だろ? 中等部の時にもあったよな? その時のマネージャー、女子のな、そいつがこれがどうこういってたから覚えてるよ。こーいうの、ミスコンとかって呼ぶんだっけ?」
方城の丁寧な解説で久作は、このミス桜桃学園というものがどういったものなのかを把握し、そして、須賀の表情の理由にも気付いた。
「リカちゃーん? これって、あたしも入るの?」
アヤが不思議そうな顔をして尋ねる。レイコも、ぽかんとしている。おそらく同じ質問をしたかったのだろう。
「入るというより、無理矢理入れさせられるってところかしら? ねえ、方城くん?」
「そうだな。確か、うん、思い出してきた。投票箱と集計用紙みたいなのが作られて、男子とか女子とかが用紙に、ミス桜桃候補を好きなように書き込んで、それをナントカ委員会みたいなのが数えて、そんな感じだったはずだ。リカもだけど、アヤもレイコも、当然、どっかの誰かのミス候補の一人ってことにされるよな?」
中等部からずっとバスケ部で、学年を問わず色々な人物と接してきていた方城だからか、かなり詳しいようだ。しかし、詳しいわりにその表情はリカと同じく、険しい。
「えー? じゃあ何? あたしがどっかでミラージュやって昼寝してマンガ読んでて、気付いたらミス桜桃学園でした、なんてことがあんの?」
「ある」
須賀がきっぱりと言い切った。アヤはその様子を頭に浮かべているのか、難しい表情で思案し、そして言った。
「そのミスってさ、賞金とかなんか、あんの?」
「賞金? 賞状とか、副賞のグッズとかー?」
アヤとレイコが、未だに不思議そうな顔をして尋ねる。相手は、方城とリカだった。
「賞金? いや、これって確か生徒主催のやつだから、現金はないだろう? 賞状は、どうだろう、あるんじゃねーの?」
「副賞は、ミス桜桃学園っていう、名誉よ」
アヤとレイコが沈黙した。リカが須賀よろしく吐き捨てるようにいった「名誉」という言葉に、二人共反応したようである。沈黙が一分ほど。アヤが、何故かおそるおそるといった口調で、方城に尋ねた。
「あのさ、方城護。このー、ミス桜桃学園? これにもし、あたしがなったら、どーなんの?」
「桜桃の男子全員にもてまくる。ついでに、アヤ様ファン倶楽部なんてのも出来るだろうな」
当然だ、そんな風に方城は返した。
「アヤちゃんファン倶楽部ー?」
レイコが少し明るく言ったが、アヤの表情がどんどん険しくなっていくことには気付いていないようだった。リカもまた同じくであり、方城は軽蔑の眼差しでA1ポスターを睨んでいる。それまでずっと沈黙していた須賀が、改めてそのポスターの、タイトルロゴを指差した。
「ミス桜桃学園開催! アイドルを探せ!」、そう表記されてある。
「昨晩のメール、重要な話というのは……これだ」
「……リカちゃん! これってメチャクチャじゃん! あたしの人権無視かい! 男子にもてるて、知らない奴にストーキングで追い掛け回されるってことじゃん! ファン倶楽部? キモいってば! なんだこれ? ミス桜桃学園? ミスってんのはテメーじゃんか!」
アヤが飛び跳ねて叫んだ。一方のリカは、嫌悪感だか何だか、溜息をついていた。
「桜桃にはあるのよ、こーいうのが。アヤは高等部からの編入だから知らないでしょうけど、このミス桜桃って、中等部から高等部まで、つまり六年間、ずーっと付いて回るの。中等部と高等部の男子を合計したら何人になるのか知らないけれど、誰かがやってるこれって、文化祭の次くらいに大きな行事なのよ。ここ、桜桃学園ではね」
と、須賀がその言葉を継いだ。
「この大規模行事は主催こそ生徒だが、影響力にかなりのものがある。中等部から高等部までという膨大な人間の中から選ばれた数名の女性、つまりミス桜桃だが、彼女らの容姿が相当水準以上になるのは必然で、もてるだとかいう次元ではなく、芸能界やモデル業界、そういったところに半ば直結している。これらに憧れる女性がいることはごく健全で、そういった女性に憧れる男性もまた健全ではある。しかしだ……」
一旦言葉を切り、傍らの飲料水を軽く含み、須賀は続ける。
「芸能界やモデル業界に一切興味のない、健全な女性にしてみると、このミス桜桃学園という行事は、とても危険だ。本来、ミスコンテストと呼ばれる企画はオーディションへの立候補者から選ぶというシステムで、自薦他薦を問わない、といったコピーで主催される場合もあるが、ミス桜桃はアンケート用紙による他薦だけだ。アヤ君が言ったように、完全に人権を無視している。健全だかどうだかの男性によって無作為に選出され、強引に大衆の前に突き出され、あなたは今日からミス桜桃ですと言われ、全く興味の無い世界を見せられ、そして有象無象に囲まれる。そういった状況下で起こり得る事態は小さなものから大きなものまで、それこそ全てだ。ならばそれを監視し、管理運営する集団なりがあるのが当然だが、生徒主催のミス桜桃には集計と発表をする主催委員会以外に何もない。学園管理下での行事であれば、あるいはそういった危険要素を排除できるのかもしれないが、主催する生徒も参加する生徒も皆、「この学園の一番の美人は誰だろう?」といった程度の認識でしかなく、一種のお遊びだと完全に割り切っている。中等部でも高等部でも構わないが、学生がそういったことで遊ぶことは否定しないが、物事には必ず原因と結果、因果関係、そして周囲への影響というものがあり、これらを忘れて、お遊びで人権無視の行為を行うなんてことは、もはや犯罪だ」
難しい単語が並んだが、須賀がゆっくりと、丁寧に噛み砕くように喋ったので、久作を始め、全員に須賀の言わんとすることが伝わった。そして、それを聞いた全員が、ネガな表情となり、誰かがごくりと生唾を飲む音が聞こえた。須賀が、あえてそのミス桜桃学園を、大袈裟に表現していることは久作には明らかだった。極端に表現することにより、その実体を解かりやすくする、という単純な手法である。しかし、いささかやり過ぎかもしれない、そう久作が思ったのは、リカちゃん軍団のアヤとレイコ、この二人が明らかにおびえた表情だったからだ。
リカが須賀の説明に対して、半ば同意といった態度だったのは、おそらくリカがこのミス桜桃学園のことに詳しく、また、過去に何かしら関係があったからかもしれない。方城とのやりとりもある、おそらく何かあったのだろう。重要な話、確かに。これはかなりの話だ。
だが、そこで久作は思った。これに対して、須賀恭介が何らかの対処法を考えていないはずはない、と。須賀は、危険だ、注意しろ、それだけで終わるほど浅い男ではない。先の長科白は、あくまで状況の説明であって、本題ではないだろう。肝心なのはそこだ。ミス桜桃学園の危うさは全員が理解した。その先だ。ならばどうするのか? 須賀はどのような戦略を描いているのか、肝心なのはそこだ。どっぷりと思考の底にいた久作が、浮上してくる。
「須賀、ミス桜桃学園。これに――」
立ち上がろうとした久作だったが、唐突に両膝から力が抜け、教室のリノリウム床に激突した。
「速河?」「どうした!」「速河くん!」「久作くーん!」「速河久作? 何だ?」
皆が口々に久作に尋ねる、当然、心配してくれて。久作は、かなり長い時間思考の中にいたので、自分の今日の体調のことをすっかり忘れていたのだ。椅子に座っていくらか回復するかと思っていたのだが、結果は見ての通りである。机に手をかけて立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。誰かが手を貸してくれて、ようやく椅子に座れた。見るとそれは方城だった。
「ああ、方城、ありがとう。もう大丈夫だ」
「速河、どうしたんだ? 調子悪いのか? ……ああ! 昨日の佐久間か! お前、どんな無茶したんだよ! 運動不足とかそういうレベルじゃねーぞ、それ?」
はっ、と声を上げたのはアヤだった。
「佐久間準秒殺の、ウルトラコンボ! 速河久作はあれで体力ゲージ使い果たしてんだよ!」
「ウルトラって、速河がこんなになるくらいの運動量って、どんなだよ! ってか、そんなことはいいから早く保健室に行け! このクラスの保健委員って……」
方城はリカを見て、リカはレイコを見る。
「保健委員? 私! レイコちゃん!」
レイコが挙手した。
「いや、大丈夫だ。それより須賀の話が――」
「速河、今は保健室が優先だ。安心しろ、それもここに入っている」
須賀は自分の頭を指差した。
「レイコ? お前じゃ速河を保健室まで連れて行くのは無理だから、俺が運ぶ。その後の処置なんかは任せていいか?」
方城は素早く言い、レイコはこくこくとうなずく。
久作は自身に辟易していた。
昨日の方城、今朝のレイコとリカ、そして今、方城とレイコ。周囲の人間に頼ってばかりだ。一人で立つことすら出来ない。なんて役立たずな人間だ、そんなことをぐるぐると考えつつ、方城に半ば抱えられるようにして保健室のベッドに横になった。始業チャイムが聞こえ、「後は任せたぞ」という方城の科白が聞こえ、無音の保健室のベッドで久作は放心状態だった。保健室の女性教師とレイコが何やら話していたが、内容までは聞き取れず、しばらくしてその女性教師は保健室から姿を消した。
小さなベッドだったが、横になると随分と体が楽だった。力を抜いて、体躯をベッドに預ける。目を閉じると、それまで加速度的だった思考が徐々に緩やかになっていった。複雑に見えた状況がどんどん簡略化されてゆき、幾つかの単語、科白が浮かんだ。
「桜桃のスコアリングマシン」、華麗なノールックパスを出した方城護。
「はは、俺がプロなら、本物のプロはコンピュータさ。俺のは我流だ」、須賀敬介とのチェス。
方城と須賀、この二人になら、かなりの難題であっても安心して預けられる。
「がぶがぶクリームソーダ、1,5リットル! ランブレのガソリンのお礼でーす!」
「レイコ、会話が滅茶苦茶。意味通じないって、それじゃあ」
「スクータってクリームソーダで動くか? いやいや動かねーってば、ははは!」
リカちゃん軍団、可愛らしくて楽しい三人だ。喋っていて心地良い。
そんな三人に対して、
「速河! お前さ……死ねよ!」
昨日の夕方、体育館前の通路で佐久間準がそう怒鳴った。佐久間準という男のことは詳しくないが、リカちゃん軍団の傍には置けない。だからこそ、
「速河久作のウルトラコンボ炸裂で佐久間準、秒殺! リアル・ヴァイなんだよ、速河久作ってば!」、アヤだったか。体にかなりの無理をさせて、佐久間を追い払った。
「重要な話がある。明日は少し早く登校してくれ。――K.SUGA」
「こんなって、速河。確かお前、昨日は体育館に来る前に佐久間とトラブってたんだろ? アヤがそんなこといってよな?」
佐久間のような人間が再び現れる可能性、それが、ミス桜桃学園という行事にはある。須賀の言うとおり。個人、数人レベルのトラブルならばどうにでもなるが、それで済むのか。何事かがまた起こったとき、対処できるか。一人でまともに歩くことさえできない自分が……。
「久作くん? 寝てるー?」
不意に声をかけられ、久作はぎこちなく振り向いた。真っ赤なランブレッタ48、加嶋玲子が不安そうな顔でこちらを見ていた。
「がぶがぶクリームソーダ、1,5リットル」
レイコには聞こえないように呟いた。しばらく考えたが、特に何も浮かばなかったので、今度は聞こえるように口にする。
「レイコさん、さっきの須賀の話だけど……」
「うん?」
「どう思う?」
あまりに漠然とした問いかけだったが、思考の鈍った久作からはその程度の言葉しか出なかった。すこし間があり、レイコが小さく、明るく応える。
「須賀くんの話は難しいからよくわかんないけど、アヤちゃんが危ないって言ってて、リカちゃんもそうだったから……少し怖い、かな?」
「難しく考えるのは、須賀にでも任せよう」
レイコと、そして自分に対して久作は言った。
「危ない目にあっても、その時は方城が助けてくれる、大丈夫。あいつのダンクを喰らえば、佐久間みたいな奴は一撃だ」
レイコに向けられた、自身に対する言葉。それが現時点での答えだった。方城と須賀に任せる、そう考えてみると、ややこしいことがとてもシンプルになった。何事も一人でこなすべきだとは今でも思うが、そこに、臨機応変さを加えなければ、下らないことに巻き込まれて対処できなくなる。ノールックパスが出来ないのならば、それが出来る方城にボールを出せばいいし、大勢に囲まれたなら、須賀の戦略通りに動いてチェックメイトを狙えばいい。そしてもし、方城や須賀、リカさんやアヤちゃん、レイコさんに対して「死ね」と怒鳴る奴が現れたなら、合気道と空手の達人、ビリー・ヴァイのウルトラコンボで秒殺してやればいい。つまり……。
「今、僕がやるべきことは、ぐっすりと眠ることだ。体が動かないんじゃあ話にならない」
最初はレイコに向けて喋っていたはずだが、気付けば単なる独り言だった。その独り言に、レイコが応える。
「うん! 寝よう! ぐーすか!」
どん、と音を立てて、レイコが久作の横に倒れこんできた。小さなベッドが軋む。久作とレイコとの距離は、一センチあっただろうか。香水だかシャンプーだかの香りがした。心臓がばくばくとやかましいが、それも仕方が無いだろう。リカちゃん軍団の一人。真っ赤なランブレッタ48、かぶかぶクリームソーダ、そんな加嶋玲子が隣で横になっていて、動揺しない人間などいやしない。
レイコと背中合わせで、保健室のベッドで横になりつつ半ば硬直していた久作だったが、疲労のせいか、心臓はすぐに静かになり、思考速度も鈍り、開いていたはずの目が暗くなり、眠った。レイコが久作より先に寝息を立てていることをかろうじて察知したが、それが何なのかを考える暇もなく、久作は深い眠りに入った……。
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