『第五章~ウルトラコンボ』

 その日、部活や倶楽部に所属していない久作は、授業の全てが終わっても駐輪場へは向かわず、体育館へと歩いていた。単なる思い付きだったのだが、方城のバスケの練習を見物しようと思ったからである。

 のんびりとした歩調で体育館までの距離を詰めていると、誰かが声をかけてきた。放課後、どこにも所属していない久作が誰かに呼び止められることなど予想していなかったので、声の主を探すのにしばらくかかった。視線を四方に散らし、体育館方向の通路の柱にもたれかかる人物を見つけた。久作よりも若干上背のある男子。もう二歩ほど進み、それが佐久間準だと解かり、久作は少し驚いた。佐久間は確か、野球部とサッカー部を掛け持ちしている、忙しい人間だったと記憶していたからである。

「速河」

 佐久間が繰り返した。その声色に何かしら妙なものを感じたが、あまり意識せず、佐久間と、体育館との距離を縮める。体育館の開け放たれた入り口からボールの跳ねる音がかすかに聞こえた。

「佐久間?」

「呼び捨てか……まあいい」

 呼び捨てにしたのは単にクラスメイトだからという理由で、それ以上の意図はなかったが、そこに佐久間は何かしら思うところがあったようだ。

「速河、確かお前、帰宅部だったよな? どうしてこんなところにいる?」

 佐久間準の科白には、久作の意識に引っかかるものがあった。帰宅部などという部活は存在しない。どうしてここにいるのか問われる筋合いなどない。佐久間のそれは何気ない一言だったが、久作の思考を震わせた。

「どうしてって、別に。ただ、バスケ部の見学でもしようと思っただけさ。君こそどうしてこんなところにいるんだ? 部活で忙しいんだろう?」

 あえて声色を軽くした。佐久間の返答、態度が何かを予感させたからである。

「部活は、まあ忙しいが、それはいい。ちょっとお前と話がしたくてな」

 やはりである。話がしたい? 部活に所属しない久作と放課後に会話をしようと思えば、場所がここである理由は一切ない。明らかに不自然だ。話だけなら始業前でも休み時間でも、いくらでもある。放課後の体育館へと続く通路、これほど会話に不釣合いな場所はない。久作の思考がぐんぐんと加速する。

「話? 何かな?」

 あくまで軽く返すが、久作は既に臨戦態勢に入っていた。佐久間が柱から体を浮かし、埃をはたくようなしぐさをした後、体育館へと続く通路の中央にゆっくりと移動し、久作を若干見下ろすような姿勢で立ちふさがった。両手はポケットに入っている。

「速河、お前、運動関係はなかなか出来るほうだろうに、どうして部活に入らない?」

「プライベートで色々と忙しいんだよ」

 本題ではない、すぐに解かる。あくまでけん制だ。佐久間準は「久作の正体」を探ろうとしているのだ。そのためのけん制だが、それにしては陳腐な科白だった。

「プライベート? 例えば……橋井だとか加嶋だとかか?」

 やはりそう来たか。前日だったか、方城が言っていた。

「リカちゃん軍団ってさ、あの、ほら、ミス桜桃学園、あれのベストスリーなんじゃねーか?」

 同じ日にアヤ、橘絢がこうも言っていた。

「速河久作軍団! あんたら、女子の間じゃチョー有名なんだぜ? 知ってた?」

 二人の何気ない科白に、その意図とは違う反応を示したのは、久作と須賀恭介だった。違う反応とはつまり、今のような状況のことである。

「速河、リカちゃん軍団と仲良くするのは構わないが、少し注意しておいたほうがいい。彼女らは目立つ。そして残念ながら俺たちも目立っているらしい。下らん連中が山ほどいる、学年を問わずにな。神経質になることはないだろうが、それでも注意が必要だろう」

 須賀恭介の忠告は、久作が思っていたことを簡潔に表現しており、そして今、目の前に、佐久間準というクラスメイトが立っている。

「どうした速河? そこでだんまりってことは、図星か?」

「何? 図星? リカさんやレイコさんは関係ないよ。話ってのはそれかい? だったら終わりにしよう。僕と彼女たちは無関係だ」

 再び歩き出そうとした久作に、佐久間が……怒鳴りつけた。

「何が無関係だ! 速河! いや、お前だけじゃない。方城と須賀だったか? お前ら、そんなに目立ちたいのか!」

 佐久間準の激怒とは裏腹に、久作は冷めていた。須賀の言ったように、こういう連中がいる、当然そんなことは知っていた。佐久間準がもう少し違う態度であれば、久作の反応も違っていたかもしれないが、佐久間のそれがあまりに典型的だったので、冷めてしまったのだ。下らない、こんな下らないやりとりに何の意味がある? そして佐久間準は久作の思考から消えた。

「目立ってるかどうかなんて知らないし、正直、どうでもいい。体育館に用事があるんだ、じゃあ」

 佐久間と、通路の柱の中間めがけてそんなことを言い、久作は歩き出した。

「速河ぁ!」

「おーい、速河久作ー」

 二つの声が同時に聞こえ、右足のすね辺りに激痛が走った。佐久間の右足が久作のすねを捉え、振り抜かれていた。二つ目の声が、アヤちゃんこと橘絢のものだと気付くのに、数秒かかった。佐久間の放った、サッカーで鍛え上げられた右足を、かろうじて後ろに逃がせたのは幸いであったが、重心がブレて、姿勢を立て直すのに少しかかった。

「速河久作? さ、佐久間準! あんたら、何やってんの!」

 アヤが叫ぶようにして駆けてくる。彼女は確か、コンピュータ研究部だとかいうところに所属していたはずで、それは体育館前通路とはかなり離れた位置にある。そこのアヤがここにいるということは――。

「何だ速河! お前、スポーツ万能なんじゃなかったか? 俺は軽く足を振っただけだぞ!」

 スポーツ万能は方城であり、自分のことではない。いや、それはどうでもいい。アヤだ! この場面に第三者がいることは特に問題ではないが、それが彼女となると話は全く違う。リカちゃん軍団を、この下らない佐久間とかいう男の都合に巻き込むのは、絶対に避けなければならない。ならばどうする? アヤを連れて逃げるか? 体育館にでも飛び込めば教師の一人や二人はいるかもしれない。そうすれば彼女は――。

 佐久間の左足が、久作の腰の辺りに目掛けて飛んでくる。こちらの都合はお構いなしだ。腰を落として重心を下げ、佐久間の左足、くるぶし辺りに右肘を入れ、上に大きく叩き上げ、右回転に体をくねらせ再び佐久間と対峙した。

「……ウソ! ビリー・ヴァイの受け流し? ……さ、佐久間準! お前、暴力反対だ! センセー呼ぶぞー!」

 アヤが叫んでいる。これは非常にまずい。一緒に逃げるどころか、完全に巻き添えにしてしまっている。

「アヤちゃん! 体育館に入れ! 急いで!」

 考える時間はなかった。体育館に教師はいなくとも、方城がいる。仮に佐久間準がその矛先をアヤに向けたとしても、方城ならばどうにかなる。今はこれしか思いつかない。

「何でよー! 速河久作! あんたはどーすんのよ!」

 僕がどうするかなんてことはどうでもいい。今、肝心なのは、佐久間とアヤとを物理的に切り離すことだ。それには体育館にいる方城に――。

「やかましいぞ! 橘! なんだお前! ミラージュファイトの続きでもやろうってのか!」

 最悪だ。アヤが、3D格闘ゲーム、ミラージュファイトのキャラクター、エディ・アレックスのように立ち回れるのであれば問題はないが、そんなことは絶対に無理だ。相手は佐久間準、スポーツ万能のオールラウンダー。片や、コンピュータ研所属のゲーマーの女の子。完全にキレている佐久間がアヤに手を出せば、骨の一本や二本では納まらないかもしれない。どうする! 考えろ! 思考をフルスロットルさせろ! そのための脳みそだろう!

「何ぃ! マイケル・ジョーのファイヤークラッシュでボコられるお前なんかに、このアヤちゃんが負けるかー!」

 ……ちょっと待て。何だ? 今、誰が、何と言った? マイケル・ジョー? ファイヤークラッシュ? 久作の思考が唐突に乱れる。声の主は、橘絢、アヤだ、間違いない。問題はその科白だ。

「お前なんかに、このアヤちゃんが負けるか」? 冷静になれ、久作は自身の脳髄に怒鳴りつける。

 ミラージュファイト、そんな名前の3D格闘ゲームがある。なかなかの評判で、プレイしていない学生はほぼいない。僕こと速河久作もその一人で、ビリー・ヴァイというキャラクターで遊んだことがある。腕前はまあまあだろうか。橘絢、アヤは、そのゲームのキャクターの一人、中国拳法の達人であるエディ・アレックスを自在に操り、近所ではほぼ負け知らず。佐久間準、あいつもミラージュファイトをやっていて、誰だかしらないがキャラクターを使っていて、マイケル・ジョーというテコンドー格闘家に苦戦しており、そのキャラクターの必殺技の一つであるファイヤークラッシュで連敗している。

 ……いくらか冷静さが戻った。

 数秒だったか、深い思考の中にいた久作が現実世界に戻ったとき、アヤが体育館通路に辿り着いていた。冷静さを取り戻した久作はその構図を見て、度肝を抜かれる思いだった。スポーツの類では他を圧倒する佐久間準と、リカちゃん軍団の一人、小柄で派手なアヤ。この二人の距離は、三メートルとない。危険どころの騒ぎではない! 体育館まで二十メートルはゆうにある。今からアヤを抱えて走って、佐久間から逃れられる保障は殆どない。

「さあ、どうする? 速河久作!」

 声に出した。高等部一年生になってまだ一ヶ月と満たないが、いきなりの窮地(きゅうち)だ。これを乗り切る手段は……。

「お前なんか! アレックス仕込みの八卦掌(はっけしょう)でベコベコにしてやるー!」

「橘! お前、頭おかしいだろ? 何がアレックスだ! やってみろよ!」

 もう考える時間はない。

「アヤちゃん! 下がって!」

 アヤに向けて叫び、続ける。

「おい! 佐久間準! 相手が違うだろう! 僕が気に入らないんだろう! 女の子相手に何をしようっていうんだ? 来いよ!」

 ふう、と息を吐き、全身の力を一旦抜く。再び重心を落とし、かかとを浮かし、左手に構える。格闘ゲーム、ミラージュファイトのキャラクター、ビリー・ヴァイと同じ構えである。

「ああ? 速河? お前、俺とやろうってのか!」

「そんなつもりは微塵(みじん)も無かった。でも状況が変わった、仕方が無い」

 完全に冷静さが戻った。最初に蹴られた右足の痛みも、もうない。アヤが何事かを叫んでいたが、聞こえなかった。

「速河! お前さ……死ねよ!」

 佐久間準の右ストレートが久作の顔面に向けて放たれる。野球部掛け持ちだったか、それをまともに喰らえばおそらく鼻の骨が折れ、そのまま気絶するだろう。久作はその右ストレートに対して、左すり足で前に出て、上体をかがめる。

 右ストレートを左肘で打ち上げ、同時に右足を大きく前に、佐久間準の両足のすぐ手前に踏み込む。右構えに変わる。踏み込んだ力を右肘に伝え、佐久間のみぞおちに撃ち込み、そのまま右手掌底(しょうてい)で顎を撃ち抜き、続けて左足を後ろからくるりと一回転させ、その勢いのまま、右掌底で浮いた頭のこめかみに左肘を叩きつけた。

 時間にして十秒ほどだっただろうか。久作の全身から汗が吹き出る。大きく深呼吸をすると、肘などに鈍痛がした。

「死ね」と叫んだ佐久間準は……久作の三歩ほど前方に倒れていた。一瞬、ヤバいと思ったが、佐久間の指がぴくりと動いたので安堵した。冷静さは健在だが、体力の消耗が半端ではなかった。たったあれだけの動きをするのに、これだけの体力がいる。日頃の運動不足のお陰だ。方城を見習わねばならない。とか何とか、あれこれと考えていると、声が聞こえた。橘絢、アヤだった。

 そうか! とそこで始めて久作は本題に気付く。運動不足だとか何だとか、そういう話ではなかった。キレた佐久間準と、リカちゃん軍団の一人、アヤをどうするか、その結果がこれだった。久作は吹き出しそうになり、結局、声を出して笑った。

「あははは! そうだよ、何を勘違いしてるんだ僕は? 佐久間が、まあ、あいつはいいか。アヤちゃん?」

 通路の外、柱の向こうに橘絢を見付けた。

「大丈夫? 怪我とかないかい?」

「……へ? ない、んじゃないかな? いやいやいや! そーじゃなくって!」

 アヤが大声を上げ、久作は驚いた。まだ何かあるのか? そう思ったからである。

「速河久作! あんた……ビリー・ヴァイか?」

「ビリー・ヴァイ? いや、速河久作だけど?」

 アヤの大声の原因は知らないが、とりあえず窮地は脱したようであった。体育館からボールの跳ねる音が聞こえ、久作は本来の目的を思い出した。

「ああ、そうだ。アヤちゃん。方城のバスケ、一緒に見物でも――」

「さっきのアレ! ヴァイの必殺コンボまんまじゃん!」

「いや、あの、だから、僕は速河――」

「速河久作スゲー! マヂでリアル・ヴァイじゃん! 佐久間準、あいつ、ぶっ倒れたまま気絶してるし! 最初の右パンチ、返したよな? んで? ドン! ドン! のドーン! 左構えの受け流しから骸打ちで羅刹門・改! 真空三連激! チョーウルトラコンボ炸裂! オラウータン佐久間準なんか秒殺ってか!? 速河久作! ホンキのヴァイ使い? いやいや、使いとかじゃなくて、生ヴァイ! ダメだ、あたしじゃ絶対に勝てない!」

 アサルトライフルトーク、毎度ながら言っていることの半分程度しか理解できない。とりあえず解かったのは、アヤが興奮しているということ、ただ一点だけだった。

「あのさ、アヤちゃん? 体育館で方城の――」

「行く行く! どこでも行くぞ! 速河久作! ってか、リカちゃんとレーコにメールだ! たぶんまだ帰ってないから、体育館に集合! 須賀恭介のメアドは、あった! 全員召集だ!」

 アヤがケータイでぽちぽちとやるのを見届けて、やっと体育館に向けて歩き出すことが出来た。

「練習試合でもやってくれてれば、方城のスーパープレイが見れるかもしれないよ?」

「ふーん。でも、速河久作のウルトラコンボくらいスゲーの、それって?」

「ウルトラ……方城のバスケセンスは凄いよ。ダブルクラッチをやれる高校生なんて、たぶん方城くらいだよ。インターハイだとか全国だとそういう人もいるらしいけど、少なくとも桜桃学園の近辺にはいないね、間違いなく」

 体育館に到着した二人は、レイアップの練習をひたすらに繰り返す桜桃学園高等部バスケ部と合流した。二十人ほどの中から方城を発見し、手を振り、体育館の隅に座り込んで、二人はレイアップの繰り返しを眺めていた。しばらくしてアヤのケータイが鳴り、それから五分ほどして、リカ、レイコ、須賀敬介が体育館に姿を現した。

「橘……アヤ君。そこの通路に佐久間準が転がっていたが、あれがその、ウルトラコンボとかいう奴かい?」

 須賀がアヤに尋ねる。リカもレイコも須賀に習ってアヤを見つめる。アヤはというと、少し間を置いてから、叫んだ。

「速河久作のウルトラコンボ炸裂で佐久間準、秒殺! リアル・ヴァイなんだよ、速河久作ってば!」

 バスケ部のキャプテンらしき人物に「静かに」と言われ、アヤはトーンを下げたが、その後は例によって、アサルトライフルトークであった。

 方城のレイアップは三年生レギュラーとほぼ同等の華麗なフォームで、久作は、アヤのアサルトライフルの銃声を聞きつつ、方城のレイアップに釘付けになっていた。

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