『第四章~ミラージュファイト』
翌朝、始業前。久作が教室に入ると、当然のように橋井利佳子(はしい・りかこ)と方城護がいた。
「速河くん、おはよう。今日も早いのね」
「え? ああ、おはよう。委員……橋井さんも毎日早いね」
背負ったリュックを肩にかけ、フルフェイスを片手にゆっくりと机に向かう久作に歩調を合わせるようにして、橋井利佳子がうなずいた。
「クラス委員なんて片手間でって思ってたんだけれど、いざやってみると、何だか色々とあってね」
「それで早起きして?」
自身の机にたどり着いた久作は、リュックを椅子にかけ、フルフェイスを足元に置いた。と、橋井利佳子が前の席の椅子をたぐり寄せて座った。
「まさか! 早起きは昔から。好きなのよ、明け方っていう時間帯が。こう、風景だとか雰囲気がね」
橋井利佳子の視線は窓の外を向いていた。良くわかる、久作は思った。XL50Sでのライディング云々もあるが、朝独特の、おろしたての一日の始まりという感覚は、下らないあれこれを全て洗い流してくれるような気分にさせる。
「橋井さんって――」
「リカコ、リカちゃん、どっちでもいいけど、折角お友達になったんだから、それでどお?」
唐突な申し出に久作は慌てた。これまでは誰かの名前などに特別興味などなかった。しかし、相手が橋井利佳子となると話は変わる。全く意識していなかったのだが、先日の自習時間でのやり取りで、橋井利佳子は久作の友達になっていた、らしい。
「リカちゃんって、あの人形の?」
「小学生の時からずーっとそれ。面白いでしょう?」
くすくすと笑う橋井に対し、久作は戸惑う。友人を作ることを嫌い、一人を好んで長かった久作にとって、誰かの名前というものは単なる記号でしかなかった、中等部時代までは。方城や須賀と出会い、それが少しほぐれ、そこに橋井からの提案という連携攻撃。
「リカちゃんはちょっと抵抗があるから、リカさん、これでどおかな?」
「いいわよ、決まりね。橋井利佳子、改め、リカさん、よろしくね、速河くん」
椅子から立ち上がり、にこりと微笑み、橋井利佳子……リカさんは立ち去った。きっと雑務の続きなのだろう。
「……リカさん? 何だ?」
足元のフルフェイスにリングブーツが当たる。思考に若干の濁りを感じつつ、久作は窓の外に目をやり、呆ける。始業まではまだ時間があった。方城は久作と対角線に位置し、ぐっすりと眠っている。何か考え事でもとリュックをあさっていると、廊下の辺りから声が聞こえ、教室のドアが開くとその音量は倍になった。
「違う違う! ガードしてたら間に合わないんだってば! マイケル・ジョー使いは大抵、ファイヤークラッシュからのコンボで来るから、技の出だしを潰さないと倒せないの!」
「出だしを潰すなんて簡単にいうけどさ、そんな暇ねーって、普通」
「だから負けっぱなしなんだよ、あんた。持ちキャラ変えないとダメだな、もー」
何の話だかさっぱり解からなかったが、声の主が橘絢(たちばな・あや)だとはすぐに判明した。相手の男子は、佐久間準(さくま・じゅん)だった。
数日前であれば気にならなかったかもしれないが、橘絢と佐久間準という組み合わせに、久作は何やら違和感を覚えた。脳のどこかに魚の骨が刺さったような、気色の悪い感覚が消えない。
「速河久作! あんた誰使いよ?」
唐突に、橘絢が教室の入り口から机までワープしてきて、何事かを尋ねてきた。
「誰? 何? ちょっと待って、話が全く――」
「ミラージュファイト! ひょっとして……やんないの!」
橘絢が心底驚いて飛び上がっていた。
ミラージュファイト? どこかで聞いたような、記憶を辿り、すぐに見つけた。
「何だ、ゲームの話か。ミラージュってあの格闘の――」
「やってんじゃん! で? 誰使いなのよ? 速河久作は?」
「え? あ、えーと、何ていったかな? 合気道と空手を合わせたような――」
「ビリー・ヴァイ? 速河久作はヴァイ使いなのか! 何てマニアックな奴! でもイカす!」
「ストップ! タイム! ちょっと待って!」
必死の形相で久作は叫び、手を橘絢に向けて広げた。何だこの会話速度は? いや、そもそも会話になっているかどうかすら怪しい。マシンガントークという言葉があるが、橘絢の言葉は正にそれだった。いや、殺傷能力からすれば、アサルトライフルトークとでも呼ぶべきか? 返答する隙が全くなく、思考が追いつかない。椅子にかけてあったリュックからジュースを取り出し、思いっきり喉に叩き込み、更に深い深呼吸を数度。それでどうにか落ち着いた。
「ちょっと待ったぞー」
「うん……オーケイ、生き返った」
実際、生き返ったような心地だった。
「でさ、ヴァイ使いの速河久作は、マイケル・ジョーのファイヤークラッシュからのコンボを、どうさばくのさ?」
「ヴァイ使い? いや、僕はミラージュは少しやる程度で……」
驚いたことに、橘絢は久作の科白を完全に無視した。その意味するところはというと……。
「ああ、解かったよ。ヴァイ使いの僕は、飛んできたファイヤークラッシュを返すよ、合気道ベースだから当然ね。そしてそのまま関節技のオンパレードでバキバキにして、そこで一旦待ちに入る。相手がまた仕掛けてきたところを返してから、溜めハイキックに繋いでK.O. こんなところだよ」
一瞬の間。険しかった橘絢の表情が曇りから晴天へと変わる。
「だよな! そうだよ! ヴァイ使いならそれがフツーだよな? あたしはエディ・アレックス使いだけど、マイケル・ジョー相手なら殆ど似たような戦法とるよ! ほら、佐久間準、これが本物のミラージュファイトだ! お前は修行が足りんぞ!」
飛び跳ねるように、いや、実際に飛び跳ねていたのだが、橘絢は半ば叫びつつ、佐久間準を一喝した。どっと疲れが出て、椅子からずり落ちそうになりつつ、佐久間準をちらりと見た。その表情は嫌悪感の塊のようだった。橘絢が久作の前の席の椅子に腰掛ける。デ・ジャ・ヴュ? いや違う。数分前だったか、そこに橋井利佳子、リカさんが座った、ただそれだけだ。橘絢は最初はゆっくりと、しかしすぐにマシンガン、いや、アサルトライフルトークを始めた。それらをごく簡単に要約すると、彼女はゲーマーで、かなりの腕前を持っていて、そして、プログラミング言語やパソコン関連に精通している、こんなところだろうか。
「ミラージュのさ、関節技エフェクトのところ。あそこだけ別のグラフィックエンジンで動いててさ、それ専用に独自ライブラリを開発したんだって! どんだけマニアックなんだあの開発スタッフは、って話だよな? はははは!」
一緒になって笑うが、理解は言っていることの半分程度である。
「あれ? アヤと速河くん? これはまた妙な組み合わせね?」
「リカさん? ああ、えっと――」
「うそーん!」
橋井利佳子が雑務を済ませて久作と橘絢のところに来て、何故か橘絢が叫んだ。
「リカちゃんと速河久作って付き合ってんの? それ早く言ってよねー!」
「今朝はやけに騒がしいな。何だ? 橋井と橘? 速河、この奇怪な組み合わせは?」
いつの間にか登校していた須賀が現れ、久作の代弁をした。須賀の出現に久作は安堵した。こうった状況でこそ、ハードボイルド探偵が活躍するものだ。
「須賀恭介! あのなー、リカちゃんと速河久作って彼氏彼女らしいぞ?」
「ほう、そうなのか。まあお似合いなんじゃあないか? インテリ同士で」
一瞬でも須賀に期待した自分に落胆する久作。
「あのさ、私って速河くんと付き合ってるってことになってるの?」
「違うのか? 橘はそうだと言ってるぞ?」
言ってる? 確かにそんなことを言っていたような気がするが、そういった設定にはまるで記憶がない。自分の記憶が正しければ、今朝、橋井利佳子と挨拶をした際、友達になったから呼び方を変えようといわれ、少し雑談をした、このような流れだった、と信じたい。
「橘さん、あと須賀。ゆっくり聞いてくれ。僕はリカさんとは付き合っていない、はずだ。ねえ、リカさん?」
ぷっと吹き出してから橋井利佳子が応える。
「ええ、速河くんの言うとおり、私は速河くんとは付き合ってない、はずよ?」
「でもリカちゃんて呼んだじゃん!」
「どうして二人そろって疑問系なのかは知らんが、橘の意見を聞かせてもらいたいな?」
どこまで本気なのか定かではないが、いちおうそれらしく振舞う須賀と、うながされる橘絢。
「リカちゃんは橋井利佳子さんで、クラスの男子全員、橋井さんて呼んでて、なのに、速河久作はリカちゃんて呼んで、だから付き合ってるじゃん!」
何が「だから」なのかさっぱり解からない。委員長、橋井利佳子を男子が「橋井さん」と呼んでいる? そういう名前なのだから当然だろう。しかし、そこから「だから」に繋がる橘絢の文脈についていけない。
「なるほどな、見事な論理的帰結だ。速河と橋井委員長は付き合っている、橘の見解が結論とイコールだ」
確信した、須賀は完全に遊んでいると。何が論理的帰結だ。遊ぶにしてもそこまでやるか? 須賀が全く頼りにならないと解かった以上、後は自分でやるしかない。
「橘さん」
「ほい?」
「橋井さんと僕は友達なんだけど、友達がリカさんって呼ぶと、どうなるのかな?」
橋井がくすくすと笑い、須賀もにやにやしている。肝心の橘絢はというと、急に黙り込んだ。何やら必死に考え込んでいるらしい。
「リカちゃんが橋井さんで、速河久作が友達で、リカちゃん? えーと、どうなんだ?」
疑問らしきものを振られた須賀は、難事件を抱える探偵のような顔付きで黙る。
「そんなの、友達に決まってるじゃないの……」
橋井利佳子が、溜息交じりで言った。
「アヤはさ、橘さんからアヤちゃんに呼び方が代わったら、その相手と付き合うの?」
「へ? 何で?」
今度は須賀が吹き出した。他人事だというのをいいことに、須賀はこの何やらややこしい状況を心底楽しんでいるようである。
「私は今朝、昨日かしら? 速河くんと友達になったから、呼び方を堅苦しいのじゃなくて、リカコかリカに代えないって言った、それだけよ?」
「……えーと、そいじゃ何? リカちゃんと速河久作は付き合ってないってこと?」
「そうなんじゃないの? ねえ、速河くん?」
力一杯うなづいた。またしばらく間が空き、橘絢が大声をあげる。
「そーいう肝心なことはさ、最初にいってよね!」
感情を持っていく方向が全く違う。というより、論点からして間違っている。しかし、どうにか橘絢に状況を把握させることは出来たようで、この難事件は解決に向かった。無論、須賀探偵の出番など一切なく。
始業チャイム、そして授業がいくつか。久作の頭にはそのどれも入っていなかった。ただただ窓の外を見つめ、溜息を付きつつ「世界人類が平和でありますように」と願った。窓の向こうには、もつれ雲が漂っていた。平和かどうかは知らないが、とりあえず晴天ではあった。
何度目かのチャイムの後の昼食時間、教室後方の久作の空間に、どっと人が押し寄せた。須賀、方城、橋井、橘、加嶋。全員を無視して惣菜パンをほおばる久作。視線を、もつれ雲から決して離さない。各自が昼食を持参し、椅子だとか机だとかを寄せていたが、とりあえずそれも無視した。口火を切ったのは、案の定、橘絢だった。
「レーコ! 聞いて驚けよ! 実はリカちゃんとヴァイ使いの速河久作は付き合ってないんだ!」
「うん? アヤちゃん、よくわかんないんだけど?」
小さなコロッケを口にして、加嶋玲子が当然のように応える。おーい、このクラスに翻訳家はいないか? 久作は聞こえないようにつぶやく。
「あれ? 委員長と速河ってそうなのか?」
早々に昼食を済ませ、スポーツドリンクを飲み終えた方城が不思議そうな顔で尋ねる。相手は久作と橋井利佳子であったが、久作は面倒臭そうに手を振り、知らないとアピールする。
「リカちゃん、速河くんと付き合ってるんだ、へー」
「違う違う! レーコ。付き合ってるとみせかけて、実は付き合ってないんだよ!」
「あのさ、話が全く見えないのは俺の頭が悪いからか?」
方城が久作の肩をぽんと軽く叩いたので、窓の外の晴天を諦め、方城と顔を合わせた。頭の上に「?」マークがずらりと並んでいる、当然だろう。
「彼女、橘さんが喋ると話が凄くややこしくなるんだけど、僕は橋井さん、今はリカさんと呼んでるけど、彼女とは付き合っていない。呼び方が変わったのは、今朝、彼女と友達になったからで、それ以上の意味は何もない」
久作がどうして声色を変えて力説しているのかは解からなかったが、とりあえず意味は通じたらしく、方城は「へえ」とだけ返した。
「リカちゃんが橋井さんじゃなくてリカちゃんになってるのに、速河くんとは付き合ってないって、面白いねー?」
またそこか!
加嶋玲子の言葉に、思わず久作は叫びそうになった。橋井さんからリカさんに呼称が変わった、ただそれだけでどうしてここまで話がややこしくなるのか、さっぱり解からない。と、須賀が橘に何やら耳打ちしていた。須賀恭介と橘絢、この二人が組むととんでもないことが起きる、今朝のように。嫌な予感は見事に的中。世界は残念ながら平和ではないらしい。
「差別! さべーつ! 速河久作! ヴァイ使いのくせに男女差別とは、情けないぞー!」
「……はい?」
ミラージュファイトのビリー・ヴァイならば、この意味不明な攻撃も見事にさばいて見せたかもしれない。いっそのこと合気道よろしく、実際にそうしてやろうかと一瞬だけ思った。橘絢のこめかみに、ヴァイの空手仕込みのハイキックを入れれば、あるいは彼女の目が覚めるかもしれない。
「リカちゃんはリカちゃんなのに、あたしは橘さんでレーコは加嶋さん! あたしらはリカちゃん軍団のザコ扱いか?」
「橘の意見はもっともだ。橋井にだけ親しくし、両名をないがしろにしている。速河、そういうのを差別と呼ぶんだ」
須賀の顔面にベアナックルでもぶち込んでやろうかと思った。加嶋玲子は状況が今一つ飲み込めていないようで、きょとんとしていた。
「方城! 質問がある!」
久作は、その場で唯一まともそうに見えた方城にすがった。
「状況は解かっただろう? で、僕はどうしたらいい? お前のバスケセンスだけが頼りだ!」
方城はふむ、とうなずき、各人を眺め、首を何度かかしげて、言った。
「この、リカちゃん軍団? こいつら全員を下の名前で呼べばいいんじゃないのか?」
「……方城! お前はやっぱりバスケの天才だ! 鋭いドライヴで切り込んで、リングに叩きつけるような強烈ダンク!」
絶賛される方城だったが、そもそもなぜ褒められているのかが解からない。しかし、褒められて嫌な人間などいない。よく解からないながら、方城は若干照れていた。
「委員長、橋井利佳子さん!」
「は、はい?」
久作は立ち上がっていた。
「あなたは今から、いや、今朝からだけど、リカさんに決定! そして橘さん!」
「あん?」
まだ弁当をちまちまといじっていた橘絢の箸が止まる。
「エディ・アレックス使いの橘さんは、アヤさん!」
問答無用に続ける。
「加嶋玲子さんは……」
一瞬言葉に詰まる。勢いで喋っていた久作だったが、加嶋玲子と目を合わせた途端、ランブレッタ48で立ち往生していた光景が蘇った。が、ここで止まっては話にならない。
「加嶋玲子さんは、レイコさんです! 以上! 文句は一切受け付けません!」
どうにか言い切り、久作は椅子にどさりと落ちた。リカちゃん軍団の三人、橋井利佳子、橘絢、そして加嶋玲子が、何やらいいあっていたが、久作の耳には届かなかった。
「速河、お前には演説癖があるのか?」
須賀がそんなことを言ったような気がするが、こちらも素通りしていった。一分ほど経過しただろうか、加嶋玲子が、続けて橘絢、橋井利佳子が言った。
「リカちゃんとアヤちゃんで、私がレイコ?」
「レーコとアヤちゃん! リーダーはリカちゃんで、リカちゃん軍団だー!」
「アヤとレイコはそれでいいけど、リカちゃん軍団っての、やめない? 小学生じゃあないんだからさ」
方城と須賀が同時に吹き出した。そして須賀が、今度はまともな様子でいいだした。
「俺、須賀恭介と、こいつ、方城護。で、速河久作。俺たちは何軍団にするんだ? 速河?」
「それより、あのさ。俺らも下の名前で呼ばれるのか? 護とか、恭介とか?」
須賀に続けて方城が喋っていたが、久作は思考を停止させ、世界平和を願っていた。もう、どうにでもなれ、知るかそんなこと……もつれ雲にぼやく久作だった。
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