『第三章~オールラウンダー』

 桜桃学園高等部、1‐C。Cという何とも不名誉なランクは、クラスを表す単なる記号である。愛車、ホンダXL50Sを飛ばして、かなり早い時間に1‐Cに入る久作であったが、必ず先着が数名いた。方城護と、腰まである真っ黒なロングヘアをゆらゆらとさせている女性。ロングヘアの女性は、クラス委員長という面倒な役割を押し付けられていたはずで、名前は……覚えていない。

 久作には「人の名前を覚えるのが苦手」という欠点があり、かなり親しい人間であっても、顔と名前が一致しないことが多々あった。日常生活でそれが弊害になることなどほとんどないのだが、高等部にあがってすぐという時期にこの欠点は、若干の弊害となっていた。

 毎日、久作よりも早くに教室に入り自分の机でいびきをかいている方城を無理矢理起こして、そのロングヘアの委員長が、橋井利佳子(はしい・りかこ)という名前だといちおう聞いたのだが、その名前が久作の脳にインプットされることはなく、結局、ロングヘアの委員長、という安直な着地をした。委員長とは何度か会話をしたことがあった。

「おはよう」

「おはよう」

 単なる挨拶? いや、立派な会話である。久作が早くに教室に入るのは、早朝、まだ交通量の少ない時間帯にXLを飛ばしたいから、という、いささか不順な動機からなのだが、方城は違っていた。彼は高等部になってもまだ、通学にマウンテンバイクを使用しており、あの心臓破りの坂と毎日毎日格闘していた。それが方城の早朝トレーニングの一環であることは説明するまでもないだろう。ヘトヘトになった方城が始業までずっと眠っているのもまた、当然といったところか。

 ロングヘアの委員長が早朝から教室にいるのは、おそらく委員長という肩書きゆえだろう。巨大なホワイトボードを丹念に磨いたり、一輪挿しの水を替えたり、ナントカ係という表のネームプレートとにらめっこをしたり、なかなかに忙しいようであった。時たま駆け出し、ぴたりと歩を止めて思案し、今度はゆっくりと歩き出す、そんなことをするたびに、真っ黒なロングヘアが当人と同じく忙しそうに動いていた。あくまで他人事と割り切った上で、久作はロングヘアの委員長というクラスメイトの仕事っぷりに小さな拍手を送っていた、あくまで他人事として。

 その日の一限目の英語Ⅱは自習だった。ホワイトボードに「教科書の○ページから○ページまでを云々」とメッセージが書かれてあったが、それに従う者が半数いたかどうか、怪しいものである。左から二列目の最後尾に席を置く久作は、英語Ⅱと書かれた冊子を閉じて窓の外の雲を眺めていた。からりと晴れた空に薄く漂う浪雲(なみぐも)。

「キャッツ・アイ、だったかな?」

 誰にともなくつぶやく。しばらくして、方城と須賀が来た。自習となった教室では既に男女グループがそれぞれの陣地を作り、わいわいと賑わっていた。当然、自習でも勉学でもない。

「速河は確か、英語得意だったよな?」

 俺は苦手だ、そう断言してから方城が言う。

「読み書きはある程度、でもヒヤリングが全く駄目だから、英会話なんかは無理だね」

「ネイティブな環境、これが英語に限らずある言語を習得するのに最低限必要な要素だ。こんな印刷物――」

 須賀が英語Ⅱ教科書を振り回して続ける。

「――こんなもので英語がマスターできるなら、言語学者の仕事はさぞ楽だろうな」

「中等部で三年も授業を受ければ、誰だって読み書きくらいは簡単さ。喋るほうは須賀のいう通り――」

「どおぉぉーーん!」

 突然、久作の机の上に巨大な物体が落下してきた。文字通り突然だったので、久作は勿論、方城も須賀も目を点にしていた。

「がぶがぶクリームソーダ、1,5リットル! ランブレのガソリンのお礼でーす!」

「レイコ、会話が滅茶苦茶。意味通じないって、それじゃあ」

「スクータってクリームソーダで動くか? いやいや動かねーってば、ははは!」

 久作は慌てて窓の外を見た。落雷と雹と竜巻が舞い踊る、そんな気がしたからで、しかし先ほどの浪雲は健在だった。

「はい、がぶがぶクリームソーダ!」

 ゆっくりと視線を上げると、そこに良く知る顔があった。大きく、端が少し下がった栗色の瞳と小さくとがった鼻、桜色で、がぶがぶと連呼する唇。

「か、加嶋玲子……さん?」

「おっと! いきなりフルネームと来たかぁ! 何だレーコ、あんたやっぱ有名人じゃん?」

 加嶋玲子の横から現れた女性が、やたらとでかい声で言った。

 金髪を二つに束ね、真っ黒なアイラインが引かれた目付きは猫を連想させる。桜色のブレザーがカスタマイズされていて、原型から遥か遠い位置にあった。小柄だが、ネックレスやブレスレット、腕時計や靴などがやたらと派手なので、実際の体格よりも大きく見えた。短い、というよりバッサリと切り落としたようなスカートから覗く、体格とはアンバランスな脚線美が、視線を捕らえて離さない。名前は、確か……。

「アヤ! あぐらは止めなさいよ、みっともない」

 そう、橘絢(たちばな・あや)。クラス名簿だかを見たときに何やら珍しい名前があったので、久作の記憶に残っていた。橘絢、漢字二文字で表記されたそのシンプルな名前は、何というのか、面白かった。そして、橘絢と加嶋玲子を制しているのは、ロングヘアの委員長だった。

「何だ? 委員長、お前らは何集団だ?」

 三人を見つつ記憶を辿っていた久作。それより早く現実に戻った方城が委員長に言った。

「何集団って? 私とレイコとアヤ? 別に何ってことはないわよ?」

「あたしらはリカちゃん軍団だぜー! 勝負すっか?」

「がぶがぶー!! ランブレパーンチ!」

 久作は、自分の脳処理の限界を感じた。浪雲、キャッツ・アイがゆっくりと移動している。

「……速河、方城、すまんがこの状況を俺にも理解できるように説明してくれ」

 数分ほど経ったか、須賀がごく当たり前のことを訴えた。

「君は確かクラス委員の橋井、さんだったね? で、両脇の二人は?」

「両脇っておい! あたし雑魚扱いかよっ! 須賀恭介!」

 橘絢が叫び、須賀が驚いた。

「お前、何で俺の名前を知ってるんだ?」

「橘絢! ターチーバーナー、アヤ! お前とかいうなよ、須賀恭介!」

 二つにした金色の髪をぶんぶんと振り回し、橘絢が須賀に喰いつく。美麗な脚から蹴りでも出てきそうな勢いである。

「タチバナ? おい速河、そんな奴、このクラスにいたか?」

「須賀! それはマズい――」

 方城が割り込むより早く、ごん、と鈍い音がした。橘絢のげんこつが須賀の脳天を直撃、見事なジャストミートだった。踵(かかと)落としでなくて良かったな、そんなことを久作は思っていた。


 自習となった教室の後方、久作の机の周りは他のグループに比べ、かなり賑やかだった。

「もう三週間近くもなるのに、三人ともクラスメイトの名前すら覚えてないの?」

 委員長がゆるりとロングヘアをかきあげ、言った。

「俺は大体知ってるぜ、委員長。例えば、えー、あそこの、ほら、キザっぽい二枚目風な奴。佐久間だろ? その横にいる、女子にちょっかい出してるのは永山、だったか?」

「方城、お前にそんな洞察力があるとは知らなかった。驚きだな」

 須賀が関心しつつ、佐久間とかいう男子のほうを見てつぶやく。久作も同じくだった。

「へー、方城護は友達百人欲しい奴なんだな?」

 橘絢が茶化すようにいったが、方城はあまり気にせずに返す。

「そーいうんじゃねーよ。桜桃バスケ部の一年にガードがいなくてな、いや、いるんだが腕前がちょっとな。そんなでチームメイトを探す癖みたいなのがあるんだよ」

「ふーん。それで、方城君の見立てだと、佐久間君はその、ガード? それに当てはまるの? 彼って確かスポーツ関係はかなりのものじゃなかった?」

 委員長、リカちゃんが尋ねる。

「そういや思い出した。速河、いつだったかバスケの授業で俺のバックパスを受けた奴、あれが佐久間だ。間違いない」

 久作は、方城と出会ったきっかけになった、あのノールックパスを脳裏に描いた。

「ということは――」

 久作と委員長の声が重なった。

「リカちゃーん、佐久間準(さくま・じゅん)ってサッカー部と野球部、掛け持ちしてんじゃなかったけ?」

 橘絢が少し退屈そうに言う。

「容姿端麗、スポーツ万能。佐久間? あいつも世の中を上手く渡っていける人種ってことか」

 須賀が吐き捨てるようにいった。表情が何やら険しい。

「ということは、佐久間君は合格ってことに――」

「駄目だな」

 方城がきっぱりと言い放った。

「佐久間準、あいつはガードっていうタイプじゃない。スモールフォワード……いや、バスケには向かないタイプだ」

「そうだな。あの佐久間とかいう奴はバットでも振ってるのが似合う奴だ。球拾いでもいいがな」

 方城と須賀が、クラスメイトである佐久間準を、ごく簡単に、それでいてバッサリと解説した。しかし、委員長と橘絢は、それにどうにも納得できていないようであった。

「それって偏見じゃないの? 佐久間君はバレーボールも凄く上手だったし、アヤが言ったけど、サッカーと野球も上手で、そんな人がバスケだと駄目なの?」

「だからだよ。何でもこなす奴ってのはつまり、典型的なオールラウンダーなんだよ」

「オールラウンダー? 新種の猿かいそりゃ?」

 橘絢が本気と冗談の中間のような科白をかぶせる。

「そりゃお前、オラウータンだろ? オールラウンダー、何でもやれる奴、佐久間準みたいな奴だよ」

「オール、何でもできるならバスケも出来るでしょうに?」

 当然の質問は委員長からだった。

「橋井利佳子さん、だったかな? 何でもやれる奴ってのは要するに、秀でた部分がないって意味だ。方城のパスを受けてそのままリングに叩き込めるだろうよ、佐久間とかってあいつは。でもそれはプロ選手での話だ。方城は桜桃学園高等部一年生、要するに学生のバスケットチームの一人で、方城のチームはアマチュアなんだ。そこにオールラウンダーがいれば重宝するだろうが、チームの事情は知らないが、方城のバスケスタイルには、そんな奴はいらないんだよ」

 ゆっくりと丁寧に、須賀が説明した。こんな風に喋る須賀を見るのは久しぶりであった。

「まあ、そういうことだ。そもそもあいつはバスケ部じゃないしな」

「……方城君って、何ていうのか、物凄くストイックなのね?」

 何度目か、ロングヘアをかきあげ、橋井利佳子は方城をじっくりと眺め、つぶやいた。橋井利佳子の瞳には、深く澄んだ泉を思わせる吸い込まれそうな魅力があり、それが方城の鋭い目付きを捉えている。

 ロングヘアの委員長こと橋井利佳子。

 方城や須賀とのやりとりを聞いていた久作が、彼女の容姿をじっくりと見たのはそのときが始めてだった。腰丈まである、柔らかく黒いロングヘア。身長は女性にしてはかなりあり、ハイヒールでも履けば百七十センチに届くかもしれない。小柄な橘絢とは対照的なモデル体型で、顔立ちはクール。須賀に似た印象がある。なるほど、これが俗に言う「美人」か、そう久作は気付いた。

「ストイックって?」

 バスケットボールと佐久間準の話題で出来上がっていた方城の、とても良いイメージが、一言で崩れ去った。あまりの落差だったので久作は思わず吹き出した。

「ストイック、禁欲的ってこと。方城のバスケに対する考え方ががっちりしていて、一切ブレない、そんな感じだよ」

 英語が苦手な方城にも解かるように、自分なりに意訳してみた。

「つまり! 方城護はストイックなバスケバカってことだな! はははは!」

 橘絢が大声で笑い、つられて橋井利佳子も微笑む。見ると、須賀もにやにやしていた。

「てめー! 橘! バカは余計だ!」

 方城が反撃を試みるが、無駄な抵抗であった。説明した当人の久作も笑い、しかし目の前に置かれた「がぶがぶクリームソーダ 1,5リットル」に視線が行くと、笑みがぴたりと止まった。橋井利佳子と橘絢のインパクトのお陰で、加嶋玲子の存在を完全に忘れていた。バスケットボールに興味がなければ、先のやりとりは加嶋玲子にとってとても退屈で、どこかに消えていても不思議ではなかった。が、彼女はいた。橋井利佳子の横に座り、そして、久作を眺めていた。その表情からは、退屈だとかいう感情は見えず、逆ににこにことしていた。ひょっとしてバスケに興味があるのだろうか? ふと久作は思ったが、そうではなかった。

「ねー、リカちゃん、アヤちゃん、がぶがぶー」

 何の暗号だろうか? 久作には加嶋玲子の科白の意味が解からなかった。

「アウチ! リカちゃん駄目じゃん! 作戦台無しだー!」

「あ! ごめん、レイコ、アヤ。どうしよう、えーっと」

 三人が何やら密談を始め、しばらくして久作の机の上のペットボトルと共に立ち去った……と思ったらすぐに現れ、

「どおぉぉーーん! がぶがぶクリームソーダ、1,5リットル! ランブレのガソリンのお礼でーす!」

 方城が椅子から転げ落ち、須賀は机に突っ伏し、久作は放心した。

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