『第二章~チェックメイト』

 近郊でも随一の進学校である私立桜桃学園。古今東西、学生を悩ませるものはテストの点数と相場が決まっている。

 速河久作(はやかわ・きゅうさく)がその苦悩とは無縁な位置にいるのは、彼の頭脳が同世代より少し、いや、かなり上の水準にあるからで、ゆえに久作は中等部の時と比べて格段に難しくなった授業を、半ば楽しんでいる節があった。知的好奇心、速河久作にはそれがあり、愛車であるホンダXL50Sでのライディングと同じくらいに、始まったばかりの、他を悩ませる学生生活を満喫していた。

 高等部で最初にできた友人の、方城護(ほうじょう・まもる)と須賀恭介(すが・きょうすけ)は、久作のテストの数字を見るたびに溜息と愚痴をこぼしていた。

「俺はさ、バスケが出来ればいいんだよ。桜桃ならインターハイも狙える、そう思ったからここにいるんだけど、数学にはフェイクもダブルクラッチも通じないんだよ」

 方城護(ほうじょう・まもる)が言う。

 彼は桜桃学園高等部、バスケットボール部所属の、ごく簡単にいえばエースである。中等部時代からパワーフォワードとして活躍しており、その図抜けたバスケセンスから「桜桃のスコアリングマシン」と呼ばれ、桜桃学園を問わずで、女子憧れの男子その一であった。百九十センチほどある身長と、頭身を無視したような長い足。切れ長の目と低い声、そしてバスケットでのスキル、要するに二枚目の代表のような人間である。

「だから方城、お前はスポーツ推薦進学を狙えばいいんだ。速河も毎回そういってるだろ?」

 そう割り込んだのは、須賀恭介(すが・きょうすけ)だった。

「スポーツ万能、容姿端麗。それだけで大抵のことは何とでもなるんだ、世の中ってのは、なあ速河?」

 手にしたミステリ小説に視線を落としたまま、須賀恭介は言った。須賀は丁度、方城の対極のようなタイプであった。

 趣味は読書。しかし読書といってもそのジャンルと量は半端ではなかった。文学部だかミステリ研究会だかに所属しているらしいが、須賀恭介にとってそれは腰掛け程度で、速河久作や方城護との雑談の時でさえ、小説の類を離すことはない。スコアリングマシン方城より少し低い身長で――といっても他の連中よりは遥かに上だが――バスケで鍛え上げられた方城とは真逆で痩せているものの、風貌がハードボイルド探偵小説の主人公のような、高等部一年生とは思えない大人びた印象を与えるので、同級生は勿論、教師にも一目置かれている。

 方城と須賀は中等部からの親友で、速河久作とは桜桃学園の高等部で知り合った。久作が誰かから聞いた噂だと、方城と須賀にもファン倶楽部のようなものが密かにあるらしい。当人がそれをどう思っているのかはまだ聞いたことはないが、生で二人を見ればそれも納得できる。

「ああ、そうだね。方城はバスケをやってればいいんだよ。テストなんて百ピースパズルみたいなものだから、適当にやってりゃ、どうにでもなる」

「速河、いいことを言う! そう! テストなんてパズルだ! あんなもので知性を測るなんて到底不可能さ!」

 須賀が、やおら声をあげる。

「お前らはそのパズル? それを解けて、成績も学年ベストテンに入ってるから、簡単なようにいう。っつーか、お前らには高校生っぽい悩みみたいなのがないだろ? 普通はな、勉強できなきゃ落ち込んだりはするんだぜ、俺みたいにな」

「俺はベストテンには入ってないぞ?」

 須賀が割り込むが、方城が素早く切り返す。

「お前は単に成績に興味がないだけだろ? だいたいテストだとかを本気でやってないだろうに?」

「つまらないパズルに熱中する暇があったら、好きな本を読む。普通だろ?」

「だから、それが普通じゃねーっつーの! いや、それがお前だってことは昔からよーく知ってるけどな」

 これだけ対照的な二人が永らく親友でいられるのは、対照的だからこそなのだろう、そう久作は思った。そしてこうも思った。

「僕もベストテンには入ってない」

「あのな、速河。学年十二位ってのは、限りなくベストテンに近いって意味なんだぜ?」

「くっ! そのユーモアセンス、いいよ、お前ら」

 方城は呆れ、須賀は笑う。

 速河久作は中等部時代、あまり友人を作らなかった。理由はごくごく単純、退屈だったからである。友人と呼べそうな同級生の話題にどうやっても興味が沸かず、話を合わせることが面倒になり、一人を好むようになるまでそれほどかからなかった。そんな久作が暇つぶしで喋る相手は、数人の教師だった。中等部の退屈な授業とは違い、半プライベートでの教師の話は久作の退屈を満足させ、結果、中等部時代の友人は教師という、なんとも奇妙な構図になっていた。

 久作が高等部にあがって半月ほどした頃。体育の授業でバスケットボールがあり、方城護(ほうじょう・まもる)の華麗なノールックパスを見た久作は、飛び上がりそうなほど驚いた。何事も受け身、というスタンスの久作が方城に声をかけたのは、いうまでもなく、そのノールックパスの鮮やかさゆえである。

「え? ああ、えーと、速河だっけ? 同じクラスだったよな?」

 低く、しかし親しげな声で方城は返した。

「さっきのパス? えーと、ああ、あのバックパスか。あれはさ、俺の腕じゃなくてパスを受けた、えーと、名前知らないけど、あいつの腕前だよ。こっちは前にスペースできてたから、相手を寄せてボールを出した、ただそれだけだ。バスケの基本攻撃パターンだよ、あんなの」

 ハーフタイムで息を切らせつつ、方城は軽く言った。後半戦、方城が相手コートを縦横無尽に走り、飛び回り、ダブルスコアになった頃、試合は終わった。別クラスの同級生チームが今にも倒れそうなほどにげっそりとしていた。その試合、いや、授業が終わり、方城と何事かを喋っているうちに、気が付けば仲良くなっていた。久作は特別スポーツが得意ということはなかったが、大抵のことはほどほどに出来るので、バスケットボールに限らず、色々な話題で語ることができ、一方の方城はバスケを筆頭にスポーツ万能なので、話が綺麗に噛み合った。

 その授業の翌日に方城護が「俺の友達に変人がいるんだ」といって連れて来たのが、須賀恭介(すが・きょうすけ)であった。

「須賀恭介、よろしく」

 ぶっきらぼうに、吐き捨てるように須賀はいい、それが挨拶だと気付くのに時間がかかった。方城は確か「友達」と言っていたが、お世辞にも友達がいるようには見えなかった。が、代わりに須賀が手にしていた「ボビー・フィッシャー著 チェス入門」というハードカバー、こちらには友達がいそうだった。

「速河久作です。須賀くん、チェスやるの?」

「くん、はいらない。須賀でいい。チェスはまあ、やるかな? 腕前は大したことないけれどね」

「須賀く……良かったら勝負しない? 僕、いちおうチェスやれるんだよ」

 須賀の眉毛がぴくりと動いた。

「速河だったか? おま……君! チェスが出来る人間なのか? 何だ、それを早くいってくれ! おい方城! こういう肝心なことは最初にいっておいてくれ!」

「は?」

 それまでダルそうにしていた須賀だったが、何かのスイッチが入ったかのように機敏になり、どたばたと走り回ってから、小さなチェスセットを久作の机に広げた。

「本格的なルールは省いて、簡略版でやろう。先行はどちらでもいいぜ。さあ、速河久作、勝負だ!」

 方城が弁当を広げて隣に座り、久作と須賀も昼食を取りつつ、勝負が始まり、そしてあっという間に終わった。


「チェックメイト」

 同じ科白を昼食の間に三度聞き、久作は完敗した。

「何だ? もう終わりか?」

 方城が口をもぐもぐとさせつつ、退屈そうに言い、久作は、放心状態であった。

「速河だったか? いいセンスだとは思うけれど、それじゃあアマチュアだ」

 確かそんなことを須賀に言われたはずである。久作は、須賀とチェスをすると言い出したとき、内心では勝つつもりでいた。それも当然のように。ところが、須賀の戦略はまるでスーパーコンピュータでも相手にしているかのようで、こちらの手をことごとく潰された上にキングをどんどん裸にされ、または、気付くと隙間からナイトやビショップにチェックされている、ということの連続で、全く勝負にならなかった。

「須賀くん……強いね。まるでプロだよ」

 さすがに初対面で「くん」は外せなかったが、それはともかくとして、須賀恭介のチェスの腕に久作は心底、感心した。

「はは、俺がプロなら、本物のプロはコンピュータさ。俺のは我流だ」

「な? 変人だろ、こいつ」

 方城が割って入って、須賀を一言で解説した。

「誰が変人だ。だったら速河も変人ってことになるぞ? 俺とまともに勝負できる奴なんて、この学園にいやしない」

 変人かどうか、まともな勝負だったかはともかく、確かに桜桃学園で須賀恭介にチェスで勝てる相手など、教師を含めていないと断言できる。実際に勝負したからこそ、それが解かる。

 方城護のノールックパス、須賀恭介のチェックメイト、速河久作の知的好奇心。この三つが綺麗に重なり、三人はその日のうちに友達グループになっていた。そして、である。

 ホンダXL50Sという旧式オフロードバイクで通学している、速河久作。私立桜桃学園高等部一年生。学年成績ベスト十二位の彼。

 身長は丁度、須賀恭介と同じ程度の百八十センチ強。適当に分けただけの髪には独特の癖があり、方城護のそれを更に鋭くした目付きを隠すように前髪がたれている。鼻筋は高く、口元はほぼ閉じたままだが、それが開くと、口調こそ軽いものの、声色は出来の悪い生徒を説き伏せる教師を思わせる。須賀恭介よりいくらかマシな筋肉の付いた体型に、長い四肢。

 ……つまり、方城護や須賀恭介と同じく、速河久作もまた、外見で欠点と呼べそうな要素がほぼないのだ。このような高等部一年生男子が三人集まり、雑談グループとなっていれば、同じクラスの女性陣がほおっておく道理はない。

 四月現在のいくつかの女性グループにとって、男性グループの中で、速河久作、方城護、須賀恭介の三人グループは「注目の的」となっていた。久作のクラスにあの真っ赤なランブレッタ48の女性がいたことには、リザーブ一リットルを渡した日から気付いていたが、あえて意識しないように勤めていた。

 ランブレッタ48の女性、名前は、加嶋玲子(かしま・れいこ)。ホンダXL50Sの速河久作らと同じ授業を受けている彼女は、数人の女性グループの一員となっており、そのグループはクラスを問わずで、桜桃学園高等部男性陣の「注目の的」となっていた。

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