第42話 繰り返し

 最早、久瀬との勝敗は決した。

 体力もとうに底を尽き、俺に勝てる可能性など万に一つもない。

 今やアレは俺への怒りと逆恨みだけで動くケダモノだ。まだ俺の前に立ち塞がる気力があることがこれほど面倒に思えるとは。相手をすることすら億劫になる。


「どけよ、ゴミ」


 目標の30点差はつけた。久瀬が俺の足元にも及ばないことは誰の目にも明らかだ。

 それでもボールを奪った俺に食らいつこうとする久瀬を軽くあしらい、俺はゆっくりとゴールへ向かう。


 思っていたよりもくだらない相手だった。こんな遊びじゃ相手にもならない。こうなるくらいなら久瀬が望む殴り合いで完膚なきまでに叩きのめす方が余程気分が良かったかもしれない。

 いや、アレは恐らくそうするだろう。俺に勝てると妄想を抱き、俺に殴り合いだろうと殺し合いだろうと挑んでくる。

 またその時に相手をすればいい。今度こそアレを支えるプライドという支柱を叩き折り、俺には逆らえないと体に叩き込む。

 怒りが滲むあの顔を畏怖と悲痛に染めてやる時が楽しみだ。

 そう密かに口角を上げた俺の瞳に、ふらりと人影が映った。俺はすぐさま口を真横に伸ばす。


「何のつもりだ?」


 俺と相手ゴールを挟み立ちはだかったのは琉依と与一だった。腹の中でぐつりと何かが煮える。


「俺は他の連中を引きつけろと言ったはずだが」

「そろそろ弱いものいじめにも飽きたかと思ってね」

「弥太郎の奢りにゃならねーけど、せめて琉依に

奢らせてやろうってな」


 勝手なやつらだ。ただでさえ久瀬の程度の低さに辟易しているというのに。


「俺は今虫の居所が悪いんだ。どけよ」

「何をそんなにカリカリしてんだ? 久瀬との決着はついたようなもんだろ。もう少し嬉しそうにしろよ」

「まだだ。アレはこの程度で潰せるほど物分りが良くなかった。今度はもっと直接的な方法できちんと潰してやる」

「ふざけんじゃねえ……こんなカスに俺が負け──」


 背後で何やら吠えていた久瀬が突如虚をつかれたように口を噤む。


「久瀬君。少し黙っててくれるかな僕たちは弥太郎と話があるんだ」


 そう告げた琉依はこれまで見たこともない冷めた顔をしていた。いつもはヘラヘラ笑っているくせに、久瀬を捉えるその目は酷く冷たく、何の感情も見えてこない。

 横目で久瀬を見遣ると、その場で固まって動けずにいた。まさしく蛇に睨まれた蛙だ。この程度で恐怖するのなら、やはり手っ取り早く殴り倒しておくべきだったな。

 久瀬にも興が冷め、俺は再び琉依たちへ向き直る。


「それで。話って何だ」

「大したことじゃないよ。ずっと立ちっぱなしだったから体が鈍っててさ。少し手合わせしてもらおうかなって」


 琉依はいつもの爽やかな笑顔を向けてくる。何を考えているのか全く読めない。


「聞いていなかったのか。俺は機嫌が悪いんだ。今は手加減してやれない」

「上等だぜ。俺はずっと本気の弥太郎と勝負してみたかったんだ。願ったり叶ったりだぜ」

「そうだね。僕も数年前の雪辱を晴らすとしようかな」


 何のつもりかは知らないが、どうやら引く気はないらしい。だったら俺から言うことはもうない。


「俺に負けてもサッカー部を辞めるなよ」

「勝つよ、僕たちは。今の弥太郎になら勝てそうだ」

「……そうか」


 残り時間は10分程度。どうせ久瀬はもう相手にならないんだ。こいつらで時間を潰すのも悪くない。

 俺の忠告を聞かなかったことを後悔させてやろう。


 俺はボールを軽く蹴り、2人の元へ直進する。

 真っ先に対応に回ったのは与一。俺のスピードを殺そうと俺の前に構える。

 だが、その程度じゃ俺は止まらない。

 ボールを左右に素早く持ち替え、時折体を大きく動かして幾つものフェイントを挟む。

 そして、与一の重心が崩れたところで一気に抜き去った。


「はっや……」

「口だけか、与一」


 が、俺はすぐにピタリと動きを止める。


「おっと……引っかからなかったか」


 俺が与一を抜いた先に琉依が待ち構えていたからだ。与一もすぐに体勢を立て直して挟み込まれる形になる。


「さて、僕は与一ほど優しくないよ」

「嫌味かよ。普通に抜かれてんだよ」


 俺は小さく息を吐いて左側へ長めのボールを蹴る。

 琉依は即座に対応してくるが、俺はボールを踵で止めて琉依の進行方向と逆側へターン。

 この動きにも琉依は追いつく。が、それも想定内。

 左足のアウトサイドでボールを蹴り、またしても琉依が反応した瞬間に今度はインサイドですかさずボールを右側へ。


「うそっ!?」


 琉依でもこの動きにはついてこれず、生まれたスペースに切り込む。

 徐々に前へと進んでいたおかげでゴールとの距離も申し分ない。この程度ならゴール隅も狙える。

 勢いのままに転がってくるボールへ右足を振り抜く──直前、俺は足の裏でボールを手繰り寄せ、数歩後方へ。


「あっぶねぇ」


 与一が伸ばした足にシュートコースを塞がれた。あのまま蹴り込んでいたらボールは与一の足に阻まれていた。

 琉依も与一の隣に並び、再び向き合う形になる。


「ほぼ未経験なのにルーレットからのエラシコって……本当に高校生?」

「俺が居なきゃ負けてたな」

「悔しいけどその通りだね」


 2対1だからどうにか均衡を保っているものの、力の差は歴然だ。

 だというのに、そう会話する2人は笑っていた。


「……何が面白いんだ。俺に勝てなくておかしくなったか」

「まだ負けてねーよ。つか、お前こそもう少し楽しそうにしたらどうだ?」

「この状況で何を楽しめって言うんだ?」


 ただでさえ久瀬の所業に腸が煮えくり返り、相手をしてみれば愚にもつかない体たらく。その上指示に反して俺との勝負に拘る琉依たちの相手をさせられる。楽しめと言う方が無理があるだろう。

 さらに苛立ちが湧き上がってくる俺を前に琉依が肩の力を抜く。

 低く保っていた重心を持ち上げ、静かに俺の目を見ていた。


「ねえ、弥太郎。今、君の目には何が見えてる?」


 意図が読めない質問に俺は何も答えず冷ややかな視線を返す。

 俺の目的は久瀬を潰すこと。そうなる未来を見据えるだけ。それ以外に何が必要だと言うのか。


「今、君にはどんな音が聞こえてる?」

「言ってる意味がわかんねえよ。簡潔に話せ」

「もう少し周りを見てみなよ。皆の声を聞いてみなよ。今、君に雲母さんの声は届いているのかな」

「何言って……」


 琉依の言葉をきっかけに、すーっと周囲の音が聞こえてくる。とても静かだ。

 ぐるりと周囲を見回す。誰1人として歓声を上げず、どこか怯えた表情でこちらを見ている。

 久瀬に虐げられたはずの紫乃でさえ、苦しげに眉をひそめて俺を見守っていた。

 その隣に居たはずの深愛の姿はなかった。


「弥太郎。君がしていることは決して間違ってないって僕は思うよ。詳しいことはわからないけど、雲母さんたちを護りたいって気持ちは伝わってきたから。僕は弥太郎のためなら何でも力になりたいって思うんだ。君が復讐したいって言うなら僕も協力する。幼馴染として。親友として」


 ゆっくりとこちらに近づく琉依は続ける。


「でもね、弥太郎。君が間違ったことをしていると思ったら、僕は君を止めたいとも思うんだ。幼馴染として。親友としてね」


 ポンと肩を叩かれ、俺の体から力が抜けていく。


「君がしたかったのはこんな復讐みたいなことなの? 雲母さんと雪宮さんを護りたかったんじゃないの? 今の君は久瀬君へ復讐することが目的になってるんじゃないのかな。少なくとも、僕にはそう見えるよ」


 琉依の言葉に俺は何も言い返せなかった。否定しようとすればするほど自覚したからだ。

 全て琉依の言う通りだった。俺は途中からただ久瀬を苦しめることだけを考えていた。サッカーでダメなら殴り合いでもいい。もっと徹底的に痛めつけて、二度と逆らえないように久瀬を潰すことだけに固執していた。

 その目的の中に深愛たちは居なかった。いや、深愛たちを言い訳にしていた。

 俺はただ、久瀬を潰すことに執着していたんだ。久瀬を引きずり下ろすことだけを考えていた。

 ただ力を誇示して、俺の方が優れていると証明して。それは本当に深愛や紫乃を幸せにしたいという想いから来ていたのだろうか。


 俺はまた繰り返そうとしていた。他者より長けた能力で、また誰かを傷つけようとしていた。

 そうならないようにと抑えていたはずなのに、俺はまた同じ過ちを繰り返そうとしていた。

 深愛もきっと、そんな俺を見兼ねて──


「弥太郎君!」


 耳に響く透き通った声。何の妨げもなく届いた彼女の声に俺はいつの間にか下がっていた顔を上げた。

 ゴールネットの奥からぴょんぴょんと顔を見せる深愛の姿がはっきりと瞳に映る。


「笑顔ですわ! ほら一緒に、にこーって!」


 人差し指で引っ張りあげるように笑顔を作る深愛はふっと姿を消し、人混みをかき分けて最前列に顔を覗かせる。


「顔が怖いですわよ! 私はそんな弥太郎君も好きですけれど! けれど、不器用に笑う弥太郎君の方がもーっと好きですわ!」


 これだけの人が居ながらよく恥ずかしげもなく好きだと言えるものだ。聞いているこちらが恥ずかしい。

 だが、気がつけば彼女の笑顔につられて俺の口角も上がっていた。


「その調子ですわ! いつもと変わらない硬い笑顔ですわ!」

「褒めてねえだろ、それ」


 励ましたいのやら怒らせたいのやら。彼女はいつも俺の心を惑わせる。

 だが、深愛が居てくれるから俺は立ち直れた。そして今も彼女が居てくれるから折れずに済んでいる。

 そんな彼女のことを忘れていたなんて、本当に俺は愚か者だ。

 俺は琉依へと向き直る。琉依には謝らなきゃならない。

 深愛と同じくらい、彼らが居なければ俺は間違った道を進んでいたと思うから。それに──


「悪い。俺はまた、あの時と同じ」

「違うよ」


 琉依は静かに、力強く首を振る。


「あの日のことを責めてるわけじゃない。言ったはずだよ。姉さんのことは弥太郎のせいじゃない。僕はむしろ、姉さんのことを引きずって君が自分を塞ぎ込んでしまうことの方が嫌だな。姉さんもそう言ってたよ」


 俺に振り回され、俺のせいで傷ついた過去を持つはずの琉依はそう言ってにこりと笑う。

 こいつはいつもそうだ。あの時からずっと、俺が気を遣ったり1人で塞ぎ込んでしまわないように、毎日毎日こうして笑っていた。


「良かったら、今度うちに来てくれないかな。姉さんも弥太郎に会いたがってるんだ」


 未だにあの日のことは鮮明に覚えている。凛々しくかっこいい彼女が泣き叫ぶ姿。あの顔は一生忘れられない。

 琉依の申し出に俺は小さく首を振る。


「そのうち、な」

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