第40話 逆

 ゴールネットが揺れる。転がるボール。100人弱の生徒が居るとは思えないほどの静寂。コート内に立つ生徒たちも全員が固まっている。

 ルールは破っていないはずだ。今のは得点にならないのかと審判に目を向けると、慌ててホイッスルを鳴らした。

 それでもグラウンドは異様な空気に包まれていた。歓声もなく、賞賛もなく、観客たちは互いに顔を見合わせ、ざわざわと耳障りな音が聞こえるだけ。

 まあ最初はこんなものか。俺の応援をして久瀬に目をつけられても嫌だろうし、神宮家を勘当された傷跡は未だに残っている。

 そんな中、空気も読まずに声を上げる生徒が1人。


「きゃー! 弥太郎くーん! かっこいいですわー!」


 当然ながら深愛だ。アウェイでも変わらない彼女の姿に思わず笑みがこぼれる。

 紫乃は流石にこの空気の中で大声は出せないものの、こちらに向けて小さくガッツポーズを見せる。

 俺も彼女の真似をして返すと、深愛が大きく手を挙げる。


「何をしていますの! 今こそ出番ですわよ!」


 彼女は俺──ではなく、逆サイドの観客に向けてそう放つ。直後、


「弥太郎様応援団! 全員声出せ!」

「オーオー! オオオー! オーオー!」


 と歌のような雄叫びのようなものがグラウンド中に響く。以前深愛の企てにより俺を『弥太郎様』などと呼んでいた深愛のクラスの連中だ。居たのか、あいつら。

 しかし、今は彼らの存在は大きな後押しになる。

 応援に感化され、次第に他の生徒たちもちらほらと歓声を上げる。

 軽く礼でも言っておこうと応援団?たちの元へと駆け寄ると、リーダー格の生徒が俺に気づき敬礼する。


「や、弥太郎様!」

「よう。見てたならもっと応援してくれよ」

「申し訳ございません! 深愛様より、『私が良しと言うまでは静かに見守ってくださいまし!』との命がありましたので!」

「なるほどそういう……」


 きっとこれまでの試合も見てくれてはいたのだろう。自分よりも目立たれても困るという深愛の考えが見える。

 俺が苦笑していると、背中にバシッと衝撃が走った。


「なんだ今のすげえな!」

「ドリブルしながらあの速さで走れる高校生はそういないよ。ナイスシュート」


 与一と琉依は俺を挟んで喜びを露わにする。


「まだ1点だ。これからだろ」

「それもそうだな! 次は俺が決める!」


 そもそも与一にパスを回せる隙があるかは疑問だが、やる気を下げないよう心の中に仕舞っておく。

 俺は応援団たちへ「この後も応援頼んだ」と伝え、試合を再開するためにコートへと戻る。

 そう、まだ1点目だ。この程度で久瀬が折れるはずもない。

 その証拠に俺への目はまだ変わらずに鋭い。そうでなければ困る。


 久瀬チームのボールで試合が再開すると、再び真っ先に久瀬へとボールが回り、久瀬と対峙する形になる。


「まぐれで喜んでんじゃねえよ」

「まぐれだと思ってるのか。めでたい頭だな」

「調子乗ってんじゃねえぞ!」


 人は感情が昂れば体のコントロールができなくなる生き物だ。中でも怒りに身を任せれば、体は強ばり思うように動かなくなる。

 足でボールを動かすサッカーという競技において、そんな心と体のズレは致命的だ。

 フェイントのつもりで触れたボールに余計な力が込められ、久瀬の足元からするりと抜ける。

 絶好の隙を見逃すはずもなく、俺は久瀬から離れたボールを奪取し、勢いそのままに2点目に繋げた。

 湧き上がる歓声を耳に再びポジションへと戻る。


 心の乱れから生まれたほんの些細なミス。これが普通のサッカーであればチームメイトがカバーして得点を阻止できたかもしれない。

 だが、これは最早サッカーではない。サッカーというスポーツを使った俺と久瀬の喧嘩だ。

 久瀬は俺に勝つつもりでいる。今のミスでさえ、本人は何が悪かったのか理解できずにいる。それどころか、ミスの原因を考えようとすらしていない。

 ただ、俺を潰すため。深愛と紫乃を手中に収めるため。

 その目的が悪いとは言わない。俺に勝つために死力を尽くすのなら目的なんて些事だ。

 しかし、久瀬の場合は違う。これがサッカーでの勝負だということを理解していない。俺に負けるはずがないと高を括り、その先のことしか考えていない。

 これでは勝負にすらならない。


「久瀬。チームメンバーに伝えたらどうだ? 全力で俺を潰せと」


 三度のマッチアップでそう助言する。


「ほざけ。てめえなんざ俺がぶっ殺してやる」


 当然ながら久瀬が俺の話に耳を傾けることはない。

 本当にダメだな。救いようがない。

 俺は誰かを救うためなら自分の犠牲は厭わない。それが俺を辱めた久瀬であろうと、俺の考えは変わらなかった。

 だが、深愛の一件で考えが変わった。紫乃の話で俺の考えは確固たるものとなった。

 後戻りができるとは言わない。それでも今ならまだ、傷は浅く済んだだろうに。

 俺は大きく息を吐いて、指先まで神経を集中させる。


「そうか。それなら、お前が後悔するまで全力で相手をしよう」


 最後の慈悲は蹴られた。ならば、俺はもう容赦しない。

 また何か言い返そうと口を開いた久瀬。その声は俺には届かない。

 久瀬の足元に収まっていたボールを掠め取り、3点目を決める。

 次のマッチアップでは久瀬がパスを受け取った瞬間にボールを奪い、4点目。その次は久瀬にパスが渡る前に空中で奪って5点目。

 俺から離れた位置でボールを受け取れば即座に距離を詰めて奪う。体格差で俺の動きを制御しようと手を広げればその合間を縫って奪う。前方に大きく蹴り出そうとすれば久瀬の足がボールに触れる前に奪う。

 久瀬がどんな小細工をしようと、その上から叩き潰して奪う。奪う。奪う。


 やがて、前半も残り2分。何度目かわからない俺と久瀬のマッチアップ。これが前半のラストプレーになるだろう。


「あの時とは逆だな」

「あ?」


 久瀬が俺から紫乃を奪ったと豪語していたあの日。絶対的な優位に立ち、周囲に圧倒的な差を見せつけ、自信と優越感に満ちた目で俺を見下す久瀬の姿。

 それが今や見る影もない。圧倒的な力の差に抗う術もなく、俺に弄ばれ続ける。欠片ほどの余裕も見えない苦悶の表情だ。


「憐れだな」

「黙れ! てめえみてえなカスに」

「もういいよ、お前」


 随分と疲れ果てた様子の久瀬からいとも容易くボールを奪う。まるでそこらの小学生とサッカーをしている気分だ。

 走りっぱなしで体力も残っていないのか、最早ドリブルをしていても追いつかれることはない。

 俺はそのままゴール前へと詰める。だが、そこに立ちはだかるやつがいた。

 琉依のマークをしていた生徒だ。あまりの差に見ていられなくなったか。サッカー部としてのプライドが勝ったか。

 まあ、どちらでも構わない。これも想定通りだ。

 俺はフリーになった琉依へとパスを放る。名前も知らないその生徒は唖然としているが、俺と久瀬は何も1対1で勝負しているわけじゃない。

 久瀬がそうしないからと俺もパスしないとでも思ったのか。本当にわかりやすくて助かる。

 ボールを受け取った琉依は難なくシュートを決め、同時に前半終了を告げるホイッスルが鳴った。

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