第37話 嵐の前の嵐

 いつもより少し早く目覚めた俺は屋敷内を散策していた。

 どこに向かうでもなく長い廊下をのんびりと歩く。窓から差し込む朝の日差しが心地よい。


「あれ? やー君だ。おはよ!」


 開いた窓から吹き込む風に目を細めていると、廊下の角から現れた人物に声をかけられる。


「悠か。おはよう」

「珍しいね、こんな時間に。どしたの?」

「ちょっと早く目が覚めてな。散歩していたんだ」

「おじいちゃんみたい」


 だいぶ失礼な挨拶を交わす日下部悠はスマホをちらりと見ると、とことことこちらに駆け寄ってくる。


「ねね、私も少し付き合っていい?」

「ああ、別にいいぞ」


 やったー!と両手を掲げる悠に顔を綻ばせる。相変わらず活気に溢れたやつだ。こちらまで元気がもらえる。

 ふらふらと歩いていると、悠が満面の笑みで俺の顔を覗き込む。


「なんか機嫌良いね。良いことでもあった?」


 悠にそう問われて、俺はどこか浮き足立っていることに気付いた。

 地に足がつかないと言うか、気分が高揚しているのが自分でもわかる。

 しかし、その理由を問われると……


「なんだろうな。よくわからない」

「もしかして、昨日来た女の子と関係ある感じ?」

「なんで知ってんだよ……」


 別に隠していたわけではないため構わないが、情報の回る早さには毎回驚かされる。思えば彼女たちは俺のこともいつの間にか知っていた。

 使用人たちにもこの屋敷に関わる情報がきちんと伝達されているという証だ。


「慧ちゃんが『弥太郎が新しい女を連れてきた』って教えてくれた」

「言い方が悪いな。そういうのじゃないんだよ」


 関心しかけたが、どうやらただの井戸端会議だったらしい。

 悠のことだからおかしな勘違いはしていないと思うが、変な誤解を生まないために一応説明しておくか。


「彼女は雪宮紫乃って言ってな。まあ、俺と似たような境遇で──」


 と説明していると、目の前にふらっと人影が現れた。

 噂をすれば何とやら。ちょうど今話していた紫乃が寝惚けた様子でにこりと笑う。


「あ、弥太郎だ。どこ行くの?」

「お前こそそんな格好でどこに行くんだよ」


 寝巻きの前がはだけて露出の多いキャミソール姿の紫乃は正直言って目に悪い。

 これでもかと胸が強調され、目のやり場に困る。視線を逃がして悠に向けると、彼女はどこか悲しげに自分の胸をぺたぺたと触っていた。まあ、成長は人それぞれだな。


「やー君、もしかしてこの子が……」

「ああ。今話していた雪宮紫乃だ」

「こんの裏切り者ー!」


 突然腹部を襲う鉄拳。見事に鳩尾に入り、俺は「ふぐっ」と情けない声を漏らす。


「深愛様がありながら浮気かー! このおっぱい星人めー!」

「ご、誤解だって。つか半分お前の八つ当たり」

「うるさーい! 私だって……私だって……うえぇん」


 怒っていたかと思えば今度は泣き始めた。朝から忙しいやつだな。別に気にすることでもないだろうに。女性にとっては重要なことなのかもしれないが。


「え? 弥太郎ってもしかしてその子と浮気して」

「ねえから。紫乃まで乗ってくるなよ」


 ジト目を向けてくる紫乃にも訂正を入れる。俺が深愛のことを好きだと知ってこんなことを言うのだから間違いなく悪ふざけだ。

 敵ばかりの状況に辟易しつつも紫乃が冗談を言えるくらいメンタルが快復したことを喜ばしくも思う。


「で、何してたんだよ」


 紫乃に前を隠すようジェスチャーを交えつつ改めて聞く。


「お手洗い探してたんだけど……お屋敷が広すぎて迷子になっちゃって」

「あー……かなり広いもんな」


 俺も今でこそある程度の配置は覚えたが、最初はトイレも風呂も食堂も探すのに苦労した。

 口で説明しても難しいだろうと思い、鈍い痛みが響く腹部を押さえながら足を踏み出すと、シュバッと悠の手が伸びてくる。


「私が行く!」

「いや、お前ら初対面だろ。俺だってトイレの場所くらい」

「2人きりにしたらしーちゃんが襲われるかもしれないじゃん!」

「襲わねえよ!」


 風評被害がどんどん広がる。俺を何だと思っているんだ。また説教でもしてやろうか。

 頭を抱える俺と共に紫乃も困惑した表情で「し、しーちゃん?」と反芻する。


「うん! 紫乃ちゃんだからしーちゃん」

「悠は勝手にあだ名をつけてるんだよ。俺の時もそうだった」

「私なりの仲良しの証なんだよ? やー君はもっと光栄に思うべきだね」

「はいはいどうも」


 辞めろと言って聞くようなやつでもないし、別に呼び方なんて気にもしていなかったため軽く流す。

 紫乃はあまり納得した様子ではないが、悠の距離の近さについては俺にもどうしようもない。

「行こ行こ!」と手を引かれる紫乃に半ば同情しつつ、曲がり角に消えていく2人の背中を見送った。

 嵐の前の静けさとは言うが、朝から大嵐みたいなやつだったな。



 スポーツ大会もいよいよ2日目。勝ち残ったクラスはこのままトーナメント表に沿って優勝を争い、初日に負けたクラスもエキシビションマッチとして数試合行われる。


「やっ。優勝が見えてきたね」


 昇降口に貼り出されたトーナメント表を眺めていると、琉依が声をかけてくる。


「俺たちの優勝は疑ってない。問題は」

「久瀬君かな?」


 琉依の言葉に黙って首肯する。久瀬のクラスも昨日の試合で全勝し、決勝へと着実に駒を進めている。

 このまま行けば当たるのは最終戦。しかし、俺から吹っかけた勝負は有耶無耶のままだ。


「本当にサッカーで勝敗をつけるつもり?」

「まあな。それがあいつにとっても都合がいいだろ。チーム戦ならまだ負けた言い訳ができる」

「はは、負ける気はないって感じだね」

「当然だ。どんなルールでも俺があいつに負けるビジョンが見えない」


 1対1の真っ向勝負なら俺が負けることはない。しかしチーム戦となれば俺にも手の届かない部分は出てくるし、久瀬にもまだ勝ちの目は残る。

 しかし、相手も同じことを考えているはずだ。俺なんかに負けるわけがないと信じてやまない。

 だから、本人が言っていたように殴り合いで力ずくでも俺を打ち負かそうと考えている可能性もある。

 どちらにせよ俺が負けることはないというのに。


「まあ、今日中にはわかることだ。あいつの学校での立場は今日で終わる」


 そう締め括ると、琉依は目を見開いて俺を見た。

 そしてふにゃりと目尻を下げる。


「なんだか懐かしいね。昔の弥太郎に戻ったみたいだ」


 昔の俺と言われ、少しドキリとする。琉依にとってそれが何を意図した言葉なのかは掴めないが、俺はふと昔のことを思い出し「悪い」と一言詫びを入れた。


「謝ることじゃないよ。僕は今の弥太郎の方が好きだからね」


 琉依とは小学生からの付き合いで紫乃よりも過ごした時間は長いが、未だに彼の考えは上手く汲み取れない。

 だから俺は琉依の言うことをそのまま信じるしかない。

 ありがとうと言うのも変な気がしてどう返そうかと考えていると、琉依は気にした様子もなくがっしりと肩を組む。


「弥太郎はそんなこと考えてる場合じゃないでしょ。僕たちとの勝負、忘れてないよね?」

「忘れてるわけないだろ。どうやって点をかっ攫うか作戦を立ててたんだよ」

「いいね、そう来なくちゃ。今のところ焼肉の予定だからよろしくね」

「ちょっと待て。ファミレスじゃないのか」

「折角だからもっと豪華にしようって話になったんだ。雲母さんにも了承はもらったよ」

「いつの間に……」


 負けている俺の許可もなく勝手に変更するとは鬼畜にも程がないか?

 しかし深愛も知っているとなれば、あのわがままお嬢様は今更ファミレスなんて許しはしないだろう。

 これはいよいよ勝つしかなくなったということだ。俄然燃えてきたな。

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