第35話 全てを受け入れるお嬢様
紫乃の話は聞いているだけで胸糞悪かった。
自分の娘を利己のために使う父親。女性を物として扱う久瀬。そして、彼女が幸せならば問題ないと関わりを絶った俺。
誰も紫乃のことを見ようとしない。紫乃の気持ちを考えない。反吐が出る。
紫乃に泣いていいと言ったが、俺には彼女の負った傷を受け止めきれない。
これは俺が招いた結果でもある。だから、久瀬との一件は俺が決着をつけるつもりだ。
だが、その先はどうなる。久瀬家と雪宮家の問題に第三者が立ち入ったところで相手にされない。紫乃を脅す時に使った動画とやらを押収すれば久瀬は排斥できるが、紫乃の父親をどうにかしなければ紫乃はあの家に縛り続けられる。
ここにきて神宮の権力を失ったことが響いてくるとは。やはり俺はどこまでも選択を誤っているらしい。
しばらくして落ち着きを取り戻した紫乃を宥め、深愛は俺の手を取る。
「弥太郎君、私たちで雪宮さんを助けますわよ! 雪宮さんを傷つける人たちは女の敵ですわ!」
俺はまとまらない思考を頭の奥に仕舞い、深愛に意識を向ける。深愛ならそう言い出すだろうとは思っていたし、俺もそのつもりではいる。
── その女も飽きるまで可愛がってやるよ。
久瀬の言葉が嫌でも頭をよぎる。
深愛"も"ということは、他にも同様の扱いを受けている人がいるということだ。
久瀬に対する嫌悪と憤怒がふつふつと湧き上がる。
「……そうだな。久瀬にも情けをかけようとしていたが撤回しよう。もうあいつには容赦しない」
ゲームだろうとスポーツだろうと、殴り合いでも殺し合いでも俺があいつに負けることはない。あとはどうやって久瀬遼雅を潰すか。それだけだ。
俺の返答に深愛は眉根を寄せてふっと笑う。かと思えば、今度はポップコーンの袋を持って紫乃の元へ。右往左往と忙しいやつだ。
「雪宮さんもおひとついかが?」
「え、いや私は……」
両手を前に出して断ろうとした紫乃は深愛と目を合わせて言葉を飲み込む。深愛のおねだりの視線には彼女も敵わないらしい。
「……いいの?」
深愛は元気よく頷き、紫乃の口にポップコーンをひとつ放る。
しゃくしゃくと咀嚼する音。にこりと笑う深愛。微笑ましい光景だ。
「これでポップコーン同盟結成ですわ! 女の敵のあんちくしょーをボコボコにしますわよ!」
「キャラ崩れてんぞ」
グッと拳を突き上げて高らかに宣言した深愛は、「そういえば」と何かを思い出し手を引っ込める。
「ひとつだけ訂正させていただきたいですわ」
俺と紫乃が同時に首を傾げる。紫乃の話に何か気になる点でもあっただろうか。
「弥太郎君は雪宮さんのことを忘れてなんていませんわ」
何を言い出すかと思えば、おかしなことを口走る。
「お前、それは」
「自分のせいで雪宮さんを幸せにできなかったと悩んでいましたわ。雪宮さんが幸せならそれでいいと関わることを拒んでいただけですのよ」
「……いちいち言わなくていいんだよ。恥ずかしい」
止める間もなく早口で言い切る彼女に頭を抱える。事実とはいえ、わざわざ言わなくても良かっただろうに。
頬杖をつく俺の心情など知らず、紫乃は深愛の影からひょこっと顔を出してこちらの様子を窺う。
「今の、ほんと?」
「……まあ」
別に嘘でもないため否定もできない。軽く相槌を打ち、飲みかけのジュースに手をつける。ほとんど中身が残っていなかったようで、ズコッと間抜けな音がする。
さらに恥ずかしさを重ねる俺に紫乃はふふっと声を漏らす。
「ありがと、弥太郎」
「……まあ」
「ピピー! ラブコメの波動を感知しましたわー! 雪宮さんでもそれは許されませんわー!」
「今のもダメなのかよ。紫乃が感謝しただけだろ」
「弥太郎君が鼻の下を伸ばしてましたわー!」
「伸ばしてねえよ」
伸ばしてないよな? 深愛が余計なことを言うから変な空気になっただけで、俺に非はないはずだ。
「大丈夫だよ、雲母さん。私はもう弥太郎……ううん、神宮君と寄りを戻す気はないから。それに、気持ちは嬉しいけど久瀬とのことで2人の手を借りるつもりもないんだ」
肩を竦める俺の代わりに紫乃が答える。
先程も言っていたが、彼女は本当に久瀬との一件を自分一人で解決するつもりらしい。
何の考えがあるかは定かではないが、彼女一人で久瀬をどうにかできるとは到底思えない。
どうやら深愛も同じ考えらしい。
「そうはいきませんわ。ポップコーン同盟として、私たちも協力させていただきますわよ」
「その、気持ちは嬉しいんだけど」
「ポップコーン、食べましたわよね?」
「え、それは」
「食べました、わよね?」
さっきから思っていたが、ポップコーン同盟って何だ。盃を交わす的なアレなのか?
グイグイと迫る深愛に紫乃もたじたじだ。ついには俺に助けを求める始末。
だが、俺も紫乃の話を聞いて放っておけるほど自分を捨てた記憶はない。紫乃の幸せを願う気持ちまでは失っていない。
「手段はどうあれ、雪宮が望むなら俺は手を貸すつもりだ。今のままが幸せだと言えば話は別だが」
「付け加えさせていただくと、そのよそよそしい呼び方も辞めてほしいですわね。言ってしまえば幼馴染ですのに、今更他人のフリをされても困りますわ」
「……だそうだ」
紫乃に合わせて呼び方を変えてみたが、深愛は気に入らなかったらしい。
どうにか覚悟を決めて絞り出した答えすら深愛の前では簡単に否定される。俺も経験したことだ。
深愛のわがままにはいつも手を焼くが、紫乃も俺の気持ちを理解してくれたことだろう。
「言ったではありませんか。もう我慢する必要はございませんのよ。雪宮さんの本当の気持ちを聞かせていただきたいですわ」
困惑する最中に繰り出される深愛の追撃。紫乃、お前の気持ちはわかるぞ。
俺もつい最近までは、と言うか今朝までは自分を犠牲に誰かの幸せを守ることばかり考えていた。
その前は神宮の名を失った俺に手を差し伸べる深愛を拒絶しようとしたこともあった。
深愛のため、誰かのためと考えた決断でも深愛は許してくれない。自分を犠牲に、自分の幸せを無下にするような決断を彼女は認めてくれない。
俺はそんな彼女に救われた。きっと、今の紫乃も同じだ。
紫乃はまた泣き出しそうな顔で恐る恐る問いかける。
「本当に、いいの?」
「ええ。私は困っている人を放ってはおきませんわ。それが淑女の嗜みですもの」
「もう、久瀬に怯えなくていいの?」
「雪宮さんが怯えることはもうありませんわ。ね、弥太郎君?」
どんな相手だろうと、深愛は困っている人を救う。俺にそうしてくれたように。それが好きな人の元許嫁でも。
深愛にそう問われると俺は頷くしかない。俺はわがままなお嬢様の従順な使用人だからな。
「久瀬のことは俺がどうにかするとして、紫乃の身が心配だな」
久瀬のプライドをへし折るのは簡単だが、あいつの怒りの矛先は紫乃に向けられる。
紫乃を護るには久瀬と2人きりの状況を作ることすら危険だ。
「そんなの、私のお屋敷に住まえばいいだけですわ」
俺がずっと悩んでいた問題点を深愛はさらりと流す。
俺も考えなかった手じゃないが、それはあまりに悪手だ。俺は慌てて口を挟む。
「深愛、その言葉の意味がわかってるのか?」
「ま! 私が何も知らないおバカさんだとでも仰いますの?」
「……」
「無言はやめてほしいですわ!?」
正直そう思ってる。だが、彼女は違うと言いたいらしい。
怪訝な目を向けていると、彼女はこほんと咳払いをする。
「弥太郎君を使用人として雇っている時点で神宮家には喧嘩を売っているようなものですわ。今更久瀬家や雪宮家が相手になっても変わりませんことよ」
「サラッととんでもないこと言うな」
流石はお嬢様。考え方もぶっ飛んでいる。
数年前、新たに起業したホテル業が失敗し落ち目になっている雪宮家はまだしも、久瀬家は今や神宮財閥を食らう勢いの大企業になりつつある。
芸能を中心として活動する『Mia Production.』と競合する点は少ないが、それでも喧嘩を売ってただで済む相手じゃない。
だというのに当の一人娘はそれが何だと言わんばかりにふんぞり返る。
「雪宮家でも久瀬家でも三大企業でもかかって来いですわ! 雲母家がまとめて相手をいたしますわよ!」
「泉田グループは関係ないだろ。巻き込んでやるな」
「あら? 泉田君は弥太郎君を意識していたとお伺いしましたから、てっきり両家はライバル意識があるのかとばかり」
「ライバル意識はあるだろうな。ただ、与一がそうだからって親もそうだとは限らないんだよ」
身勝手な大人たちが多い中、与一の親父さんは厳しくも誠実な人だ。あの親からどうして与一のような人間が生まれてきたのか不思議なくらいに。
中学時代に俺に付きまとっていたと知った親父さんにボコボコにされた与一が傷だらけで登校してきたこともあったしな。あれは傑作だった。
と、俺にしかわからない話はどうでもいいんだ。
「深愛がそう言うなら俺は止めないけどな。紫乃もそれでいいか?」
紫乃のための提案とはいえ、彼女の意思決定は大切だ。そう話を振ると、彼女はまた申し訳なさそうな顔をする。
「でも、それじゃあ雲母さんに迷惑が」
「そんな言い訳じゃ通らないって学んだろ。俺は紫乃がどうしたいか訊いてるんだ」
意思確認とは言うが、深愛が提案した時点でそれはもう決定事項のようなものだ。
どうせまた深愛のわがままが……
「ご安心ください。雲母家の誇りとして、必ず雪宮さんをお護りしますわ。久瀬君からも雪宮家からも」
なんか、俺の時と違うな。もっとこう、四の五の言わずに聞け!みたいなテンションで詰め寄るかとばかり。
「念の為に妊娠していないか検査もいたしましょう。きちんとした病院もご紹介しますわ」
「あ、ありがとう……雲母さん」
紫乃は深愛の言葉にまた泣き出してしまう。恐らく紫乃が最も危惧していたことなんだろうと察しがつく。
まあ、女性同士思うところもあるんだろうな。ここは深愛に任せよう。
俺は何も聞かなかったフリをしながら、使用人としてその場の片付けに興じた。
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