第31話 弥太郎と深愛
世のため人のために頑張れる人でありたい。他者の幸せを喜べる人でありたい。
最初はそんな気力に溢れていた気がする。
いつからだっただろうか。
そんな考えに自己犠牲が伴うようになってしまったのは。
他者の幸せのためなら自分の身を削り、未来を捨て、幸せを諦める。
最初は小さな自己嫌悪の積み重ねだったのかもしれない。
嫉妬の声。嫌悪の眼差し。いつだって出る杭は打たれ、皆平等にと並ばされる。人の努力も意に介さず、結果が全てと吐き捨てられる。
最初は気にしていなかった。誰に嫉妬されようと憎まれ嫌われようと、俺の努力の成果なのだと胸を張って言いきれた。
だが、中学に進学したことをきっかけに、俺は知ることになった。
紫乃。遥太郎。そして──
俺のせいで誰かが傷つく。俺が成果を出せば出すほど誰かが不幸になる。
その事実を思い知った時、俺は自分の幸せを諦めた。
彼女たちは努力家だった。俺と一緒に居たいから。認められたいから。負けたくないから。理由は各々違えど、妥協したり諦めたりするような人たちじゃなかった。
そんな彼女たちの姿を見ているのが好きだった。心から応援していた。成果が出れば一緒になって喜んだ。
その笑顔を見ている時が、喜びを分かち合っている時が俺の幸せだった。
だが、現実は残酷だった。理不尽は突然襲い来る。努力も笑顔も幸せも、全てを踏み躙った。
俺に釣り合わないと両親に叱責された紫乃。
俺と常に比べられ父さんに見放された遥太郎。
彼女たちは確かに努力した。俺と同じかそれ以上に頑張っていた。
それなのに、俺という存在が彼女たちの人生の邪魔をする。
だから、俺は思った。
俺が落ちこぼれのフリをすれば、俺が幸せを諦めれば、彼女たちは幸せになれるんだ、って。
「俺は別に、ヒーローになりたいんじゃない。世界中の人間全てが幸せになれるとも思ってない。試合に勝てば負けるやつもいる。2人の人間が同じやつを好きになれば、少なくとも一方は悲しい思いをする。誰もが幸せになれる世界はない。俺1人にそんな大層な力はない。そんなことはわかってる」
俺の長い長い自分語りを深愛は黙って聞いている。真剣に俺の目を見て、時折苦しげに眉をひそめながら。
「だけど、俺がちょっと我慢するだけで笑顔になれる人がいるなら、俺はそうしたい。紫乃たちのように、幸せになれる人がいるなら、俺はそうしたい」
トーナメントの試合で絶対に負けられない決意を持った相手が居たら、俺は喜んで負ける。俺と誰かが同じ人を好きになり、その誰かが本気で相手のことを好きだと言えば俺は快く譲る。
与一と久瀬のことを思い浮かべながら、俺はそう考える。
与一は中学時代、俺に勝つことに並々ならぬ決意を持って挑んできた。だから俺はあの時、わざとシュートを打たなかった。
久瀬と紫乃が俺の前に現れ付き合うと言い始めた時、2人が本気で愛し合っているのならそれが2人の幸せだと願い、俺は引き下がった。
「俺はできることなら、俺が関わった人間全てに幸せになってほしい。だから紫乃と久瀬の関係にも口出ししないし、父さんが俺を勘当しようと文句もない。それが彼らの幸せならそれでいい」
「あの人は弥太郎君の人生をめちゃくちゃにした人なんだよ。なのに、どうして……」
それまで静かにしていた深愛が声を絞り出す。
繋いだ手に力が籠っている。怒りや悲しみや他にもいろんな想いがその手を通して伝わってくる。
「別に、そんなことはどうでもいいんだ。あいつにもあいつなりの人生がある。人に迷惑をかけないなら邪魔する気もない」
「で、でも、さっきは……」
「あれは当然だろ。深愛を傷つけたんだから」
矛盾しているとは思う。
与一に負けることでチームメイトの琉依に迷惑をかけるとわかっていたのに、俺は負けることを選んだ。
久瀬の人生ですら気にかけていたのに、今はあいつを打ちのめす未来を想像している。
全ての人が幸せでいられる世界は存在しない。
俺が1人犠牲になったところで救える人は限られている。
だから俺は天秤にかける。
俺が与一に勝っていたなら、与一は周囲から『落ちこぼれに負けたやつ』だと思われる。俺の落ちこぼれというレッテルが剥がれれば、また紫乃たちが傷つくかもしれない。
だから俺は琉依を巻き込んだ。
久瀬は傍から見れば俺から紫乃を奪った人間だが、2人の幸せを思えばそれが一番良い選択だった。
だが、久瀬は俺だけに限らず深愛までも傷つけようとした。彼女を怯えさせ、生涯心に傷を負うような提案を示した。
だから俺は久瀬と敵対した。
「深愛が傷つくところは見たくない。深愛にはずっと笑っていてほしい。幸せでいてほしいんだ。そのためなら俺は、多少の犠牲は厭わない。深愛を守るためなら俺は──」
そう語り続けていた俺は途中で固まった。深愛が変な顔をしてぷるぷると震えていたからだ。
「どうした?」
「う、ううん、なんでもない! なんでもないよ!」
「嘘つけ。絶対何かあるだろ」
「ない、ほんとにないよ! もうこれ私のこと好きじゃんとか思ってないから! 結婚の日取りとか考えてないから! 今夜は子作りしなきゃとかそんな空気読めないこと全く思ってないから!」
「全部言ってんじゃねえか」
「はっ!」
はっ!じゃないんだよなぁ。前にもこんなことあっただろ。お家芸じゃないんだから。
深愛の気持ちは素直に嬉しい。彼女と居ると鼓動が早くなる。好きだと言われた時には自分でも驚く程に心臓が飛び跳ねた。
だが、今の俺では彼女の気持ちを受け止めきれない。
だから俺は誤魔化すことにした。
「あー、なんだ。あれだよ、従者としての使命と言うか……主人の幸せのために奮闘するのは当然だろ?」
「そっか……そうだよね。弥太郎君が私のこと、好きになってくれるはずないもんね。ずっと一方的な片想いだってわかってる。これからもずっとそうなんだって、わかってる……けど……」
深愛はぐずっと鼻をすする。目尻から零れた雫がつうっと頬を辿り、控えめに笑う口元に流れた。
「一度だけでいいから、弥太郎君に好きって言ってほしかったな……」
ああ、ダメだな。本当に。
笑っていてほしいと言った矢先にこれだ。こんなことで泣かせてどうするんだ。
俺はどうして深愛を守りたいと思ったのか。幸せでいてほしいと思ったのか。
ずっと胸の内にあったモヤモヤとした感情。深愛と一緒にいると昂るこの気持ちの正体をずっと知っていたはずなのに。
彼女の涙を拭い、頬に手を当てる。
綺麗なストロベリーブロンドの髪。大きな瞳に長いまつ毛。スッキリとした鼻筋は欧州人の雰囲気を感じさせる。それでいて憂心の表情を浮かべる様子は幼い子供のようだった。
「深愛……その、好き、だ」
「ほ、本当に?」
「ああ」
「どんなところが?」
「どんな……そうだな。自分の意思をはっきりと持って、凛としているところ、とか」
「それだけ?」
まだ足りないらしく、深愛はそう甘えてくる。
俺だって言いたいことは山ほどある。だが、上手く言葉にできない。
下手な日本語でどうにか言葉を紡いでいく。
「明るく笑うところも好きだ。こうして何かに託けて甘えるところも愛らしいと思う。綺麗な顔立ちも、華奢なのに女の子らしい体つきも……欲望に忠実で振り回される時間も嫌じゃない。こうして触れているだけで胸が高鳴ると言うか。声を聞いているだけで落ち着くと言うか。一緒にいるだけで気持ちが昂って、上手く言葉が──」
恥ずかしさから逸らしていた目を深愛に戻した瞬間、俺は言葉を喉の奥に引っ込めた。
ニタニタと笑う彼女の顔が目に入ったからだ。
「……お前、もしかしなくてもさっきのは演技か?」
「な、なんのことですわ〜?」
「お前……」
もう言葉も出ない。ギクッと聞こえてきそうなほどの図星っぷりだ。先程まで早まっていた鼓動が急に正常さを取り戻す。
いや、こういうところも含めて好きなのは間違いないんだが……雰囲気が壊れるとなんだかなぁという微妙な気持ちになる。
俺が微妙な顔をする一方で、深愛は頬を膨らませてバンッとベンチを叩く。
「弥太郎君のせいだからね!?」
「なんで怒ってんだよ」
「だって絶対私のこと好きだもん! それなのにまた『今の俺じゃ〜』とか考えてたんでしょ? そんなことどうでもいいから私を愛してくれてもいいのに! これ以上お預けされたらそろそろ本当に犯しちゃうよ!? 童貞卒業がイチャラブじゃなくて逆レイプでもいいの!?」
「女の子が童貞とかレイプとか言うな」
「……ちなみに、童貞だよね?」
「何の心配してんだ」
心配しなくても彼女の言う通りだ。中には既に……という人もいるかもしれないが、俺は高校生でも早いと思ってしまう。その時が来るのはもう少し先になるだろう。
大丈夫だと伝えると、深愛は嬉しそうに口角を上げた。喜んでいいのかどうなのか……。
次の話題に困り少しの沈黙を置いた後、深愛が口を開く。
「正直言うとね、弥太郎君の過去の話はどうでもいいんだ」
「……マジすか」
深愛が知りたがっているのだと思って語り続けていたが、どうやら深愛にとっては自分語りをする恥ずかしいやつだと思われていたと知る。恥ずかしいやら自分が恨めしいやら。
複雑な気持ちになっていると、彼女は「そうじゃなくて!」と訂正する。
「弥太郎君のことは何でも知りたい。弥太郎君の好きなもの。好きなこと。されたら嫌なこと。嫌いなもの。弥太郎君がどんなことを考えてて、私のことをどう思ってるのか。体の相性とか、その……大きさとか、何でも知りたい」
「最後のは余計な気が」
「でもね、弥太郎君は弥太郎君だから。弥太郎君が幸せを求めない人でもいいんだ。私のことを幸せにしようとしてくれるだけで嬉しいもん。それに、私が幸せをもらった分、私が弥太郎君を幸せにしてあげればいいかなって」
俺の考えを理解した上で、彼女はそう笑顔をこぼす。
「だからね。今は弥太郎君の気持ちが知れただけで充分かな」
ピッタリと寄り添う肩。固く結んだ2人の手。
そして、深愛は耳元で囁く。
「私の使用人さんとして、ずっと一緒に居てね」
「……ああ。使用人としてな」
優しい彼女は求めない。
恋人になりたいと駄々をこねれば、俺はそれを受け入れるだろう。
それでも彼女は今の関係で居てくれようとする。
だったら俺は、今俺にしなければいけないことをしよう。
彼女に本当の気持ちを伝えられるように。
全てが終わったら、きちんと伝えよう。
今度は俺から、深愛と一緒に居たいと。
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