第30話 抱擁するお嬢様

 久瀬がその場を去ると緊張の糸が切れたのか、深愛は力なく崩れ落ちそうになる。

 腰に手を回して倒れないように持ち上げてやると、深愛は目尻に涙を溜めて微笑む。


「怖かったですわ」

「ああ。無茶しすぎだ」


 深愛が歩けるようになるまで一緒にいてやりたいが、生憎試合の時間が迫っている。

 放っておくわけにもいかずどうしたものかと逡巡していると、先生への説明を終えた琉依たちが声をかけてくる。


「弥太郎は雲母さんと少し休んでなよ」

「1回戦くらい俺1人で片付けてきてやるよ」

「与一だけじゃ不安かもしれないけど、僕が何とかするからさ」

「おい!」


 2人も深愛を心配しているらしく、そんな漫談を繰り広げる。

 俺に任せて先に行け、的なフラグムードに少し嫌な予感が過ぎる。


「お前ら……あれだけ啖呵切って1回戦負けは恥ずかしいからやめてくれよ」

「応援くらいしろよ!」

「がんばれー」


 勝負の件は一旦流れてしまったが、久瀬があのまま終わるはずもない。俺を辱めるためならどんな勝負にも乗ってくる。去り際に見せたあの目はそういう目だ。

  そうなった時のためにも勝負の場は整えておきたい。

 俺の意図を汲んでくれたのか、琉依はこちらににこりと微笑む。


「心配しないでよ。9人でも絶対に勝つからさ」

「ちゃっかり俺のこと抜いてんじゃねーぞ」


 小学生の頃から知る琉依に言われると説得力がある。彼のサッカーに対する情熱と努力はずっとこの目で見てきた。全国の強豪相手となればまだしも、学校内のスポーツ大会で琉依が負ける姿は想像できない。

 そう考えると、久瀬に持ちかけた勝負は端から勝ちが決まっているようなものだ。別の方法を考えないとな。

 一先ずそちらは後で考えるとして、今は琉依の言葉に甘えることにした。


「わかった、任せる。与一もな」

「……おうよ」

「また後でね」


 既に人が集まっているコートへと駆けていく2人を見送り、改めて深愛に意識を向ける。


「さて、と。歩けそうか?」


 肩を支えられた彼女は俺に体重をかけたままふるふると否定する。

 俺たちを遠巻きに見てくる生徒は多数いるが、特段声をかけてくる者はいない。

 最初から一連の流れを見ていた生徒は心配そうに様子を窺い、今しがた通りかかった生徒はいつもと変わらない苦虫を噛み潰したような目を向けるだけ。

 このまま深愛の快復を待ってもいいが、今の彼女を衆目の元に晒し続けるのは何だか嫌な気分がした。

 俺は彼女が倒れないよう細心の注意を払いながら体勢を変え、深愛を背負って立ち上がる。


「や、弥太郎君!?」

「ちょっと座れる場所に移動するだけだ。我慢してくれ」

「そ、そういうことではなくて!」


 深愛がぱたぱたと暴れるせいで多少バランスを崩しながらも校舎の方へと向かう。中庭ならこの時間に人はいないだろうし、ベンチもあってちょうどいい。


「み、皆様に注目されてますわよ」

「もう今更だろ」

「お、重たいですわよね……?」

「全然。思ったほどじゃない」

「そ、それは喜んでいいことですの?」

「さあ、どうだろうな?」


 そうとぼけて見せると「意地悪ですわ」と呟き、俺の肩に顔を埋める深愛。

 彼女を背負っていても重さなんて感じない。正直、それどころじゃない。

 手が触れている太ももは細いのに女の子らしい柔らかさがあるし、深愛の声が耳元で聞こえてきてこそばゆいし、背中に当たる弾力はいつでも意識を持って行かれそうになる。

 こうして平静を装えているだけ上等だと自分を褒めたいくらいだ。軽い気持ちでおんぶなんてしなければよかったと後悔している。

 お姫様抱っこの方が幾分かマシだっただろうか。いや、それはそれで深愛に顔を見られて困ったことになる。

 自分の顔に触れなくても嫌というほどわかる。熱を持って真っ赤になっている俺の顔。この顔を見られなくてよかったと思うべきかもしれないな。


 中庭に到着し、ゆっくりと深愛を降ろす。まだ少しふらついてはいるものの、先程よりは自立できているようだ。

 彼女をベンチに座らせて、俺もその隣に腰を下ろす。

 思った通り、この時間の中庭には俺たち以外に誰もいない。静かな空間の中に小さく聞こえる歓声。それもどこか遠い世界のように感じる。

 こういう時、どう声をかけていいものか。大丈夫か。怖い思いをさせて悪かった。俺のために怒ってくれてありがとう。危険なことはしないでほしい。

 言いたいことはたくさんあるのに、どうにも声にならない。

 不思議な感覚だ。心臓の音がうるさい。呼吸が一定に動いてくれない。頭がぼーっとして正常な判断ができない。

 この前体調を崩した時に似ている。もしかすると、また体が不調を訴えているのかもしれない。

 気を落ち着かせるように無理やり呼吸を整えていると、深愛が先に静寂を破った。


「ごめんね」


 開口一番に出た言葉に俺は首を振る。


「弥太郎君を守ろうとして、逆に弥太郎君を傷つけた。何もできずに、弥太郎に守ってもらって。弥太郎君が我慢してたのに、私が弥太郎君の気持ちを踏みにじった」

「違う!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。彼女の言っていることは何もかも間違っている。彼女が謝ることは何一つない。


「深愛のせいじゃない。謝るのは俺の方だ。俺の事情に深愛を巻き込んで怖い思いをさせた。俺のわがままに巻き込んで嫌な思いをさせた。俺が違う選択をしていれば、怖い思いをさせずに済んだのに。俺が甘えなければ嫌な思いをさせずに済んだのに。俺が自分の幸せを求めなければ」

「弥太郎君……?」


 俺の名前を呼ぶ声にハッとして口を噤む。

 口をついて出た言葉は、どれも彼女への懺悔と後悔ばかり。

 感情に乗せて余計なことをベラベラと話してしまい、俺はまた自分が憎くなる。


「弥太郎君」


 もう一度俺を呼ぶ声。泣きじゃくる子供に母親が話しかけるように、懺悔する咎人を諭す修道女のように、穏やかで温かい声色。


「私ね、嫌だったんだ」


 いつの間にか爪が食い込むほど強く握っていた拳を彼女が優しく解く。


「弥太郎君、全然私を頼ってくれないんだもん。弥太郎君がお屋敷に来て、私は弥太郎君の味方だっていっぱい伝えたつもりだったのに、弥太郎君はずっと独りで背負い続けるから」


 手のひらについた爪痕をそっと撫でる。


「弥太郎君の居場所はここだよって教えたのに、弥太郎君はどこかに消えちゃいそうな顔をするから。私の幸せは弥太郎君が幸せになることだって告白したのに、弥太郎君は自分の幸せを選ばないから」


 小さいのに大きな手が俺の手を包み込む。


「弥太郎君のそういうところ、すごく嫌だったんだ。でも、弥太郎君のために何もできない私はもっと嫌だった。だから、弥太郎君が酷いことを言われて我慢できなかったんだ」

「だからって、あんな危ないこと」

「あらぁ? わがままを言えと仰ったのはどなただったかしらぁ?」

「お前なぁ……」


 そう言われては言い返せない。してやったりといった顔で笑う彼女もそれを理解している。ずるいやつだ。

 だから代わりにずっと気になっていたことを口にする。


「なんで、俺のためにそこまでするんだ」


 俺たちの関係なんてたかが知れてる。昔、親の勝手で許嫁候補として顔を合わせ、別の候補が見つかったらそれっきり。高校で再開しても会話もなく、少し前に俺が拾ってもらった。それだけの関係だ。

 それだけ、と形容するには歪かもしれないが、実際に共に過ごした時間は長くない。

 俺が深愛に感謝することはあれど、深愛が俺に施しを与えるようないわれはないはずだ。

 鼓動が早まる俺に対し、彼女はけろりと言い放つ。


「そんなの、好きって気持ち以外に何があるの?」

「は……? い、いや、好きってお前、それだけで」

「ずっと片想いしてたんだもん。もう10年だよ? これまで好き好きオーラ全開だったのに気付いてなかったの?」

「い、いやいや」

「私は弥太郎君が好き。だから弥太郎君が困ってたら助けるし、弥太郎君に好きになってほしいし、弥太郎君と寝てるだけでびちゃびちゃだったし、弥太郎君の子供を孕んで既成事実を作ってやるって必死だったんだよ。え、もしかしてただの痴女だと思われてたの?」

「痴女は間違ってないだろ……じゃなくてだな」


 告白と一緒にとんでもない暴露してきやがった。びちゃびちゃって何だよ怖えよ。下手したら寝てる間にキスだけじゃなくて貞操も奪われてたかもしれないと思うと……これだけ可愛い子なら別に悪くはないと思うが、今はそういう話じゃなくて。


「それだけなのか?」

「だけって酷くない? 私の生涯を懸けた恋なのに」

「いや、10年前ってあれだろ? 父さんに連れられて会ってた頃だろ?」

「うん、そうだよ。その頃からずっと好きだったもん。高校に入って弥太郎君を見かけた時は寝盗っちゃおうかと思ったくらい」

「お、おう……」


 俺が許嫁を寝盗られるのではなく、紫乃が許嫁を寝盗られる未来があったのか。そうならなくて本当に良かった。


「とにかく! 私は弥太郎君が好きなの。告白の返事をしてほしいとは言わない。でも、弥太郎君は独りじゃないってわかってほしい」


 急に真面目な顔でそんなことを言う深愛。寒暖差で風邪をひきそうだ。

 でも、彼女の言葉にはどこか安心感がある。深愛の淡い瞳に自然と目が吸い寄せられる。


「弥太郎君だって自由に生きていいんだよ。過去のしがらみとか、背負った想いとか、自分以外の誰かの気持ちとか、そんなの全部投げ捨てたって良いんだよ。私にわがまま言えって言っておいて、弥太郎君は何も言ってくれないもん。私にくらい甘えてほしいよ。他の誰でもなくて、私にだけでいいから弱音でも吐いてほしいな」


 さっきまでおかしなことを言っていたやつと同一人物だとは到底思えない。

 だけど、さっきの深愛は間違いなく彼女の本音で、今の言葉も紛うことなき彼女の本心だと伝わってくる。

 凍っていた心が溶けていくような、不思議な感覚。鎖から解き放たれて自由を得たような、心地よい感覚。


「……少しだけ、甘えてもいいか」

「うん、いいよ」


 俺はまだ、自分がどうしていいのか分からずにいる。

 自由に生きていい、幸せを求めていいと言われても、これまでの人生がそんな未来の邪魔をする。

 それでも求めてしまう。

 全てのしがらみから解放され、深愛と一緒に居られる未来はどれほど幸せなのだろう。

 今の俺には想像もできないが、目の前にある小さな幸せを求めるくらいなら、許されてもいいんじゃないか。


「少しだけ、抱きしめてもいいか?」


 恐る恐るそう聞くと、深愛はうーんと悩む素振りを見せた後、両手を大きく広げる。


「はい、どうぞ」

「……俺が求めてたものと違うんだが」

「私がそういう気分なの。ほら、おいで」


 俺の意見を聞く様子のない彼女に半ば呆れつつ……少し羨ましいと思いつつ、体を預ける。

 目を閉じて、深愛の温かさを感じる。

「わ、素直」と呟く彼女はどこか嬉しそうだ。


「どう? ふかふかして気持ちいいでしょ」

「ああ、前から気になってたが大きいな」

「えぇっ!?」

「何驚いてんだ。俺も男なんだよ」

「ふーん……ムッツリスケベだ」

「ガッツリスケベに言われたくねえよ」

「そんなに喋ったらくすぐったいよ。ちょっと濡れてきたかも」

「痴女め」


 馬鹿みたいな会話だ。シチュエーションが間違ってる。こんな時に話すことじゃない。

 なのに、不思議と心地よい。蕩けるような深愛の声。甘い匂い。温かい手。柔らかい体。とめどなく溢れる気持ち。その全てが俺を優しく包み込む。

 深愛と居ると安心する。同時に深愛を幸せにしたいと強く思う。

 抱きしめるように頭に手を置いて、ゆっくりと動かす。


「泣いてもいいよ。弥太郎君は頑張ったもん。独りでずっと闘ってきたんだから。私が許してあげる」

「……何の許可だよ。泣かねえよ」

「また私を悲しませるんだ? 私が泣いちゃおっかなぁ」

「泣け泣け。そしたら俺が胸を貸してやる」

「そんなことされたら上も下も大洪水だよ」

「なんで全部そっちの話になるんだ」


 俺も深愛の背中に手を伸ばす。華奢なのに、俺を包み込む彼女の体はとても大きく感じる。

 少しだけ。今だけは。

 深愛に触れていたい。彼女の愛に包まれていたい。

 好きだよ、と囁く彼女の声に、俺の目尻はほんのりと湿っていた。

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