第26話 弥太郎と紫乃
紫乃と出会いは7歳の頃。父さんに許嫁だと紹介されたことがきっかけだった。
許嫁の意味など知る由もない当時の俺は、新しい友達ができる、くらいの感覚で彼女とよく一緒に過ごしていた。
深愛と会う機会がなくなり、学校外の友人がいなくなっていた影響もある。父さんの言いつけで休みの日は日がな一日勉強や運動に明け暮れており、同年代の友人と遊べる機会は少なかった。
いや、思えば俺はあの頃から孤独を恐れていたのかもしれない。深愛という友人を失った心を無意識に埋めようとしていたのかも。
今となっては理由なんて思い出せない。
その頃から紫乃は明るく元気な女の子だった。
体を動かすことが大好きで、気が合う俺たちはすぐに仲良くなった。
休みの日でも父さんは紫乃と会うことだけは許可してくれたから、学校は違えど俺たちは毎週のように2人の時間を謳歌した。
夏になればそれぞれの母親に連れられ海へ出かけたり、冬になれば両家族皆でスキー旅行に行ったこともある。
そうしていつも一緒にいた俺たちが子供ながらに淡い恋心を抱いたのは必然だったのかもしれない。
きっかけは紫乃の一言だった。あの時のことは今でもよく覚えている。
「ねえ、弥太郎知ってる? 私たちって許嫁なんだよ」
許嫁だと紹介されたことはよく覚えていた。だが言葉の意味を知らない俺は素直にそう答える。
「許嫁って、いつか結婚する人たちのことを言うんだって」
彼女が言わんとするところを俺も何となく察した。俺たちは許嫁だ。だったら、俺と紫乃はいつか結婚することになるのだと。
「でも、ママは結婚は好きな人とするって言うんだ」
前後の文脈が繋がっておらず、俺は首を傾げた。
許嫁は結婚する。結婚は好きな人とする。
それらは俺にとっては同じ意味だったからだ。
何が違うのかと問いかけると、彼女は目を丸くして息を飲む。
溢れんばかりの涙を目元に溜めて、満面の笑みを見せた彼女は言う。
「私も……私も弥太郎が好き! 弥太郎と結婚したい!」
子供の戯言。だが、あの頃の俺たちにとっては本気の気持ちだ。
一緒の中学に通い、高校、大学。社会人になったら一緒に暮らし始めて、2人で幸せに生きていく。
どれほどの困難に直面しても2人なら乗り越えられる。どれほど辛いことがあっても2人なら幸せに変えられる。
そんな理想を語り合い、俺たちは笑っていた。
だが、理想は所詮理想だ。
中学生になって、俺たちの人生は大きく変わった。
俺が彼女の幸せを壊してしまった。
俺が彼女を好きにならなければ。俺がもっと先のことを考えられれば。俺がどこかで選択を間違えなければ。
今でもあの時の後悔が消えることはない。
※※
「弥太郎君は何に出場されますの?」
深愛がティーカップを片手に突然そう切り出す。
平日の仕事を終えてリラックスタイムを送る22時。最近はこうして深愛と2人きりで話す時間に充てることが増えた。
それまでの会話と繋がりのある内容でもなかったため、俺は何のことかと首を傾げる。
「秋のスポーツ大会ですわよ。今日のホームルームで出場競技を決められたでしょう?」
「ああ、その話か。俺はサッカーだ」
俺は別になんの競技でも構わないが、サッカー部の琉依とサッカー好きの与一の勧めで俺も混ぜてもらうことになった。
俺を敬遠している連中に囲まれてもお互いに居心地が悪いし、サッカーなら人数も多く俺が多少やらかしてもあの2人がカバーしてくれる。最善の選択だろう。
何かとサッカーに因縁があるなぁと中学生の頃を思い出していると、深愛がくすりと笑う。
「如月君に泉田君、それに弥太郎君。とても手強い相手ですわね」
「2人はともかく俺は戦力外だろ。精々足を引っ張らないように気をつけるだけだ」
「ま! そんなことを仰ってますとまた泉田君に怒られますわよ?」
「……また?」
気になった点を反芻すると、深愛はハッとして目を逸らす。
何故俺と与一の知り合ったきっかけを深愛が知っているのか。訝しむ目を向けると、下手な口笛を吹き始めた。
「まあいい。どうせ与一が話したんだろ。あいつも最近様子がおかしいしな」
風邪が治ってから数日。俺が休んだ日を境に与一は俺や深愛の会話を一歩引いて見ている節がある。
あいつ自身が嫌がっている様子はないし、本人が望んでいるならと放っておいてはいるが、親友としてはやはり気になる。
「泉田君、どこかおかしいんですの?」
「まあ……そうだな。嫌に大人しいって言うか」
「それっておかしいことですの……?」
以前なら俺が深愛と話す度に大騒ぎしていたが、最近はそれが見られない。
これがおかしいことかと聞かれると……
「いや、別にいいのか?」
「ですわ」
よくよく考えるとあいつは元がおかしかっただけで、今はむしろ正常な気がしてきた。不満を溜め込んでいる様子もないし、このままでいいのかもしれない。
「そんなことより、弥太郎君はサッカーが好きなんですの? 中学生の頃も球技大会にサッカー部門で出場したと伺いましたわ」
そんなこと呼ばわりされる与一に同情しながら少し考えてみる。
「……別にそんなことはないな。多少サボってもバレないから楽ってだけだ」
「あら、おサボりはいけませんわよ。たかがゲームでもされどゲームですわ。折角ですから優勝を目指しませんと!」
深愛は拳を握って力説するが、俺はあまり乗り気になれない。
手を抜くのがかっこいいとか、真面目にやるのがかっこ悪いとか、そんな古びた考えを持っているわけじゃない。むしろ、深愛のようにどんなことにも全力で取り組む姿勢は素晴らしいことだと思う。
ただ、それは俺の望むところじゃない。
真面目に、堅実に、何事にも全力で。そうやって生きていた結果、理不尽な不幸に見舞われる人がいた。
だから俺は成果を出すことをやめた。俺が結果を示すことで他の誰かの人生が狂ってしまう。
そうなるくらいなら、俺が諦めてしまった方がマシだった。
だが、たまに考えてしまう。自由に生きた未来のことを。何のしがらみもなく、自分のやりたいことをやりたいようにやる未来を。
毎日が笑顔に溢れ、あっという間に日々が過ぎていき、充足感を胸に眠りにつく。その隣には愛する人や友人がいて、喜びも苦しみも分かち合う。誰もが求める理想的な人生だ。
人はそれを幸せと呼ぶのかもしれない。
俺には決して叶わない理想という名の妄想だ。
きっとその人生を俺が歩めば、多くのものを犠牲にして自由を掴む人生になるのだろう。
挫折することも壁に当たることもあるかもしれないが、苦難を乗り越えることもまた楽しみだと感じられる。
だが、その隣には誰もいない。喜びを分かち合う仲間も悲しみを一緒に背負ってくれる友人もいない。
俺は、それが怖くて仕方ない。
「……弥太郎君?」
ぼーっとしてしまっていたため、深愛が心配そうに顔を覗き込む。
良くないな。紫乃と会ってからというもの、気がつけば昔のことばかり考えてしまう。
俺は前屈みになった深愛の頭にポンと手を乗せる。
「まあ、そうだな。あいつら程じゃないがやるだけやってみるか」
彼女を心配させまいと軽く話を合わせると、深愛は「それがいいですわ」と苦笑する。
深愛がどうして与一から俺の過去を聞いたのか、どこまで知ったのかはわからないが、俺の口からおめおめと話すことはない。
俺は空っぽになったティーカップに追加の紅茶を注ぐ。
保温性の高いティーポットから注がれた紅茶は再びもくもくと湯気を立てる。
「深愛は何に出るんだ?」
止まってしまった会話を繋げるように同じ質問を返す。
「私はバレーボールに出場しますわ。涙も汗も若いファイトで青空に遠く叫びますわ!」
「チョイスが古いな」
「スプーン1杯で驚きの白さですわ!」
「それ違うアタックな」
小ボケを挟み楽しそうに笑う深愛の姿に安堵する。
彼女はいつか、俺の全てを知ってしまう時がくるかもしれない。
その時、彼女ならきっと俺が自由に生きられるようにと全力で後押しをしてくれる。
だが、俺は彼女の気持ちには応えられない。
俺は自分の生き方を変えられない。誰かを犠牲にして得る幸せを求めるような生き方はできない。
だから、せめて今だけは何も知らない彼女と、こうして他愛ない話で笑える時間を大切にしたい。
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