第21話 私たちの幸せ

 月明かりが照らす静かな廊下。周囲に誰もいないことを確認してゆっくりと扉を開ける。

 弥太郎君のお部屋。それまで客間のひとつでしかなかったただのお部屋も弥太郎君の荷物が増え、なんとなく彼の匂いがする……気がする。

 一先ず誰にも見られず弥太郎君のお部屋に入り込めたことに安堵し、ほっと胸を撫で下ろした。


 弥太郎君は……まだ寝ているみたいだ。すうすうと呼吸の音だけが聞こえてくる。

 彼を起こさないようにそっと近付き、彼の寝顔を覗き見る。

 いつもは大人っぽくてかっこいい彼も寝ている姿は無垢な子どものようで、そのギャップがまた私の胸を貫く。


「ふふっ、可愛いなぁ」


 こんなに可愛い寝顔を見せられては、一緒になって眠ってしまう気持ちも今ならわからないでもない。それでも悠ちゃんのことは許さないけど。

 あの子は人との距離が近過ぎる。同い歳ってこともあるけれど、弥太郎君と悠ちゃんは気が合いそうだなって前々から思っていた。

 だから近付けないように根回しをしていたけど……むしろ、そんなことをしていたからかもしれない。あれは一種の罰だったのかも。


「今なら誰もいないし……いいよね?」


 襲うつもりはないと豪語しておきながら、弥太郎君の顔を見ると我慢ができなくなる。これまで我慢し続けてきた反動なのかもしれない。

 流石に反省したし淫らなことはしないけれど、ちょっと触れるくらい……いいよね?


 弥太郎君の頬をつんつんとつつく。女の子でも嫉妬しちゃうくらい柔らかくて、スベスベしている。子どもっていうか、赤ちゃんみたいだ。

 布団の外に投げ出された手に触れる。こっちは頬とは違ってゴツゴツしていて、男の子の手だなって思わされる。


「この手で触られたら……うへへ」


 おっといけない、また涎が。どうやら私は弥太郎君エネルギーが過剰供給されると暴走してしまうみたいだ。

 程々に摂取しようと弥太郎君の手をにぎにぎしていると、突然その手に掴まれる。

「ぴゃっ!」と自分でも驚くほどの奇声に似た声が漏れる。いきなりだったから怖すぎる。ホラー映画さながらだ。

 私はそのまま力強く引っ張られ、布団の中に引きずり込まれた。


「や、弥太郎君……?」


 大変なことになった。寝顔を堪能して襲っちゃおうかなぁなんて考えていると、いきなり布団に引きずり込まれて抱き枕のように抱きしめられてしまった。

 弥太郎君が起きた様子はない。どうやら寝惚けているらしい。ここに居たのが私でよかったと心底思う。

 そんな冷静な私とは裏腹に、心臓は今にも飛び出しそうなほど昂っていた。

 私が攻める時は何ともないのに、攻められると弱ってしまう。これは新たな発見だ。ちょっと興奮してきた。

 彼の手が私の背中へ。そのまま頭へ。優しく撫でるように手が動く。くすぐったくて気持ち良い。猫にでもなった気分だ。どうしてもにやけてしまう。

 さっきまで触れていた指が私の髪を梳く。もう随分切っていない、背中まで伸びた長い髪。この長さを保つのは大変だけれど、毎日欠かさずお手入れしていて本当に良かった。


「弥太郎君」


 背中に頭に髪にと彼の大きな手で至る所を触れられた私は、少しずつ我慢ができなくなっていた。

 反省してると言っておきながら煩悩には逆らえない。

 すっと首を伸ばして、彼の頬に口付けをする。


「好き」


 予期せず口からこぼれた言葉。口にしないように心の奥に仕舞っていたはずの感情が弾けた。

 彼が本当に眠っているのなら、何を言っても大丈夫なはずだ。彼にこの気持ちは伝わらない。

 ううん、彼はこの気持ちを聞かなかったことにしなきゃいけない。

 月明かりを受ける彼の顔は真っ赤に染まっていた。


「弥太郎君……実は起きてるでしょ」


 ビクッと体が震える。図星みたいだ。

 やっぱり、おかしいと思った。私を抱きしめたり頭を撫でたり、私がしてほしいことをしてくれるなんて。寝惚けているからって、そんな都合の良いことが起こるはずがない。

 それでも彼は何事もなかったかのように狸寝入りを続ける。


(ふふ〜ん、いいのかなぁ〜?)


 弥太郎君がそのつもりなら私にも考えがある。彼よりも私の方が淫らで下心に満ちているって教えてあげよう。


「──♪」


 私は鼻歌を歌いながら弥太郎君の体に思いっきりしがみつく。わざと胸を当てるように、脚も絡めて逃げられないようにしよう。


「ねえ、どうかな? 私、結構成長したと思うんだけど」


 これでも胸の大きさにはそこそこの自信がある。そりゃあシャーリーには負けちゃうけど、同年代の中では大きい方だと自負している。

 弥太郎君の厚い胸板と私の柔らかい胸がぴたりとくっつく。

 ドキドキと早い鼓動が伝わる。これが彼のものなのか私のものなのかはわからない。自分から誘っておきながら、私の鼓動も早まる一方だ。

 それでも彼は動じない。それならば、と次の手を打つ。

 彼の寝間着のボタンをいくつか外して、はだけた胸元に顔をうずめる。


「弥太郎君も成長したよね。結構鍛えてる?」


 弥太郎君の匂いを思いっきり堪能する。これは私の方が我慢できなくなってしまいそうだ。

 舌を出してちろりと胸を舐める。と、直後に弥太郎君はガバッと起き上がる。


「もう無理だ、限界だ……」

「ふっふっふ。まだまだだね、弥太郎君」


 私に隙を見せるとどうなるか思い知ったみたいだ。彼は降参だと両手を挙げる。

 せっかくのイチャイチャチャンスを逃すまいと私はその腕をぎゅっと抱きしめた。


「弥太郎君、珍しいことするね。甘えたくなったの? もしかして、人肌恋しくなったとか?」

「そんなに近付くと風邪うつるぞ」

「いいもん。その時は弥太郎君に看病してもらうから」


 彼と過ごせる時間が増えるなら病気になるのも悪くないとすら思う。どんなにキツくても彼が居てくれたら乗り越えられる。そんな根拠のない確信がある。

 腕を引っ込めようとする彼を私は逃がさない。

 胸に挟んでみたり、指を搦めてみたり、耳元に吐息を吹きかけてみたり。その度に彼が小さな反応を見せるものだから、私のことを意識してくれてるんだと嬉しくなる。

 こんな小さな喜びすら、これまで我慢してきた私にとっては幸せな時間だ。


「それで、もういいの? 甘えん坊の弥太郎君」

「別に甘えてねえって」

「じゃあ何で抱きしめてくれたのかなぁ? 弥太郎君は誰にでもあんなことする人なのかな?」

「そんなわけないだろ」


 少しだけ語気を強める彼にドキリとする。

 口にした彼ですら少し驚いているようだった。

 彼は誤魔化すように窓の外へと視線を逃がす。


「あーなんだ。ちょっと深愛に仕返しがしたくなった」


 絶対に嘘だ。彼は何かを誤魔化す時には必ず「あー」とか「なんだ」とか言う癖がある。

 彼も寂しくなることがあるんだと思うと少し嬉しくなる。その寂しさを埋める相手が私だったことは最早光栄とすら思う。

 この感情は、恋? それとも崇拝? たぶん、その両方だ。

 私にとって彼は私の人生を変えた神様みたいな人で、私の初恋の相手だから。

 彼の言葉を嘘だと知った上で、私は彼に合わせる。


「そっかそっか。もっと仕返ししてもいいよ」

「もう充分だ」

「えー? 私はまだ物足りないけどなぁ」

「何で仕返しされて喜んでんだよ」

「さあ、何ででしょう?」


 薄暗く静かな部屋に2人。雰囲気も良い感じだ。どうせならもっと先へ……と思うけれど、彼はまだ私に手出しはしないだろう。

 私もそうだ。いっそ本気で襲ってしまえば彼は無理に拒んだりはしない。

 でも、まだその時じゃない。彼が私への罪悪感を払拭して、彼が自分の幸せを求めて、ようやくその時は来る。

 だからまだ、我慢の時だ。大丈夫、我慢には慣れている。たくさんの我慢にほんの少しのわがままがあれば今は充分だ。


「さっきは……怒って悪かったな」


 遠くを見つめる彼がボソッと呟く。

 その言葉の指すところを理解し、私の顔はみるみる赤くなる。


「もしかして、覚えてるの?」

「ぼんやりと、だけどな。慧さんまで正座させてた気がして……俺は明日が怖い」


 弥太郎君はそう言って肩を竦めるけれど、鮫ちゃんはそれくらいじゃ怒らないし、何より私はそれどころじゃない。


「も、もしかしてその前のことも……?」

「ああ、なんか騒がしかったよな。それで目が覚めて──」

「無理やり弥太郎君の舌を舐めまわしたことも!?」

「お前そんなことしてたのか!?」


 しまった、と思った時にはもう遅い。興奮するとつい余計なことを口走ってしまう。

 前にもこんなことがあった。あの時もつい勢いに任せて欲望を垂れ流してしまった。

 彼も同じことを考えていたようで、くくっと喉を鳴らす。


「そういや助けてもらった時もこんな感じだったな」

「わ、忘れましたわー」

「ははっ、嘘つけ。そんな棒読みがあるか」


 そうやって笑う彼の表情はどこか柔らかい。

 彼がお屋敷に住むようになって1週間。その毎日はこれまでの人生を忘れるくらい濃密で、あっという間だった気もするし、まだ1週間しか経ってないんだという驚きもある。

 やっぱり弥太郎君がいる生活はとても幸せでかけがえのないものなんだって再認識する。


「仕方ないんだもん。弥太郎君と一緒にいると気持ちが溢れちゃうんだから」

「それは仕方ないのか?」

「うん、仕方ない。今もうっかり襲わないように我慢してるんだから」

「うっかりってなんだ。そういう習性なのか」

「そう……なのかも?」

「襲われないように気をつけないとな」


 私が弥太郎君に恋焦がれてしまうのは私の本能なのかもしれない。

 私が好きだとアピールする傍らいつもと変わらず泰然とした態度を取る彼に私は少しムッとしてしまう。


「私に襲われるの嫌なんだ」

「嫌って言うか……」


 ふふ、困ってる困ってる。優しい弥太郎君は嫌だときっぱり言いきれない。言いきられても私が悲しくなるだけなんだけど。

 言い淀んでいた彼はそっぽを向いて、ぽつり。


「次からは……俺の意識がある時にしてくれ」


 と。

 その言葉の真意がすっと入ってこなくて、私は小首を傾げる。

 けれど、すぐにその意味を理解して嬉しくなる。


「え、いいの?」

「程々にな」

「じゃあ、い、今からでも!?」

「調子に乗るな」


 頭をコツンと小突かれる。なんだか恋人同士みたいでにやけてしまう。

 この時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。


「今日はお嬢様口調じゃないんだな」

「やっぱり、弥太郎君はこっちの方が好きですの?」

「やっぱりってなんだよ」

 

 やっぱり忘れてる。弥太郎君のことだからそうだろうとは思ってた。

 あの頃から意識してるのは私だけ。ううん、少し違うかな。

 今は少しだけ、彼も私を意識してくれてる気がする。


「私がこんな話し方になったのは弥太郎君のせいなんだよ」

「俺?」

「うん。弥太郎君がお淑やかで真っ直ぐな人が好きって言うから、私なりに勉強したんだよ」

「方向性間違ってないか?」

「それは……自分でも薄々わかってますわ」


 弥太郎君の好みに合わせるという私の作戦は見事に失敗してると思う。

 でも、これはこれで悪くないと思ってる。お嬢様の私は、自分を奮い立たせる勇気の証でもあるから。


「まあ、どんな話し方でも深愛は深愛だ。似非お嬢様みたいな口調は面白いし、今の深愛も……面白い」

「それ、褒めてないよね?」

「褒めてる褒めてる」


 口調が面白いは褒め言葉じゃないと思うんだけど……弥太郎君が嫌じゃないなら些事だ。

 それからも私たちは言葉を紡いでいく。寝れば忘れてしまいそうな話だけれど、彼の声を聞いているだけでも心地よい。

 他愛のない話の中、次第に夜は更けていく。

 いつもより長く起きているせいか、くあっと欠伸が出てしまう。


「そろそろ寝るか」

「……まだ起きてたい」

「明日も学校だろ。俺も明日は行けそうだし、そろそろ寝ないと響くぞ」


 楽しい時間はあっという間だ。1日が300時間くらいあって、290時間は彼と一緒に居られればいいのに。それでも物足りないくらいだ。

 底なしの欲望が叶うはずもなく、彼は私の頭を撫でる。


「部屋に戻るか?」

「……一緒に寝てもいいの?」


 どうせ断られると思いながらも淡い期待を込めて聞いてみる。

 しかし、私の期待は良い意味で裏切られた。


「まあ、今日くらいは。俺もそんな気分なんだよ」

「い、いいの? ほんとに?」

「襲うのはなしだからな」

「そ、そんなことしないもん! ちょっと弥太郎君が寝てる間に既成事実を作るだけ!」

「前言撤回だ。部屋に戻れ」


 またまたやってしまった。我慢だなんだと言いながら、私の煩悩は正直だ。

 どうしようと焦る私に彼は「冗談だ」と笑う。私は本気だったけど。


「ご、ごめんなさい……弥太郎君が甘えてくれるのが珍しくて……」

「別にいいだろ、たまには。この幸せを噛み締めたいって思っても」


 幸せ。彼は確かにそう言った。


「弥太郎君は今、幸せなの?」

「そう……なのか?」

「えぇ……今自分で言ってたのに」


 とぼけてるのか本気なのか……この反応は後者っぽい。

 彼は遠い空を見上げる。雲ひとつない暗い晴天に昇る青白い光。

 太陽に比べればなんてことない光でも、彼はどこか眩しそうに目を細める。


「幸せなのかもな。よくわからない。俺はどんな時に幸せだと思うんだろうな。俺は幸せを感じられるようになるのか」


 弥太郎君は寂しそうに、その気持ちを隠すように微笑む。

 彼は自分の幸せを望まない。私はそう思っていた。

 最初は確かにそうだったのかもしれない。

 けれど、それが当たり前になるうちに、彼は自分の幸せを忘れてしまっていた。

 幸せとは何なのか。難しい質問だと思う。きっと答えは存在しない。

 それでも私は言い切れる。


「大丈夫だよ。私が幸せにするから」


 彼がその答えを知らないのなら、私が見つければいい。私が作ればいい。

 彼が幸せだと思える時間を。幸せだったと言える人生を。

 そのために今、私は生きている。

 あの日、弥太郎君によって人生を変えられた私は、彼を幸せにするために生きてきた。

 それが私の幸せだ。

 彼は泣き出しそうな笑顔で「ありがとう」と告げた。


 どちらからともなく、私たちは布団に潜る。

 この時間も終わりかと思うと心がはち切れてしまいそうだ。

 それでもきっと、毎日こうして眠れる日が来るんだって信じて。


「弥太郎君、おやすみ」


 今は我慢を受け入れる。

 彼が心から自分の幸せを求める日が来ると信じて。


「おやすみ、深愛」


 彼はそっと私の額にキスをする。いきなりのことで混乱する私を他所に、彼はそのまま眠りについた。

 私にとってその日は忘れられない夜で、一睡もできない夜になった。

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