第20話 私の幸せ
私はただ、彼に幸せになってほしいだけだった。
人の幸せを望む彼は、いつも自分を犠牲にしてしまう。
彼について調べていくうちに、彼がこれまで何を考え、何をしてきたのか、大まかではあるけれどわかってきた。
許嫁だった雪宮紫乃さんのこと。弟の遥太郎君のこと。そして、ご両親のこと。
その結果自分が勘当され後ろ指をさされようとも、彼は人の幸せを願い続けた。
それが彼の望み。弥太郎君の本質だ。
彼は自己犠牲に慣れすぎている。
私との関わりを避けようとしたのもお屋敷から出ようとしていたのもきっとそのせいだ。
私に迷惑をかけてしまうから。自分の人生に巻き込んでしまうから。そんなことばかり考えて、彼は独りになろうとする。
周囲の目を気にして、世間体を気にして、相手の気持ちを気にして、それでも彼は自分の心には目を向けようとしない。
彼ならきっと独りでも生きていけるんだと思う。自分を隠して、どこか遠い土地で、ひっそりと生きて、たった独りで死んでいく。
勘当されてから彼が思い描いていたのは、まさにそういう人生だったんだと思う。
大衆が忌避するような生き方でも彼は簡単に受け入れる。彼にはそんな生き方ができるからだ。私には到底真似できない。
だって私は、彼がいないとダメだから。私には彼が全てだから。
彼に許嫁ができたと聞いた時、私は長らく塞ぎ込んだ。
シャーリーや両親、みんなが傍に居てくれなければ、私は一生悲しみに打ちひしがれて生きていたんだと思う。
私にとって、私の人生にとって、彼はそれほどに大きな存在だった。
シャーリーでもお父さんでもお母さんでもダメなんだ。
私の人生を変えてくれた彼が居なければ、私は生きる意味がない。彼が幸せでなければ意味がない。
だから私は我慢した。弥太郎君と一緒に居たい想いを隠して、彼の幸せを願った。
彼がそうして生きていたように、私も彼が幸せならそれでいいと思っていた。
それなのに彼は、自分の幸せを望まない。
彼が笑って過ごせなければ、私は上手く笑えない。
彼が幸せになれなければ、私も幸せになれないのに。
それなのに彼は、自分の幸せを望まない。
だったら、私は──
※※
「お嬢様。そろそろご就寝のお時間です」
シャーリーにそう声をかけられ、私は壁掛け時計を仰ぎ見る。時刻は23時を回っていた。
いつもなら宿題を済ませ、ベッドに横になろうかとする時間だ。けれど今日の私は、ソファに腰を下ろしたまま物思いに耽けっていた。
「ねえ、シャーリー。私がやったことは間違っていたと思う?」
いつもは気丈に振る舞うけれど、今日ばかりは不安で仕方なかった。
弥太郎君が知ったら本気で嫌がるかもしれない。憤慨して私のことを嫌いになるかもしれない。
弥太郎君はきっと、私を巻き込むことを恐れている。だから、勝手に首を突っ込んだ私に彼がどんな態度を示すのか想像ができなかった。
シャーリーは顎に手を当てて少しだけ考える素振りを見せると、真っ直ぐに私を捉える。
「私はお嬢様の行う行為、口にする発言全てを肯定したいと存じております。しかし……」
やっぱり、シャーリーもあまり好ましいとは思っていないみたいだ。
「弥太郎様が病床に伏している最中に接吻を強要するのは如何なものかと」
「そっちじゃないから! 私だってあれはやり過ぎたって反省してるもん!」
私が言いたいのはその話じゃない。あれは私も悪かったと思ってる。
自制ができなくなったとはいえ、弥太郎君の唇を勝手に奪うなんて自分でも驚いた。まさかそこまで発情していたなんて。部屋を追い出された後、すぐに下着を取り替えたことは言うまでもない。
「弥太郎君が大変な時に騒がせちゃったのは悪いと思ってるし、明日には謝りに行くつもりだよ。私が言いたいのはその話じゃなくて……」
「弥太郎様は罪悪感に苛まれるかと存じます」
私が言わんとすることを察してくれたのか、はたまた最初から意地悪を言っていただけなのか、彼女は私の想像通りの言葉を口にする。
「やっぱり、そうだよね。これは弥太郎君のためじゃない。弥太郎君のことを思えば、現状維持のまま学校生活を終えるべきだったと思う」
たかが高校の3年間。長い人生の中で見るとほんの僅かな時間だ。
彼はきっと、誰に蔑まれようと、好奇の目を浴びようと、ありのままの自分を、ありのままの生活を受け入れようとしていた。
少し自分が我慢すれば、他のみんなは傷つかなくて済むから。私や如月君や泉田君がこれ以上私情に巻き込まれなくて済むから。
でも、私は我慢ならなかった。たかが3年間、されど3年間。高校生の今を諦める彼を放っておけない。人生に一度しかない貴重な3年間の幸せを捨てようとする彼を見過ごせなかった。
「これは私のためなんだ。私のわがままでしかないんだよ。弥太郎君に笑ってほしい。諦めなくて良かったって思ってほしい。どこにいても独りじゃないんだって知ってほしい。私がずっと傍にいるって、私のことを見てほしい」
彼を独りにしたくない。叶うなら、私がずっと隣にいたい。
「弥太郎君が諦めようとした高校生っていう時間は、生涯かけがえのない宝物になるって証明してあげたい」
同じ3年間でも今と10年後じゃ全然違う。
今だからできること。高校生にしか作れない思い出。俗に青春と呼ばれる期間。
彼が諦めたこれまでの青春を私が感じさせてあげたい。そして、私も彼を通してこれまで空っぽだった心を満たしたい。
そのために今日、私は行動を起こした。
だけどそれは、彼の望まない人生だ。今の彼が素直に受け止めてくれるのか、私には自信がない。
ぐちゃぐちゃに混ざった弱音と願望を吐き出す私にシャーリーはそっと手を触れる。
細くてしなやかなのにどこか大きく感じるその手は私の頬を優しく包み込む。
「私には弥太郎様の御心、その奥底まではわかりません。ですが、昔の彼と今の彼を知っている私は、弥太郎様のことを少しは理解できているつもりです」
私の付き人として決して私と同列に並ぼうとしなかった彼女が珍しく私の隣に腰を下ろす。
ゆっくりと私の手を握って彼女は続ける。
「弥太郎様は自分のためにと頑張ってくれた相手を軽蔑するような御方ではないでしょう? 罪悪感を抱いても、最後は必ず理解を示してくださる御方でしょう? あの御方の優しさとは、人のもたらす善意も悪意も全て平等に受け入れる懐の深さにあると私は感じているのです」
普段の彼女は見せない砕けた笑顔で彼女は私を抱きしめる。
「ずっと弥太郎様を想い続けてきた深愛ならばわかるはずです。私よりもずっと彼のことを見てきた貴女ならば」
私の付き人であり、お姉ちゃんのようでもあった彼女は、誰よりも私のことを知っている。
弥太郎君と離れ離れになっても私が折れずに済んだのは彼女の影響が大きい。
そんな彼女に甘えて私もシャーリーに抱きつく。彼女の胸の中はとても安心できて心地よい。
しばらくして、彼女は私を離した。
「さて、私はそろそろお暇します」
いつものシャーリーだ。凛々しくてかっこいい私の憧れの女性。
立ち上がった彼女は扉に向かって数歩移動し、すぐにまた立ち止まる。
「ああ……ですが、その前に少しばかりお屋敷の見回りをしてまいります。よもや弥太郎様のお部屋に侵入する不届き者がいるやもしれませんので」
その言葉の意図するところを私はすぐに察した。
「行ってもいい……のかな?」
夕方の件もあって少し不安だ。体調の優れない弥太郎君をこれ以上邪魔しても申し訳ない。
しり込みする私を励ますように彼女は言う。
「お約束をされたのでしょう? 弥太郎様はお約束を反故にされるような御方ではありませんよ」
パッと喜びの声を上げる私に彼女は囁く。
「それに今なら、弥太郎様を襲い放題ですよ」
「お、襲わないから! もう、私を節操なしみたいに言って……」
意地悪な彼女にムキになって言い返す。こうしていると本物のお姉ちゃんのように感じる。たまに意地悪になる彼女も私は好きだ。
彼女の言うように襲いたい気持ちもあるけれど、今はもっと求めていることがある。
「今度はちゃんと、弥太郎君からしてほしいもん……」
それが今の私の密かな願いだ。
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