許嫁に裏切られ家族にも見捨てられた俺が下心全開のお嬢様に拾われて幸せになるまで

第8話 子供っぽいお嬢様

「悪い、待たせたな」

「ほんとですわよ。早く食べないと冷めちゃいますわ」

　ぷんすかと怒る雲母の前にはきつね色の焦げ目が入ったホットサンドが湯気を立てていた。

　一方の日替わり定食は煮込みハンバーグだったようで、シチューボウルの中でソースがグツグツと音を立てていた。まだ熱々のままで食べられそうだ。

「さて。いただきますわよ」

「そうだな」

　立ち込める匂いに食欲がそそられ、飛びつくようにハンバーグを頬張る。きのこの風味が漂う濃厚なソースが肉厚なハンバーグとマッチしていてものすごく美味い。

　味が濃いおかげでご飯も進む。平皿に盛られた白米をかき込み、またハンバーグを口に運ぶ。止まらない無限ループだ。

「ふふっ。弥太郎君、美味しそうに食べますわね」

　……食べることに夢中になっていた。雲母に笑われて少し恥ずかしくなる。

　水を飲んで一度気を落ち着かせる。

「わ、悪い。ちょっとはしたなかったか」

「気にしなくていいですわ。美味しいものは美味しく食べた方がいいですもの」

　そう優しい言葉をかけてくれる雲母の一口は小さい。男女の違いもあるが、育ちの良さが窺える。

　小さな一口をごくりと飲み込むと、彼女はビーフシチューに視線を落とす。

「そんなに美味しいのなら気になりますわね？」

　雲母はわざとらしく首を傾げる。一口食べさせろってことか。

　元々雲母が注文したホットサンドもシェアしてもらう予定だったし、金も払えない俺に断る権利はない。

　シチューボウルを雲母に寄せようとすると、彼女は「ま！」と声を上げる。

「いけませんわ。私、生憎両手が塞がっておりますの」

　何が生憎だ。両手でホットサンドを握っているだけだろうに。

「それ、置けばいいんじゃないか？」

「そうしたい気持ちはやまやまやまなんですけれど、ホットサンドが離してくれませんの」

「やまが一個多いな。そのホットサンド、接着剤でも着いてんのか」

「失礼ですわよ、弥太郎君。ホットサンドさんが私から離れたくないと仰ってるだけですわ」

　ツッコミどころが多いな。意味がわからない言い訳を並べているが、要は俺が食べさせろってことだろ。

　別に昨日もやったことだ。今更恥ずかしがることもない。

　フォークでハンバーグを切るとじんわりと肉汁が溢れ出す。断面にもしっかりとソースを塗り、机に垂れないよう手を添える。

「ほら」

　ホットサンドを置いて顔を近付ける雲母。離れたくないとは何だったのか。

　一口サイズのハンバーグが口の中に消えていく。咀嚼した時に飛び出した肉汁が口元から垂れてくる。子供っぽい彼女に俺は口角を上げた。

　卓上の紙ナプキンを手渡すと、口元を隠してこちらを睨む。

「わはらないれくらはい」

「はいはい。まずは飲み込もうな」

　それがまたムキになった子供のようで微笑ましくなる。お嬢様らしく振舞ってもまだまだ子供だな。

「お味はどうだ？」

「もう、恥ずかしくてわかりませんわよ……」

「昨日子供扱いした仕返しだ」

　こんな俺も子供っぽい気がするが、あまり悪い気分じゃない。昔雲母と過ごした時間を思い出して楽しくなる。

　むうっと口を尖らせる雲母が今度はホットサンドをこちらに向ける。

「はい、弥太郎君の番ですわよ」

「いやー、俺は別に」

「食べたいと仰っていたではありませんか？　弥太郎君がどうしてもと仰るので私は自分が食べたいものを我慢してホットサンドを注文しましたのよ？　それなのに食べていただけないなんて、私悲しくて今にも涙がこぼれてしまいそうですわ」

「いやいや、それはお前が」

「ああっ！　私お箸より重たいものは持てませんの！　腕がっ！　腕が限界ですわ！」

「嘘つけ！」

　よくもまあつらつらとそんな嘘が出てくるものだ。ホットサンドを頼んだのも雲母の提案だっただろうに。

　だがしかし、俺が食べたいと言ったことに変わりはない。それに、とろりと伸びたチーズが食欲を掻き立てて喉をごくりと鳴らす。

　目の前に用意された三大欲求には勝てず、俺はホットサンドへと首を伸ばす。

　ザクっと小気味よい音が鳴る。そして何故か目の鼻の先には雲母の顔があった。

　長いまつ毛がぱちぱちと動き、にこりと八の字に曲がる。

「なんか近くないか」

「ま！　私が食べられてしまうかと思いましたわ」

「お前が寄ってきたんだろ！」

　飛び退くように腰を深く下ろす。ホットサンドが熱いのか顔が熱を帯びている。

　美味しいものを食べたはずなのに味なんてまるでわからない。

　同じく椅子に座り直した雲母は満足げだ。

「仕返し、ですわよ？　私の気持ちがわかりまして？」

「ああ、もう存分に」

　本当に痛いほど思い知った。一時の気の迷いで雲母にいたずらをするのはやめよう。俺には敵わない相手だ。

　俺は悔しさを噛み締めるようにハンバーグを噛み締めた。

「ふう。楽しいお食事でしたわ」

　食事を終えた頃、雲母はティーカップを片手にくすくすと笑い始める。

「なんだよ急に」

「まさか弥太郎君が食べさせあいっこをしてくれるとは思いませんでしたもの。もっと嫌がられるとばかり」

「そんなの昨日もしてただろ。慣れりゃあれくらい……」

「あら？　昨日とは状況が違いましてよ？」

　雲母はそう言ってふっと他所に視線を向ける。

　追いかけた先にはこちらをチラチラと見ている高校生くらいのお客さんの姿が。その隣の席では2人のOLがこちらを見てはキャッキャと盛り上がっている。

「……俺、もしかしてやっちまったか？」

「まぁ、今頃お気付きで？」

　ニヤニヤと笑う雲母。やられた、と思うには時間はかからなかった。

　昨日は誰も見ていない公園だからよかった。だが、ここは普通のカフェだ。他にもお客さんがいることをすっかり忘れていた。

　いや、そこまでならまだいい。俺は慌てて店内を見渡す。

（与一は……いないのか）

　最も警戒すべき相手はちょうど席を外しているようだった。休憩にでも行ったのだろうか。

　ともあれよかった。他のお客さんならまだしも、あいつにさっきの光景を見られでもしたらと思うとゾッとする。今度こそ本当に生きては帰れない。

「お客様、何かお探しですか？」

「あー、いえ。大丈夫で──」

　隣からかけられた声にピタリと動きを止める。やべ、俺死んだかも。

「あら、泉田君。どうされましたの？」

　突然現れた店員──与一の登場に俺はゆっくりと顔を伏せる。ダメだ。目を合わせるな。ここは死んだふりしかない。

「せっかく来てくれたんだし、特別メニューを持ってきたんだ」

「いっ」

　普通に会話しながら足を踏みやがった。そのままぐりぐりと体重をかけてくる。

　悲鳴をあげる足。声を押し殺す俺。なるほど、悪いことをするとバチが当たるとは本当だったんだな。

「まあ！　ケーキですわよ、弥太郎君！」

「食後のデザートにどうぞ」

　いつにない爽やかな声とは対照的に足への負担は重くのしかかる。

「でもよろしいのかしら？　私たち、何も知らずにこのお店に来ただけですのに」

「気にしないでくれよ。俺の奢りだからさ。大親友である弥太郎のご友人におもてなしをしたいって思っただけだよ」

　こいつ……わざとらしい抑揚を付けやがって。

　大親友なんだから裏切るな、お前と雲母はただの友人だろと聞こえてくるようだ。

「そういうことなら、ありがたく頂戴しますわ。ありがとうございます、泉田君」

「い、いやいや！　全然気にしないでくれって！」

　ああ、顔を見なくてもわかる。雲母の無垢な笑顔にあてられてデレデレと顔を綻ばせる与一の姿が見える。

「そ、それじゃあまた学校で、雲母さん」

「ええ、また明日ですわ」

「弥太郎もな」

「お、おう……」

　ドスの効いた声と共に解放される足。じんじんと痛みが残っている。

　さっきのは挨拶ではない、死刑宣告だ。明日までに死に方を考えてこいと言われている。

　気性の荒い与一のことだ。きちんと弁明しなければ本当に海に沈められかねない。言い訳よりも墓を用意する方が現実的──

「弥太郎君？　どうかされましたの？」

「い、いや。何でもないよHAHAHA」

「絶対何かありましたわね。体調でも悪いんですの？」

「ほ、本当に大丈夫だ。気にするな」

　顔を近づけようとする雲母を手で制止する。これ以上雲母と距離が近づけば校門に俺の首が並ぶことになる。

　それでもなお心配する雲母を安心させるのは大変だったが、その場はどうにか何事もなくケーキを食べて店を出た。

　その日、俺は人生で初めて学校に行きたくないと思うことになった。