第3話 メイドを躾けるお嬢様
『Mia Production.』
俺が生まれた神宮財閥と並ぶ、経済に多大な影響を与えている三大企業の一角。音楽や芸能の大手プロダクションで、今や世界的にもその名を知らない者はいない。
メディアへの露出も積極的で、父親である社長はよくニュースのコメンテーターや経営学の講師としてメディアでも取り上げられている。
また、母親は現役の女優として『Mia Production.』に所属し、ドラマや映画でよく目にするし、数年前には海外デビューを果たしたと取り沙汰されていた。
神宮財閥が医療機器を初めとした最先端技術工業を主としているなら、『Mia Production.』は芸能やメディアを主体とした発展を遂げている。
さらには雲母の祖父が在日スペイン大使として現役で活躍し、芸能活動だけでなく政治への影響力も大きい。
そんな世界的女優と大手プロダクションの社長というビッグカップルが結婚し、生まれたのがこの雲母深愛だ。
彼女は彼女で音楽の才能が開花し、有名アーティストへの楽曲提供やオリジナル曲の配信なんかも行っている。
街を歩けば雲母の曲が流れ、アパレル店に立ち寄れば雲母がモデルの宣材写真が貼られている。
俺が雲母のことを知るのも家同士の繋がりがあるからに限らない。
芸能とサブカルを繋げ、蔑まれていたオタク文化を大衆向けにした雲母深愛という少女を知らない者はいないんだ。
「終わった……何もかも……」
そんな雲母家の令嬢である雲母深愛は、今まさに俺の目の前で絶望に打ちひしがれていた。
純粋で高潔な雲母の姿はどこへやら、そこにはダンゴムシのように縮こまる女の子の姿があった。
俺も恥ずかしいところを見られたし、自業自得とはいえ少しだけ同情する。
「あー、なんだ。飲みかけで良ければココアでも飲むか?」
「飲む! ですわ!」
「立ち直り早すぎんだろ。そんなにココアが好きなのか?」
「弥太郎君と間接キスのチャンス! ですわ!」
「そういうのは口に出すべきじゃないんだよな」
俺の手からカップをひったくり鼻息を荒くする雲母に俺のツッコミは届いちゃいない。
目を見開き血眼で俺が口をつけた部分を凝視する。ここまで来るとむしろ怖い。
「もう取り繕わなくていいのか?」
「開き直りですわ……ここまで見られては生きては帰せませんわ……どんな手を使っても弥太郎君を手に入れてみせますわ……」
「怖えよ。サスペンスでしか聞かねえよそれ」
冷静にツッコミをしている場合じゃないかもしれない。今の雲母ならこのまま俺を監禁してもおかしくない。
間接キスに躍起になっている隙に逃げた方がいいな。
俺は横目で雲母の動向を窺いつつ、ひっそりとベッドから立ち上がる。
音を立てないよう抜き足差し足で部屋の扉に近付き、ドアノブに手をかけた。
(雲母は……まだカップに夢中だな)
ゆっくりとドアノブを回して慎重に扉を開ける。
幸いにして音はならなかった。このままいけば──
「どこへ行くおつもりで?」
意識外からの声にびくりと体が反応する。雲母に意識が向いていたせいで正面への警戒が疎かになっていた。
開けた扉の向こう側に俺の行く手を阻む人物が1人。
メイド服に身を包んだその女性は、俺と目が合うとにこりと微笑む。
「お嬢様!」
「ひゃうっ!」
パリン!
何かが割れる音に引き寄せられるように雲母の方へ視線を向ける。
俺とメイドが「あっ」と声を揃えるのにそう時間はかからなかった。
雲母が大事に抱えていたカップは、彼女の足元で無惨な姿で発見された。
「もう、シャーリーったら! あんなに大きな声を出したらびっくりしちゃいますわよ!」
「申し訳ございません、お嬢様」
雲母の部屋に連れ戻された俺は、ソファに腰をかけてそんな会話を聞いていた。
雲母は頬をぷっくりと膨らませてメイドのシャーリーを叱りつける。
「良いですこと? 淑女たるもの、いつでも優雅に冷静に、ですわ。大きな声を上げては淑女らしくありませんもの。心の余裕は人生を豊かにしますのよ。冷静さを失い心を乱しては人生にも乱れが生じてしまうものですわ」
「流石はお嬢様です」
ふふんと胸を張る雲母。傍から見ても素晴らしい人心掌握術だな。シャーリーもこうして雲母に洗脳されたのだろうか。
状況だけ見るとシャーリーに非は無いしお前が言うなと言いたくなるが、言ってることは別に間違っちゃいない。
「せっかく弥太郎君と間接キスするチャンスだったのに……」
この本音さえなければ、の話だが。一番心を乱しているのは雲母ではないだろうか。
しかし、流石は雲母に長らく仕えているシャーリー。すぐさま落ち込む雲母のフォローに回る。
「ご安心を、お嬢様。間接キスくらい大した問題ではありません。弥太郎様を監禁すればキスでもベロチューでも好きなだけできるんですから」
「させねえよ」
「そ、それもそうですわね! 流石はシャーリーですわ!」
「聞けよ」
俺の声は聞こえていないのか、雲母とシャーリーは勝手に盛り上がっている。
今のうちに逃げ出したいものだが、シャーリーも一緒となるとそれは難しいだろう。
そもそも、雲母家はそこらの小さな遊園地ばりの敷地面積を持つ大豪邸だ。屋敷から出られたところで逃げ切るのは難しい。
まったくどうしたものかと考え込んでいると、シャーリーが「ところで」とこちらに向き直る。
「ご挨拶が遅れましたね。お久しゅうございます、弥太郎様」
神宮家と雲母家はよく三大企業として並べられるが、その実取り仕切っているカテゴリは全く異なり、ライバル企業ではなく協力関係にすらある。
雲母と面識があったのもそのためだ。顔を合わせたのは久々だが、幼い頃はよく父親に連れられて、親同士が話す間に2人で遊んでいたものだ。
思えばあれも婚約相手の候補として付き合わされていたのだろう。
そして雲母と顔馴染みということは、そのお付であるシャーリーことシャーロットとも面識があるわけで。
「ああ、シャーリーも元気そうで」
「弥太郎様、体調はいかがですか?」
「問題ない。シャーリーにも迷惑をかけたな」
「いえ。お嬢様のご命令とあらば」
シャーリーはそう言って深々と頭を下げる。
表情はピクリとも動かず、相変わらずお堅い人だという印象がある。
それなのに見た目はあまり変わった印象がないのは不思議な話だ。
「時に弥太郎様はこれからどうされるおつもりで?」
どうもこうも家を追い出された俺に帰る場所はない。だからといって監禁生活もできれば願い下げだ。
まずは、そうだな……
「昨日、どこかに財布を落としたらしいんだ。まずはそれを探すことからだな」
「ま! それは大変ですわ! 今すぐ人手を用意して捜索に」
「いや、そこまでしてもらうわけにはいかない。これ以上恩を増やされても返し切れないぞ」
助けてもらった恩を返すにも何年後になるやら……と逡巡したが、
「大丈夫ですわ! 体で払っていただければ、それだけで大満足ですわよ!」
うん、雲母はそう言うよな。と心配は杞憂に終わる。他に心配することはありそうだけどな。俺の貞操とか。
このままでは本当に食われかねない。見た目はクォーターの美人だし逆玉の輿だし文句はないが、雲母の目はなんか怖い。野獣の眼光とはまさにこのこと。
助け舟でも出してくれないだろうかとシャーリーに目をやる。
俺の視線に気付いたシャーリーは何かを察してくれたようで、雲母にバレない程度にこくりと小さく頷く。
「お嬢様、おひとつご意見が」
「何かしら?」
「弥太郎様の落し物を一緒に探されてはいかがですか?」
「弥太郎君とご一緒に?」
「はい。あまり私たちばかり動いてしまうと、弥太郎様も申し訳なく思ってしまうのではないかと。恩義を押し付けるような行為はかえって弥太郎様にはご迷惑になってしまいますよ」
おお、流石はシャーリー。俺が負い目を感じないために配慮してくれている。
雲母の優しさも嬉しい話だが、先程も言ったように家も金もない今の俺に恩返しは難しい。これ以上迷惑をかけたくないという気持ちもある。
何より、世話をかけ過ぎると本当に俺の身の安全が脅かされかねない。
一方の雲母はあまり納得していない様子で頭を悩ませていた。
「ですが……それでは弥太郎君に恩返しができませんわ」
俺へ恩返し? 恩恵を受けているのは俺の方だと思うんだが……。
よくわからないことを言い始める雲母にシャーリーは優しく語りかける。
「弥太郎様のしたいことをお手伝いするのも立派な恩返しですよ。そもそも弥太郎様は受けた恩を返さないからと憤るようなお方ではありません」
ね?と同意を求める視線が向けられる。その恩が何を指すのかはさっぱりだが、俺もいちいち売った恩を取り立てるような性分じゃない。
「そうだな。こうして助けてくれただけでもありがたい限りだ。財布探しの件も雲母が手伝ってくれるなら百人力だな」
「弥太郎君……」
「それにお嬢様。弥太郎様と2人きりでデートをするチャンスですよ。お財布を探すついでに暗がりに連れ込んで襲えばいいのです。既成事実を作ってしまえばこちらのものですよ」
「おう、ちょっと待とうか」
「な、なるほどですわ! 先端に穴を開けておくアレですわね!」
「どこで仕入れたんだその知識。嘘だよな? マジでやめろよ?」
まずい。良い方向に話が進んでいたと思ったのに急転直下してしまった。
さっきの話は訂正しよう。この主にしてこのメイドあり。シャーリーも充分に危険な存在だった。
「そうと決まれば参りましょう、弥太郎君! 私たちの宝物を探しに!」
「財布の話だよな? 信用していいんだよな?」
「あ、ちょっとだけお待ちくださいまし。せっかくのお出かけですからおめかしして参りますわ。弥太郎君のお荷物はそちらに纏めておりますので、よろしければこちらでお着替えくださいまし」
意気揚々と部屋を後にする雲母とシャーリーの背中を見送り、俺は1人ぶるりと震えていた。
そういえば俺は昨日までの制服姿ではなく、男性用の寝具に身を包んでいる。
「まさか着替えまで……いやいや、そんなまさかな」
念の為、人通りの少ない道は避けようと心に誓った。
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