第8話 葛湯
赤兄は、蘇我倉山田石川麻呂の兄弟で、蘇我入鹿(鞍作)とは従兄弟にあたる人物だ。石川麻呂の死後は、蘇我氏の中でも特によく、朝廷にその名が知れているようだ。
その蘇我赤兄は最近、やたらと有間皇子と親しげな様子。今日も庭先でのんびり過ごす有間皇子に、笑顔で話しかけにいっていた。会話力の凄まじい男だ。
そんな彼は、用事があったのか有間の居る場所から目と鼻の先にある葛城の執務室へと吸い込まれるように入っていった。しかし次の瞬間、その扉がドオン!と開き、中から後退りして尻餅をつく赤兄と、剣を鞘から抜いてブンブン振り回す葛城がお出ましした。どうやら葛城は全身全霊で赤兄にキレ散らかしているようだった。
「お主の言うことは全く信に足らぬ!!!大王の意に逆らうとは!!!やはりお前には、かの賊臣と同じ血が流れておるのだな!!!卑しい奴め!!!」
周囲にも害を与えかねないような、烈火の如くご立腹の葛城を背後から抱きしめ、止めようとしているのは内臣・中臣鎌足である。
「おやめください殿下、剣をしまってくださいませ!!!」
その様子に恐れ慄きつつも、座って地面に頭を擦り付けて謝罪していたのは赤兄だった。
「蘇我赤兄一生の不覚、この命差し出すつもりでございます」
「殿下、そんな醜態を晒すものではありません。無礼な赤兄には改めて処遇を申し付けましょう。冷静になってください。」
鎌足に促されると、土下座姿の赤兄を一瞥した葛城は
「...ああ。何でまだそこにいるんだ。さっさと失せろ。私の前に2度と姿を現すな!」
と言って、剣を投げ捨てて執務室に戻った。明らかに怒っている人がそうするように、大きな音を立てて扉を閉めていた。
土下座から立ち上がって着物の裾についた土埃を叩いた赤兄の目線の先には、先程元気よく挨拶した彼が、慎ましそうに立っていた。
彼__________有間皇子は、眉をさげたような表情で赤兄の元へ駆け寄った。
「赤兄...か?」
「...
突然目の前に現れた有間に対して、赤兄は改めて跪いて平伏した。そんな彼を有間は立ち上がらせて、
「まあ良い。少し歩こうではないか。」
と言って、一緒に宮中の庭を歩き始めた。軒先に氷柱があると同時に、昼間とはいえ雪の残る庭をザクザクと踏みしめながら進む。少し時間が経ったところで、有間は口を開いた。
「先ほどは皇太子の怒りを買っていたようだな。」
白い吐息が空に消える。
「お見苦しいところをお見せ致しました。」
「いやいや。これは私の推測だが、臣下の務めを果たそうとして怒りを買うのはそなたが理不尽だ。」
有間は、憔悴しきっている赤兄に心底同情しているようだ。これには、赤兄も心打たれた。
「そんなことを言っていただけるとは、面目次第もございません。」
追い討ちをかけるように、有間はきっと赤兄が欲しがっているであろう言葉を選んだ。
「そなたの兄弟や従兄弟が皇太子に誅されたとて、そなたはそなただからなぁ。」
赤兄はその言葉を聞いて、思わず救いを求めるような目をした。そして有間と向き合って、寒空に凍える指先の赤くなった手を握った。
「殿下にそう言って頂けるとは。...もしや殿下の方が大王の器にお合いになられるやもしれません。」
赤兄にこう言われた有間だったが、サッと手を振り解く。
「しっ、そんな話をこんなところでするな。...私は大して魅力もなく誰からも相手にされぬ皇子よ。」
「そんなことございません。現に今私が殿下の目の前にいるではないですか。お相手ならとことん致しますよ。」
改めて手を取った赤兄は、有間の手の甲をさすって温めながら、うんうんと頷く。
人懐こい赤兄に絆された有間は、
「大王が留守になる2日後の午後、2人で話をしないか?」
と、赤兄を誘った。大王は常々、有間が勧めた温泉に行きたいと言うので、2日後の11月3日、温泉旅行に行き羽を伸ばす!と声高に宣言していたのだった。
「分かりました。おそらくお怒りの皇太子殿下も、内臣の計らいで大王にお供するでしょうから、2人の秘密を作るにはちょうど良い日取りかもしれませんな...!」
秘密だなんて白々しい、と言う有間だったが、普段より明らかに口角が上がっている様子が窺えた。庭の近くで落ち合うということにして、ひとまず今日のところはそれぞれの帰路についた。
そして11月3日。飛鳥のお留守番を任された有間は、いつものように飛鳥板蓋宮にある庭先に出ていた。でも今日は寂しくない。彼には赤兄がいるのだ。
少し早めに外に待っていると、「皇子様〜!!!」と、白い息を吐きつつ手を振りながら駆け寄ってくる男が1人。蘇我赤兄である。
「では、宮の外の楼に行こうか。」
有間が言うと、赤兄は無言で頷いて、2人は飛鳥板蓋宮の近くにある古びた楼閣を訪れた。
調度品も古めな楼閣の中に入って、2人は向かい合いながら机を挟んで座った。すると、赤兄はおもむろに懐から折り畳まれた紙を取り出した。中に何か入っている。
「寒いし身体があったまると思って、葛粉を持ってきたのですよ。お湯に溶かせば葛湯になります。皇子様はいかがですか?」
「おお、葛湯か。では葛湯でも飲みながら話そうか。」
赤兄は葛湯を用意すると、有間に差し出して先に飲んで見せた。毒が入っていないことをしっかりアピールしてから、咳払いをして話し始める。
「あの日は皇太子殿下に大王の失策について意見を申していたのです。度重なる宮都造営、そして税の増額と、民にこれ以上ない負担を強いております。このままでは民の反感を買い続け、いずれ反乱が起こってもおかしくはないでしょう。」
有間はウンウンと頷いて聞いている。
「そういう旨を皇太子に申し上げていたんだな。」
「そうです。そうしたら執務室を追い出された挙句に衆人環境での叱責...精神的に辛いです...」
落ち込んだ様子の赤兄に対して、今度は逆に有間が赤兄の手をとり、目を見て声色を和らげた。
「そなたは悪くないぞ。何よりその指摘は至極真っ当なものだ。正しいことを口にして叱責された上暴力を振るわれるとは、皇太子殿下はどうされたんだろうか。」
赤兄はいかにもしくしく...といった様子で、鼻水をズズッとすすって言った。
「私の兄弟や従兄弟、そして殿下ご自身の兄上すら葬るようなお人です。もともとそういうお方なのです。」
「やはり、そうなのだな...皇太子に忠誠を誓っていたそなたがこのようなことになるのを、私は黙って見ておれなくなったぞ。」
「皇子様...?」
有間は一段と声の大きさを小さくした。
「私は、臣下の皆々が心の底から理想とするような大王となりたい。その手助けを、そなたに頼みたいのだ。」
「私で良いのですか...?」
「こちら側にも幾人か、既に“そういう場合には味方になってくれる”者たちがいる。だがまだ役者が足りないのだよ。そなたが欲しい。」
有間の脳裏には亡き父・軽皇子の姿が浮かぶ。「あの男を手放す羽目になったらこの始末だ。」_________などと言っていた、その時の悔しそうな顔を思い出していた。
鏡は無いが、きっと自分もそんな顔をしながらお願いしているんだろう、そう有間は思った。静かに赤兄の返答を待った。
「そこまで言われるのでしたら、是非とも皇子様に仕えさせてください。」
赤兄のこの言葉を聞いて、有間は勝ったと思った。赤兄にとって葛城は従兄弟と兄弟を誅した男。籠絡するには良い人材だった。
「あっ、葛湯が冷めてしまいます。さあさあ、お飲みください」
赤兄が促して、2人はしたり顔をしながら葛湯をすすったのだった。
__________ちょうどその頃、赤兄の娘・常陸娘は、調子を崩しているというのに、常備薬も何もかも切らしていた。身体を温めようと葛粉を取り出そうとするも
「そういえば父上にあげたんだったわ...」
ということを思い出した。
そこにちょうど現れたのは、倭姫だった。というのも、体調が回復したので飲めなくなった葛粉が余ったという。
「この前の借りを返す意味でも、これ全部置いていくわね。あとは温かくして横になってゆっくり休むといいわ。薬もあるから持ってくるわ!」
倭姫は何往復もして常陸娘のところへ風邪対策キットを届けた。
「あんなにあった葛粉、たくさん飲んだの?」
「いえ、父上に欲しいとねだられまして。」
「まあ、どうしたんでしょう...何か急ぎで使うことでもあったのかな...」
横になる常陸娘に布団の準備をしてあげながら倭姫が言うと、常陸娘は天井を仰ぎながら言った。
___________さあ。一緒に葛湯でも飲みたい人ができたのではないでしょうか。__________
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