第7話 氷柱

その冬、飛鳥の宮殿は、軒先の氷柱が地面に刺さるのではないか...というのは大袈裟だが、それぐらいの大きな氷柱ができるような、寒い冬であった。斉明天皇4年(658年)のことである。


倭姫はというと、妃の中でも、蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘とお茶飲み仲間となっていた。彼女の父・石川麻呂が生きていた頃は様子を伺っていたが、その石川麻呂が葛城によって自害に追い込まれてからは警戒するどころか“境遇の似た者同士”となってしまったため、姪娘の姉である遠智娘と3人、高貴かつ蘇我の血を引く親戚同士、仲良くしていた。


茶飲み仲間3人のうち遠智娘は、この3年ほど前に葛城との間に男児を設けたが、産後の肥立が悪く若くして亡くなってしまった。その男児も幼くして亡くなった。彼女の残した娘たち2人姉妹について、遠智娘の妹・姪娘と、葛城第一の妃であった倭姫が共同で育てていた。


少し病弱だが頭のキレる一の姫と、質実剛健な二の姫は、姪娘と倭姫の元ですくすくと育ち、この一の姫と二の姫は、葛城の弟である大海人に嫁ぐこととなった。


年齢にしてまだ10代前半というのは古代倫理観ということで置いておいて、大海人に嫁いでしまった一の姫と二の姫________大田皇女と鵜野讃良皇女_________がいなくなってしまった葛城の宮は、妃たちがいるとはいえ、少しだけ寂しくなったような感じである。


冬も本番の11月。流石に強い寒気で凍てつく寒さの葛城の宮だったが、この度茶飲み仲間に加わった常陸娘、そして姪娘と倭姫の3人で、火鉢を囲んでいた。


常陸娘は蘇我倉山田石川麻呂の兄弟・蘇我赤兄の娘で、比較的最近葛城の妃となった。石川麻呂の娘である姪娘とは従姉妹にあたる。倭姫も蘇我の血を引いているから、ほとんど蘇我系親戚女子会だ。


そんな倭姫は、寒すぎる冬に耐えかねて、


「ゲホっゲホっ」


と、咳き込む始末。


「あら、王女ひめみこ様、お身体の具合は大丈夫でございますか?」


常陸娘が不安そうに倭姫の背中をさする。


「...ちょっと風邪をひいたみたい。」


「いけませんわね...少しお待ちください?」


背中をさするのは常陸娘に任せて、同席していた姪娘がお椀と匙を持ってきた。


お椀の中には、何やら少し不透明でトロッとしたものが入っている。


「これって...」


葛湯くずゆでございます。風邪を引いた時は身体を温めなければいけませんから。」


姪娘がお椀から匙で葛湯を掬って、フーフーした後に倭姫の口元に運ぼうとする。


「なんか、子供の頃に戻ったみたい。」


「たまにはいいじゃありませんんか。風邪を召されてるんですから。」


常陸娘にも促されて、「あーーん」と言いながら葛湯を飲む倭姫。思いの外独特な匂いがして若干顔を顰めたものの、だんだんと心も体もぽかぽかとしてきた。


「これ、風邪じゃなくても温まるために飲んだ方がいいかもしれない...」


ということで、3人とも仲良く火鉢を囲んで葛湯女子会が臨時開催となった。


「あ〜、早く春が来ないかなぁ。」


「道のりは長そうですわよ。」


「何か一悶着ありそうですし。」


彼女たちの夫が、この冬の政局をどう乗り切るのか。葛湯女子会の皆皆はまだ、知る由もない。



___________一方、飛鳥板蓋宮では。


3年前、葛城が飛鳥に戻ってきた後、1人難波に残された前の大王・軽皇子(孝徳天皇)は、失意のうちに亡くなったとされている。


既に皇太子となっていた葛城は、軽皇子の死によっていよいよ大王への即位かと思われたのだったが、強引に飛鳥へ戻ってきたというのもあって、ここは一旦穏便に、彼の母親である宝皇女を大王とした。


宝皇女にとっては2度目の大王経験となり、これが同じ人物が2度大王の位に就く“重祚”というものである。


重祚した宝皇女は、ことに都の造営や宮近辺の整備に力を注いでいた。というのも、ここのところ大和の朝廷に従わない蝦夷といい、海の向こうの朝鮮半島でも問題が燻っていることを聞きつけ、早急に政治機関を整備しようとしているようだ。


そんな母を支えつつも、臣下たちの動向に目を光らせていた葛城は、一抹の不安を抱えていた。


「あの男、何を考えているんだろうか。」


内臣・中臣鎌足と2人きりの執務室で、葛城は椅子に座ったまま天井を仰いだ。


「あの男ですか。...ちょっと待ってください。当ててもよろしいですか。」


珍しく鎌足が自分からふざけ始めた。ここのところ激務が多く疲れているのだろう。最近徹夜続きな鎌足の目は、血走っている。見ていて辛いので、葛城は鎌足に乗ってあげた。


「え?まあ。やれるものなら。」


鎌足は腕を組んで眉間に皺を寄せながら目を閉じている。


「う〜〜〜〜む...殿下がわざわざ気にするということは、殿下に匹敵するお立場の方ですね?」


「そうだな。」


「その方が殿下に恨みを抱いておられますか?」


「んー。たぶんそう。部分的にそう。」


「最近大王と仲がいい」


「はい。」


「年齢はまだ10代」


「はい。」


「ふふん、殿下が考えていらっしゃるのはズバリ有間皇子様!」


勝ち誇った顔で無礼にも葛城に指を差しながら叫んだ鎌足に


「残念!不正解の罰に今日はもう自分の邸宅に帰るのだな!内臣よ!」


と言うと、葛城は「さあ帰った帰った」と言わんばかりに執務室から追い出した。


___________しかし、ア○ネーター鎌足の推測は、実は的中していた。


葛城は鎌足に別の意味で恐怖を覚えたが、それはさておき早急に解決せねばならない問題に直面している。


有間皇子という皇子がいる。御歳19歳。


前の大王・軽皇子の息子である。父の軽皇子が亡くなってからは心を病んでいたが、紀伊国へ温泉旅行に行きリフレッシュしてきたらしい。最近の彼はもっぱら、大王であり彼から見て伯母の宝皇女と仲良く話す場面が見受けられた。


ひと月ほど前のことである。


「伯母上、あの温泉は本当に素晴らしい場所なんです。凝り固まっていたものが解けていくような、そんな温泉です。見ての通り、病気も治って気分晴れやかですよ。」


「あら、そうなの?私も行ってみようかしら。やっぱり身体がついていかなくてね...」


大王の座す飛鳥板蓋宮の一角で、宝皇女と有間皇子が談笑している。


御歳65歳にも関わらず大王を務める宝皇女もパワフルな人とはいえ、大王の激務に耐えかねているようだ。それに、可愛がっていた葛城と遠智娘との間の皇子が5月に亡くなってからというもの、気落ちしている。


そんな、少々落ち込み気味の大王に対して、明るくて人当たりのいい有間皇子が話し相手になってくれているようだ。


「最近仲が良さげですね、陛下と有間皇子様は。」


「伯母と甥だし仲良くぐらいするだろうよ。」


遠目から見ている鎌足と葛城は、しばらく彼らを見守った後、執務室に戻った。


その時から葛城は、有間皇子のことが気になっていた。


前大王の息子であり、母は左右大臣を歴任する阿倍氏の一族という、申し分ない血筋。若いだけあって、既に多くの政変で関係各所からの恨みを買っているであろう葛城よりは、臣下たちにとって扱いやすそうな皇子ではある。


(本人にその気があってもなくても、処遇に困る...)


その気_________つまり、謀反を起こす意思があるか無いか。葛城本人が確認したところで、時の皇太子に対して「謀反を起こす予定です!」なんて答える人間はいないだろう。


そんなひと月前の有間皇子の様子をぼんやりと考えていると、鎌足を帰したばかりの執務室の扉を、突然ノックする音が聞こえてきた。


「入れてください殿下!!!」


葛城は(予定通りに来たな...)と思いながら、その声の主に入るようにと手配した。


目を輝かせて執務室へと入ってきたその男_________蘇我赤兄は、「殿下にお話があります」と言うと、それまでとは打って変わって急に小声になり、話し始めたのだった。

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