第5話 ほどけて結んで

白雉3(652)年に難波長柄豊碕宮が完成したことで、葛城は本拠地を自らの皇子宮ではなく難波の方へ移していた。


倭姫たちは相変わらず葛城の皇子宮に居たが、葛城はしばらく戻って来ないらしく、時には妃達と交流しつつ、暮らしていた。


そんな彼が突然、この飛鳥の地に舞い戻ってきた。


皇子宮に住む人々の中では最も高貴な血筋の人間であった倭姫は留守を任されていたが、特に何事もなく、帰ってきた葛城を出迎えた。


「おかえりなさいませ、皇子様。」


「ただいま、姫。」


普段無表情の彼が少しだけ笑みを浮かべた気がした。


この時の帰還は、大王の意思に背いたものだった。

本来、大王に付き従うべき皇太子が、母である宝皇女(前大王)や、同母姉で大王の妃(大后)となっていた間人皇女を連れて勝手に飛鳥に戻ってきたのである。


にわかににぎやかになった飛鳥の地で、白雉5(654)年を迎えようとしていた。寒さの厳しい冬のこと。


何やら最近忙しそうな書麻呂を見るにつけ、その理由を尋ねてみたくなった倭姫は、ドタバタしている書麻呂を呼び止めた。


「なんだか忙しそうね。」


「姫様。申し訳ありません。後にしてもらえますか?」


「いいけれど、なんでそんなに忙しそうなの?」


「ここだけの話です。遣唐使に選ばれたんですよ...!!!」


「け、遣唐使?!」


「シーーーッ、声が大きい」


遣唐使は、遥か海を越えて中国・唐に渡り、最新の情報を学び得てこの国に戻ってくる重要な使節だ。

書麻呂は渡来人系の倭漢氏出身ということもあり、大陸の情勢や学識をそれなりに身につけた人物であったが、その能力を買われて遣唐使一行の一員に選ばれたらしい。


「というわけで、姫様と共に過ごすのもあと少しですね...」


あの日から、書麻呂は毎日倭姫の面倒を見ていた。特に学問の面では、多くの書物を持ち寄って、倭姫を学問好きにさせたのは彼の功績と言っても良いだろう。


「それだけでここまで忙しくなるのね。まあそうよね、外国に行くんだし...」


「それだけなら良かったんですけど、実はもう一つ準備がありまして。」


「え?」


「姫様と殿下のご成婚の準備も任されておりましてね。過労死しそうですよ...」


「え?」


思わず2回も聞き返してしまった。


妃になる___________あの日のことを忘れたわけではない。淡々と終わっていく日常生活に慣れすぎて、なぜここに住んでいるのかという本来の理由を忘れていただけだ。


たしかに倭姫はもうすぐで18になる。葛城も、ちょうど良い頃合いだと思ったのだろう。


時に葛城は26。既に子女には恵まれている。それだけ夫人を多く娶っているということでもあるが。

そんな多くの夫人を持つ葛城の妻になるのだ。葛城自身は許嫁を約束通り娶るだけのことだろう。しかし政治の情勢次第ではこの先どうなるかは分からない。葛城が死ぬようなことがあれば死ななければならないだろうし、親類一族が悉く死んでいる倭姫は、葛城の外戚権力とはなり得ない存在だ。権力基盤が脆弱な倭姫が、葛城にしてやれることとは一体なんなのだろうか。


倭姫が考え込んでいると、書麻呂から「殿下がお呼びのようですよ」と言われ、彼に連れられた倭姫は葛城の執務室へ初めて入った。


側には相変わらず中臣鎌足が控えている。葛城は以前に比べて無表情に磨きがかかり、ゾクっとさせるような威厳を身に纏っていた。


「3日後、姫と寝所を共にする。良いな。」


と、彼はそれだけ言うと、書麻呂や鎌足、そして他の従者達を全員執務室の外に出させて人払をした。


跪かせていた倭姫を手ずから立ち上がらせると、2人は向かい合った。

2人きりになると、葛城は気が抜けたように、鋭い眼光が柔らかくなり、雰囲気もホワホワとしている。本来はこういう人なのであろう。


「皇子様。」


「2人の時は“葛城様”と呼んでくれないか?」


突然、諱呼びを強制してきた。呼ぶのを忌む名前だから諱なのに...と倭姫は思ったが、これも勅命だと思って応えることにした。


「はい。では、葛城様。」


「何か言いたいことがあるのか。」


ええ...と言いながら、言おうか言うまいか迷っていた。おそらくそれを聞いては困惑させる。


「気になるから言いなさい。」


「私を娶るのは父からの約束を果たすためでしょうが、逆賊の娘を妻にしては葛城様の面目が立たないのではないかと思って。」


「何を今更。それを言うなら既に石川麻呂の娘を娶っている。問題はない。」


葛城は倭姫の頭を撫でようとして、その手を下ろした。どうしてもまだ、距離感にぎこちなさが残っている。


「それに、人払をしたのは葛城様の方からお話があるのではないですか?」


倭姫は初めから気になっていたことを聞いた。少し背の低い彼女から上目遣いに見つめられた葛城は、ますます彼女の目元が古人に似てきていることに気づいた。こんな目で見つめられてしまっては、たまったものではない。


「ああ。私は姫を第一の妃にしようと思っている。これは絶対だ。」


「私をですか?」


「そうだ。私は姫を必ず大后にする。」


大后___________大王の正妃である。倭姫は葛城の正妃として迎えられ、近い将来葛城が大王となれば、その大后とする意思があるというのだ。


「他に適した皇女様がおられるのではないですか?」


この当時皇子の正妃は、皇子が即位して大王となった後、死後に中継ぎとして大王に即位する可能性があった。そのため、大王の血を継ぐ者が正妃となり、必ず同族間での婚姻となっていた。

例えば、葛城の父・田村皇子は大王となったが、その死後に彼の跡を継いで大王となったのは葛城や、その弟・大海人の生母であり大后であった宝皇女である。


「ちょうど良い年齢の者がおらぬ。それに...」


葛城は目を閉じて一呼吸置いた。


「私は姫を娶ると、ずっと前から決めていたのだ。そして、姫を大后にすると。姫の世話係を書麻呂にしていた理由はわかるか?」


「もしや」


「彼らの持つ学識を以て、大后という頂点に立ってほしいからだ。姫が今後困ることの無いように。」


「そうだったのですね。」


初めから倭姫の運命は決まっていたのかもしれない。古人の子として生まれたその瞬間から、こうなる未来が見据えられていたのかもしれない。

そのレールを敷いて、ここまで導いたのは、葛城でもあるが、ひとえに古人の力と彼ら兄弟の深い絆であることは言うまでもなかった。


執務室を無言で出る。なんだか少し背負うものが増えて、肩の荷が重くなったような、そんな気がした。


「葛城様の肩の荷は、少し軽くなりましたか?」


閉じられた執務室の扉に向かって、倭姫は小さな声で呟いた。

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