第3話 15の春

あの日から4年。大化5(649)年3月25日は、大変騒がしい1日だった。

倭姫の父・古人皇子ふるひとのみこ、そして彼を擁立しようと目論んでいた蘇我鞍作そがのくらつくり(入鹿いるか)を葛城かつらぎと共に葬った人物である蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろが、謀反の疑いをかけられた上、山田寺で妻子と共に自害したというのだ。


自害の理由は大王や葛城への忠誠を誓う、というものだったという。


しかもこの事件は、葛城が一枚噛んでいるらしい。またしても彼は蘇我の一族を死に追いやることとなったのだった。


事件の一報がもたらされ、にわかに騒がしくなっていく葛城の宮の一室から、倭姫は外を眺めていた。なぜ宮が騒がしいかは予想がついた。


「あのお方の辛苦を思うと他人事とは思えないわね。」


倭姫は、寂しそうに呟く。


あのお方というのは、既に葛城の夫人となっていた石川麻呂の娘・遠智娘おちのいらつめのことだ。葛城との間には2人の皇女がいて、更には倭姫と同じぐらいの年頃の妹・姪娘めいのいらつめとも同じ宮に住っていた。姪娘は姉のお世話係として一緒に住まわせてもらっていた。


石川麻呂は倭姫から見ると祖母の甥っ子、父の従兄弟ということで、そんな彼の血を引く遠智娘や姪娘は親戚に当たる。しかし、政治的には対立関係にあったお家柄ということで、交流は最小限に留めていた。

とはいえ、父の自害と聞くと、倭姫にも同情の気持ちが沸いてくる。


外からは、啜り泣くような声も聞こえてきている。

締め切った室内では鬱々とした気分がさらに沈んでしまうと思った倭姫は、一度部屋から宮の中庭へと出てみた。


すると、倭姫の部屋がある宮の壁にもたれかかって、鼻水を啜っている無表情の男が、そこに佇んでいた。

そんな姿など見たことがなかったから、倭姫は思わず声をかけてしまった。


皇子みこ様...?」


皇子様____________葛城皇子は、バレてしまったと驚いたような顔つきで咄嗟に後ろ向きになってしゃがみ、目元を手で覆い隠した。


葛城はどうやら今の自分の姿を他人に見られたくなかったらしい。そう気がついた倭姫は、しゃがんだ葛城の手を後ろから掴んで無理やり立ち上がらせると、そのまま自分の部屋に連れ込んだ。


「な、何を」


有無を言わさず戸も閉め切って、書麻呂すら入れないようにしたのだった。


外からは中臣鎌足なかとみのかまたりらしき人物が葛城を探す声がしているようだが、倭姫はこの判断が間違っていないと思いながら、葛城を上座の椅子に座らせた。


「...あんなはしたない姿を臣下に見られては。」


倭姫は葛城の向かい側に座ってこう言った。

葛城はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「すまない。よく鎌足から言われる。」


グスン、と音を立てながら葛城は続ける。


「私の周りから、人が消えていくのだ。心から頼れる相手ほど、私のせいで命を落としていく。正直、耐えられぬ。」


葛城は唇を噛んでいた。

そんな彼を見て、倭姫はあの日の葛城の姿を思い出していた。あの時の彼は父の亡骸を見ても動じることはしなかった。内心がどうであったかは、倭姫には分からない。


けれど今日の彼はどうだろう。

予想以上に人間らしい彼を見て、倭姫は少しだけ葛城本人に興味が湧いてきた。本当に少しだけ。

彼の本質は、父が倭姫にあまり見せなかったような弱さなのかもしれない。父であれば、ここまで狼狽えることはしなかっただろうなと倭姫は思う。


「私もあなたも、生き続けねばならないのですね。多くの人たちの思いを背負って。それが、私たち大王の血を受け継ぐ者の使命なのでしょう。」


そう言うと、倭姫は外で控えていた女官たちを呼び寄せて白湯を作らせた。3月とはいえ風は冷たい上、彼には心を落ち着かせるような温かさが欠けていた。


ズズ...と白湯を飲んでホッとひと息ついた頃、ちょうど呆れ顔の鎌足が「失礼致します、姫君。」と言いながら倭姫の前に現れた。子守は大変らしい。


「ここにおられたのですね。全く。手間がかかる主です。」


「そうか。手間暇かかって大変なら、大王の元へでも行って仕舞えばいいのだ。」


鎌足は今の大王おおきみ軽皇子かるのみこにも仕えていた経歴がある。軽皇子は葛城の叔父で、葛城の母・宝皇女たからのひめみこの同母弟だ。


大人気なく拗ねる葛城を見て、


「見てください姫君。表では無表情で血も涙もない皇子で通っている彼も、実態はこのようなものです。」


と、鎌足は火に油を注ぐ勢いだ。しかし


「けれど、こういう方こそ、この国の良き大王になれる気がするのですよ。」


そう言って、「では」と葛城を連れて執務室へと戻っていった。


ちょうど倭姫の部屋へ戻ろうとして一部始終を見ていた書麻呂ふみのまろが呆気に取られて


内臣うちつおみ(鎌足)もデレることがあるのですな...」


と、しばらく放心状態である。


倭姫はというと、葛城の飲み残した白湯をしばらく眺めていた。


「『私のせいで命を落としていく』、か。」


古人の死に関しても、石川麻呂の死に関しても、葛城は多くを語らない。語ってしまえばそれは、葛城を信じてくれた彼らの命を無駄にしてしまうことになるからなのではないかと、倭姫は思う。


あの鎌足を心酔させ、石川麻呂が命を捧げるほどの彼だ。そんな彼を弟に持ってしまった古人という父の顔を思い浮かべる。


「父上、私は、あなたの仇と一緒に、もう少し生きながらえてみることにします。」


倭姫、15歳。15の春に吹き荒れる冷たい風の中に、少しの温かさを感じていた。

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