第2話 声
葛城の皇子宮は、倭姫から見れば祖母に当たる
疲れた足取りで通された宮に入ると、2人の女と見知った男の顔がそこに控えていた。
男の名は
「今日からここで暮らしてもらう。妃にするとはいえまだそなたは幼い。しばらくここでゆるりと暮らすのだ。」
倭姫をここへ連れてきた葛城は、そう言って立ち去った。同じ宮の中とはいえ、彼の居所は少し離れている。正式に妃となれば、彼と居所を共にするのだろうか。
そんなことを考えながら、目の前にいる書麻呂を見やると、相変わらず平伏したままのようだった。そして一言
「申し訳ございません」
と言った。というのも、彼の一族は古人皇子に長年仕えていたのだが、古人の死に際して古人に仕えていた
元の主君が死んで、自分だけ生き残っただけでも相当な罪悪感があるのに、目の前には大恩ある元主君の娘。葛城から「元々世話をしていたようだし、倭姫の面倒を見るのはそなたたちに任せる」と命令されては従わない訳にもいかないが、これはこれで酷なものである。
「あの...」
「謝らないで。これからどうぞ、よろしく。」
倭姫は冷たく言い放つと、心底疲れた様子で寝台の方へと向かっていった。
「姫様、お召し物は皇子様がご用意されております。お召替えを...」
女官2人に促され、血塗られた服から着替える。紫を基調とし、綺麗な刺繍の入ったものだ。元の服はあまりにも汚れていて洗っても赤が落ちそうにないほど、父の死の色に染まりきっていた。それでも
「その服は綺麗に洗って取っておいて。」
と倭姫は言った。どれだけ薄汚れて、着るには不恰好だとしても、この服が手元にあるということが、古人の娘であるという確かな証拠であるのだから。
「今日はお疲れでしょうから...あっ、お眠りになってしまったのですね。」
女官たちがふと目を離した隙に、倭姫は寝具に座ったまま、横に倒れて気絶するように寝息を立てていた。いたいけな少女が1人生き残って一族を見送る1日を過ごしたのである、こうなるのも仕方ないだろう。
_____________葛城の皇子宮に来て、数年が経った。葛城はと言うと、幾人かの妃を抱え、既に子供があった。そしてあの日から倭姫に会うことを避けている。あくまで倭姫が成長するのを遠くから見守っているらしい。そんなある日、書麻呂は葛城の執務室へと呼び出された。
「倭姫の様子はどうだ?少しは元気になっただろうか。」
こうして月に一度、倭姫の様子を尋ねるのが、葛城の習慣だった。
「以前よりは表情も明るくなられたのではないかと思います。」
書麻呂は定型文を答える。
「そうか。昔馴染みのそなたたちのおかげだな。」
「はい...」
ここで、書麻呂は長年気になっていたことを葛城につい聞いてしまった。
「なぜ...我らは生かされているんでしょうか。」
葛城はしばらく黙ってから何か言おうとしたが、そばに控えていた
「無礼な、殿下の大恩なるぞ。」
「存じております。申し訳ございません。」
書麻呂が頭を下げた後すごすごと執務室を後にすると、鎌足は葛城の方を向いて、向き合った。そして怪訝そうな顔をして言った。
「殿下、お気持ちは分かりますが、臣下の前で多くを語ってはなりません。」
「分かっている。分かっているが...」
「慈悲を施すのなら、黙って最後までお施しになるのです。それも、あの方々とのお約束でしょう。」
鎌足の言葉を聞いて、葛城は天を仰いだ。目の前がぼやけて見えなくなる前に。
執務室の天井は黒く煤けている。長年の汚れを溜め込んでいるようだ。まるで自分の心を写したようだなと葛城は思った。
一方。月に一回の様子見報告が終わった昼下がり。書麻呂は倭姫のいる宮に戻った。多くの書物を抱えて倭姫の部屋へと入るのがいつもの書麻呂だが、今日は何も持たずに入室した。
「今日は何を読むの?」
倭姫はすでに椅子に座って机に向かっていた。書麻呂は渡来系氏族であるため、国際的な学識を持っていた。彼の属する
倭姫はあの日のことを語ることなく、毎日書麻呂からの講義を受けていた。
けれど、今日の書麻呂は書物も何も持たずに倭姫と対峙していた。2人は向かい合って座る。
「今日はお休みです。姫様。」
「お休み?毎日勉強しなければ、1日暇で仕方がないわ。何か読むものをちょうだい。」
「そんなに、勉強がお好きでございますか。」
書麻呂は心配だった。と言うのも、倭姫はここ数年、書物を読む日々に明け暮れているのだ。たまに食事を忘れることもある。
「勉強?好きかと言われれば好きではない...」
「ではどうして。」
「あなたは覚えている?
蘇我鞍作___________後世では
書麻呂にとってもう1人の主君とも言える鞍作のことは、忘れ難い人物であった。
「もちろん、覚えております。」
そして、倭姫にとっては、鞍作は父と仲の良い親戚のおじさんのような存在だった。古人の皇子宮に来ては、昔話を聞かせてもらったものだった。
「その彼がね、よく言っていたのよ。己の立場に恥じぬ学識を付けなさいと。『“私ぐらい秀才になれなくても”姫様のような、人の上に立つ立場に相応しい振る舞いぐらいは、身につけた学識が教えてくれる』とね。」
「“私ぐらい秀才になれなくても”とは...大臣らしいお言葉です。」
2人とも、あの尊大だがなぜか憎めない、親しみのある笑顔を思い出していた。
「私はあの日から自分がどうすべきかが分からないの。父上からは生きてほしいと言われた。けれど私が生き残って何をしたらいいの?世間的には逆賊の娘なのよ。そう思った時に、彼の言葉を思い出した。だから、しばらくは学識を深めるのが先だと思った。」
自分が逆賊として唯一生き残った悲しみに打ちひしがれるでもなく、すぐさま前を向いてすべきことを淡々と遂げるところに、書麻呂はゾッとするまでの大王の血を、倭姫に感じていた。
「私は...大変言いづらいことですが、姫様はあの日のことを早くお忘れになりたいのかと、それでこのように書物をご所望になるのかと、そう思っておりました。」
書麻呂の言葉に、倭姫は目を瞑った。自らの衣を、手でぐしゃっと握る。
「...1日たりとて、忘れたことなんて...ないわよ...忘れてやるものですか。あの現場を見ていたのは、私だけなのよ...」
そのうち倭姫は両手で顔を覆った。荒い息遣いが、指の隙間から伝わってくる。
「毎日毎日、忘れないようにと思い出してる。あの日の父上の声、宮の空気、風、血の匂い、刀の音。全てをね。でも...だんだん思い出せるところが少なくなっていくの。やがて父上の顔もおぼろけにしか思い出せなくなってきて。その声も、意識しているのにはっきりとは思い出せなくなってきている気がするの。」
ぼたぼたと、涙が机の上に落ちた。書麻呂はどうすることもできずに、自分の問いかけが過ちだったと後悔した。それと同時に、ここまで感情を露わにする倭姫の、何か心につっかえた部分が晴れたら良いなとも思った。今はただ、見守ることしかできない。
夕日の輝く時間になっていた。
倭姫の宮の外では、政務を終えた葛城と鎌足が、倭姫の様子を伺っている。
「泣いているのではないか...?」
「殿下。ただ見守るだけに徹すると仰っていたのはどこの誰でございますか。」
倭姫の部屋の近くで様子を伺おうと抜き足差し足で忍び寄る葛城の肩をトントンと叩き、無表情の鎌足が葛城に釘を刺した。
「書麻呂が泣かせたのなら余計に気になるのだ。」
「姫君にだって泣きたい日ぐらいありましょう。それに、親の仇が突然現れたら、余計にお泣きになるのでは?」
鎌足の会心の一撃は葛城にグサリと刺さって抜けない。ぐうの音も出ないほどの正論だからこそ何も言えない。
「...そうだが。これでは妃として迎えられないではないか。こういう時にこそ力になっておかなくては。私は行くぞ鎌足。」
「ダメです殿下、肉親殺し、兄殺し、
「うるっっっっさい」
葛城と鎌足が倭姫の部屋に行くの行かないの取っ組み合いをしている頃、泣き疲れて落ち着いた倭姫は、顔を覆っていた手を膝の上に下ろした。
書麻呂は失礼して倭姫の背中をさすり、
「落ち着かれましたか?」
と言って、また向かい側の椅子に座った。
「ごめんなさい。こんなはしたない姿を見せてしまって。」
目も鼻も赤い倭姫は、恥ずかしそうに下を向いて書麻呂に謝る。
「こちらこそ、姫様に対して酷いことを言いました。申し訳ありませんでした。」
書麻呂は椅子から立ち上がってきちんと詫びた。書麻呂が頭を下げていると、その後ろから
「姫よ。」
という声がした。
倭姫はハッとして顔を上げた。「父上の声がする...」
声がした方は書麻呂が立っていた上、夕日が差し込んでいて来客の顔が見えず、誰が来たのかはわからなかったが、声の主は「はっ....」と言って口に手を当て、慌てて隣にいた従者のような人が、声の主の手を引っ張って強引に連れ去ってしまった。
しかし、その声の主は想像に容易かった。そんな声の持ち主など、ここには1人しかいないではないか。
「朧げになっていた父上の声が、今はっきり聞こえたの。あのお方の声は、こんなに似ていらしたの...?」
「そのようですね。」
倭姫は沈みゆく夕日を見つめながら、深く、深く、深呼吸をした。
「まあ、なんて憎たらしい方なんでしょう。」
そう呟くと、彼女は自身の紫色の着物に施された豪勢な刺繍を、微笑みながら指でなぞったのだった。
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