第四十一告  兎川橙萌

 封筒の中身は一冊のノートだった。その内容に多門真夕貴は愕然とする。そこには兎川橙萌の謝罪と彼女が姿を消してから今までのことが書かれてあった。


『……最初のころは真夕貴さまを殺して私も死のうと何度も思いました。だけど母がいたからできなかった。父の遺書には一緒に幸せになってくれと書いてありましたから。

 でも真夕貴さまを知るほどに、だんだんと惹かれていく自分に気づきました。甘い顔を見せたくなかったからでしょうが、それでも真夕貴さまに後ろから抱きしめられるたびに愛されているのだと密かな喜びを感じていました。

 ただその一方でこの気持ちに自分を委ねてしまっていいのか、このままいったら普通の生活に戻れなくなるのではないかという不安もありました。いつか母と平凡に暮らすにはこうもしてはいられないとも思っていました』


『彼はそんな私の気持ちに気づいたのでしょう。私を救いたいと言って近づいてきました。真夕貴さまとの関係を異常だと言われ、世の中の普通とはどういうものなのかを事あるごとに語られました。思えばそれは「普通の正しさ」という教義で私を洗脳しようとする新興宗教のようでした。

 彼が学校に来なくなっても彼の信奉者が私を洗脳し続けました。「あの女と一緒にいたら君もいつか犯罪に巻き込まれる。そうなったら母親までも不幸にしてしまう」と不安を煽ってきた。そして私はだんだん「普通」に汚染されていきました……』


『母が死んだときには、これで何にも縛られず真夕貴さまとずっと暮らして行けるのではという期待もありました。思えばあのとき何も考えず真夕貴さまの胸に飛び込んでしまえばよかった。

 しかし私は彼の信奉者たちに捕まって監禁されてしまった。「これで何も君を縛るものはなくなった。やっと君も幸せになれるんだ」「地獄のような生活を捨ててまともに生まれ変わるんだ」と一日中そう何度も繰り返され、疲れ切った頃に彼が手を差し伸べてきた。その手を取れば救われると信じこまされてしまった……今では後悔しかありません』


『ある日突然に弁護士だという男がやってきて、真夕貴さまと円満に別れられる手続きをすると言われました。そして男は勝手に交渉を進めていった。守られているとは名ばかりで蚊帳の外に追いやられ、私は最後に全てが終わったとの書面と高額な請求書を渡されました。……こう書きながら自己弁護ばかりで言い訳にもなっていない。騙されていたとはいえ自分のしたことを今は恥じるばかりです』


『でも騙されたと言えば彼はそれは誤解だと否定するかもしれません。何故なら彼の行動には何の悪意もなく、彼の姿は信奉者にとっては彼らが思い描く正義の象徴なのでしょうから』


『あのあと彼は私に「今日から君は自由の身だ。誰に気兼ねもなく胸を張って堂々と生きていけばいい」と言ったのです。事件を解決して去って行くヒーローのように手を振って別れを告げられた。

 背中を押され勇気を貰ったと言えばそうなのかもしれません。でも私からすればそれは優しさでもなんでもない。知らない世界で一人で生きろと放り出されたのと同じです。

 そのときになって私も気づいたのです。彼は私を好きだから寄り添ってくれたわけじゃない。不幸な境遇から弱い私を救いたかったわけじゃない。「正しい生き方」をしている自分にただただ酔っていたいだけなのだと。そして不幸じゃなくなった私の隣に彼がいる理由はもうなくなったのだと……』


『途方に暮れる私に「行くところがないなら面倒をみてやる」と声を掛けてきた人がいました。その人は彼の父親が経営する電子メーカーの下請け工場の社長でした。

 社長は私を工場に連れて行き住み込みで働くように取り計らってくれた。結局私はそれに従うしかなかった。いきなり一人暮らしはできそうもなかったし、母の保険金も父の借金を返して弁護士に報酬を支払ったら手元には幾らも残っていませんでしたから』


『工場の中には私のように彼や彼の父親に「救われた」人たちが大勢働いていました。工場には至る所に彼の父親と後継者である彼の写真が飾られ、父親が地方選挙に出ることもあって信奉者が支持を繰り返し説いていました。

 工場には彼や父親に不満を持った反体勢派というような人もいました。それでも彼らの大半は工場に通いで来ている地元の人間でしたから、反発しても結局はみせかけだけのガス抜きでしかなかったのでしょうけれども。

 私はどちらとも距離を置いていました。寂しさも感じていましたが人に振り回されるのはもう嫌だった』


『あるとき私の耳に【シニコク】の呪いという言葉が聞こえました。嘘告をした人間、それに関わった人間に罰を与えることができるのだと。

 私は気になって【シニコク】のことを調べました。そしてこれを使えば私も彼に仕返しをすることができるかもしれないと思えば、つい魔が差してしまった……。

 はじめはほんの憂さ晴らしのつもりでした。道ばたの石ころがちょっと彼をつまづかせてやろう、それができなくてもコケるヒーローの姿を目にすれば溜飲も下がるかもしれない。そんな軽い気持ちでした。

 彼が私にした嘘告というのも他愛のない「君を救いたいなどと言っておきながらあっさり私を棄てた」というこじつけでした。それでも一晩考えた理由だったんですよ。他に告白なんてされたことはなかったですから。ああもちろん真夕貴さまのことは別です』


『そしてそれだけでは弱いと思った私は保険のつもりでもうひとつ【シニコク】の呪いをかけた。「真夕貴さまに告白して振られた彼が当てつけに私とつき合おうとした」という真夕貴さまの嘘を見立てて理由にしたのです。後になって考えれば、私は覚えた呪いでの仕返しに調子に乗っていたのでしょう。馬鹿な女と笑って下さい』


『実のところ呪いが成功するかどうかなんて、本当はどうでもよかった。その行為自体が平凡な暮らしをつかの間忘れるイベントやゲームぐらいの感覚だった。

 それなのに……なのに【シニコク】の呪いは成功してしまった。しかもその呪いが跳ね返されて自分にかかってくるだなんて!

 もし真夕貴さまの体のどこかに赤い影ができているとしたらそれは跳ね返された2つめの【シニコク】の呪いです。私のくだらないいたずらのせいで真夕貴さまにも迷惑をかけてしまった。でもどうか私が呪ったのは真夕貴さまではないということだけは信じてほしいのです!』


『本当なら今すぐに真夕貴さまの足元にひれ伏して土下座して謝りたい。でもそれもできなくなりました。彼の父親は彼を呪った犯人を虱潰しに捜しています。捕まったら何をされるかと思うと気が気ではありません。恐ろしくて毎日眠れない夜を過ごしています。

 私はこれからどこか知らない所へ行ってひっそりと暮らすつもりです。最後にひと目でも真夕貴さまに会いたかった。それが叶わないことは百も承知ですが。

 せめて心で真夕貴さまを思うことを許してください。勝手なことばかり言っていますね。ごめんなさい。さようなら』 

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