第四十告  【あの女】

「……そうか。お前らがそう決めたんなら俺はもういい」

 信岡玄がそう言うと纏う空気が少し緩んだ。これからのことを思えば二人に向けられる目が厳しいものであることは容易に想像できる。死んだ方がましと思うようなこともあるだろう。それを受け入れて生きていくなら十分に罰だろうと玄は判断した。

「それで【あの女】ってのが誰かは話す気にならないか? この中にいるのか?」

 信岡玄がそう水を向けても阿川飛名子と奥村稜は言い淀んだ。

「それは……」

「もう関わらないで生きていこうと決めたので……」

(同じ大学にいて阿川飛名子や葉見契一とも面識がある人間……城戸琉侍を通じて『琉星狼』を手駒に使ってるなら俺と同じ世界の人間、ヤクザの身内かあるいは情婦か? それならいっそ城戸を締め上げて吐かせるか……)

 考えにふけっている玄に歩三男が声をかける。

「兄貴、どうにも服を脱ぐのを嫌がって暴れてる女がいるんですがどうしますか?」

「ん? 誰だそいつは」

多門真夕貴たもんまゆきです」

 その名前を聞いたとき二人の表情が変化したのを玄は見逃さなかった。


「ワタシにこんなマネしていいと思ってるの! 今すぐ家に帰してよ!」

 顔を赤くして叫んでいる多門真夕貴は父親の名前を持ち出して玄に凄んでくる。

「ワタシのパパは芒月組の幹部よ! 三下なんかお呼びじゃないのよ。今更後悔しても許してあげないわよ! あはははははははっ」

 勝ち誇ったように笑う真夕貴に同調して城戸琉侍も口を開く。

「お嬢の言ってるのは本当だぜ。そしてオレは芒月組の幹部候補だ。下っ端ごときが手を出していい人間じゃねぇんだよ! 相手が悪かったな、さっさと解放しやがれ!」

 玄は城戸を無視して真夕貴に近づいていく。歩三男を伴って正面に立つと真夕貴は玄の威圧する雰囲気に身を固くする。

「自分から名乗り出てくれて手間が省けたな。お前が【あの女】なんだな」

「だ、だったら何よ、三下!」

「三下って言うが、それだってここでお前を殺すことくらいできるんだぜ」

「こ、殺す? そんなことしたらアンタもただじゃ済まないのよ!」

「俺はそれでも構わないぜ。まあ困ることにはならないと思うがな」

「えっ?」

 玄は振り返らず後ろの歩三男に声をかける。

「歩三男、芒月組って知ってるか?」

「芒月組は九字神組の下ですね。九字神の組長はうちの会長と四分六の弟分です」

「じゃあ子組じゃねえか。くくっ、残念だったな。お前の印籠も役に立たなかったぜ」

「そ、そんな……」

「手間かけさせんな。とっとと服を脱げ」


「ちょっと! いやらしい目でジロジロ見ないでよ!」

 真夕貴が服を脱ぐと左胸に【シニコク】の赤い影があった。これが服を脱ぎたくなかった理由だと分かった。そしてこれが真夕貴を狂気に走らせたのだということも……。


 多門真夕貴はヤクザの娘であることを隠して金持ちの令嬢というふうを装って暮らしてきた。気を許せる友人もなく周囲からは距離を置かれていた。友人がいないのは父親の都合であったり素性が知られたりで転校を繰り返したせいもあるが、「お嬢様」と呼ばれ黒塗りのベンツで学校に送迎される生活に慣れるうちに真夕貴も普通であることを諦めた。

 多門真夕貴のそばには兎川橙萌とがわともえという少女がいた。橙萌の父親は亡くなっていて母親と二人暮らしだった。反対に真夕貴は母親の姓を名乗っているが母親の顔を知らない。

 はじめは真夕貴も橙萌のことを異母姉妹かと思っていたのだが、「真夕貴さま」と呼んで転校先にもついてくるようになると、真夕貴も橙萌の立場を知ることになる。橙萌と母親は父親の残した借金のカタに組に買われたのだと。そして橙萌はわがままな多門真夕貴の身の回りの世話をさせるために父親があてがった奴隷なのだということに。

 それを知ってから真夕貴は橙萌をそういうふうに扱った。無茶を言って実行できなかった彼女に罰を与えた。真夕貴が幼いころに橙萌に抱いたそれはねじくれた愛情に変わっていった。

 真夕貴が橙萌に対して恋愛感情を持つようになった裏には、女を物のように扱う父親やヤクザという男社会に対する嫌悪感もあった。しかし自分もまた支配する側だと知ったときに、橙萌への愛情も「橙萌は自分のもので自分につくすことが彼女の幸せになるのだ」と変換されていった。夜に橙萌と抱き合って眠るときも、真夕貴を満たすのは昔のような庇護欲ではなかった。


 中学に入って多門真夕貴はクラスで亀津川慎児きっかわしんじと出会う。側に橙萌を従え人を寄せ付けないお嬢様といった雰囲気の真夕貴にも、亀津川は空気を読まずに話しかけてきた。

 はじめは金持ちの家に生まれ苦労知らずで育ったボンボンという目で彼を見ていたが、真っ直ぐな優等生然とした振る舞いに押されて真夕貴も態度を軟化させていった。二年生の修学旅行のときも亀津川は真夕貴と橙萌と一緒の班になりお互いの距離を縮めた。

 三年生になって真夕貴は亀津川に放課後呼び出された。

 どうやって告白を断ろうかと悩みながら待ち合わせ場所に向かった真夕貴だったが、そこで言われたのは予想もしていなかったことだった。

「僕は兎川橙萌を救いたい。彼女を君の奴隷から解放してやってほしい」


「君のことは調べさせてもらったよ。それを公表してどうこうするつもりはないからそこは安心してくれていい。でも兎川さんのことは別の話だ。もういいんじゃないか? 生まれた以上人は誰でも幸せになるべきだろう? 僕はそう思ってる」

 亀津川の言葉に真夕貴は衝撃を受ける。自分がヤクザの娘だと知られたこともだが、亀津川が自分より橙萌を選んだこと、そしてこの男が橙萌に近づくために自分を利用したのだということに気づいて。ただそれは真夕貴が無意識に橙萌より自分の方が上だと思っているも原因なのだが頭に血がのぼった真夕貴はそこに思い至ることができない。

 そしてそれを口にする亀津川が笑顔だったことも多門真夕貴の感情を逆なでした。「兎川橙萌を幸せにできるのは僕だけだ」と言われているようで自分の愛を否定された気分になった。その笑顔が自分に向けられたものだと勘違いしていたことを思えば尚更だ。

(幸せって何よ? アンタが何を知ってるっていうのよ! 橙萌が好きなのはワタシ、ワタシも橙萌が好き。相思相愛なんだから! アンタの入る場所なんてどこにもないのよ!)

「それを決めるのはワタシじゃないわ。好きにすればいいじゃない」

 そう言って真夕貴はその場を立ち去るが無論そんなつもりはない。腸が煮えくりかえる思いだった。


 数日後に亀津川慎児が駅で女に階段から突き落とされ入院する事件が起きる。女は顔を隠していたが「私だけを見てくれないあなたが悪いのよ!」と言い残して逃げたことで、亀津川の恋愛事情を邪推したゴシップが広まった。

 多門真夕貴は亀津川慎児に呼び出され「つき合ってくれ」と言われたと嘘をついた。そしてそれを断ると今度は兎川橙萌に交際を迫ったのだとも。

 そのことが噂のデフォルメの度合いをさらに強めていくが、優等生の転落ストーリーを誰も止めようとはしなかった。

 亀津川が退院して噂を否定してもすでに後の祭りで何も状況は変えられなかった。いじめもエスカレートして物を隠されたり落書きだけでなく、教科書にエロ本の切り抜きが挟まれていたり上履きに封を切られたコンドームが入れられたりするようになるとついに学校に来なくなった。

 そして真夕貴は橙萌に「これも橙萌のせいよ。アナタが他の男に色目を使ったりするから」と言って彼女を詰った。執着は強まり夜に奉仕させる前には裸で土下座させ服従を誓わせた。学校でも橙萌に「愛しています」と言わせたりキスを強要したりした。真夕貴からのそのお返しは「わきまえなさい」と頬を叩くことだったが。


 しかし高校生になると状況は一変する。橙萌が突然姿を消したのだ。


 兎川橙萌が姿を消したのは彼女を縛る借金がなくなったことが理由と思われた。母親が死んで保険金が下りたことで父親の借金を帳消しにしたのだ。母親の死は兎川橙萌の義務教育が終わるのを見越しての計画だったようだ。

 さらにこの件には亀津川慎児が関わっていた。逃げた橙萌を匿っていることが代理人によって知らされた。亀津川は弁護士を代理人に立てることで真夕貴の攻撃を退け反論を封じた。結局真夕貴は提示された和解案を呑むしかなかった。

 真夕貴にとって橙萌が選んだのが亀津川だったことはやはりショックだった。「彼女にふさわしいのは僕だ」という勝ち誇った顔を想像すると殺しても殺したりない。あの時勘違いで好意を抱いてしまった黒い歴史も忘れてしまいたい。

 思い起こせば二人は光と闇のように最初から相容れない存在だった。悪という毒のナイフと正義を刻みつける焼き印を手に抱き合うことはできない。


 兎川橙萌が去ったことで多門真夕貴はやはり彼女を愛していたのだということを強く認識させられた。たとえ歪な関係に変わってしまったにしても。

 しかしその愛が一方通行の押しつけで橙萌にとっては耐えられない苦痛でしかなかったのだとしたら、母親を人質に取られ強制された関係だとしか思ってなかったと言われれば詮無いことだ。真夕貴も一時はそう諦める気になっていたのだ。

 ただしそれが【シニコク】の呪いとなって降りかかってくるのであれば別の話だ。


 多門真夕貴は入浴中に左胸のその赤い影に気がついた。はじめは傷かぶつけた内出血かと思ったが触れても何の感触もなく、それは見ている間に薄くなって消えていった。学校でも気になりトイレで確認していると赤い影は日に日に現れる時間が長くなっていくのが分かった。

 ネットで調べるうちに真夕貴もそれが【シニコク】の呪いだということを知る。呪われるのは嘘告をした人間、嘘告で人を陥れた人間だということも。

 自身に嘘告などした覚えはなかったが、真夕貴を呪うほど憎んでいる人間がいるとするならばそれは橙萌か亀津川だろうと予想できた。

 意に染まない「愛しています」という言葉を橙萌に言わせたこと、それを嘘告と見るならば強要した真夕貴を嘘告を仕掛けた人間と見なすこともできるだろう。

 そして亀津川に対しては「私に告白して振られるとあっさり橙萌に乗り換えた軽薄な男」と言いふらしていじめを誘ったこと、嘘告じみた噂を作って陥れたことがそれにあたるかもしれない。痴漢冤罪をでっち上げたようなものだ。ただし法という表の権力を使ってくる人間がわざわざ呪いに手を出す理由はないだろうとも考えた。


 結論として真夕貴は呪いを放置することにした。自分から恥をさらすつもりもないが元々がアウトローの世界の住人なのだからと腹をくくった。死ぬことはないようだしヤクザの娘が今更呪いを怖がることもない。場合によってはこれをネタに亀津川を追い込んでやる。悪党らしくそんなふうにも考えた。ただし一緒にいるであろう橙萌のことを思えばそんな気は起こらなかったが。

 同時に【シニコク】の呪いが橙萌の復讐なら甘んじて受けようとも真夕貴は思った。赤い影が浮かぶたびに橙萌と繋がっていることを感じられる。それを絆と思って抱いて生きていくのも悪くない。独り寝にそんな感傷に浸った。


 しかしその後真夕貴のもとに橙萌から大判の郵便封筒が届く。裏に住所も名前もなかったがそれは確かに橙萌の字だった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る