第三十九告  ふたり、荒野にたつ 2

「聞いてくれてありがとう。お邪魔したわね」

「待ってください。せめて雨が止むまでいたらいいじゃないですか」

 立ちあがって帰ろうとする阿川飛名子を奥村稜が引き留めた。

「その間よければ阿川先輩もぼくの話を聞いてもらえませんか」

 そう言って奥村稜も過去を打ち明けた……。


 奥村稜の家は農家だった。将来は家業を継いで家を発展させることを望まれていた。家庭環境は複雑で歪だった。曾祖父母と祖父母と同居する大家族だったが奥村稜の母親の血縁上の親は曾祖父母である。長女夫婦に子供ができなかったため、末娘だった稜の母親が養女として縁組みして親子の関係になったのだ。


 稜の曾祖父に当たる人は傲慢な専制君主で農家を存続させることしか頭になかった。中卒の母親を家という鎖で縛り馬車馬のように働かされたと稜は夜ごと聞かされて育った。何度か家を逃げ出しその度に連れ戻され曾祖父母と祖父母に4人がかりで暴行を受けたこともあるという。


 母親が最後に逃げ出したとき、稜の父親となる男と一緒だった。家業の職人見習いで同じような境遇から逃げ出したい二人での駆け落ちだったという。そのときもやはり連れ戻されたのだが、このとき曾祖父は二人の結婚を許すかわりに手元に置き、生まれてくる子供と入り婿の祖父の実家の子供と結婚させることを思いつく。長女のせいで子が作れず、それでも別れさせなかった祖父の実家に対する負い目を果たせると思った。ただしそれは祖父への侘びではない。その新たな繋がりで豪農である久野家からもっと良い条件で援助を引き出せると思ったからだ。

 三男で冷や飯食いだった父親はその条件を呑み、二人は離れで一緒に暮らしながら稜を生んだのだという。つまり稜は生まれたときから将来が決められていたことになる。そして久野家には同じ年の娘が生まれていた。


 そうした成り行きで許嫁となった久野安澄ひさのやすみと稜だったが、幼いころは両家に守られ仲むつまじい関係を育んでいた。しかし中学に入るとそれをネタにからかわれるようになる。

「そんな関係はおかしい。人権無視だ」「もうやったのか? 不純異性交遊だ」などと言われると、奥村稜も自分がおかしいのかもしれないと不安を感じた。

 たまらず稜がそれを相談すると、母親はそれを利用して恨んでいる曾祖父母たちに復讐しようと考えた。世間の常識を御旗にして「家に執着するのは時代錯誤だ」「子供を狂った価値観で不幸にするな」と祖父母と争うようになる。

 父親はこの騒動に耳を塞いで離れの仕事場にこもり家には食事と風呂に帰ってくるだけだった。役目は果たしたと言わんばかりの態度で子供である稜にも愛情を注がなかった。

 家庭に居場所が無くなった稜は部活や学校で友達と過ごす時間で寂しさを埋めるしかなかった。友達に感化されていくなかで、次第に稜は安澄と距離を置くようになる。


 家族同士が口汚く罵りあう状況は稜が高校生になっても変わらなかった。少しでも家に居たくなくて、稜は地元でなく隣町の進学校を選んだ。部活もあえて練習漬けのテニス部を選んで休日も家にいないようにした。

 大人になるにつれ、曾祖父母たちや母親のそれぞれが稜を自分らの陣営に取り込もうとした。父親も独立して工房を持ったせいで奥村稜を手駒にしたいと考えるようになる。

 三者三様の思惑とはまた別に、高校生になった稜は安澄との仲を修復したいと思うようになった。きれいになった安澄を見たせいもある。偶然のふりをして稜が話しかけてみれば、安澄は稜を嫌いじゃないと言ってくれた。昔遊んだ記憶をまだ大事にしていることを知ってお互いの距離は縮まっていった。

 そうなれば稜の気持ちは自然と農家である家を継ぐことに傾いていくのだが、母親がそれを快く思うはずは当然なかった。


 3年生になると地元の高校に通う安澄はある男につきまとわれるようになる。男は地元で問題を起こして2年生のときに編入してきた不良だった。不良仲間とつるんでケンカに明け暮れ何人もの生徒から金をまきあげていた。安澄も家が裕福だったため目を付けられたのだった。

 その年の夏休みに久野安澄は運悪く病気にかかり、地元を離れて入院することになった。見舞いに行ったクラスメイトが薬の副作用で太った安澄を見て「妊娠して中絶のために入院した」という噂をいたずら半分に広めた。するとそれを利用して不良男が「一発やって孕ませてやった」などと吹聴しはじめる。

 奥村稜がそれを知って火消しに躍起になっても「地元を捨てて進学を選んだやつ」と旧友の目は冷ややかだった。何より卑猥な想像をかき立てられた若い欲望に歯止めがきくわけもなく、噂は日ごとに安澄を貶めるものに変わっていく。

 稜の母親も火消しどころか逆にここぞとばかりに安澄の両親を責めた。曾祖父母が死んで、家での母親の発言力は以前より強くなっていた。

 母親は安澄の両親に「傷物を押しつけられたら迷惑だ」と約束を反故にするよう迫った。「根も葉もない噂だ」と穏便に話していた両親も最後には母親に激怒し「今後一切お宅らに関わらない」と絶縁を宣言した。


 奥村稜が病院に久野安澄を見舞ったとき、安澄は「もう……疲れちゃった」と言った。

「そんなこと言うな! どうせなら全部捨てて、どこかで一緒に暮らしたっていい」

 すると安澄は首を振り「今まで黙っていてごめんなさい。汚れてしまったのは本当よ。だからもう稜の気持ちに応えられない……約束していたのに……」と告白したのだ。

 それを聞いて稜はやはり動揺を隠せなかった。好きだった幼なじみとのはじめての行為に純粋すぎる幻想を抱いていた。それが安澄が望んだことでないと分かっても、言いようのない暗い感情が湧いてくるのを抑えられなかった。

「そんなのは……僕は……」

「いいのよ。同情は愛じゃない。それだけで……ずっと一緒には暮らせない」

 それに答えることができず稜は病室を出る。後ろ手にドアを閉めるとき安澄のすすり泣く声が聞こえた。二人の関係は終わったのだ……。


「……彼女が言ったことは嘘でした。きれいな体のまま。誰にも汚されてなんかいなかった」

 当時の奥村稜は安澄が嘘をつく理由が分からなかった。それは子供の頃からの母親の洗脳のせいもあるのだが、「お前はジジイどもの家が大事という古い考えに騙されているかわいそうな人間だ。私はお前を解放する正しい存在なのだ。安澄も同じだ。お前を騙そうとするふしだらな女とは別れて正解だ」と言われればそうとしか考えられなくなった。

「でも今なら分かります。彼女はぼくを守ろうとしてくれていたんだということに。それはたぶんあのときの信岡先輩も……」


 奥村稜は大学に来たおかげで目が覚めたのだと阿川飛名子に話した。一人暮らしをはじめて母親と距離を取るようになり、多種多様な価値観の人間に触れるようになったことで洗脳が解けていったのだと。

 そして稜は新しい環境で自分を変えていこうと積極的に行動した。ただ搾取されるだけの存在でなく人に流されるだけでなく、対等に話せる関係になりたいと思った。

 しかしはじめて都会に出て環境や付き合う人間が変われば、稜に向けられる感情も一様ではない。何も知らない田舎者と見て稜を都合のいいように使おうとする人間が笑って近づいてくることも、知識をひけらかして後出しジャンケンでマウントを取りたがる人間、他人を踏み台にすることに何のためらいもない人間はどこにでもいる。


 そのことを思い知らされれて疑心暗鬼になっていた稜を救ってくれたのが信岡聖やテニスサークルの仲間だった。部室で気心の知れた仲間と話すうちに稜も心を癒やしていく。その中でも信岡聖には特別な感情を抱くようになった。

「好きな人とかいないの? バイト先の女の子誰か紹介してあげようか?」

 聖の言葉に「先輩がいいです」とは言えなかった。新歓コンパで彼女に告白めいた発言をしてしまったのは勢い余ってのことだったが日ごとに聖に惹かれていくのが自分でも分かった。後で婚約者がいると知ってやっぱり言わなくてよかったと思いつつも。


「でも結局ぼくはまた何もできなかった。信岡先輩のことも口では守ってあげたいと言っておきながら……」

 キャンパスでの騒ぎのとき奥村稜は信岡聖をかばうことができなかった。ようやく話せるようになった同じ学科の人間からまた距離を置かれるのが怖かった。自分のことで手一杯で彼女を気にする余裕がなかった。どんなに言い繕ってもだがそれが逃げたことの免罪にはならない。

 聖が葉見に脅され恥ずかしい罰ゲームをやらされているのを見た奥村稜ができたのは、その場を離れて目をつぶり耳をふさぐことだけだった。しかしそれは指さして笑う野次馬と五十歩百歩で何の助けにもなっていない。

(婚約者と別れたと聞いたときに「じゃあ今度は自分が」なんて言い寄ろうとしたくせに。阿川先輩と抱き合って泣いているときに代わってぼくが抱きしめたいなんて妄想したくせに。ぼくも葉見あいつと何も変わらない、とんだクズ野郎だ!)


 そんなふうに自分を責めていたせいで、稜は聖がアパートの前に立っているのを見たとき一瞬これは夢なのかと思った。

「お酒買ってきたの。今夜だけでいいから泊めてくれない?」

 少し淋しそうに笑ってそう言われれば稜は一も二もなく彼女を部屋に迎え入れた。このときばかりは貧乏な物のない部屋で掃除しやすかったことに感謝した。


「ずっとここにいてください。その……責任は取りますから」

 あのとき奥村稜が信岡聖に言った言葉は本心からだった。不甲斐ない自分を詫びて今度こそ聖を助けたい。もう大事な人を手放したくない。それは聖の体に彫られたタトゥーを見ても変わらなかった。

(このままずっと暮らしていけたら……いやそんなあやふやな気持ちでどうするんだよ。一生賭けて守ってやるくらいのつもりでないと! それがどんなことからでも)


 稜の気持ちの裏には母親の洗脳への反動もある。稜が大学に進学したのには久野安澄との関係が終わったこともあるが、母親が「田舎にはろくな女がいないから、ましな女を自分で見つけてこい」と言われたせいもある。それは跡取りの交際に母親が口を出すのが当たり前という口ぶりだった。

 久野家との関係が壊れ、稜の祖父母の暮らしは立ち行かなくなった。賠償に田畑を久野家に取られて小作人になり、足りない日銭を土木現場や食肉加工の工場で稼ぐ暮らしに成り下がった。

 稜の両親も農業から手を引いてしまって近隣から疎まれることになるが、二人はそれで本望だったのだろう。地元の仕事が減ったことで父親は工房を隣町へ移した。

 父親は職人馬鹿の見本のような男だったため、口下手で人付き合いの機微に疎く目先の損得ばかりで経営の能力がなかった。それらの足りないものを稜に押しつけようと、「大学の学費や生活費の面倒を見るかわりに俺の期待に応えろ」と新たな飼い主としての首輪をつけたのだ。そして稜自身も『家族』の縛る愛情に慣れてしまっている。頭で分かっていても中毒に麻痺して身動きが取れなくなっていた。


「奥村くん、わた、私は……」

 奥村稜が信岡聖を守りたいと言った気持ちに嘘はなかった。しかし自分が【シニコク】呪いにかかったことで二の足を踏んでしまう。

 そのとき定期的にかかってくる母親からの電話の小言が不意に奥村稜の頭をよぎる。

「悪い女に騙されて変な病気をもらったりしてないだろうな? 都会に浮かれて親に恥をかかせるような真似をするんじゃないぞ」

 繰り返される言葉の毒はずっと稜を侵し続けている。教育とは名ばかりの洗脳は自由な意思を奪い、稜に親への絶対服従の『愛』を復唱させる。親の期待に応え田舎に帰って後継車になることが最優先であり、そうしなければお前は生きて行けない弱い存在なのだとずっと刷り込まれている。

(信岡先輩のことは守りたい。でもどうやったら『一緒に田舎で暮らして』いけばいい? どうやったら母親を説得できるんだ? それよりも呪われてしまったぼくも見捨てられてしまうのか?)

 稜が手を引っ込めてしまったときも、頭の中はそんな考えに占領されていた。


(いや、僕は何でこんなことを考えているんだ! 信岡先輩を守るはずじゃなかったのか! 目の前にいる人のこの手を今取らないでどうするんだ)

 しかし稜が再び聖に近づこうとしたとき、聖は手のひらを返して「騙そうとして近づいただけ」「遊びで付き合っただけ」と稜を嗤ったのだ。

 後で考えれば言動の不自然さに気づくのだが、このとき稜の中にかつての安澄との別れがフラッシュバックする(このときはまだ稜は安澄の嘘を信じていた)。それが引き金となって同時に母親の「悪い女」という言葉と相まって稜の心は怒りと失望に満たされていく。

「……もういいです。自分が馬鹿でした。……失礼します」

 稜は部屋に戻り聖の私物をペーパーバッグに詰めて外に出した。

 トラウマに耐えて体を丸めていると、ドアのポストに聖がスペアキーを落とすカチャンという音が聞こえた。「追いかければ間に合う」という内なる囁きを無視して稜は夜までそのまま過ごした……。


「ぼくもそうなんです。我が身かわいさに信岡先輩を見捨てたひとでなしです」

 奥村稜がそう言うと部屋に沈黙が流れた。お互いが抱えている過去をさらけ出したものの、借金や毒親といった原因の違いはあったにしても気安く慰めの言葉を口にできる空気ではない。


 そのとき不意に稜のスマホが鳴って着信を告げる。しかし一瞥しただけで電話にでようとはしなかった。そして再び訪れた静寂を破って奥村稜は阿川飛名子に話しかけた。

「阿川先輩、ぼくたち協力できませんか?」

「えっ」

「ぼくはもう田舎には帰りません。居場所がないっていう方が正しいですかね。それにこれ以上あいつらの奴隷になる気はないですから」

 稜の父親の仕事は移転してからうまくいかなくなった。商売敵に密告され税務署の査察が入った。脱税を指摘され追徴金で百万単位の金を払わされた。悪いことは重なり工房から失火して隣家にも延焼した。

 父親は困窮した金銭的援助を実家の兄夫婦に頼った。そのころ実家には離婚して出戻った姉(父親の兄からすれば妹)とその無職の息子が同居していた。二人を持て余していた兄夫婦は姉の息子を養子にして二人の面倒を見ることを金を貸す条件にしてきた。結局父親はそれを呑むしかなく、それにより稜の立場は微妙なものになってしまった。

「さっきの電話は多分その話です。これまで通り大学に行かせてもらいたいなら、卒業後に農業をやれ。祖父母が死ぬまでお前が面倒を見ろと言われています。……ははっ、どこまで人を馬鹿にしてるんですかね、本当に……でもようやくぼくも縁を切って生きる覚悟を決めました。でも一人じゃつらい。……阿川先輩、ここを出たら死ぬ気だったんじゃないですか? だったらぼくと一緒に生きてくれませんか」

 そう言って奥村稜は阿川飛名子の手に自分の手を重ねた。

「だって私は……セイを騙して、それに奥村君のことだって」

「自分を許せませんか? だから生きる価値がない、そういうふうに思ったんですね。だったらぼくが許します。ぼくらは似ていると思いませんか? 人に傷つけられてそのせいで人を傷つけた。だったらその傷をなめ合って生きていくのもいいじゃないですか」

「優しすぎるわよ……何でそんな」

「それでも罰を望みますか? だったら噂を受け入れたらいいじゃないですか」

「えっ?」

「呪われた後輩を騙して奴隷にして自分の借金をなすりつけるひどい女。それを演じてみませんか。ぼくが協力すればどうですか? 借金だって2人のほうが早く返せますよ」

「そんな! だってそれじゃ奥村君が」

「そのかわり阿川先輩もぼくに協力してください。執着する毒親からまだ利用価値のある息子をたぶらかして攫っていく泥棒猫、そう呼ばれてくれませんか」

「あなた……奥村君」

「罰というなら阿川先輩はぼくの赤い影を見るたびに信岡先輩のことを思い出すでしょう。そしてぼくも阿川先輩が側にいてくれれば自分がこれまでしてきたことを忘れない。これは一方的な施しじゃない、お互いがお互いを支え合う契約です。だから負い目を感じる必要はないんです。……どうです? 一緒に生きてくれませんか」

 その言葉に飛名子は稜にすがって号泣した。


「ありがとう……いいの、私なんかで?」

「ぼくの方こそ……ええ、よろしくお願いします」

「何よ、こんなときにまで……馬鹿ね」

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