第三十八告  ふたり、荒野にたつ 1

 奥村稜は赤い影のせいで周りから敬遠され「話しただけで呪われる」などと嫌がらせを受ける毎日に疲れ果てていた。信岡聖に会えばきっと恨みごとを言ってしまう、仮にそれを抑えることができたにしても別れた男が今更どんな顔して会えばいいのか。そう思うと病院を訪ねる気持ちが萎えてしまうのだった。

 だがそうして逡巡しているうちに聖は姿を消してしまった。もう会えないという現実に、たとえどんな理由であれ、あのとき聖を手放しで迎えるべきだったという後悔を大きくした。


 アパートに引きこもるようになった奥村稜を阿川飛名子が訪ねてくるようになる。しかし稜の目にはその行動も後輩をフォローする自分を周りにアピールしたいだけに思えて、飛名子を受け入れる気にはならなかった。

 しかし邪険な扱いにもめげず飛名子は稜のアパートに通い続けた。

「もう来ないほうがいいですよ。呪われたいんですか?」

「そうね……いっそそのほうがスッキリしていいかもしれないわ」

 奥村稜の言葉に阿川飛名子はそう応えると涙をこぼした。その日は雨だったこともあってその中を追い返すわけにもいかず、稜ははじめて飛名子を部屋に入れた。そこで飛名子は今度は自分が白い目で見られ孤立していることを稜に話した……。


 騒動の責任を取る形で葉見契一はテニスサークルを辞めさせられた。反対に阿川飛名子はサークルを辞めることは許されなかった。顧問から後輩をしっかりフォローしてサークルを立て直すように厳命されればそれに従うしかなかった。

 しかしその扱いの差が不満だった葉見は今度は飛名子を次の標的にした。

「阿川飛名子が信岡聖を貶める噂を流した犯人だ」

「嘘告をするように仕組んで聖を新当桂馬と別れさせたのも飛名子だ」

「聖の噂を隠れ蓑にして飛名子もそうとう遊んでいる」

 葉見はそう言いふらして彼女を中傷した。自分が信岡聖にしたことも裏で彼女が指示していたことだと言い出す厚顔ぶりだった。

 葉見の言うことを信じない人もいたが、彼らも次第に飛名子と距離を置くようになる。聖が自殺を図ったことを「自分は関係ない。ただの傍観者だ」という逃げのスケープゴートにされたのだ。

 そうして彼女はたちまち大学で孤立してしまった。


「因果応報ね。セイにしたことを思えば当然だけど……」

 奥村稜が入れたコーヒーのマグカップを手に阿川飛名子は大きくため息をついた。

「今になって思えば私もおかしくなっていたのよ。人を傷つければいつか自分もしっぺ返しを食らうって、分かっていたはずなのにね」


 阿川飛名子にとって信岡聖は親友と呼べる間柄だった。側で何かと頼ってくる聖に飛名子も姉妹のように振る舞って結果癒やされていった。ただし飛名子には聖に言えず隠していることがあった。

 飛名子には大きな借金があった。恥をさらしたくないこともあるが、変に同情されて関係を壊したくなかったのもある。

 飛名子の借金は付き合っていた男に貢いだときのものだった。しかし男は貢がせた金で他の女と付き合っていた。それを知って男を責めると「バレちまったか。まだ騙して引っ張れると思ったのによ」と言われてあっさり捨てられた。

 男は新車のBMWのローンを飛名子の名前で組んでいた。その借金を返すため彼女の休みの日はバイトで埋めつくされることになった。


 聖と桂馬の交際を知ったときは飛名子もはじめは手放しで祝福できたのだが、しかし幸せそうに笑う聖とくだらない男に騙されバイトに明け暮れている自分を比べて惨めな気持ちになる日もあった。そこを【あの女】につけ込まれてしまったのだ。

「ねえ阿川サン、自分を裏切った男に復讐したくない?」

 そう【あの女】に囁かれたとき、飛名子は思わずその手を取ってしまった。吹っ切ったつもりでも自分と違う女を隣に乗せて登校する男のBMWとすれ違うたびに恨みが募っていた。

「お金はいらないわ。代わりにワタシに協力してもらうのが交換条件よ」

「ええ、それであいつに思い知らせてやることができるなら……」

「あはっ、契約成立ってコトね」

 握手をかわす【あの女】の微笑みが魔女のそれであることに阿川飛名子が気づくのはまだ先のことだった。


 ……その後に男は休日の高速道路でBMWを横転させる事故を起こし、事故の様子はニュースでも報道された。男は事故の原因を暴走族に煽られてハンドル操作を誤ったためと警察の事情徴収で語ったが、その暴走族の素性は分からず終いだった。

 男のBMWは大破し同乗していた女も体に障害が残る大ケガを負った。そして男は女の両親に多額の賠償を請求されただけでなく、彼女に一生尽くすことを約束させられた。ただしそれは夫としてという意味ではない。


 事故のニュースを見て飛名子は急に恐ろしくなった。そこまでのこととは思っていなかった。飛名子が電話しても【あの女】は笑ってはぐらかして明確な答えを避けた。

「さあどうかしらね? いずれ阿川サンの望みが叶ったんだから素直に喜べばいいじゃない? ああ、警察に駆け込むなんていうのはナシよ。アナタも事故に遭ったりしたらつまらないでしょう?」

「そんな! 脅すつもり?」

「余計なことをしなければ何もしないわ。じゃあ阿川サン、今度はアナタが約束を守る番よ。途中で逃げたりしたら……そんなワケないか? ワタシたちはもう共犯者なんだから。あははっ」

 そう言って【あの女】は電話を切った。阿川飛名子の耳に不快な笑い声がいつまでも残った。


 それから大学で信岡聖の悪い噂が流れるようになった。阿川飛名子も不安がる聖を励まし「いつでも力になるから」と支えた。しかしそんなとき阿川飛名子に【あの女】から命令が届く。それは「信岡聖を破滅させるから協力しろ」というものだった。

「どうして! セイがあなたに何をしたっていうの!」

「別に何も? ただそうしたかっただけよ。あはははっ」

 飛名子が問い詰めても【あの女】は魔女の笑いを返すだけだ。それでも訊かずにはいられなかった。

「お願いよ。他のことなら何でもするから……」

「何でも? だったら代わりにアナタが破滅してみる?」

「それは……で、でも!」

「そもそもアナタは彼女を親友と思ってるみたいだけど、むこうはどうなのかしらね?」

「えっ?」

「ワタシ見てしまったのよ、彼女がアナタの悪口を言うところ。『お金の話をすると途端に顔色を変えるのよ。隣にいるこっちが恥ずかしくなるくらい』って。彼女はとっくに『知ってた』みたいよ?」

「な、何を言って……セイがそんな……そんなはずない!」

 飛名子はショックでその場に座り込んでしまう。聖にだけは知られたくなかった。知られたにしてもそんなふうに見られているなんて思いたくなかった。

 それがおそらく【あの女】の嘘だということは飛名子も頭では理解している。しかし一度揺らされた心は元には戻らない。しかも【あの女】は飛名子がそれを聖に訊くことはできないと承知の上で言っているのだ。

「だからアナタが彼女を裏切っても許されるんじゃないの? 目には目を、裏切りには裏切りをってね。あははははっ」

 飛名子は【あの女】の命令を拒否することはできない。『洗脳』から心を守る方法は聖が先に裏切ったという事実を免罪符にして(たとえ嘘だと分かっていても)、自分を正当化する以外になかった。


 そして【あの女】の思い通りに信岡聖は奈落へと転がり落ちていく。しかし直接その背中を押したのは間違いなく阿川飛名子だ。どんなに泣いて詫びようともそのことは変えられない。

「ごめん。力になれなくて……私にはもう……」

 飛名子がそう言って流す涙は同時に偽善者である自分自身へのものだ。

 裏で彼女が苦しむように仕向けながら表で慰めるマッチポンプには嫌気が差す。しかし全てを打ち明けたくても「もうあなたしかいないの! 見捨てないで」と聖に泣いて縋がられれば口にすることはできなかった。裏切りを知られたときにどういう目で見られるかを想像すると背筋が寒くなる。


 葉見契一の『要求』は日ごとに過激になっていく。羞恥に顔を真っ赤にしながら扇情的な格好でキャンパスを歩く信岡聖を指さし「見ろよあの顔、絶対好きでやってるぜ?」と言ってゲラゲラ笑う葉見を見ると殺意を覚えるが、「じゃあ代わってやれよ」と言われるのが怖くてただ見ているしかない。

 同時に飛名子は葉見が【あの女】と繋がりがないことに気がついた。【あの女】と接するときの葉見の態度が飛名子とは違っていたからだ。

 飛名子にペットを身代わりにする儀式を教えたのは【あの女】だった。だからはじめは葉見も同じように【あの女】の駒なのだと思っていた。しかし後になって、BMWを煽った暴走族のリーダーである城戸琉侍の存在を知ったとき、葉見の後ろにいるのは城戸なのだと気がつく。ならば葉見は【あの女】の部下のさらに下、孫請けなのだ。それに思い至ったとき飛名子は【あの女】の動かせる暴力の大きさに震える。

 それに加えて【シニコク】を利用する呪いの知識もある。【あの女】は一体何をしようとしているのだろうか。

 飛名子の脳裏に黒魔術の魔女のイメージが浮かぶ。もはや【あの女】の存在は悪女などという生やさしいものではない。


 一週間の恥辱の拷問が明けて、飛名子は聖に葉見契一と会うのについて来てほしいと頼まれた。しかし約束の場所に聖は来なかった。電話しても出ないので飛名子はとりあえず一人で葉見のマンションに行った。

 しかし聖が葉見から受け取るはずのペットは死んでいた。葉見にははじめから約束を守る気などなかったのだ。

「どういうことなの! セイがなんのためにあんなことをしたと思ってるの!」

「ごちゃごちゃうるさいな。とっととボクのものにならないあいつが悪いんだよ。居場所? あ~ビッチはビッチらしくどっかでみんなと楽しんでるんじゃないの?」

 ゲスな笑いを浮かべる葉見の言葉に聖が『琉星狼』に攫われたのだと察した。

 葉見のマンションを出た飛名子は【あの女】に電話する。探すにも他に何のあてもない。

「これもあなたが指示したことなの? もう気が済んだでしょう? セイを返して!」

「まだダメよ。ここからが本番なんだから。きっと面白いコトになるわよ。あはははははっ。あははははははっ!」

 電話の向こうで【あの女】は狂ったように笑い続ける。飛名子は今更ながら自分のしたことを悔やんだ。

(こんなことになるなら復讐なんかするんじゃなかった。見栄や恥なんてどうでもいいからセイに全部打ち明けていればよかった。周りなんて気にしないでかばって前に立ってあげればよかった……)

「もう付き合いきれない。私は降ろさせてもらうわ」

「ワタシを裏切るってコト? どうなっても知らないわよ」

「ええ……それも覚悟のうえよ」

 そう言って阿川飛名子は電話を切った。歩きながらこれからのことを考えようとしたがうまくいかなかった。

(もう何もかも遅いのかもしれない。でももう後悔したくない。たとえ自分が同じ目にあったとしても……)


 阿川飛名子は何度か信岡聖に連絡をとろうとしたが接触できなかった。地図で探してアパートを訪ねたときも聖は時間稼ぎをして姿を消してしまった。自分の蒔いた種とはいえ聖にあからさまに拒絶されるのは胸に堪たえた。

 テニスサークルがとうとう休部になったことで、飛名子は仲間や後輩から事態を収拾できなかったことをなじられた。裏では周りと一緒になって笑っていたくせに、尻に火が付いてから一目散に逃げるだけの彼らに辟易する。

 周りの人間は芸能レポーターのように「あなたも騙されていたんでしょ? 言いたいこと言っちゃえば?」と飛名子に近づいて、新しいゴシップを得ようとする。彼らも結局は面白おかしく対岸の火事を眺めているだけの野次馬なのだ。

 そのうちに信岡聖に関して新しい噂が広まる。彼女とセックスをした男には【シニコク】の赤い影が伝染るのだと。【あの女】の言った「面白いコト」とはこれなのだと飛名子は思い至ったが、にわかには信じられい話だった。

 それを伝えようと聖のアパートを訪ねてみたが依然アパートには帰っていないようだった。滅茶苦茶にされた玄関のドアを見て、噂をばらまいているのは『琉星狼』なのだと察した。

 しかし後日、奥村稜のうなじの赤い影を見て、飛名子はその噂が本当のことなのだと知ることになる。


 その日も阿川飛名子は部室の掃除に来ていた。せめてもの罪滅ぼしにと彼女が自分で買って出たことだった。

 そのとき私物を取りに来た奥村稜と会った。稜が背中を向けたとき、飛名子は首の後ろに浮き出たその赤い影に気がついた。

「奥村君? どうしたの、首の後ろのそれ……」

「えっ?」

 稜の赤い影は聖のものと同じだった。阿川飛名子がその場所で写真を撮って奥村稜に見せると、彼は青ざめてどさりと椅子に座った。

「えっ? どうしてこんな……まさか信岡先輩が?」

 震える稜の口から聖の名前が出たことで、飛名子にも2人に何が起こったのかが分かった。

 赤い影が人に伝染るということは嘘告をしていない人間も呪われる可能性があるということだ。そのことが本当のことだと知れ渡れば、聖の置かれた状況をさらに悪くするであろうことは火を見るより明らかだ。噂に尾ひれがついてセックスだけでなくキスやあるいは触れただけ話しただけで呪いが伝染るなどという話になったりすれば、その人間は村八分どころではなく異端者や魔女裁判のように迫害を受けることになるだろう。


 阿川飛名子はパニックになる奥村稜を何とか落ち着かせタクシーで彼のアパートに向かった。首にはタオルをかけて人に見られないようにした。しゃくり上げる彼の頭を抱きしめて、飛名子は「大丈夫大丈夫だから」と言い続けた。

(セイのこともだけど奥村君のことも放ってはおけない。彼がセイをこのまま支えてくれたらとも思ったけど……ううん、それを私が望んだら駄目よ。

 奥村君のためにも今は引き離すしかないのよ。セイに辛く当たることになっても、それは仕方ない……そうよ、セイのことはこれから私が守ってあげればいいのよ……待っててね、セイ。もう間違えないから!)


 そうして阿川飛名子は信岡聖と再会した。しかしその顔には飛名子が期待したような喜びの色は当然ながら無かった。

「知らないとでも思ってるの、阿川さん?」

 聖はもう飛名子のことをヒナとは呼んでくれなかった。そして飛名子のしてきたことをとっくにお見通しだと言わんばかりに断罪の目を向けてくる。その表情に飛名子は唇を噛む。そこにはもうあのころの聖はいない。

(そうよ。セイに会えば笑って許してもらえるなんて……何でそんなふうに思ってたんだろう。本当に馬鹿だ、私……)

 改めて自分のしたことを突きつけられると足が震え帰ってしまいたくなる。それでも飛名子は稜を救うために、悪役になるためにここに来たのだともう一度自分に言い聞かせる。

「これ以上あなたの犠牲者を出さないためよ、疫病神さん。……やっぱりまだ知らなかったのね。あなたとセックスした男の体に赤い影が出るようになったのよ。それが奥村君にもできていたの。でも恩を徒で返すなんて……本当にあなたってひどい人ね」

 飛名子の激しい口調に聖が目に見えて狼狽する。

「奥村くん、わた、私は……」

 そう言って信岡聖が一歩踏み出すと奥村稜は拒絶するように一瞬体を硬直させた。

それを見て阿川飛名子は稜をかばうように、そして聖に近づこうと前に出る。

(大丈夫よ。今度は私があなたを支えてあげるから。今度は私が……)

 しかしその思いが聖に伝わることはない。


 信岡聖が次に取った行動に阿川飛名子は動きを止める。彼女はいかにも自分は悪女だというように、奥村稜を騙していたと口にして笑ったのだ。

「本当よ。噂のとおり、私は嘘つきでビッチで……セックスなしで生きられないような女で……」

 それを聞いて奥村稜は顔を歪め、短く別れの言葉を告げて部屋に戻った。

 阿川飛名子はただ呆然とそれ見ているしかなかった。自分の考えていた筋書きと何もかも違ってしまった。

(どうして? 何でこんなことになったの? これじゃ……誰も救われない!)

「これで満足かしら? 悪魔を退治しにきたエクソシストさん?」

 そう言って信岡聖は阿川飛名子を見る。その目には静かな怒りがこもっていた。聖にしてみれば今の飛名子は、呪われた異形の存在を許さない正義の執行者にしか見えないだろう。それは異端者迫害されるという社会の縮図だ。

 聖が顔を上げて飛名子を睨むとつい首にある赤い影が目に飛び込んでくる。一歩ずつゆっくりと近づいてくる姿は、聖が呪われた存在であることを改めて飛名子に訴えてくるようだ。知らず飛名子の口から悲鳴が漏れる。

「だ、だったら何よ? 私は正しいことをしてるだけよ!」

「そんなに叫ばなくてもいいじゃない。本当に悪魔になったような気分になるわ」

(違う、違うのよ! そんなつもりじゃ、私は……そんな冷たい目で見ないで!)

 飛名子は聖に壁際に追い込まれ逃げ場を失う。聖の手が飛名子の髪を掴む。

「それで結局あなたは何がしたかったの? 正しいことをしてる自分に酔ってみたかった? 阿川飛名子が信岡聖より上だってマウントを取りたかった?」

「痛い、やめて! そんなつもりじゃ……」

 飛名子は自分がどれだけ傲慢だったかを思い知らされる。そして同時に飛名子は聖の抱える絶望の深さを見せつけられた思いだった。理不尽な呪いのせいで人を好きになることすらできない、そんな境遇に自分はきっと耐えられない。

(上から目線で「救ってあげる」なんていったい何様のつもりだったんだろう。私がセイをこんなにしてしまったのに!)

「私は脅されて……ごめんなさい。呪いを解く方法も正確には知らないの……ほ、本当よ! お願い信じて! ……ごめんなさい。それでも私は……」

(それでも私は今度こそあなたの隣に立ちたいの。ああ、でも【あの女】のことをセイに話したらまた彼女を巻き込んでしまう。いいえ、でも……)

 飛名子が心で葛藤を繰り返すも聖はもう興味がないというように鼻で笑う。

「そんなの聞きたくないわ。最後まで正義のヒロインらしくしてなさいよ。……ああ、そう言えばひとつ疑問があったのよ。あなたで試してみようかしら?」

 そう言って信岡聖は阿川飛名子の頬に手を添え、吸血鬼のように首筋に唇を近づけてくる。

「セックスで呪いが男に伝染るなら女同士はどうなのかしらね。あなたは興味ない?」

 その信岡聖の言葉を聞いて阿川飛名子に衝撃が走った。

(聖は私を試そうとしている。隣に立つ資格がお前にあるのか、【シニコク】に呪われて同じ地獄を見る度胸はあるのかと!)


 信岡聖を救いたいという思いは阿川飛名子の中に確かにある。その気持ちだけでここに来たのだ。しかし逆に言えば彼女にはそれしかなかった。そしてその情動はリスクに直面すれば簡単にしぼんでしまうものだった。アイドルにうつつを抜かし目先の儲け話に夢中になる人間が、失った時間や金を前にして急に目が覚めるように。

 障害を持った人を隣で支えることはできる。しかしそこで苦しみを分かち合うためにお前も腕を切り落とせという話にはならない。メリットのない無意味な犠牲でしかないからだ。だが今の聖が飛名子に望んでいるのはそういうことなのだ。火事の中に水ではなく灯油をかぶって飛び込んでこいと言われたようなものだ。今の信岡聖は救ってくれる人間ではなく同じ火に焼かれる人間を欲しているのだと。

 それを知って飛名子の中で膨れあがったのはやはり慈愛よりも拒絶だった。

「やめて、お願い! 呪われたらもう……生きていけない!」

 飛名子の言葉に聖の動きが一瞬止まる。緩んだ隙をついて飛名子はそのまま走った。通りに出るまで後ろは振り向かなかった。


 乗ったバスの中で飛名子は最後に見た信岡聖の顔を思い出していた。「呪われたら生きていけない」と言ったときの彼女は、しらけたような無表情の裏に深い諦念を滲ませていた。聖に「お前の覚悟なんて薄っぺらな紙切れと同じだ」と言われたようで、飛名子は降りるまで人目も憚らず泣き続けた。


 その後阿川飛名子もまた周りの好奇の目をおそれて見舞いの機会を逃す。そして聖は病院から姿を消してしまった。悔やみながらも断罪を免れたことにほっとしている自分に気づき、飛名子は自身の浅ましさを恥じた。そして信岡聖の代わりに自分を罰してくれる存在を求めた。

 今度は自分がいじめの標的になることも甘んじて受けるつもりだった。ただし無抵抗という意味ではない。葉見契一の嘘や周りの噂に強く反論し、嫌がられているのを承知のうえでサークルに顔を出し続けた。少しでも信岡聖の名誉回復になればと孤独な戦い続けた。


 しかしそれを【あの女】が黙って見ているはずもなかった。阿川飛名子の借金のことも周りに知られてしまい、それすらも阿川飛名子が援交をしている噂で上書きされた。電話番号やアドレスがさらされ、実際に「愛人にならないか」と誘われたこともあった。

 多勢に無勢で飛名子はじわじわと悪意に侵され追い込まれていく。


 阿川飛名子が奥村稜を訪ねたのもはじめは彼が自分を罰してくれると期待してのことだった。殴られ蹴られるのも覚悟してアパートのチャイムを鳴らした。

 しかし稜が口にしたのは飛名子を断罪する言葉ではなく、信岡聖への変わらぬ恋慕とあのとき手をとれなかったことへの後悔だった。

「ぼくのこれまでの人生は勘違いや間違いの連続でした。でも信岡先輩のことだけは間違うべきじゃなかった。それなのに……」

 その悔恨を聞いて飛名子は稜が羨ましかった。涙をこぼす姿を美しいとさえ感じた。同時に自分は彼のように泣く資格などありはしないのだと痛感させられる。

 裁かれるのが叶わないなら、飛名子は稜に尽くすことが自分の贖罪になるではないかと考えるようになった。身勝手な行為だとは思ったが飛名子自身何かすがるものが欲しかったのだ。


 しかしそんな飛名子の行動を周りの人間はまたも無責任に噂する。曰く、

「援交に飽きて今度は年下の男をたぶらかそうとしている」

「騙して自分の借金を肩代わりさせようとしている」

「呪われた男を奴隷のように飼って女王様のようなプレイにふけっている」等と。

 どんな荒唐無稽な話も人を介しているうちに真実となっていく。

 それを【あの女】が意図的に広めているとすれば尚更だ。そして噂が稜に伝わってさらに傷つけば、稜は飛名子にはもう心を許さないだろう。そのことは飛名子の心を折るのに十分だった。

(それならいっそ自分から話して奥村君の前から消えてしまおう。もう間違えるのは嫌だもの……ええ、最後くらい)

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