第三十六告  狂った悪魔

「そんなことやめて! 私はもういいの! お兄ちゃんがいてくれればもうそれで……」

 信岡玄が険しい顔で口にする復讐という言葉を遮って、信岡聖は玄が握りしめた拳を両手で包んだ。「それだけでいい」と聖が繰り返すと拳が緩んでいく。

 信岡玄はヤクザの世界から距離を置いているが、もしその力を使おうと思うならたやすく手に入るのも事実だ。そして聖のためなら玄はそれを使うことを堕ちることをためらわない。

 だがそこに入ったらもう後戻りはできないのだ。自分のせいで玄にそんな真似をさせるわけにはいかない。

「そんなことよりこれからの……二人の時間を大事にしていきたい」

 そう言って信岡聖は信岡玄の手を頬に運んだ。導かれたその手は彼女を抱えるように背中に回され、二人は長いキスをした。信岡玄の髪を信岡聖が指で梳いた。

「お前がそう言うならそうするよ、ハニー」

「もう! ふざけてそんな……ありがとう。お兄ちゃん」

「もうお兄ちゃんじゃないだろ?」

「でも……ダーリンは恥ずかしいよ」


 その日信岡玄は大学やアパートの手続きをするため病院を離れていた。退院は3日後の予定だった。そのまま車に乗せて街を離れるつもりだった。

 しかし病室に戻ってみると信岡聖の姿がなかった。何処かに出かけたのかと思ったが病衣がたたんで置いてあり、その上には病院のプリントの裏に走り書きした書き置きがあった。

『やはり迷惑はかけられません。私は一人で生きていきます。私の分まで彼女とお腹の子を大事にしてあげて下さい』

 手紙を読んで病室を飛び出す信岡玄だったが、後ろから名前を呼ぶ声に振り向いた。

「やっと会えたわ。淋しかったのよ、ダーリン」

 そこにいたのは新当絵馬だった。


「絵馬? なんでお前がここにいる?」

 睨み付ける信岡玄に動じることもなく新当絵馬は口元に笑みを浮かべて近づいてくる。

「そんな怖い顔しないで。浮気して桂ちゃんに捨てられたくせに、今度はダーリンにしがみついて迷惑をかける。薄汚いクズ女に引導を渡しにきたのよ」

「ダーリンなんてお前にそんなふうに呼ばれる覚えはない。聖に何をした?」

「証拠を見せて私たちの暮らしに小姑の居場所なんて無いって教えてあげたのよ。ほら」

 そう言いながら新当絵馬は自分の名前の通帳を信岡玄に見せた。

「……何だこれは? 俺はお前に金なんか渡していない」

 そこには信岡玄の名前で毎月7万円が振り込まれており、そこから家賃や光熱費と思われる金額が引かれているのが分かる。

「ええそうね。これはわたしが自分の給料を引き落とし用の通帳にダーリンの名前で振り込んでいただけだから。いつかそうなればいいと思ってずっと続けていたのよ。うふふっ」

 自分の妄想に浸ってか新当絵馬がうっとりと目を細める。

「どこが証拠だ。妊娠したっていう嘘も何なんだ?」

「だってクズ女が兄妹なのに愛し合っているなんて気持ち悪いことを言うんだもの。『同情をはき違えないで。本当に愛されているのはわたしだけ』って言ってこうしたら・・・・・勝手に向こうが勘違いしただけよ」

 そう言って新当絵馬は自分のお腹を愛しそうに撫でてみせる。いま彼女の着ている服もゆったりしたマタニティドレスに見えなくもない。

「すべてが計算ずくってわけか。お前のやってることは詐欺師の手口と一緒だ。何でそこまでする必要がある? 妊娠したなんて嘘までついて」

「ダーリンがわたしを見てくれないのが悪いのよ。こんなに愛しているのに。

 嘘? それくらいいいでしょう? 邪魔者なクズ女がいなくなってこれからそうなる予定なんだもの。うふふふふ」

 言いながら新当絵馬が信岡玄に腕をからめてくる。言いようのない狂気を感じて信岡玄はその腕を振り払った。

「ふざけるな! お前こそ正真正銘のクズで悪魔だろうが!」

 それに対して絵馬は大げさに転んでみせ、大声で叫ぶ。

「乱暴しないで! せっかく授かったのにやっぱり別れるだなんて! ひどいわ!」

 その声に周囲からの視線が集まる。看護師が血相を変えて近づいてくる。新当絵馬はこうやってナチュラルに人を騙すのだと思い知らされる。


「メロドラマの茶番はひとりでやれ。殺されたくなかったら正直に答えろ。聖はどこへ行った?」

 信岡玄が新当絵馬の胸ぐらをつかんで顔を寄せる。目を輝かせる彼女を無視してさらに詰問する。

「お金と新幹線の切符を渡してタクシーに乗せたわ。駅に向かってるはずよ」

 それだけ聞くと玄は外へ飛び出し車に乗り込んだ。

 しかし車を走らせながら信岡玄はこれも新当絵馬の策略なのではと思い至る。聖がどの駅に向かったかは分からない。それに本当に新幹線に乗るかどうかも分からない。あるいは全てが嘘で単なる時間稼ぎなのかもしれない。「畜生め……」


 信岡玄は3年ぶりに母親に電話をかけた。伊勢木嶽夫に会うためだ。

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