第三十五告  信岡聖

 信岡聖はこれまでのことを信岡玄に話した……。


 年が明けても信岡聖と新当桂馬の交際は順調だったという。阿川飛名子たち同じサークルの仲間には交際を知られることになったが、婚約のことを言うと「うらやましいわ。結婚式には呼んでね」とはやされた。

 しかし大学2年目の春に聖に対して「二股かけてる男がいるらしい」「隠れて中年男と援助交際している」といった悪い噂が流れ出す。

 確かに学校の課題やバイトで新当桂馬と過ごす時間は減っていた。それでも最初は桂馬も「信じてる。気にするな」と笑いとばしてくれていた。


 しかしある日、聖は桂馬に「君のことは信じてるけど、それを証明してほしい」と言われ、ある『占い』を持ちかけられた。

「不実な交際や嘘告をした人間の体にその証拠が浮き出てくるらしいと人から聞いたんだ」と説明された。疑われるのは嫌だったが思い詰めた顔を見ると無下に断ることはできなかった。

 人型を書いた封筒を二つ用意して表に自分の名前、裏に相手の名前を書いて自分の髪や爪を中に入れる。人型の中心に血を一滴たらした封筒を重ねて縛り、4日の2時59分に真実を照らすという真言を唱えながら二人で燃やす。

 真言を唱える桂馬を横に見ながら聖には思い出したことがあった。


 サークルの新歓コンパのゲームで、負けた者は酒を一気飲みするか勝った者のいうことをひとつきくという罰ゲームがあった。負けた信岡聖が酒を断ると勝った葉見契一は自分に嘘告してほしいと言った。それはあくまで酒の席のいたずらで、された葉見契一もそのときは「何だよ嘘告かよ~」とおどけていた。

(嘘告なんて、あんなの関係ないじゃない……そうよ何も問題なんて……)


 だがその後、信岡聖は自分の首に浮かび上がった赤い影を見て愕然とすることになる。


「僕は騙されていたんだね……信じていたのに」

 信岡聖の首に浮き出た赤い影を見て新当桂馬はそう言った。大学に出てこない彼女を心配して家まで来たという桂馬に隠しごとはできなかった。

「違うの、これは別の嘘告のせいで……」

「別の? それは君が他にも男を騙してるってことだよね?」

 目に見える証拠がある以上何を言っても拗らせるばかりで、桂馬の誤解をとくことはできなかった。

「もう顔も見たくない。大学で会っても話しかけないでくれ。それに取りなしてもらおうなんて虫の良いことを考えるなよ。君は僕だけじゃない。絵馬も君のお兄さんも裏切ったんだからね」

 こうして二人の幸せな時間は終わった。


 サークルの部室で信岡聖は阿川飛名子と葉見契一に相談を持ちかけた。まさに藁にもすがる思いだった。

「首のそれがボクに嘘告をしたせいだって? え~マジで?」

 こんなときもへらへら笑っている契一の態度は我慢できなかったが、当事者である以上呼ばないわけにはいかない。

「そうよ。だってもう……そうとしか考えられない」

「他にも思い当たることあるんじゃないの? だってあなた……」

「うわさは全部嘘だから! ……お願いよ、もうどうしたらいいか全然分からないの」

 飛名子に言われるまでもなく、二人が婚約を解消したことで聖が遊んでいるという噂は尾ひれがついて広まってもう止めることはできない。しかし桂馬との仲が修復不可能だとしても、赤い影をどうにかしなくてはという焦りが聖を盲目にしていた。


「だったら簡単だよ。ボクと付き合ったら嘘告が嘘じゃなくなるんじゃない?」

「それは……」

 葉見契一は親の仕送りで贅沢な暮らしをしていて取り巻きも多い。中には地元の悪い連中にも金をばらまいている、マンションに女を集めてハーレムを作っているという噂もあった。そんな暮らしは聖にとって父親を想起させる嫌悪の対象でしかなかった。

「……ねえ、それがもし【シニコク】の呪いなら、ネットとかで呪いを解く方法が見つかるかもしれないわよ。私も前に少し調べたことがあるの」

 突然に飛名子の口から【シニコク】という言葉が飛び出す。聖もその場で自分のスマホを取り出して調べて見ると、いくつか記事が見つかる。

「【シニコク】の呪い……これがそうだっていうの?」

「私も何か分かったらすぐ教えてあげるわ。セイ、少しは助けになった?」

「うん……ちょっと安心したかも。ありがとう……ごめんね、ヒナ」

「水くさいわね、親友じゃないの」

 そう言う飛名子の手を握って頭を下げる聖だったが、しかし後で思えばそれは救済ではなく地獄の入口だった。


 後日信岡聖は阿川飛名子にシニコクの呪いを解く方法を教えられる。

 それは動物に自分の身代わりになってもらう方法で、金谷雷音のものとほぼ同様だった。そして聖の名前を動物につける代わりに聖のことも動物の名前で呼ぶ必要があるという。最低1週間はその名前で毎日嘘告の相手である葉見契一に呼んでもらう必要があると阿川飛名子は説明した。相手にその名前で呼ばれることが許してもらったことの証明になるのだと。


 信岡聖がそのことを葉見契一に伝えて協力してほしいと言うと、見返りに30万円を払えと要求された。

「そんなの無理よ。バイトは辞めてしまったし……」

 街にも広がってしまった噂のせいで仕方なく辞めざるを得なかったのだ。

「ボクと付き合うならチャラにしてあげてもいいんだけどね」

「それは……ごめんなさい」

「傷つくなあ。……じゃあこうしようか。そのペットを1週間ボクが預かるから、その間君がボクのペットになるっていうのはどう?」

「えっ? 何でそんな……」

「30万払うかペットになるか、ボクはどっちでもいいんだよ? 嫌なら協力しないってだけだから。おまけしてキャンパス限定にしておいてあげるよ。ボクは優しいからね」

 言いながら契一は聖をいやらしく視姦するように見た。させられることを想像すると虫唾が走る思いだったが、他に方法がないことも分かっていた。

(たかが1週間よ。それだけ……それだけ我慢すれば……)


 長い逡巡のあと結局、信岡聖はその提案を受け入れた。


 そこからは信岡聖にとって地獄のような日々だった。

 葉見契一は身代わりの子犬にピッチと名前をつけた。入れ替わる信岡聖が当然その名前で呼ばれることになり、本当の名前に返事をすることはNGになる。

 信岡聖は首輪のようなチョーカーを着けさせられ「私の名前はピッチです」という紙を背中に貼ってキャンパスを歩かされた。葉見契一が賭けに負けた罰ゲームだと言いふらすと、周りはそれを信じた。

 ピッチという名前は噂と相まって雌犬ビッチを連想させ、すれ違いざまに人かわざと呼ばれたこともある。睨んでも「名前を呼んだだけ」ととぼけられた。

 さらに髪をピンクに染め露出度の高い服を着せられた。喋るときは語尾に「ワン」とつけるように命令されたこともある。

 それを知った飛名子は「やりすぎだ」と抗議してくれたが、契一に交換条件だと言われれば引っ込むしかなかった。部室で聖を抱きしめ「ごめん。力になれなくて」と泣いてくれた。


 葉見契一の命令は次第にエスカレートしていった。

 卑猥な言葉を大声で言わされたり、きわどい水着で外を歩かされたりした。飲み物に下剤を入れられ閉じ込められた男子トイレでやむなく用を足したこともあった。

 誰もが信岡聖をいやらしい目で見るようになり、信岡聖は部室で一人泣いた。

 しかし後輩の多門真夕貴に「痴女は部室に来こないで下さい。メイワクです!」と言われるとそれもできなくなった。


 それでも信岡聖は約束した1週間を耐え抜いた。

「いや~以外と根性あるね。ボクの負けだよ」

「……そんなことより犬を返してちょうだい」

 葉見契一の顔は見たくもなかったが身代わりのペットを受け取る必要があった。電話を掛けたとき後ろからは女の嬌声が聞こえていた。

 今から連れて行くからと葉見契一に住所を聞かれたが、断ってこちらから行くと伝えた。住所を知られるのは危険だ。噂のせいでマンションにいられなくなり、セキュリティの弱いアパートに引っ越す羽目になった。

 阿川飛名子にLINEを送って立ち会ってほしいと頼むと了解してくれた。

 しかし部屋を出ようとした玄関先で信岡聖は3人の男に拉致されハイエースに乗せられる。


 連れて行かれた廃工場に待っていたのは城戸琉侍リーダーとする地元の暴走族『琉星狼』だった。

 服を破かれ床に転がされた信岡聖の前にスマホが置かれる。スピーカーから葉見契一の声が聞こえてくる。

「ああ、飽きちゃったからボクはもういいかなって。今度はそいつらを楽しませてやってよ。え、犬? 死んじゃったよ。エサをあげなかったからかなあ。ゴメンゴメン」

 号泣する信岡聖の口を塞ごうともせず、メンバーの男どもがゲラゲラ笑いながら覆い被さってくる。

(馬鹿だった……何で信じたんだろう……でも何で? 何で私だけこんな目に会わなくちゃならないの!)


 3日後に信岡聖は解放されアパートの近くに放り出された。5万円を握らされ「これで援交成立だ。訴えても無駄だぜ」と言われた。のろのろと立ち上がり自分の部屋に帰った。

 攫われた日に部屋の鍵をかけなかったが、置きっ放しのサイフやスマホは無事だった。阿川飛名子からは何件か着信があったが電話しなかった。シャワーを浴びて泥のように眠った。

 早朝に24時間営業のドラッグストアに行き、食料を買い込み妊娠検査薬を買った。そうして信岡聖はまた部屋に籠もった。検査の結果が陰性だったことに安堵した。


 阿川飛名子からは何度も電話やLINEが来ていたが無視し続けた。もう彼女のことを信用できなくなっていた。飛名子と契一が裏で繋がっていると考え出すとそうとしか思えなくなる。アパートの住所も彼女にだけは教えていた。

(そもそも呪いを解く方法もそれ自体がでっち上げだとしたら……いいえもっと前、嘘告のことも広まった噂の出所やタイミングだって……でも、だとしたら何のために?)

 それを裏付けるものは何もない。そもそもが信岡聖の想像でしかない。

 阿川飛名子から「今からアパートに行く」とLINEが来た。「1時間したら来て」と返して時間を稼ぎアパートを抜け出した。ここにはもういられない。


 夜になって信岡聖はサークルの後輩、奥村稜のアパートを訪ねた。

「信岡先輩? 心配してたんですよ。今までどうしてたんですか?」

「お酒買ってきたの。今夜だけでいいから泊めてくれない?」

 聖がそう言うと稜は部屋に入れてくれた。

 

 奥村稜に酒を勧めながら信岡聖はその後の大学の様子を聞いた。

 聖に関しての噂はいっそうひどくなっていた。大学に姿を見せないことで風俗嬢になったとか近々AVデビューするなどとまで言われるありさまだ。そしてそういった話を率先してばらまいているのは葉見契一と阿川飛名子だという。

 ふざけすぎたパフォーマンスが顧問の逆鱗に触れ、テニスサークルは当分休部にさせられるらしい。そのせいもあって「あいつは元々そういう女だった」「私はうわべに騙されていた。被害者だ」と言い始めたのだという。

 それを聞いて信岡聖は自分の推理も案外当たっているのかもしれないと思った。それでもそんなリスクを負ってまで自分を貶めようとしたことにはやっぱり疑問が残る。


「先輩、本当はその……違うんですよね?」

 奥村稜が聖に好意を持っていることは知っていた。新歓コンパの帰りに「付き合っている人いるんですか?」と聞かれて「赤いわよ。酔っ払っちゃったの?」「飲んでません!」とからかったのを思い出す。

「もうどうでもいいわ。こんなにされちゃったもの……」

 そう言って聖が胸元のタトゥーを見せると、稜はぼろぼろと涙をこぼした。

「こんなのって……ちくしょう……ちくしょう」と繰り返す彼に、聖は「ありがとう」と言ってキスをした。


 常夜灯の薄暗い部屋で信岡聖は譲られたベッドを抜け出して、床でタオルケットにくるまる奥村稜に肌を寄せた。

「えっ、そんな……ぼくまだ童貞で……」

 そう言いながらも奥村稜は信岡聖との行為を拒まなかった。


 奥村稜に説得され信岡聖はそのままアパートに居続けている。

「その……責任は取りますから」

「馬鹿ね。傷モノにそんな価値ないわよ?」

「……そんな! 悲しいこと言わないでください」

 稜に渡されたスペアキーを手にして、彼がいいならそれも悪くないのかもしれない聖は淡い想像をしてみた。


 信岡聖は郵便物と着替えを取りに自分のアパートに帰った。待ち伏せされているかもしれないと思い、すぐ逃げられるようにタクシーを使った。

 すぐ戻るからとタクシーを待たせて自分の部屋に向かう。だがそこで見た光景に聖は言葉を失う。

 玄関のドアは落書きで埋め尽くされ傷だらけにされ、ところどころは固いもので殴られへこんでいた。ポストには大家から弁償はしなくていい代わりにすぐ出て行ってほしいという『お願い』の手紙が入っていた。

 信岡聖は震える手で証拠の写真を撮り、着替えをあきらめ急いでその場を離れた。


 奥村稜のアパートに戻った信岡聖は息を殺して稜の帰りを待った。写真を確認しないわけにはいかないとスマホを開いた。

 落書きの道具はマジックや釘、スプレーなどバラバラで、筆跡や字の重なりからしても3、4人ほどの人間が間を置いて書いたことが分かる。


 内容は「ヤリマン」「物犬(×で消されている)」といった噂をもとにしたものと、「呪われ女」「4259」などのシニコクに関するものに大別された。

 一方で「ヤク病神」「生きてるだけでメイワク」「呪いをウツスナ!」という言葉に信岡聖は妙な引っかかりを覚えた。自分の知らないところで別のトラブルが起こっているのか? そう思うと何か不吉なものがスマホの画面からこぼれ溢れてくるような気さえしてくる……。


「ただいま、先輩。さびしくなかったですか?」

「おかえりなさい。大丈夫よ。あっ、でも少しさびしかったかも……」

 帰宅した奥村稜は甘えて聖に抱きついた。キスの時間は日ごとに長くなる。

 そして稜に請われるまま二人は行為を重ねる。わき上がる不安を打ち消すにはそれしかないとばかりに。

(これが幸せならいつまでもこうしていたい。そうよ、奥村くんがいてくれればそれで……)


 しかしそんな未来図もあっけなく崩れ去ることになる。


 その日、帰宅した奥村稜は阿川飛名子と一緒だった。信岡聖も外に出て3人で話す。

「こんなところに隠れていたなんて灯台下暗しね。心配したのよ?」

「心配? ああ、罪をなすりつける人がいなくなったら困るものね」

「何を言ってるの? セイ、私は本当に……」

「笑わせないでよ。知らないとでも思ってるの、阿川さん?」

 拒絶するようにそう言うと飛名子は顔を歪めて聖をにらんでくる。

「それで? 奥村くんは何でこの人を連れてきたの?」

「それは……」

「これ以上あなたの犠牲者を出さないためよ。疫病神さん」

 言いよどむ奥村稜に代わって阿川飛名子がお返しとばかりに信岡聖をそう呼んだ。


「犠牲者? 疫病神? 何を……言ってるの?」

 ドアの落書きを思い出すと胸が苦しくなる。しかし被害を被ったのは自分のほうだ。そんなふうに言われる覚えはないはずだと聖は飛名子をにらみ返す。

 しかし次の言葉に聖は頭を殴られたような衝撃を受ける。

「やっぱりまだ知らなかったのね。あなたとセックスした男の体に赤い影が出るようになったのよ。『琉星狼』がいいふらして回っているわよ。ビッチどころか呪いをばらまく女って」


(呪いがセックスで伝染うつる? そんなことってあるの?)

 それが本当なら琉星狼が書いたドアの落書きも合点がいく。

「その赤い影が奥村君の首の後ろ、うなじにできていたのを確かに見たわ。パニックになっている彼をようやく落ち着かせて事情を聞いてここに来たのよ。でも本当にあなたってひどい人ね。恩を徒で返すってこういうことを言うんじゃないの?」


 飛名子の言葉が聖の胸を抉る。

『琉星狼』は人を攫ってさんざん弄んだ罰を受けたと思えば因果応報というものだろう。しかしそれが奥村稜の身にも起こったのだとすれば、信岡聖が彼を愛したことは毒を盛ったのと同じだ。

「奥村くん、わた、私は……」

 聖が一歩踏み出すと、稜は「ひっ」と喉を鳴らしてその分後ろに退がる。

 それを見て聖は自分がどういう存在になってしまったのか、そして稜との甘い生活がもう戻らないことを知る。


「先輩……ごめんなさい! そんなつもりじゃなかったんです。ぼくは……」

 奥村稜は信岡聖の目が絶望に染まるのを見て自分の行動を恥じる。弱々しく引っ込められた彼女の手を取ろうと近づこうとする。

 しかし聖は稜のぎこちない笑顔を見て思う。

(奥村くん……でも無理よ)

 同情だけで隣に立つことはできない。目を伏せたまま愛を語り合うことも無意味だ。何より自分がつきまとってこれ以上稜の未来を汚すことはしたくない。

 だったら今ここで無様に捨てられよう。それが彼にしてあげられる最後の優しさなのだと信岡聖は自分に言い聞かせた。

(私はもう何も望んじゃいけない。そうよ、汚名なんて……今更じゃない)


「あーあ、ごめんね。そんなことになってるなんて知らなかったのよ」

 そう言って信岡聖は口の端を笑った形に曲げて見せた。

「せっかく避妊してたのに呪いは別物だものね。そうならさっさと既成事実を作っておけばよかったかも。失敗したわ」

「えっ? 先輩何を言って……」

 信岡聖の突然の変化に奥村稜が動きを止める。

「優良物件だと思ったんだけど騙せなかったならしょうがないか。今度はもう少し馬鹿な男にするわ。もっと金持ちのね」

「ぼくを、騙した? 先輩……嘘ですよね?」

「本当よ。噂のとおり、私は嘘つきでビッチで……セックスなしで生きられないような女で……」

「もうやめてくれよ! ……もういいです。ええ、自分が馬鹿でした。……失礼します」

 奥村稜は絞り出すようにそれだけ言うと自分の部屋に戻っていった。


「あなたが来たせいで全部ぶち壊しだわ。そういうセリフを言えば満足なのかしら?」

「えっ?」

 次はお前の番だというように信岡聖が阿川飛名子を見る。

「これがあなたの望んだことなのかって聞いてるのよ。人を惑わす悪魔を退治しにきたエクソシストさん?」

 口元に笑いを貼り付けたまま信岡聖が一歩踏み出す。それに怯えながらも阿川飛名子が口を開く。

「だ、だったら何よ? 私は正しいことをしてるだけよ!」

「そんなに叫ばなくてもいいじゃない。本当に悪魔になったような気分になるわ」

 信岡聖はさらに歩を進めて阿川飛名子を退がらせる。

「それで結局あなたは何がしたかったの? 正しいことをしてる自分に酔ってみたかった? でもそのためには断罪する相手が必要だから私を貶めた、そういうこと?

 それとも阿川飛名子が信岡聖より上だってマウントを取りたかった? それなら自分が努力するより相手を泥沼に突き落とす方が簡単だものねぇ。どうなの!」

 壁に追い詰め信岡聖が阿川飛名子の髪を掴む。顔を背けようとするのを許さない。

「痛っ、やめて! そんなつもりじゃなかった……私は脅されて……」

 ようやく共犯を自白する飛名子だが、その弁解には聖の心を揺らす何の重さもない。想像する分かりきった主犯を問い詰める気も起こらない。


「それで? 私に呪いをかけたのもあなたなの?」

「いいえ……身代わりのことであなたを騙しただけ。呪いを解く方法も正確には知らないの……ほ、本当よ! お願い信じて!」

 髪から手を離すと阿川飛名子は力なく壁にもたれかかり、信岡聖に謝罪の言葉を繰り返す。

「そんなの聞きたくないわ。最後まで正義のヒロインらしくしてなさいよ。

 ……ああ、そう言えばひとつ疑問があったのよ。あなたで試してみようかしら?」

 そう言うと信岡聖は阿川飛名子の頬に手を添える。

「セックスで呪いが男に伝染るなら女同士はどうなのかしらね。あなたは興味ない?」

 飛名子の首筋に聖の舌が触れる。もう一方の手がスカートをたくし上げようとする。

「そんな……やめて、お願いだから! 呪われたら……呪われたらもう、生きていけない!」

 信岡聖の動きが止まった一瞬の隙をついて抜け出すと、阿川飛名子は悲鳴を上げながら走り去った。


 一人残された聖が淋しく笑う。

(生きていけない、だって……ははっ、笑わせないでよ。だったら私はどうなるのよ……)


 物音に気がつくと奥村稜が衣料品店のペーパーバッグを部屋の外に置くところだった。しかしドアはすぐに無言で閉じられ、ロックする硬質な音が会話を拒否した。

 中身は信岡聖のサイフやスマホ、着替えなどで入れ方は雑でなく丁寧だった。

(ふふっ、最後までやさしいのね……ありがとう。さようなら)

 スペアキーをドアのポストから中に落として信岡聖はアパートを後にした。

 もう一度笑おうとしたが先に涙があふれてきてしまってうまくできなかった。

 信岡聖はそのまま駅へと歩いた。今晩はインターネットカフェに泊まるつもりだった。あの惨状を想像すると自分のアパートに帰る気にはならなかった。


 インターネットカフェの店内、個室ブースを借りて一息つく。しかしこれからのことを考えると気が滅入るばかりだった。

(大学はもう辞めるしかないでしょうね。ただ辞めて働くにしても赤い影があるから接客や人前に出る仕事はできない……、

 それに噂のこともあるし。身バレしないためにはどこか遠くで暮らすことも考えなくちゃいけないかもしれないわね……。

 どのみち私の手に余ることだから兄さんに相談して……でもこんなになってしまった私が今更どんな顔で兄さんに会えばいいの?)


 信岡玄は信岡聖と新当桂馬の婚約を本当に喜んでくれていた。まともな人間と暮らしていくことが幸せなんだと常々語っていた。そんな彼の失望した顔を想像するだけで信岡聖は消えてしまいたくなる。ただそれは信岡玄が信岡聖を諦めようとする自分自身への言葉でもあるのだが彼女は当然それを知らない。

 そして新当絵馬からは「わたしの大事な桂ちゃんをあげるんだから、玄さんはわたしがもらうわね?」と言われたことを思い出す。新当絵馬からすれば聖は兄の桂馬の一途な思いを裏切った悪女にしか見えないだろう。

 そして玄が絵馬とすでに親密な関係になっているとすれば、今の聖は二人にとって邪魔者でしかない。それに玄が絵馬のほうを信じるならば、はなから話など聞いてもらえない可能性すらある。

(そうなったら誰も味方になってくれる人はいない。それでももう私には兄さんしか……)

 鬱々とそんなことを考えながら信岡聖はトイレに向かった。


 トイレから戻る途中で信岡聖は金髪の男に声をかけられた。

「こんなところで男漁り? だったら今日は俺と遊ぼうぜ。どこのホテルにする?」

「やめてください! その噂、嘘ですから。私も迷惑してるんです。構わないで!」

 いやらしい視線を向けてくる男を相手にせず聖は横を通り過ぎようとする。

「何だ違うのかよ。でもあんた、ネットじゃすっかり有名人だぜ」

「えっ? ネット?」

「まさか知らねえの? 援交斡旋掲示板にあんたの写真がたくさん貼られてるぜ。調べてみろよ」

 なおも誘ってくる男を無視して信岡聖は自分のブースに戻ってパソコンを覗いた。


 掲示板には信岡聖の写真が何枚も貼られていた。チョーカーを着けてきわどいミニスカートや水着でキャンパスを歩かされているときの写真だった。

 そしてリンクした【シニコク包囲網】という掲示板を見たとき彼女は思わず声をあげた。

「そんな……これじゃもう、どこにも逃げ場なんてない……」

 そこには信岡聖の名前や住所、通っている大学名までが晒されていた。私生活や着替えるところを盗撮したものもあった。赤い影と一緒にタトゥーを撮った写真を見たときは血の気が引く思いだった。

「シニコク女に人権なんてねーよ」とうそぶく書き込みに「呪われたら生きていけない」と言った阿川飛名子の言葉を思い出す。

 クッションに顔を埋め、漏れる嗚咽をこらえながら絶望に震えた。


 そのあと信岡聖はインターネットカフェに泊まらず公園まで歩いた。深夜の公園は無人だったが念を入れて多目的トイレに入って鍵をかけた。丁度よく小型のベッドもある。

 ベッドに座って買ってきた睡眠導入剤と度数の高い缶チューハイを横に並べた。怪しまれないように何件かのドラッグストアを回った。甘い口当たりの酒なら自分にも飲めるだろうと思って選んだのだったが、奥村稜がそれを好きだったことを思い出しふっと笑った。


 信岡聖は買ってきたものを時間をかけて飲んだ。最後に奥村稜の顔を思い浮かべようとしたがそこに浮かんできたのは信岡玄のものだった。

(忘れようとしてもやっぱり駄目ね。叶うならもう一度お兄ちゃんに会って死にたかった……)

 酔いが回ってきたところでのろのろと体を倒して目を閉じた……。

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