第三十四告  兄と妹

 信岡玄の父親、伊勢木嶽夫は『吉天会』の会長で、母親はその愛人の一人だった。

 小学校に上がるころになると信岡玄と母親は伊勢木嶽夫と離れて暮らすようになる。子育てに面倒事を持ち込みたくないという母親の希望で地方都市に引っ越した。養育費も充分に貰っていたし母親は地味な性格だったので、暮らしは質素だが貧乏という訳ではなかった。

 信岡聖も別の愛人の子で、母親が死んだことで信岡家に引き取られる。玄の2つ年下でよく笑い、外で遊ぶのが好きな男の子のような子だった。

 それでいて聖は夜には一緒に寝てほしいと玄にせがんだりした。実母の名を呼んで抱きついてくることもあった。結局それは中学の頃まで続いたのだが、玄の密かな気持ちに気づきながらも、母親は「大事にしてあげなさい」と言ったきりだった。一線は越えていなかったが、息子を信用していたというよりも血は争えないと思っていたのかもしれない。


 信岡玄が高校2年の夏に母親が家を出た。組の都合で水商売の女達のまとめ役をすることになった。

 成人して就職するまでは組で面倒を見るということだったので、そのまま二人で暮らすことにした。大学に進学しても構わないと言われたので玄は遠慮なくそうさせてもらうことにした。自宅から通えるところにある大学を選び薬剤師を目指すことにした。


 信岡聖と共寝することはなくなっていた。

 ある日彼女が唇を重ねようとするのを信岡玄が「だめだよ」とやんわり拒んだことが発端になった。それは「関係を持っても今は責任が取れない」という理由からだったが、聖は「ごめんなさい」と言ってそのまま部屋を出ていってしまった。

 次の日から聖の玄に対する呼び方がお兄ちゃんから兄さんに変わった。そうして距離を置かれたことで玄は聖に想いを打ち明けるタイミングを失くしてしまった。


 信岡玄が大学に進学して2年目に、信岡聖から同じクラスの友達だと新当桂馬を紹介された。

「いつも勉強を教えてもらっているの。お昼も絵馬と一緒に3人で食べてるし」

 それを受けて玄が「ありがとう。仲良くしてやってくれ」と桂馬に言うと、聖は一瞬寂しそうな顔をした。


 新当絵馬は新当桂馬の妹で、テニス部の後輩でよく家にも遊びに来ていた。小柄でよく笑う様子は聖と本当の姉妹のようだった。

 それでも玄が家にいるときには玄にも愛想よく振る舞い「聖さんがお姉さんなら玄さんはお兄さん」とはしゃいで腕を組んだりした。そのときの信岡聖の顔もやはり寂しそうだった。

 クリスマスの少し前に信岡玄は新当絵馬から「ちょっと早いですけど」とプレゼントをもらった。そのとき桂馬と聖が付き合ってると教えられ、「だから聖さんがクリスマスの夜に少し遅くなっても許してあげてくださいね」とお願いされた。

 その朝に「遅くなっても仕方ないけど9時までには帰っておいで」と言うと「どうしてそんな……そんなこと言うの!」と聖は泣き出してしまった。


 その夜は玄が帰宅すると聖は既に帰って来ていた。

「桂馬くんから一緒の大学に行かないかって誘われたの。それで二十歳になってもお互いの気持ちが変わらなかったら……婚約しようって」

 夕食を食べながら聖がそう切り出した。

 聖の進学は学力的には問題なく、あとは大学を選ぶだけだった。桂馬の志望する大学は遠いためアパート暮らしにはなるが、将来まともな人間と一緒になるほうが聖も幸せになるだろうと玄は思った。そうなればむしろ今更自分の気持ちを伝えて苦しませる必要はどこにもないとも。

「いいんじゃないか。応援するよ」

「反対しないんだ……ううん、ありがとう兄さん」

 聖は立ち上がって勉強しなくちゃと言って部屋に向かった。「もう私のことなんか……」という呟きは信岡玄には聞こえていなかった。


 信岡聖は新当桂馬と同じ大学に進学した。大学でもテニスサークルに入り、バイトも始めたのだと信岡玄に電話で話した。友だちと仲良く並んだ写真が送られてきた。

 桂馬のことは冷やかされるので内緒にしていると聖は言った。それでも正月に帰省したときは、桂馬と絵馬を家に呼んで関係が順調であることを見せて信岡玄を安心させた。

「ラブラブな二人とは別にこっちはこっちで盛り上がりましょう」と新当絵馬が信岡玄の隣に座った。

 新当絵馬は地元の会社に就職していた。休みにはときどき信岡玄の家を訪れ「わたしを聖さんの代わりだと思ってくれていいんですよ」と言って、料理をしたり掃除をしたりしていた。


 最初は聖に週1で電話をかけていた玄だったが、そのうち聖が課題などで忙しいというようになりそれが月1になった。絵馬に二人の近況を聞くと「うまくやっているみたいですよ」言うので、あまり構いすぎるのも嫌がられると思ってそれほど気にしてはいなかった。


 しかし夏休みに入って10日ほどして、信岡玄は信岡聖が自殺を図ったことを病院からの電話で知ることになる。


 信岡玄が車で病院に駆けつけたとき、信岡聖はまだ眠ったままだった。多量の睡眠導入剤とアルコールを飲んでかなり危険な状態だったという。個室で点滴や心電図モニターを付けられている様子に思わず入口で足が止まる。

 近づいて聖の姿を見た玄は変わりすぎた姿に驚く。体は痩せ細り髪を染めて爪にはマニキュアを塗っていた。そして首には横に赤い線が走っている。触れてみるとそこには傷のような凹凸はなく、玄はそれが何なのか分からなかった。


 だが次に信岡聖の身体を拭いてやろうと病衣の前をはだけたとき、信岡玄はまたも衝撃を受ける。「代わります」とタオルを受け取ったとき看護師がためらっていた理由にも合点がいった。

 信岡聖の胸や下腹部には卑猥なスラングのタトゥーがいくつも彫られていたのだ。


 信岡玄はその場で新当桂馬に電話をしたが、信岡聖が自殺しようとしたことや病院に運ばれたことを話しても「自業自得ですよ」とまるで興味がない口振りだった。

 なおも玄が問い詰めると、婚約は5月の末頃にとっくに解消したと言われた。

「あいつが先に僕を裏切ったんです。もう関わらないでください」と電話を切られた。

 次に玄は絵馬に電話をしたが、彼女からは「とうとうバレちゃいましたか。ええ知ってましたよ」と返された。言葉を失う玄に絵馬は更に臆面もなく言い放つ。

「何で言わなかったかって? だってそうだと分かったら玄さんはわたしと会ってくれなくなるでしょう? せっかく桂ちゃんとくっつけて邪魔者を遠くにやったと思ったのに。二股なんて調子に乗ったうえに今度は自殺騒ぎですか……はあ、とんだ計算違いだわ」


  次の日に聖は目を覚ました。声を掛けると緩慢な動きで玄に顔を向けた。

「兄さん? 本物? ああ……でも私死ねなかったのね……」

 信岡聖はぽつりとそう言って涙をこぼした。

 その後も信岡聖は死にたい、死なせてと何度も繰り返しては泣いた。

「やめてくれ! これからは俺がずっとそばにいてやる! 俺のために生きてくれ!

 ……くそっ、こんなことになるならさっさとお前を抱いちまえばよかった」

「えっ?」

「誰にもやらずさっさと俺のものにすればよかったって言ってんだよ」

「それじゃあ私のこと……本当に? お兄ちゃん?」

「懐かしいな。こんなこと言っても今更と思うかもしれないがな」

「そうか、両思いだったんだ……でももう遅すぎるよ。私は呪われてるらしいから。それにもうすっかり汚れてしまった……」

「そんなことあるか! どうせ俺もお前もヤクザの子だ。恥も外聞も今更の話だろう」

 そう言うと信岡玄は信岡聖の頬に手を添えて顔を近づけていく。

「やめて! お兄ちゃんまで呪われるわ。そうなったら私……」

 拒む信岡聖の手を押さえつけて信岡玄は強引に唇を奪った。

「呪い? 上等じゃねえか。墨を背負しょうのに比べたらそんなもん屁でもねえよ。汚れたって言うんならこれからは俺も一緒に汚れてやる。お前は黙って俺の背中にしがみついてればいいんだ。分かったか?」

 涙を流しながら聖は笑って頷いた。


「お兄ちゃん……好きよ……ずっと好きだった」

「ああ、俺もだ……」


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