第二十八告  罪と傷と愛

 自動車のライン工場に勤め出して2年を過ぎたころ、佐島鷹翔は独身寮の先輩や仲間とで市内に飲みに行った。そのラウンジバーでホステスになっていた西木千輝と偶然再会した。ワインカラーのスーツを着て髪をマロンブラウンに染めていたが、髪型はもとのままだったからすぐに西木千輝と気がついた。

 お互いに知らない振りをして「はじめまして」と挨拶を交わしたが、西木千輝が佐島鷹翔の隣に座るたびに二人はぽつぽつと話をした。わだかまりが無くなったわけではなかったが、それよりも抱える孤独を埋めることをお互いが望んだ結果だった。

 店をでるとき佐島鷹翔は「また会いにきて」と西木千輝に小声で言われ電話番号を渡された。短く「おう」と答えた佐島鷹翔だったが、そこに電話をかけることも店に足を運ぶこともなくひと月が過ぎた。


 しかしその後、佐島鷹翔は一緒に飲みに行った先輩が西木千輝を目当てにあのラウンジバーに通い詰めているという話を耳にした。

 工場の先輩、牛島剣矢はギャンブル好きで女癖が悪いことで有名だった。高級車を乗り回し何人と同時に付き合った武勇伝とか行為の最中の様子を人前でニヤついて話す姿を佐島鷹翔も何度も見ていた。

「聞いたらあの娘まだバージンらしいぜ。絶対落として見せっからよ」

 牛島剣矢の話を聞きながら佐島鷹翔は再会したときの西木千輝を思い出した。

 スーツにあまり似合ってるとはいえない髪型のことを他の客に言われた彼女は「会いたい人にもう一度会えるジンクスだから」と答えていた。

(だったら千輝はまだ俺のことを想ってくれているのか……それでも俺は)

 鎌田久留美を自殺に追い込んだ西木千輝を許せるのかと葛藤しながらも、佐島鷹翔には牛島剣矢に食いものにされて捨てられると分かっている彼女を見過ごす気にはなれなかった。


 佐島鷹翔は西木千輝の出勤日を調べ、夜になると店を外からうかがうようになった。酒に強くないせいもあるが、牛島剣矢に警戒されて車で攫ったり強硬手段に出られるのが怖かったこともある。

 職務質問をされてからはコーヒーショップに陣取った。マスターとは挨拶を交わすようになった。混んでなければ深夜にコーヒー1杯でも居座るのを許してくれた。


 ある日しびれを切らした牛島剣矢が西木千輝を待ち伏せして雑居ビルの廊下に連れ込む。それを見て佐島鷹翔もコーヒーショップを飛び出した。


「離してよ! こんなことして、店に言うから!」

「おあずけにされんのも限界なんだよ。いいから一回くらいやらせろよ」

「あたしにそんな気ないから! 大体あなたこそ佐島くんに会わせるからって全然連れてこないじゃない。嘘つき!」

「ふざけんなよ。二言目には佐島、佐島って。店に金を落としてんのはオレなんだぜ? いいからオレのもんになれよ」

 外から様子をうかがう佐島鷹翔に二人のもめる声が聞こえてくる。

(千輝……俺のことをまだそんなふうに……)

「いまさら純情ぶってんじゃねーよ。もらうくらいなら、昔は男に相当貢がせたんだろ? それでバージンなんて性悪どころか極悪だよな。ハハッ」

 牛島剣矢が西木千輝の顎を持ち上げる。

「ちっ、違う! 何でそんな……」

「何が違うって……うわっ、何だよ!」

 飛び出した佐島鷹翔は牛島剣矢を殴りとばしていた。西木千輝を背中でかばって前に立つ。

「てめえ! ……お前、佐島か? 何しに来たんだよ」

「俺たちは確かに間違ったかもしれねぇ。けど俺も千輝もあんたにそんなふうに言われる覚えはねぇんだよ」

「鷹翔……」

「でしゃばりやがって! ちょっとガタイがいいからっていい気になんなよ。高校中退のビンボー人のくせによ。今のお前が女と付き合えんのかよ!」

 確かに工場でも佐島鷹翔は浮いた存在だった。女性社員からは「顔がよくてもアレじゃあね」と陰で笑われ、口の悪い先輩からは「イジメ野郎」ときつい仕事を押しつけられていた。

「知ったこっちゃねぇよ。貧乏ぐらしでもあんたにボロボロにされるよりはずっとましだ……千輝は俺の女だ。分かったらとっとと消えろ!」

「言うじゃねーか。傷モン同士お似合いなこったな! ……覚えとけよ、佐島。明日からお前の居場所なんてねーからな!」 

 捨て台詞を残して牛島剣矢が逃げていく。

 気がつくと佐島鷹翔の背中で西木千輝が泣いていた。

「悪い……勝手なことばかり言って……すまなかったな」

「そんな、ことない……うれしいよ、鷹翔……あたし、もう一度ちゃんと謝りたかった」

「ああ……俺もそう思ってたところだよ」


 佐島鷹翔は工場を辞めた。牛島剣矢が報復に出るおそれもあったので県外に職を探した。引っ越しの費用は西木千輝が出してくれた。二人での暮らしが始まった。

 西木千輝が辞めるときには店に二人で挨拶に行った。オーナーから「とうとう思いが叶ったのね。幸せになってね」と言われ、西木千輝が思わず泣いてしまった。

 帰りに立ち寄ったコーヒーショップでは、マスターから佐島鷹翔が「彼女がそうなのかい。なるほど通い詰めるだけのことはあるね」とからかわれ「何かあったらまた頼ってくれていい」と名刺をもらった。


 佐島鷹翔は建築現場で働き始めた。肉体労働は苦にならなかったし、日当も高く前借りの融通も利いた。何より昔のことをあれこれ詮索されないのがありがたかった。

 西木千輝も掃除のアルバイトや新聞店でチラシの折り込みやポスティングなどをするようになった。

 そして佐島鷹翔の誕生日をささやかに祝った夜に二人は結ばれた。


 次の朝、シャワーを浴びていた佐島鷹翔は脱衣室の西木千輝の驚く声に思わず振り向いた。バスルームの扉を開けた彼女はそこでもう一度驚きの声を上げる。

「えっ、鷹翔? その背中……」

 濡れるのも構わず手を引く西木千輝に洗面台の前立たされると、今度は佐島鷹翔も驚きの声をあげる。

「嘘じゃないよな……何だこれ? ははっ、こんなことあるのかよ」

「誕生日プレゼントにしてもサプライズすぎるよ、こんなの……信じられない」

 鏡の中に並んで立つ2人の顔と首から赤い影が消えていた。


 赤い影は実際には消えたのではなく身体の別の場所に移動したのだった。佐島鷹翔の影は背中へ、西木千輝の影は首の下肩甲骨のあたりにあった。正確に言えば二人はお互いの影を交換したことになる。場所が変わったのはその余録といえる。

(久留美……お前、許してくれるのか? そうなのかよ)

 口には出せなくても佐島鷹翔はそう思わずにはいられない。

 移動した場所に思い当たると二人は知らず赤面してしまう。佐島鷹翔の背中は痛みを耐えるのに西木千輝が爪を立てたところで、西木千輝の首の付け根は声を抑えるのに佐島鷹翔がとっさに噛んでしまったところだったからだ。

「千輝、これって……」

「た鷹翔っ! ああもう、思い出しちゃだめ!」

 恥ずかしさを我慢しきれず西木千輝は佐島鷹翔の胸に顔を埋める。照れながらも佐島鷹翔は西木千輝をしっかりと抱きしめた。

 そうしているうちにお互いの口からは自然と笑いがこぼれる。待ち望んでいた幸せに手が届いたのだ。


「佐島よ。お前よく笑うようになったな。アレも出てないみたいだし」

「そうですか? まあ確かに最近は出てないですね」

 工事現場の昼休み、休憩室のプレハブで前に座った日野友康が話しかけてくる。何かと目をかけてくれるこの現場監督のおかげもあって、佐島鷹翔はいくつか現場の資格を取ることもできた。

「それに弁当ってお前、誰に作ってもらったんだよ? 今度紹介しろよ」

「まあそれはおいおい……いてっ、やめてくださいよ」

「リア充にはこれぐらい痛くねえだろ? じゃあな」

 佐島鷹翔をからかって小突いたあと日野友康は席を立って喫煙所に向かう。


 目立つ赤い影が消えた(移動した)ことを佐島鷹翔は「よく分からない」「少し許してもらったのかも」とはぐらかしていた。わざわざ広める気はなかったし、言えば西木千輝との暮らしが壊れてしまうような気がしていた。

 日野友康と入れ替わりで前に座ったのは小隅徳久だった。自販機の缶コーヒーをひとつ佐島鷹翔の前に置いた。ドクロのいかつい指輪をはめて編み込んだ髪をゴムで止めている。

「おつかれっす。ほんと最近のタカさん幸せそうっすよね」

「そんなことねぇよ。いいのか、これ?」

「スロの調子がいいんでお裾分けっつーことで。代わりにタカさんの幸運を分けてもらえればうれしいっすね」

 そう言って小隅徳久はへらへらと笑った。牛島剣矢を思い出すせいで佐島鷹翔は彼が苦手だったが、先輩と立ててくれるなら無下にはできなかった。

「呪いも解けておまけに彼女もできてうらやましい限りっす。そのへんのところ今度飲みながらでもくわしく聞かせてくださいよ」

「何もねぇよ。昔なじみと付き合うことにしただけだよ。飲むったって金もないし」

「まあそこはオレのおごりってことで。タカさんはガバガバ飲むタイプじゃないから大丈夫っすよ。じゃあ今度の金曜の夜空けといてくださいよ。よろしく」

 言うだけ言って小隅徳久は休憩室を出て行った。


 その夜、小隅徳久に呼ばれた居酒屋に行くと、席でスキンヘッドの信岡玄のべおかげんを紹介された。その風貌に似合わず彼はたちまち相好を崩して会えて感激ですと手を握ってきた。

「タカさんの話をしたら連れてけってうるさいんすよ。シンゲンも野球やってて県でいいところまで行ったみたいなんすけどね」

 そして3人で乾杯となりはじめは野球の話で盛り上がったが、その後はやはり小隅徳久が消えた影の話を持ち出してきた。佐島鷹翔も最初ははぐらかしていたものの酒のせいもあってうっかり口をすべらせて西木千輝のことを話してしまった。

「じゃあやっぱり影が消えたのは彼女のおかげなんすね?」

「そうじゃねぇよ。消えたんじゃなくて場所が変わっただけだって言ってるだろ」

 簡単に話をまとめようとする小隅徳久に佐島鷹翔は繰り返し説明する。それがちゃんと伝わっているかははなはだ疑問だったが。


 そろそろ帰るという佐島鷹翔を小隅徳久が押しとどめる。

「そんなにフラフラじゃ一人で帰らせるわけにはいかないすよ。後輩呼んで車で送らせますから」

 それに応じて信岡玄がどこかに電話をかける。30分ほどして店に一人の男が入ってきて声をかけた。

「おせーぞ、トキン!」

「すんません。金谷さんから連絡入って……」

「だったらしょーがねーか。……それじゃあタカさん、出ましょうか」

 小隅徳久に促され佐島鷹翔は店を出る。4人全員で窓にスモークを貼った黒いステップワゴンに乗った。

 車の中で今から帰ると西木千輝に電話したあと、佐島鷹翔は小隅徳久に酔い覚ましの薬をもらって飲んだ。しかし逆に急に眠気が襲ってきてそのまま意識が途切れてしまった……。


 朝になり、気がつくと佐島鷹翔はアパートに戻っていた。しかし部屋の様子にぼんやりしていた頭がすっかり醒めた。

 人が争って荒れた部屋に佐島鷹翔はひとり寝ていた。その状況が嫌でも現実を突きつけてくる。

  西木千輝があいつらに攫われてしまったのだと。



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