第二十六告  悲しみの果て

 その日、7年ぶりに滝村涼香は日本の地を踏んだ。滝村隆三から帰郷を許す手紙が届いたからだ。

 滝村涼香は喧噪も気にせず空港の中をゆっくりと歩いた。売店に並ぶお土産に何となしに目をやりテイクアウトに並ぶメニューに味を想像してみる。目や耳に飛び込んでくる日本語に思わず泣きたくなった。そこでようやく帰ってきたのだと実感した。

 空港を出ると浅里誠一が彼女を待っていた。滝村涼香は笑って挨拶したが浅里誠一はにこりともしなかった。しかしそれを見ても滝村涼香が怒り出すようなことはなかった。

 促され迎えの車の後ろの席に乗り込む。浅里誠一が反対側に座るとそれを合図に車が動き出す。

 そして滝村涼香はこれまでのことをひとり振り返った……。


 カナダに来たばかりの滝村涼香はまさにどん底だった。

 それなりに会話はできるし隣人と挨拶ぐらいはするものの、どうしても一歩踏み出す勇気が出なかった。学校にはまだ行っていない。

 ここには【シニコク】の呪いを知る人はいないはずと頭で分かっていても、人の視線が気になってしまい新しい人間関係を構築するのに二の足を踏んだ。

 同時に滝村涼香には自分だけ逃げてしまったことの罪悪感があった。

 あのときは柊修二の他にも自分を呪っている人間がいることに怯え少しでも早くできるだけ遠くに行かなければという強迫観念にとらわれていた。

 実際ここにきて赤い影は薄くなり弱まってきたように思うが現れる時間は逆に増えてきていた。何をしても呪いから解放されるわけではないのだということを思い知らされた。

 西木千輝や佐島鷹翔にはどんなに詫びても足りない。後藤柚姫にはもう顔も会わせられない。ましてや鎌田久留美に対しては何をどう償えばいいのかすらも分からない。奢った遊びの代償というにはあまりに苦く、若い過ちと笑える古傷にはまだ遠い。


 滝村涼香は自分を飾っていた肩書きが通用しないことも痛感した。

  滝村隆三といっても所詮島国の地方議員だ。その娘といったところで誰が敬ってくれるわけでもないし、反対に金持ちを狙う犯罪者を喜ばせるだけだろう。頼っていたバックボーンを失ったことで滝村涼香は自分が急に卑小な存在に思えた。

 ただの観光客なら許されることも生活者となれば別の話だ。知らない土地で生きていくなら滝村涼香として認めてもらうには自身の能力や魅力をアピールしなければならない。しかし素になった自分にはその引き出しが少なすぎることに愕然とした。

 何よりそれに信頼を得るには相手に自分をさらけ出すこと、時には拒絶され傷を負う勇気が要る。


 街の書店で日本語で書かれた本を読み気を紛らわせるのが滝村涼香の日課になった。日本から来たミステリアスドール、いつか周りにそんなふうに呼ばれるようになっていた。しかしその評判が人に彼女に声をかけるのをためらわせる一因ともなるのだが。

 その日滝村涼香はたまたま折り紙の本を手に取った。日本文化を紹介する意図なのだろう、4か国語が併記されており基本的なものから練度の高いものまで100種類ほどが掲載されている。

 日本にいたときは後藤柚姫が店の飾りつけやボランティアに使うとかでたまに折っていた。滝村涼香たちも数を増やしたいからと言われ手伝ったことがあるが、何気に鎌田久留美のほうが出来が良くて「グズ美には向いてるかもね」と言ったことを思い出した。そのとき見せた鎌田久留美のはにかんだ笑顔も。

 滝村涼香はその本を買って帰った。折り紙も同じ店に売っていた。


 カナダでもハロウィンは大事なイベントで、浅里誠一の妹の浅里由紀子も子供たちにお菓子を用意していた。「何か変わったものにしたい」という浅里由紀子に滝村涼香は折り紙で作った伝承升の箱を見せた。喜んだ浅里由紀子と一緒に古新聞を正方形に切って50個ほど作った。当日は子供たちも喜んでくれてその笑顔に滝村涼香もつかの間癒やされた。

 後日滝村涼香は子供たちに折り紙を教えてもらえないかと依頼を受ける。箱をもらった子供たちの親の中に児童福祉の関係者がいたからだ。浅里由紀子も付き添うと言われ引き受けたのだが、この体験は彼女自身が変わるきっかけになった。


 元々滝村涼香はイベントが嫌いではなかったし、周りからも先頭に立って旗振り役になることを多く求められた。しかし今回滝村涼香は「最初に段取りをしたら手取り足取り教えるようなことはしなくていい」と言われた。その言葉に主体はあくまで子供たちで、教えるのは親であり友達の役目なのだと気づかされる。

 そして子供たちは作ったものが手本と違うことに執着しない。

 手順を間違えても左右対称でなくても一向に気にしないし、出来不出来よりも見立てた動物や飛行機を想像して遊ぶことに夢中だ。

 他人と同じことができる、完璧にこなすことだけが価値ではない。型にはめてその中で優劣を競うことにそれほどの意味はないのだと滝村涼香は改めて思う。それに自分がずっと囚われていたことも。

 そして滝村涼香はこのイベントでケイト・カーソンと出会う。ボランティアで来ていた同じ年齢の子だった。


 ケイト・カーソンはスタッフのテーブルでフレーベル折りのモチーフを作っていた。それを円形に繋げるとクリスマスリースになる。折り紙ははじめてではない様子で折り図と手本を見ながら集中している。

 しかし滝村涼香が気になった理由はケイト・カーソンの折り方のせいだった。

 左手を補助的に使い力を入れて正確な動きをするときに右手を使っている。よく見れば左手の小指と薬指が動かないのだと分かる。

 視線に気づいてケイト・カーソンが滝村涼香を見る。彼女のハンディキャップをまじまじと見てしまったと視線を逸らして「Sorry」と言いそうになる滝村涼香に、ケイト・カーソンが笑って話しかけてくる。

「うまく出来てるかしら? いかがでしょう、達人マスター

「Are you kidding me? そんな柄じゃないわ」

「そう? じゃあ私もミステリアスドールって呼んだほうがいいのかしら」

 彼女の言葉に滝村涼香は周りから自分がそう呼ばれていることを知る。

「えーと、それも遠慮したいんだけど」

「OK、じゃあ改めて自己紹介から始めましょうか」

 これが滝村涼香が学校に行くきっかけになったのだった。


 その後も滝村涼香はボランティアに参加し折り紙のワークショップを通じて地域に溶け込んでいった。ミステリアスドールより「リョーカ」と呼ばれる機会が増えた。

 ケイト・カーソンとの距離もまた急速に縮まっていった。

 彼女が日本文化に興味を持っていたこともあって、連れだってカラオケや寿司店にも足を運んだ。家を行き来するようになるとケイト・カーソンもまた親元を離れてカナダに来たことを知る。


 あるとき折り紙を教えている途中で一人の女の子が滝村涼香の髪に触れてきた。黒い髪に興味があったのだろうが、滝村涼香は思わずその手を払ってしまった。ショックを受けて女の子は泣き出してしまう。その場で謝って女の子とは仲直りできたが、その後ワークブースは終始固い雰囲気のままだった。

「そんなに気にしなくていいわよ。あの子も最後には笑ってたじゃない」

「そうね、うん……だけど……」

「リョーカに何があったかは知らないけれど……いい機会だし聞いてくれる?」

 そう言ってケイト・カーソンは自分がカナダに来た理由を話し始めた。


 ケイト・カーソンがこの街に来たのは家族と折り合いが悪くなり一緒に暮らせなくなったからだという。それまで彼女はアメリカで両親と兄との4人暮らしでいた。生活に特に不自由はしていなかった。

 それが壊れてしまったのはやはり彼女のケガのせいだった。ケイト・カーソンにケガを負わせたのが彼女の兄であることが事態を更に悪化させた。

 彼女が5才のときに銃の暴発事故が起こった。その日鍵をかけ忘れた両親の寝室から兄が銃を持ち出したのだ。からかい半分に銃を向けてきた兄ともみ合っているうちに、暴発した弾丸がケイト・カーソンの手のひらを撃ち抜いた。成形手術により指を失うことは避けられたが障害は残ってしまった。

 それでも病院で医師たちに励まされリハビリを続けるうちに彼女は前向きに生きていこうと思えるようになり、両親も以前と変わらない愛情を注いでくれた。

 そして彼女は兄の謝罪を受け入れ、一見家族に平穏な暮らしが戻ったかに思えた。 


 ケイト・カーソンの兄アレン・カーソンは事故のあと人が変わったかのように物事に真摯に打ち込むようになる。その核にあるのは妹への償いであり彼女を守る盾になろうと決めたからだ。

 ケイト・カーソン自身もそんな兄に負けないように自分を高めようと努力を重ねていった。両親にとっても二人は自慢の子供たちに成長していった。

 15才のとき、ケイト・カーソンはクラスメイトのジミー・リークスを好きになる。彼はアレン・カーソンとも仲がよく休日にはよく3人で買い物に出かけたりもした。彼女自身もぼんやりと彼との将来を夢に描いていた。


 一方でケイト・カーソンはジミー・リークスに横恋慕していたシャーリー・ベルナルドに嫌がらせを受けていた。彼は気にするなと言ってくれるがそれは日ごとにひどくなっていった。

 シャーリー・ベルナルドの父親は金持ちで彼女はいわゆる令嬢だ。そして業を煮やしたシャーリー・ベルナルドはその権力を使ってジミー・リークスの両親やその周辺に圧力をかけた。

 結局それに負けてジミー・リークスはケイト・カーソンに「別れよう」と切り出した。問い詰める彼女にジミー・リークスが口にしたのは「僕では君を幸せにできない」という言葉だった。

 それはとっさに出た苦し紛れの言い訳でしかないのだがケイト・カーソンはそうは受け取らなかった。自己弁護の裏に見え隠れする彼の偽善と根深い偏見を感じて絶望した。ケイト・カーソンは「分かったわ」と一言告げてその話を終わらせた。


 ケイト・カーソンのすさんだ言動にアレン・カーソンは二人が別れたことを知る。

彼女を慰めようと腐心するアレン・カーソンだったが、素直になれないケイト・カーソンは衝動的に「私の手がこうでなかったら」と口に出してしまう。その言葉に深く傷つきアレン・カーソンは「すまなかった」と言い残して部屋を出て行った。

 彼の哀しみに沈んだ目に気づいて謝罪するケイト・カーソンだったが、アレン・カーソンの部屋のドアは固く閉じられたままだった。

 翌日からもアレン・カーソンは彼女を避けた。追いかけて詫びても短く相づちをうつだけでケイト・カーソンの目を見ようとしなかった。


 ある日アレン・カーソンはジミー・リークスを襲ったとして逮捕された。ジミー・リークスと話をしたかっただけだと言ったがそのとき銃を所持していたことでアレン・カーソンの罪は重くなった。

 銃を嫌っているアレン・カーソンがそんなわけはないと家族は抗議したが、それはシャーリー・ベルナルドの策略で周到な根回しがされていたため警察の判断は覆らなかった。

 アレン・カーソンの保釈を待って一家は街を離れることにした。

 しかしケイト・カーソンはそれに同行することを拒んだ。泥酔した父親が言った「こんなことならあの時見捨てればよかった」という言葉を忘れることができなかったからだ。


「あなたはそれでよかったの?」

 そう訊ねる滝村涼香にケイト・カーソンはいつもかばっていた左の手を開いて見せた。手のひらには銃創以外に斜めに走る切り傷があった。その傷は塞がってはいるものの、まだ血が滲むように赤黒いままで、それは滝村涼香に【シニコク】の赤い影を想像させた。

「えっ、これって……ケイト? まさか!」

 ケイト・カーソンは肯定するように静かに頷いてみせた。


「【シニコク】のことを知ったのは偶然だった。でもそのとき思ってしまったの。シャーリーに棄てられれば私のところに戻ってくるなんて……そんなはずないって分かってたはずなのにね。馬鹿だったわ。ジミーは自殺したの。何もそんな……そんなつもりはなかったのに」

 そう言ってケイト・カーソンは涙をこぼした。

「やっぱり呪うなんてしてもいいことなんて何もないのよ。だけど終わったこと、そう思うことにしたの。前に進むためにね。リョーカにもそうして欲しい。リョーカがカナダに来て私と会ったのもそういう運命だったのかもしれないわよ」

「ありがとう……ケイト。つらい話をさせてしまったわね」

 滝村涼香もいつしか泣いていた。二人は肩を抱き合って少しの間一緒に泣いた。


 帰る途中で二人は借りていた小学校の体育館を覗いてみた。誰もいなかったがバスケットボールがあるのを手にとってケイト・カーソンが滝村涼香にパスしてきた。滝村涼香は感触を確かめるように一度ドリブルをしてロングシュートを決めた。

「Really? ミステリアスドールってミステリアスなだけじゃないのね!」

 目を丸くするケイト・カーソンに滝村涼香も笑って応えた。


 その後も二人はボランティアを続け現在に至る。積極的に活動に参加して滝村涼香も周囲の信頼を得ていった。

 赤い影のことも見られても気にしないようになった。滝村涼香自身も自分から言うつもりはなかったがケイト・カーソン以外に【シニコク】を知る人とは会わなかったし、見られても「顔にある傷だから恥ずかしくて髪で隠している」と言えばそれ以上は詮索されることもなかった。そういう環境に恵まれたのは幸運だった。


 ……手紙をもらったとき滝村涼香の中に畏れはなかった。これまでの行いと向き合って受け入れよう、できるだけの償いはしようと心を決めていた。その機会がようやく来たのだと思うと自然と涙があふれた。西木千輝、佐島鷹翔、後藤柚姫……会って話をしたい、会わなくてはいけない人の顔が頭に浮かぶ。できるなら鎌田久留美の墓前にも手を合わせたい。

 今の滝村涼香に日本で暮らすことにそれほどの執着はない。滝村隆三に報告と心境を伝え、会うべき人に詫びを告げたらカナダに帰るつもりだった。


 そうしているうちに滝村涼香は車が進路を変え自宅から遠ざかっていくのに気づく。

「お嬢様には先生より先に会ってもらいたい人がいます」

 浅里誠一は前を向いたまま滝村涼香にそう言った。なおも問い詰めようとする彼女に運転席の男から声がかかる。

「元気そうで安心したよ。久しぶりだな、涼香」

 よく見ればそれは佐島鷹翔だった。懐かしい顔がそこにあった。


「鷹翔、ごめんなさい。あのときは……」

「積もる話は向こうに着いてからにしよう。他にもお前に会いたがっているやつがいるからな」

 そう言いながらも佐島鷹翔に出会いを懐かしむ笑顔はない。それを見て滝村涼香も胃のあたりがずんと重くなった。昔のことを思えば仕方のないことだと思って口をつぐむ。

 ふと滝村涼香は佐島鷹翔の眉の上の赤い影が無いことに気づく。同じように時間が経っているのだから呪いは強くなっているはずだ。滝村涼香も空港のトイレで一度確認した。やはり日本に戻ったことで影は濃くなっているようだった。まして無くなることはないと思っていた。


 その理由に思いを巡らせているうちに車は郊外の個人病院に到着した。

 院長室で滝村涼香を待っていたのは後藤柚姫だった。据えられた高級感のある机と椅子に彼女がこの病院を取り仕切っている人間だということが分かる。同行してきた佐島鷹翔は「じゃあ俺はこれで」と踵を返す。

「待って! 私、あなたに謝らなくちゃ……」

「すまねぇがやっぱりもう少し時間をくれ。今はまだまともに話せそうにない」

 拒絶の言葉を残して佐島鷹翔は部屋を出ていく。後には滝村涼香と後藤柚姫が残った。

「久しぶりね、涼香。そこに座ってちょうだい」

 微笑んで促され応接のソファに座ると滝村涼香の向かいに後藤柚姫が座った。彼女は杖をついていた。

「ちょっと事故でね。手と足に麻痺が残ったの。視界もちょっと狭くなってるわ」

 滝村涼香は7年の間の変化に頭が追いつかないでいた。それを知ったかのように後藤柚姫が口を開く。

「私が医者になりたかったのは涼香も知ってたでしょう? でもこの身体じゃ無理だから代わりにこの病院を買ったの。株の勉強をしてお金を稼いでね。それなりにお金持ちになったと思うわ。全然そんな柄じゃないんだけど」

 見れば確かに後藤柚姫が身につけている服や時計は一流品だ。そしてこの年で病院のオーナーというのもすごい話だ。もちろん後藤柚姫の頭抜けた才能があってこそのことだろうが、そこに並大抵ではない努力があったことは滝村涼香にも分かる。


 ドアがノックされお茶が運ばれてきた。受付にいた年配の女性職員だった。

「せっかく日本に来たのだから緑茶がいいと思ったのだけど。コーヒーのほうがよかった?」

「そんなことはないわ。ありがとう」

 後藤柚姫は滝村涼香がコーヒー党だったことを覚えていてそう言ったのだろうが、我を通すほどのことでもない。素直に礼を言って差し出された茶椀を見る。華やかな九谷焼だった。

 その時滝村涼香は女性職員の腕にある傷に気がつく。その切り傷は赤黒く彼女にケイト・カーソンの手の傷を連想させた。何気に胸のIDカードを見るとそこには鎌田恵以子と名前があった。

(じゃあこの人は久留美のお母さん? それにその傷は【シニコク】の……だとしたら彼女が呪ったのは?)

 しかし固まる滝村涼香をよそに鎌田恵以子は目を合わせることなく一礼してそのまま部屋を出て行く。

 立ち上がりかけた滝村涼香を押しとどめ後藤柚姫が話を続ける。

「想像どおり彼女は久留美の母親よ。他の病院に勤めていたのをスカウトしたの。立ち上げから手伝ってもらっているわ」

「そう……なのね。でもあの傷は」

「ああ、気づいたのね? 後で分かったんだけどシニコクが叶うと呪ったほうの傷も消えないでああやって残るみたい。それも今なら消してあげられるんだけどね」

「それは……手術でってこと?」

「まあそれもあるけど別な方法よ。もちろん影のほうも消せるわよ」

「えっ、どういうこと?」

「本当は病院は隠れ蓑なの。ようやく【シニコク】の呪いを解く方法を見つけたのよ」


 後藤柚姫の言葉に滝村涼香は時間が一瞬止まるのを感じた。

「柚姫……それは本当なの?」

 滝村涼香の声は震えていた。これまでずっとその答えを渇望していたのだから。 

「鷹翔の顔を見なかった? 手術じゃああはならないわ」

「じゃあ一体……どんな方法で?」

「それはまだ教えられないわ。企業秘密ってやつね」

 滝村涼香の質問をはぐらかすように後藤柚姫は笑った。

「それにタダってわけにはいかないわ。分かるでしょう? 顔にある影だし一千万でどうかしら。これでもお友達価格なの。あなたなら出せない額じゃないでしょう?」

 そう口にする彼女の顔は金を稼ぐプロの顔だった。経営者になるとはそういうことなのだから。

 同時に滝村涼香の目も覚めた。一千万というのは今の彼女にすぐ用意できる金額ではない。父親を頼れば何とかなるかもしれない。実際のところ後藤柚姫はそうしろと暗にほのめかしているのだ。

 しかしそれは甘えだと滝村涼香は思った。この7年の生き様に自分で泥を塗ることになる。あのとき抱き合って泣いたケイト・カーソンを裏切ることはしたくない。


「彼女……鎌田さんは腕の傷を何で消さないのかしら」

 数舜の沈黙のあと滝村涼香が口を開く。

「娘の生きた大事な証拠だからって言われたわ。それに罪は消せないとも」

 その言葉に滝村涼香も静かにうなづく。

「私もそう思う……だから遠慮しておくわ。折角の話だけれどごめんなさい」

「仕方ないわ。……でもあなた変わったわね。ああ、嫌味とかじゃなくてよ」

 滝村涼香の答えに後藤柚姫は優しく笑った。それは昔の友達だったころを思い出させるものだった。

「子供すぎたのよ。それで済む話じゃないのは分かっているけれど……」

「そうね……これからどうするの? 日本で暮らす気はないの?」

「ええ、カナダに帰るわ。向こうでやりたいことも出来たし」

 滝村涼香は後藤柚姫にこれまでのことや向こうでの暮らしのことを話した。自分の足で歩いていく決心をしたことに後藤柚姫も頷いてくれた。

「日本にいる間は迷惑をかけた人のところに、会いに行くつもりよ。……そうね鷹翔とも、もう一度、話さなくちゃ。ああ……そう、千輝はどう……してるの? 住所は……」

 話しながら滝村涼香は急激な眠気に襲われはじめた。後藤柚姫が席を立って支えるように脇に座る。彼女が滝村涼香の耳元で小さく言う。

「千輝とは会えないわよ。残念だけど」

「えっ……どう、して……」

「千輝はもういないわ。死んでしまったの」

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