第二十五告  たどりついたらいつも雨ふり

 病院に運ばれた後藤柚姫は検査を受けて集中治療室に入った。彼女の意識は戻らないままだ。

 外の廊下には後藤柚姫の両親と兄が来ていた。暮林夏凛が彼らに説明役を買って出る。だがそれはとどのつまり彼女に都合のいい作り話だ。

 ……滝村涼香がいなくなったことで、クラスの中で後藤柚姫と西木千輝は肩身の狭い思いをしていた。いじめに発展する前にそれを何とかしたいと暮林夏凛は後藤柚姫をカラオケボックスに呼んだが、それを知って仲間外れにされたと思った西木千輝が店に乗り込んできた。

 西木千輝は暮林夏凛を逆恨みして襲ってきたが、それを止めようとした後藤柚姫ともみ合いになり事故が起きた……暮林夏凛は後藤柚姫の家族にそう説明した。

 西木千輝が後藤柚姫を突き飛ばしたことは大勢の客が見ている。その状況だけを見ればそういう見方もできるだろう。それには暮林夏凛の保身もあったが【シニコク】の呪いのことを隠したい以上、そういうふうにならざるを得なかったという理由もある。


 西木千輝は暮林夏凛の話を長椅子に座り隣で聞いていた。ショックが大きくて反論もできずぼうっとしていた。

(あたしが……あたしが柚姫を……そんなつもりじゃなかったのに……)

 暴れ出さないように脇には折原美等がついていたが、西木千輝にもうそんな気はなかった。


 暮林夏凛の話を聞いた後藤柚姫の義兄、後藤清陽が西木千輝の前に立つ。その目は冷たく同時に激しい怒りが見てとれた。

 後藤清陽は西木千輝にとっても兄のような存在だった。同じ家にいても疎遠な関係だった義兄への反発と、彼自身もバスケをやっていたこともあり意気投合してよく話をした。

 その後藤清陽が西木千輝をいつもの「千輝」ではなく「西木さん」と呼んだ。

「西木さん、どういうことなんだ? 柚姫はあんなにあんたを気にかけていたのに……がっかりだよ。恩を仇で返すってのはこのことだろうな。

【シニコク】なんて無関係なら放っておけばよかったんだ。なあ、どうして柚姫がこんな目に遭うんだ? どうせなら……落ちるならお前が代わりに落ちればよかったんだ!」


 後藤清陽は後藤柚姫を溺愛していた。かつて「結婚したいくらいだとからかわれた」と後藤柚姫が言ったことがあるがそれは彼の本心だったかもしれない。

 後藤清陽に突きつけられた言葉の刃に西木千輝は助けを求めるように辺りを見た。隣を見て折原美等と目が合う。その憐れむような目に彼女は悟る。いつも隣にいてくれた後藤柚姫はもういない。彼女を救ってくれる人間はもう誰もいないのだということを。

「あた、あたし……違う、そんなつもりじゃ……」

「まだそんなことを! いったいどの口が言うんだ!」

 その言葉に激高した後藤清陽が西木千輝の胸ぐらを掴み拳を振りかざす。

 西木千輝は体を縮こまらせ思わず目をつぶる。そのとき彼女の耳に「待ってください!」という声が聞こえる。後藤清陽の手が少し緩んだ。


 そこに走ってくるのは西木千輝の両親、西木泰剛と西木美也子だった。

「お怒りはごもっともですがお願いします! 娘と話をさせて下さい」

 駆け寄った西木泰剛にその場を譲るように後藤清陽は後ろに下がる。西木千輝はその背中に安堵した。娘と呼んでくれたことに普段の暴力も忘れ胸が熱くなった。

 しかし振り向いた西木泰剛は西木千輝が「お父さん」と呼ぶ前にいきなり頬を張り飛ばした。

「この馬鹿が! どこまで人に迷惑をかければ気が済むんだ!」

 床に倒れた彼女の頭を押さえつけ土下座させる。その横に西木泰剛と西木美也子も並んで伏した。

「娘の不始末は私ども親の責任です! どのようにお詫びしても済むことではありませんが、どうかそこを曲げて! どうか……どうか!」

 西木泰剛にすれば西木千輝を他人に殴らせるならいっそ自分が、という考えだった。先に頭を下げた人間をあえて踏むようなまねはしないだろうという心づもりもあった。

 その異様とも思える光景に、結局後藤清陽も力なく「もういいです。やめて下さい」と言って矛を収めた。

 三人の土下座は関係者がいなくなるまで続いた。西木泰剛の押さえつける手がどかされ西木千輝ものろのろと立ち上がった。西木美也子に促され先に歩き出した西木泰剛の後を追った。


 しかし西木千輝はこのことに納得できなかった。かばってくれないにしても話くらいは聞いて欲しかった。

 謝罪の仕方も妙に芝居がかっていて、西木千輝にはこれも商売や外聞のためのパフォーマンスなのだとしか思えなかった。実際に店で見る西木泰剛の姿は卑屈なほどだった。家での暴力はその反動なのだ。

 そして西木千輝は内なる孤独と絶望をさらに深めていく。

(もう居場所なんてないんだ……ごめんね、柚姫。もうあたし頑張れない……)


 帰りの車の中では誰も話をしなかった。家に着くころには夕方になっていた。

 西木美也子の夕飯を誘う声を無視して、西木千輝は二階の自室に向かおうとした。

 階段の手摺りに手をかけた西木千輝を西木泰剛が襟首を掴んで引き倒す。

「何だその態度は! まず俺に何か言うことがあるんじゃないのか!」

 その声に応えず立ち上がろうともしない西木千輝に腹が立って、西木泰剛は彼女の腿を蹴った。それでも何も言わないままの様子に更に二度三度と蹴り続けた。


 西木泰剛の暴力は小心の裏返しだった。最初は外での抑圧の代償行為だったが、西木千輝が泣いて「見捨てないで」とすがる姿に西木泰剛は歪んだ愛情を感じるようになった。

 しかし長男がたくましく成長し、西木千輝も綺麗になって家の外に自分の居場所を見つけるようになると、今度は西木泰剛のほうが棄てられるのではないかという考えに囚われるようになる。そうなるとより彼女を縛り付けようとして西木泰剛の暴力は日増しにひどくなっていった。

 だがこの日の西木千輝の様子はどこか違っていた。西木泰剛は内心不安を募らせていく。


 蹴り続ける西木泰剛の脚を西木千輝の腕が捕まえる。ようやく反応したことに安堵するが次の瞬間西木泰剛の脚に痛みが走る。見れば西木千輝がそこに噛みついていた。

「な、何をして……ひいっ!」

 口を離して西木千輝が一瞬西木泰剛を見る。そこからは何の感情も読み取れなかった。彼女に対する恐怖が西木泰剛の心にじわりと黒い染みをつくる。

 西木千輝が再び西木泰剛の脚に噛みつく。腕にこもる力が強まっていく。

 痛みに悲鳴をあげながら西木泰剛が逃れようともう一方の脚で彼女を蹴る。倒れるのも構わずずるずると後ずさる。西木千輝がその上に馬乗りになり西木泰剛の顔を殴る。

「や、やめろ! こんなことをして……ぎゃああ!」

 抵抗しようと西木千輝の顔に手を伸ばすと今度はその腕を掴まれ噛まれた。その間も西木千輝は空いたほうの手で西木泰剛の顔を殴る。

 拳が裂けると西木千輝は立ち上がって西木泰剛の顔を足で踏んだ。二度三度と繰り返すと西木泰剛からの抵抗はなくなった。


 西木美也子はその様子をただ見ていた。彼女は西木泰剛のいる前では指示なしに動けなくなってしまっていた。よかれと思ってしたことも「余計なことはするな。言われたこと以外はするな」と言われ続け考えることを放棄してしまった。

 諦念の根底にあったのは西木千輝のことだった。機嫌を損ねると西木泰剛の鬱憤は西木千輝への暴力に変わるため、耐えて盲目的に従うことが最良の方法だと思い込んでいた。

 そのため西木美也子は目の前で起こっていることを理解できなかった。だからいつも通りその判断を西木泰剛に委ねた。「助けろ」というならそうするつもりだった。しかし彼からその指示はなかった。


 一方で西木美也子の中に新たな感情が生まれていた。本人が気づかない言葉にできないそれは自分を捕らえていた理不尽からの解放だ。西木千輝が守られるだけの弱い存在でなくなったことを知ったからだ。

 玄関にむかう西木千輝は西木美也子の横を通り過ぎるときも、無言のままちらりと一瞥をくれただけだった。その目にはやはり感情の色はなかった。

 せめて拒絶してくれれば詫びることもできた。しかし壁のカレンダーを見るような西木千輝の視線に、西木美也子は彼女がもはや自分に何も期待していないのだということを知る。矢面に立ってくれることもなく張られた頬に手を添えてくれるわけでもない(それがさらに西木泰剛の虐待をあおることになると分かっていたからだが)。 西木千輝の中での西木美也子はただの傍観者だ。広義的に言えば西木泰剛の共犯者ともいえる。 

「明日の昼までに帰る。今は何も考えたくない」

 それだけ言って西木千輝は玄関のドアを閉めた。


 思えばこのとき西木美也子は西木千輝のあとを追うべきだった。遅きに失したとしてもなお呼び止め足にすがり、自分をさらけ出して今の胸の内を彼女にぶつければよかった。

 それができなかったのは、後ろで弱々しく西木美也子を呼ぶは西木泰剛の声がしたからだ。もし彼が西木千輝を見限って追い出すようなことになったら、そう考えると西木美也子には家に留まり彼を介抱する以外の選択肢は選べなかった。


 次の朝、西木美也子は昼に戻ると告げた西木千輝に宛てて机の上に書き置きをした。メッセージを書いた便箋にお金を入れた封筒を挟んだ。「もうすぐ誕生日ですね。今年は一緒にお祝いがしたいです。今はこんなことしかしてあげられなくてごめんなさい」それは今更ながらの懺悔だったが、本人にしてみれば弱々しいながらもようやく踏み出した一歩のつもりだった。


 西木泰剛はまだ寝ていたが店は開けるというので、西木美也子は彼を残して先に家を出て店に向かった。


 西木泰剛が起きたときには9時を少しまわっていた。着替えるときズボンに血が付いているのに気がついて、昨日のことを苦々しく思い出した。

 大きくなってから西木千輝が刃向かってきたのははじめてのことだった。最近では反抗的な目をしてもせいぜいが無視してくる程度のことだった。暴力を振るうときもある程度のタイミングで西木千輝が謝ればそれ以上は攻撃しない。それが暗黙の了解になっており西木泰剛も彼女の「ごめんなさい」という言葉を聞けば溜飲を下げた。


 西木泰剛はやりすぎない以上は教育なのだと思っていた。それは親やかつて勤めていた会社の社長や先輩に自分がされたことだからだ。その後西木泰剛は社長に気に入られ一人娘と結婚した。しかし社長の突然の死とともに会社は親戚と結託した上司に乗っ取られ、西木泰剛はおんぼろの店舗を手切れ金に追い出された。

 そんな奴らを見返してやろうと意地になってがむしゃらに働くうちに妻に先立たれた。男手ひとつで息子は育てられないから後妻に西木美也子をもらった。先妻に比べて西木美也子に経営の才覚はなかった。それでも尽くしてくれる以上のことを求めて彼女につい手をあげてしまうこともあった。

 しかし同時に西木泰剛は目に涙を溜めて母親をかばう幼い頃の西木千輝を思い出した。しがみついてくる西木千輝を振り払おうとした手を彼女に噛みつかれた記憶が蘇ってきた。


 家を出る前に西木泰剛は西木千輝の部屋を覗いてみた。

 娘は帰っていなかったが机の上に西木美也子の書き置きを見つけた。添えられた封筒を開けてみると3万円が入っていた。

(あいつ、俺が渡している生活費をくすねていたのか!)

 そう思うと途端に頭に血が上り封筒をポケットにねじ込むと書き置きを破り捨てた。

 しかし西木泰剛は不意に書き置きの文面にあった誕生日という言葉に気がつく。考えてみればこれまでこの家では子供の誕生日など祝ったことがなかった(きっかけは長男が誕生日に先妻を思い出して泣いたことだった)。

 それでもクリスマスにケーキを食べるくらいのことはしていたが、子供たちが友達との付き合いを優先させるようになるとそれも無くなった。


 西木泰剛はふと思い直して自室の金庫から金を持ってくるとそれを銀行の袋のまま机に置いた。そしてさっき破いた便箋の代わりに自分で新たにメッセージを書き残した。

 西木泰剛にはこちらから折れて見せれば西木千輝の機嫌も直るだろう、ポンと気前よく金を出してやればさすがに俺を見直すだろうという気持ちがあった。しかし今の西木千輝の目にそれがどう映るのかを彼はもっとよく考えるべきだった。


 次の日の昼前に西木千輝は家に帰ってきた。夜はよく行くインターネットカフェに泊まった。

 自分の鍵を使って玄関のドアを開けると台所に行って冷蔵庫の麦茶を飲んだ。家が留守なのはいつものことだった。

 一晩のうちに西木千輝はこれからどうするか考えた。まず第一に迷惑をかけたことを両親に謝ろうと思った。そしてその上で西木泰剛との関係を改善しなければと思った。

 西木泰剛のこれまでの態度を考えると足がすくむ思いだ。しかしぶつかって意思を示さなければ何も始まらない。それで出て行けと言われるならそれはそれで仕方がない。バイトを続ければ安いアパートを借りるぐらいは何とかなるだろう。

 そしてできるならもう一度後藤柚姫に会って話がしたかった。そこで彼女に何を言われようと、たとえ後藤清陽にどんな目に遭わされようともそれは全然構わない。


 とりあえず着替えをしようと西木千輝は部屋に入る。そこで机の上にある封筒と書き置きに気づいた。そこには西木泰剛の角張った字で「詫びはいらない。金はお前の好きにしろ。ただしムダ遣いはするな」と書いてあった。確認すると銀行の封筒に入っていたのは10万円だった。

 それを見て西木千輝はそのままベッドに倒れ込んだ。自然と口元に笑いが浮かぶ。しかしその笑いは次第に涙へと変わっていく。

(あたし、馬鹿だ……とっくに見捨てられてたんだ。きっとそう思いたくなかっただけ……それなのにまだ間に合うだなんて……)

 西木泰剛にははじめから向き合う気など無かったのだ。義理の娘といえど刃向かった人間を許す気はないのだ。わざわざ銀行から大金をおろしてきたのも、すっぱりと縁を切る手切れ金のつもりなのだろう。西木千輝はそう思ったのだ……。


 夕方になって家に帰ってきた西木美也子はポストに家の鍵が入っているのを見た。それが西木千輝のものだと分かり急いで部屋に行くと、西木千輝のリュックと身の回りのものと着替えが数日分無くなっていた。

 机の上の書き置きを見るとそこにあるのは何故か自分の文字ではなく西木泰剛のものだった。そしてその下には西木千輝の丸い字で「言われたとおり出ていきます。お金はありがたく使わせてもらいます。お世話になりました」と書いてあった。


 遅れて帰宅した西木泰剛に事情を聞かされ西木美也子にもようやく事情が飲み込めた。確かにあれだけのことをした後で大金を渡され「好きにしろ」と言われれば「出て行け」と言われたと誤解してもおかしくない。

 その場に力なく座り込む西木美也子に西木泰剛は「どうせ金がなくなれば帰ってくるだろう。放っておけ」と無神経な言葉を投げつけ自室に引っ込んだ。そのせいで彼は西木美也子の怨嗟のまなざしには気づくことはなかった。


 同じころ西木千輝は後藤柚姫のいる病院を訪れていた。しかし結局中に入る勇気が出ず夕暮れのベンチに座ったままだった。

 そんな彼女に一人の看護師が声を掛けてきた。聞けば後藤柚姫は一般病棟に移ったという。「今はご家族も居ないからひと目だけでも」と言うのを固辞して「目が覚めたら渡してくれませんか」と彼女に後藤柚姫に宛てた手紙を託した。

 西木千輝はリュックを背負うと顔を伏せて病院を後にする。後ろから名前を呼ばれたような気がするが振り返らなかった。西木千輝はそのまま駅へと歩いた。


 西木千輝が街を離れた三日後に後藤柚姫は目を覚ました。手足に麻痺は残っているが意識ははっきりとしていた。

 なにより先に後藤柚姫は西木千輝の名前を出して彼女を擁護した。当然ながら暮林夏凛の嘘もそこで分かってしまうのだが、同じタイミングで萩野海渚が飲酒喫煙で補導され、彼女が西木千輝とバイトの取り合いでトラブルを起こしていたことも明るみとなり嘘の件は結局うやむやになってしまう。


 後藤柚姫が目を覚ましたことで後藤清陽も態度を軟化させ、西木千輝に詫びたいと話した。しかし西木千輝からの手紙を看護師から手渡され、後藤柚姫らは彼女が街を去ったことを知る。


 一方で西木美也子も西木泰剛を置いて姿を消した。「家にいる意味が無くなりました。あの子を探しに行きます」

 後から届いた手紙にはそう書かれており、そこには離婚届が同封してあった。

 一人になった西木泰剛は感情が抑えられなくなり、近隣とトラブルを起こすようになる。それが余計に家族に暴力を振るって逃げられたというゴシップを広めることになり店も立ち行かなくなっていく。


 思いあまって長男に助けを求めると、電話で開口一番「自業自得だろ?」と、そう言われた。

「もう見返す相手もいないのに、いつまでも自分が不幸だと思っているから愛想をつかされるんだよ。いい加減に気づけよ」

 その言葉に西木泰剛は自分を追い出した会社がとっくに潰れていたことを思い出す。


 その後西木泰剛は店をやめた。長男は大学のあった県の同業の大手商社に就職した。

 気がつくと西木泰剛の店と家は売りに出されていたが、買い手はそうそう見つかりそうになかった。

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