第十九告  後藤柚姫

 夏休中も後藤柚姫は図書室に来ていた。図書委員は後輩に代替わりしたが、受験勉強をするにも一番落ち着く場所だった。昼になり参考書を片付け、着替えるため更衣室に向かう。長期休暇のときは私服での登下校が許されている。午後は西木千輝と待ち合わせていた。

 更衣室で着替え始めると、荻野海渚と折原美等おりはらみらが入ってきた。

 二人は暮林夏凛の取り巻きだ。今やクラスのカーストトップは暮林夏凛だった。その勢いは滝村涼香がいなくなったことで誰にも止められなくなっていた。そしてクラスで後藤柚姫と西木千輝と親しくする人間は誰もいなくなっていた。いじめにこそ発展していないものの、それは暮林夏凛の号令待ちというだけの嵐の前の静けさに他ならない。


 二人はすでに私服に着替えていた。それなのに何をするでもなく後藤柚姫の着替えを横目に見ながらこそこそと話し込んでいる。今度は何の嫌がらせかと思うと気が気ではなかった。急いで着替えを済ませ出口に急ぐ。固い表情で二人の横を通り過ぎる後藤柚姫だったが不意に彼女らが話しかけてくる。

「そんなに怖い顔しなくてもいいじゃん、後藤っち~。仲良くしようよ~」

「ついでに教えてほしいんだけど柚姫のアレはどこにあんの? おっぱい? それともお尻?」

 後藤柚姫は思わず動きを止める。さっきからの視線は赤い影のありかを確かめるものだったようだ。そして下着で隠れた部分に赤い影があると想像したのだろう。

「おあいにく様。そんなもの私にはないから」

 そう言う彼女の腕を折原美等がつかむ。

「いやいや、そんなの信じろって言うほうが無理だって」

「そ~そ~、グループで後藤っちだけ【シニコク】に呪われてないなんてあり得なくない?」

 萩野海渚が扉の前に立つ。ニヤニヤ意地悪そうに笑って腕を組んでいる様子は悪役そのものだ。

「さっきさんざん見てたじゃない。これ以上どうしろっていうのよ」

 バレー部で暮林夏凛のボディガードを自認する折原美等の力は強い。パフォーマンスで男子と腕相撲をしても引けをとらないくらいだ。その手を振りほどけないでいる後藤柚姫の耳元で折原美等がささやく。

「そうだ、手っ取り早く身体検査しちゃおうか?」

 その言葉を聞いて後藤柚姫の身体に緊張が走る。爽やかなはずのシトラス系の香水も今は不快に感じるだけだった。


 後藤柚姫の抵抗に折原美等がさらに手に力をこめる。

「逃がさないって。いい加減諦めたら?」

「離しなさいよ。人を呼ぶわよ」

「呼んでも後藤っちが恥かくだけじゃない? さっき豊っち見たけど、あの先生がどうするかなんて言わなくても分かんでしょ? いつものほら、生徒の自主性ってやつ」

 萩野海渚が言うとおり、担任の豊浜桃絵とよはまももえは事なかれ主義で生徒に深く関わろうとしない。彼女らが「ただのスキンシップだ」と言えば仲がいい証拠などと都合よく思い込むに違いない。

「……分かったわよ。自分で脱ぐから。何も無いことが分かれば満足するんでしょう?」

 その言葉に折原美等の拘束が緩む。一瞬の隙をついて後藤柚姫は身体を反転させ合気道の技で彼女を床に転がした。そのまま扉に向かって走り、萩野海渚を押しのけて廊下に出る。

しかしそこで後藤柚姫の足が止まった。

「暮林……夏凛」

 廊下に立つ彼女は私服ではなくネクタイをきちっと締めた制服姿だった。


 暮林夏凛は腕組みをしてうっすらと笑みを浮かべていた。光の具合では金髪にも見える長い髪をカチューシャで留めている。大人びた印象を与える切れ長の目は青みがかっていて、これもクオーターを自称する所以なのだろう。

 後藤柚姫が彼女と対峙している間に折原美等と萩野海渚が駆け寄ってくる。

「ご、ごめん夏凛、でもちょっと油断しただけだから」

「後藤っち~ガリ勉のクセに何か習ってるでしょ。絶対そう!」

 二人が口々に後藤柚姫を逃がした言い訳をする。

「ふふっ、だから甘く見るなって言ったでしょう? 彼女はこう見えて曲者なのよ」

 暮林夏凛は口元に手をやって笑う。白檀の扇子が似合うような仕草だ。

 それは誉められているのだろうか? 思いながらも後藤柚姫の頭は状況分析を止めない。

(三人相手では分が悪い。それでも閉じ込められているよりはまだましな状況か……)

 そんな彼女に暮林夏凛は提案を持ちかけてくる。

「ねえ後藤さん、私のグループに入らない? 今ならまだ間に合うわよ」

 誘いの言葉と同時に暮林夏凛が後藤柚姫に手を差し出してくる。


 これまで彼女にはっきりと誘われたことはなかった。暮林夏凛の性格からして後藤柚姫からグループに入りたいと頭を下げさせたかったのだろう。クラスで急速に孤立していったのもそのための仕込みだったのかもしれない。

 直接動こうとする滝村涼香と違って、暮林夏凛は相手にのが好きなのだ。ただ後藤柚姫は彼女のまわりくどいやり方が肌に合わないとも感じていた。

「……そうね、ただし条件があるわ。千輝も一緒にグループに入れてほしいの」

 西木千輝を独りにするわけにはいかない。そうなったら本当に彼女は立ち上がれなくなる。

 しかし暮林夏凛は首を横に振る。

「それは駄目。入れるのはあなただけよ」

「どうして? 簡単でしょう?」

「クラスにはそういう人間が必要だからよ。分からない訳じゃないでしょう?」


 小学校や地域活動でお世話係などと称して暗に出来の悪い子の面倒を先生やその親から押しつけられる子がいる。後藤柚姫もそのタイプだ。

 大人たちが誰もその役割を放棄して優等生の子供に丸投げしているのだから実際理不尽な話には違いない。

 しかし一方でお世話される子供もフォローを受けて「○○だからしょうがない」と許されて集団の中に置いてもらえるという現実もある。

 しかしそれがクラスのガス抜きのためにいじめられる存在が必要だということの免罪符にはならない。まして西木千輝がそうした役を演じなければならないという理由はない。

「……そう。じゃあ断るわ。そういう格好悪いことはしたくないの」

 そう言って後藤柚姫は腕組みして握手を拒否する。

「あんた本気なの? わざわざ夏凛が誘ってくれてるのに!」

「ひゅ~ひゅ~。後藤っちカッコイイねー。でもやり過ぎじゃない?」

 折原美等と萩野海渚が近づいて三人で後藤柚姫を取り囲む。とりあえず叫んで助けを呼ぼうか、そう思った矢先に大声を上げてこっちに近づいてくる人物がいる。

「柚姫に何やってんのよ、あんたたち!」

 外で待っているはずの西木千輝だった。

 西木千輝の勢いに三人が思わず後藤柚姫から距離をとる。その空いたスペースに西木千輝が体を割り込ませ後藤柚姫をかばって立つ。


「大丈夫、柚姫? 何かされなかった?」

 この夏休み中、西木千輝はすっかり学校に来なくなっていた。近所の大衆食堂の厨房やビルの掃除などバイトにあけくれていた。滝村涼香や佐島鷹翔がいなくなり部活の仲間からも絶交されたことで、もう学校に自分の居場所がないと感じていた。バイトで体を動かすくらいしか寂しさを紛らす方法がなかったせいもある。

 それでも後藤柚姫は西木千輝に声をかけるのをやめなかった。

「一緒に卒業しようよ。秋には修学旅行だってあるんだし」そう言って彼女を励まし続けた。そして今日は一緒にお昼を食べようと誘って久しぶりに学校で待ち合わせたのだった。

「そんな怖い顔しないでよ、千輝。あたしまで呪い殺す気?」

「そ~そ~。アタシらに近づかないでよ千輝ち~。呪いがうつるから~」

 折原美等と萩野海渚が言いながら大げさに距離を置く。それにショックを受けて西木千輝が固まる。

「まあまあ、それぐらいにしておいてあげたら? 後藤さん、泣いて謝っても次はないわよ」

 そう言い残して暮林夏凛は二人を連れて去っていく。静かになった廊下に後藤柚姫と西木千輝だけが立っている。

「……ありがとう千輝、助かったわ。ごめんね、無理をさせたわね」

「何でよ……何でそこまで! あいつら……あいつ……バカヤロー!」

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