それぞれの起点

 十年一昔というけれど、タカにはそんなありきたりなフレーズで自分の過去を規定してもらいたくはない感……に襲われていた。たとえ高校生とはいえ、忘れてしまいたいことは山ほどある。忘れてしまいたくはないことも、同じ程度の厚みと熱量をともなって存在しているのだから。

 レンタル夜空……経験者というのは、事実だった。

 レンタルしてくれた当時、タカの父は世間で持てはやされていたITベンチャーの創業社長だった。

 物心ついてからというものタカには、父に抱きあげられた記憶はほとんどない。創業まもなく時代の寵児ちょうじとして一躍著名人の仲間入りを果たしてしまったからだ。テレビの画面の向こう側で、インタビューを受けたり、スペシャル・コメンテーターとして登場する知らないおじさんを、母はモニターをこつんこつんと指で弾きながら、

『パパよ、パパ……あなたのお父さん』

と、教えてくれたものだ。

 あるいは、雑誌にった写真やSNSの動画などで、少しずつ父の顔を覚えていったのだった。

 なにも両親が別居していたわけではない。

 あまりの多忙のため、リアルではほとんど会うことがなかっただけだ。それでも、夏の夕方、父は八歳のタカを無理やり小高い丘に連れていった。

 そして、こう言ったのだ。

『……朝まで、なま夜空だよ。世界でたった一人、おまえだけのものだ』

 じつはそのとき、あまりにも眠たくて、ウトウトしかかると、父は頭をコツンと指ではじくと、

『な、頼むから、寝るな。今夜だけは、寝るな……最後の夜なんだから』

 そんなことを何度となくつぶやいては、父は、星を、月を、そして夜空のなかにかれ自身のおもいを投影した何かべつのものを見ていたのだったかもしれなかった。

 その翌日、突然、タカの父は失踪した。

 会社が倒産したのだ。

 負債総額は……三千億円を超えていた。もっともこれはニュース報道によって世間が知った数値にしかすぎず、それよりも多いのか少ないのか、誰にもわからない。二親おやを失ったタカは伯母に引き取られた……。

 失ったものの大きさ深さというものは筆舌に尽くし難かったろうが、同時に得られたものもまた深く大きかった。子がなかった伯母も伯父は、実子同然にタカを育ててくれたからだった。叱るときは叱り、褒めるときは褒める……そこには一片の同情であるとか、偽善的な憐れみの感情といったものはなく、つまるところ、タカを特別扱いせず、この新しい父母が接しようとしてくれたおかげで、かれはごく普通の、ときに悪びれたさまを装うことはあったにしても、若者らしい若者として年を重ねていくことができた。



 ……そのことは、メグもよく知っている。誰よりも知っていた、知らずにはいられなかったその理由は、おそらくタカには悟られていないはずだとメグはおもっている。

 小学二年の夏休みが終わって、タカが転校してきて同じクラスになってから、メグは、かれの存在が頭から離れなくなった。

 いまはやりのフレーズを使うなら、タカをことが、メグにとっての日常になったのだ。ヲチは“watch”からきたネットスラングで、“隠れファン”の反対語なのだ。

 とはいえ、小中と、まったくタカと喋ったことも、笑いあったことすらなかった。クラスメイトの一人、二人の女子は、メグが一人の男子へ注ぐその意味ありげで妖しげな視線の意味を、

〈片思い〉

の三文字で総括しようとしたこともあった。けれど、そんな浮ついた気持ちではなかったことは、メグにとっては他人ひとには決して口外できない唯一の秘密だった。

 それに言ってみたところで、理解してはもらえそうもなかった。

 高校進学時、メグが自分の能力を超えてがむしゃらに勉強したのも、タカと同じ高校へ行きたかったからだった。

 学術推奨進学校としてつとに有名なその高校無事に合格し、タカが中学の頃から写真に興味を持っていることを知っていたメグは、迷うことなく、部活には天体観測クラブを選んだ。部室が写真部の隣りといっただけの理由だった。

「だって……」

 一人で部室を掃除しながら、メグはつぶやく、つぶやかずにはいられない。

「……たかパパのせいで、あたしの両親、離婚したんだからね」

 それがタカを八、九歳の頃からヲチしてきた、他人ひとには言えない、理解してもらえない、彼女だけの胸のなかくすぶりつづけてきた正当にして真摯な理由だった……。


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