勘違いド近眼の入学試験
・車輪の都ダイダロスへ - 間男とファーストキス -
父が他界すると、母は元画家のハンス先生を屋敷に招いた。
彼こそがリチェルの父親で、うちの家庭の崩壊に最後のトドメを刺した間男だった。
「や、やぁ、グレイボーンくん……久しぶりだね……」
「ハンス先生。聖堂学校以来ですね」
彼は俺の工芸の先生でもある。
「き、君には申し訳なく思っているよ……。ただ、君のお母さんも当時限界でね、仕方なかった……あ、いや、そうではなく……僕は、その……すまない……っ」
冴えないがやさしい先生だった。
それが自分の母親と逃げたと知って、当時のグレイボーンは深く傷ついた。
俺は自室で荷物を整理しながら、奇妙な間柄となってしまったハンス先生と言葉を交わしていた。
「先生がリチェルと母さんの面倒を見てくれるなら、俺も安心――と言いたいところだけど、やっぱり先生は少し頼りないな……」
「だ、大丈夫だよ! 借金も……君のおかげで清算できたし……。この地は僕に任せてくりっ! あ、う……っ、舌、噛んだ……っ」
母が帰って来たのは、別れた夫に取り入って、間男との生活で発生した借金を返すためだった。
……と、歪んだ解釈も出来る。
「あ、お父さん。あっ、お兄ちゃんもいるーっ!」
そこにリチェルが足音を弾ませて駆けて来た。
「あ、ああ、リチェル……」
「よかったー、お兄ちゃんと仲良しになれたんだねーっ!」
「い、いや……」
「ほら、リチェルが言った通りでしょー! お兄ちゃんは、みんなにやさしいの!」
俺との関係改善のためにリチェルと相談していたことを、ハンス先生は目の前でバラされてしまった。
「違うんだ、グレイボーンくん! 僕は君に取り入ろうとしているのではなくっ、ただ……ただそう、君と仲直りがしたいんだよ!」
母と彼からすると、長男グレイボーンが相続権を手放したのは大きな幸運だった。
大きくないとはいえ、彼と母の借金はそれなりにあった。
「はぁ……なんか頼りないな……。本当にリチェルを守れるのか?」
「ま、守るよ……っ! 僕の娘だ、命に替えてでも守るよ!」
まあ、領地のことは母さんがどうにかするだろう。
元夫が他界するなり男を連れ込む厚かましい人だけど、母には父の補佐をしてきた経験がある。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん! お父さんもお母さんも、リチェルが守るから! リチェル、まほーの天才だしぃーっ!」
「なら安心して出発出来るな」
父の葬儀は先週終わった。
明明後日には都へ上京し、入学試験を受ける。
「お兄ちゃん……本当に、いっちゃうの……?」
「ああ。俺がいない方が母さんもハンス先生も居心地がいいだろう」
「そ、そんなことないよっ!」
そんな卑屈な様子で言われてもあまり説得力がない。
俺はリチェルの前に膝を突き、今日までだだ甘やかしてきたその子の頭を撫でた。
「お兄ちゃん、だっこ……」
「夏と冬と春の長期休暇には帰って来るよ。そう遠いわけでもないしな」
もうじき9歳になるリチェルを正面から抱き上げると、彼女は兄の身体をはい上がって、結局はいつもの肩車の位置に落ち着いた。
ハンス先生はそんな自分の娘を、慈しむようにやさしく見つめている。
いや実際、この通りやさしい人ではあるのだが……。
「あのねっ、司祭様がね……っ! 新しいまほー、教えてくれたの! 一緒に、お花畑、いこ!」
「また新しい魔法を覚えたのか? すごいな、リチェルは天才だな」
「えへへ……だってだってだってーっ、リチェルのお兄ちゃんのっ、妹ですからねーっ!」
「いってらっしゃい、リチェル。グレイボーンくんも……」
ハンス先生に見守られながら、俺たちは丘の上にあるカスミソウの群生地に行った。
そこがリチェルのお気に入りの場所だ。
幸せいっぱいにリチェルは両手を上げて、まるで幼児のようにケラケラと笑う。
リチェルを抱えて小道に出て、そこから丘の方に上り、林の先のカスミソウの群生地に入った。
「とうっ!」
到着するとリチェルは兄の手のひらを足場にして、肩から颯爽と飛び降りた。
「楽しかった! お兄ちゃん、ありがと!」
「お礼が言えるなんてリチェルは偉い子だな」
「へへへーっ、リチェル、お嬢様になったからっ!」
「ああ、なかなかのお嬢様だ」
「でしょーっ! あっ、そうだった!」
何を始めるのか、リチェルはカスミソウの花畑に座り込んだ。
そしてそこで花を一輪摘み、何やらいそいそと、厚手の小さな紙切れを取り出す。
「紙と花? それをどうするんだ?」
「うんっ、みててね、おにーちゃん! むむむむ…………ぺたーんっっ!!」
リチェルはカスミソウを厚紙に押し付けた。
するとその厚紙は、カスミソウが封じ込められた
「天才か」
「ねっねっ、すごいでしょーっ、ねーーっ! これ、お兄ちゃんにあげる!」
その栞はカスミソウの周辺が薄く透けている。
もはやこれだけで、ハンス先生が才能を羨むほどの美術品に見えた。
「これは凄い、こんなに綺麗な栞は見たことがない! 俺の妹は魔法の天才であり、芸術の天才だな!」
「へへへ、お兄ちゃんは、いっつも褒めすぎ……。でも、嬉しい! ずぅぅぅーっと、それ、持っててねっ!」
「そうさせてもらう。しかしこうなると、何かお返しをしないとな」
「ううん、いらない!」
「だがこれはとても素晴らしいものだ。……そうだ、何かしてほしいことはあるか? なんでも言ってくれ」
「結婚して!! リチェルと!!」
「ははは、それはお前がもっと大きくなったらな」
リチェルのいつもの自己主張に俺は笑って返した。
こういうのは幼い頃だけで、やがてお兄ちゃん邪魔とか、臭いとか、金を貸してくれとか言い出す。
妹とはそういうものだ。
いつかは大人になり、ふてぶてしくなり、兄をかえりみなくなる……。
い……嫌だ……。
そんなリチェルは見たくない!!
「お兄ちゃん、やっぱりリチェル、寂しい……。お休み、絶対、帰って来てね……?」
「ああ、長期休暇には必ず帰る。都のお菓子やオモチャを山ほど抱えてな」
「そんなのいらない……。いらないから……早く帰って来てね……?」
「本当に要らないのか? 星みたいに綺麗なあめ玉や、チョコレートを使ったクッキーもあるそうだぞ?」
「え!? い…………いる……。チョコクッキーは、いるっ!!」
「よし、おみやげはそれにしよう! 約束だ!」
ド近眼の目を近付けて、妹の姿を目に焼き付けた。
ああ、ヤバい。うちの妹はヤバいほどかわいい。
別れたくない。
このまま抱いて、都に連れて行きたい……。
将来この子がどこかの家に嫁入りするなんて、そんなこと考えたくもない!
それくらい、俺の妹は世界で一番尊い!!
「……ちゅっ」
「ンブッッ、ブッ、ブヘハァァ……ッッ?!!」
「あははははっ、お兄ちゃんおもしろーいっっ!!」
転生したら、ファーストキスを種違いの妹に奪われました。
そういう人生も、まああるのかもしれない……。
ファーストキスが近所のおばちゃんだった人生よりも、まあ恵まれているのかもしれない、な……。
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