ノグソをした。

たきのまる

ノグソをした。

 ノグソをした。


 私は野糞をした。英文にすると「I played the noguso」または「I put out the noguso」だろうか。

 ちなみにグーグル翻訳で検索してみると、「I defecated outside」という麻のような生地のエコバッグにゴシック体で書かれていそうな文が現れた。しかし、どんなにお洒落に言ったところで私が野糞をしたことに変わりはないが、目に入る情報だけでも不快にさせないためにせめてもの表現としてこの場では「野糞」を「ノグソ」と書くことにする。


 私はノグソをした。というよりもノグソをするに負えない状況になり、最終決定に踏み切るに至った。

 ドクロマークが描かれた真っ赤なボタンを囲う透明の保護ケースの蓋を開け、叩きつけるように拳を振り下ろしたと同時に私の肛門からノグソは放たれた。正確に言えば、見事その瞬間に「クソ」が「ノグソ」になったとも言える。

 では如何様いかようにして神聖なる私のノグソがこのクソみたいな外界に産み落とされたのかを語ってみようと思う。


 私はただのサラリーマンである。大体の皆さんが想像するサラリーマンと異なる点は通勤時には私服で、職場に着けば仕事の制服に着替えるといった点だろうか。

 世の中はスーツを着たサラリーマンで溢れていると勘違いしていたのは高校を卒業するまでで、実際の世の中にはスーツ以外の服装で仕事をしている人が多いと知ったのは自らの将来を考え始めた頃だったかもしれない。

 目を瞑り、もしくはスマホに目に釘付けの人々が電車に揺られるのを眺めながら、目に入ってきた人のことを考えることがある。この人は何をして、どこから来て、どこへ向かっていくのだろうかと。一本の線を走るように進む電車は、誰かの生活の始点でも終点でもないからこそ、このような考えに至るのかもしれない。

 時折、電車に揺られながら自分の人生を振り返る。すると子供の頃に出会った学校の外の人達の多くはスーツを着てなかったなと思い出す。アルバイトをしていたコンビニの客の多くは何かしらの作業着を着ていたし、同じコンビニで働く正社員の方も赤か緑の制服を着ていたなと気付き、自分の両親もスーツを着て出勤していなかったなと思い出す。

 デスクの上で椅子に座りパソコンをカタカタするだけではない仕事のほうが多いことに気付くのが良い事なのか悪い事なのかはさておき、簡単に言えば私は労働する一般的な大人ということだ。

 そんな私はある日、別の事業所へ研修を行うことになった。


 自分が働く事業所の最寄り駅から数駅先の事業所に出向くことになった私は、数日前から緊張していたのかもしれない。別の事業所にお邪魔する機会はほとんどなかったためか、自分の事業所に恥じないようにと考えていたのだろう。

 別の事業所にお邪魔する際にはスーツを着用して出向いた。会社の決まりでもなんでもないが、社会のマナーとしてそうしなければいけないという思いと、別の事業所の職員の方々に「私服で着てるよ、アイツ」などと思われないように、スーツを着ていけば何も文句を言われないというリスクマネジメントをした結果でもあった。

 皺のない紺色のスーツに袖を通しながら鏡を見ると、小学校の入学式のような顔をしている自分がいた。サイズに合わない茶色の革靴は家から最寄り駅まで向かって歩く度にカッカッとだらしない音を立てた。


 幸いにも乗り換えのない土地に向かうべき事業所があった。自分の事業所の最寄り駅から数駅先の駅から歩いて15分程度の場所にあった。

 私は日頃、急行ではなくわざと各駅停車の電車に乗る。それはその通勤時間に睡眠を取るためだった。

 最寄り駅から普段の職場まで約1時間。初めの頃は寝過ごしてはいけないとスマホを見ていたが、途中から眠気が襲って来ることが多く、気づかぬうちに寝てしまい降り過ごすことが数回あってからは、逆にしっかり寝てしまおうと思い立った。

 それから数年経つと面白いことに体は慣れていった。初めの頃は一駅程度降り過ごしてしまうことがあったが、今では最寄り駅で目を瞑って次に意識を取り戻した瞬間には職場の最寄り駅に着いているのである。通勤時間は約1時間だが、体感からすると15分程度である。

 出勤までの憂鬱な時間のショートカットと共に睡眠を得られる一石二鳥なこの手段を選んだせいで、完全に私の体は労働仕様の体に改造されてしまったともいえる。

 そんな訳で私にとって通勤時間に睡眠することは鉄則になっているせいで、別の事業所に向かうために検索した時刻表とにらめっこしながらどの電車に乗れば睡眠時間を確保しながら余裕を持って出勤できるかを考えながら昨晩自室のベッドで眠りについたのだった。

 

 検索した時刻表通りの電車に乗り、目を瞑る。中々寝付けないのは緊張のせいだろうと思っていると、微睡まどろみはすぐに訪れた。

 睡眠を取ることで通勤時間をショートカットするつもりだったが、ショートカットされたのは通勤時間だけではなかった。薄れゆく意識と共に副交感神経が優位になってしまったことでカットされたのは便意も同様だった。

 駅に着いて座席から立ち上がる。金属の扉が噴出音を立てながら開くのを待っていた瞬間、肛門あたりに違和感を覚える。というよりも今まで経験した嫌な予感が肛門から正中線せいちゅうせんを駆け巡り脳を刺激する。


「おならではない」

 そう思えたのは便意の波の長さだった。しかし当時の私は疑った。いや、信じたく無かっただけなのかもしれない。

「おならかもしれない」

 そう思いながら、祈り、組む両手に力を込めるのと同じ強さで肛門に力を入れる。それは我慢するためのりきみではなく、おならであることを前提として噴出するためのりきみだった。

 金属の扉が開いた時の噴出音の方が先であったか、それとも私の肛門からの微かな噴出音が先であっただろうか。どちらにせよ、ため息を吐くように乗客を駅のホームへと吐き出される流れに従いながら、心の中でため息と冷や汗を吐き出す。

 結果、私の肛門からは微かなおならが噴出された。しかしそれで便意が治まったかと聞かれれば答えは「NO」だ。

 腸から押し出された微かなおならの背後には茶色い魔物が顔を覗かせていた。先鋒としておならを送り出した彼らが腕を組み悠々と身構えているかのような絶望がそこにはあった。そして私は後悔する。おならと勘違いしていた自分を。また、おならだと言い聞かせた自分を。


 後戻りは出来ない。してしまっては漏らすだけだ。私はガラス細工のお尻を運ぶように慎重に駅のホームへと足を踏み入れる。

 しかし、この時の私にはまだ余裕があった。なぜなら予想していたからだ。こういう時に便意が現れることを。そして私は知っている。自分自身の便意の波長を。

 ──この1ウェーブはまだ耐えられる。幾度の非常事態を乗り越え培った経験値は、非常事態の時にこそ発揮されるものだ。

 高校生の頃に学校に着くまでの通学路の信号機のパターンを把握しながら歩く速度を変え耐え切ったあの日のことも、初めて降り立った横浜駅で公衆トイレを探しあてたあの日のことも、全ては今日のこの日を乗り越えるために起きた必然かもしれない。

 今でこそ便意と戦うことはなく、大人として「with 便意」の精神で暮らしてきた成果もあり、非常事態宣言が発令されることはなかった。しかし今まで得た経験値は失われることはない。

 緊張した場面で腹痛を起こす自分自身の体の仕組みを私は知っている。

 自らの便意の長さと回数に比例する便意の増幅の感覚を私は知っている。

 そして幾度なく起きてきた非常事態を乗り越えた自分自身の忍耐力と状況把握能力を私は知っている。さらにそんな私に味方をする『運』の良さを私は信じている。

「間違いは犯さない」

 悲鳴を上げる体の中でその一文だけが確かに耳に入ってきた。


 私は歩みを止めなかった。止める必要はなかった。歩くことを止めてしまってはその場にうずくまって便を吐き出す機械となってしまうからだ。

 改札を出てしばらく歩くと、朝の通勤ラッシュと寒さが体に負担をかけたのか、便意は一層強さを増した。だが、それも想定内だった。

 顔を上げて前を見る。下を向いて良いのは肛門に力を入れ踏ん張る時だけだ。そう言い聞かせ胸を張り堂々と歩く。

 普段よりも唾液の量が多く感じる。それを飲み込むのでさえ違和感を覚える。しかしそういったこともこれまでの人生で経験済みだ。当たり前の症状として捉えることで平静を保つ。

 平成に生まれた私は、昭和生まれとは違う。道端で排尿、排便をするなんて平成の世ではタブーとされており、そういった時代に生まれたせいもあるのか、自らの肛門の筋力を信頼している。そのためトイレを探すことはしなかった。いま考えればこれが大きな分岐点だったとも言える。

 

 波は収まった。訪れたなぎはその静けさとは違い、私自身に熱い高揚感をもたらした。

「やってやった。このピンチを乗り切った」

 心の中で拳を強く握り締め、その手を高く挙げる。

 デクレッシェンドした便意は同時に、クレッシェンドする勝利宣言とも言えた。

 勝ち誇った顔でスマホを取り出し事業所までの地図を検索し、経路を確認する。

 青で描かれた線は真っ直ぐ目的地の事業所へと続いていた。二つの意味で進んでいた道が間違っていないという確信に変わる。

 スマホを片手に歩く。もうすでに肛門に向ける意識は、本日の仕事をどうこなそうかという意欲に姿を変えた。

 まず大切なのは礼儀だ。別の事業者にお邪魔するということは、そこで勤務している職員へご迷惑をおかけするということなのだ。いかに嫌な印象を与えずその事業所の玄関から入り、いかに良い印象を与えつつその事業所の玄関から出ていくのか。頭の先から足の先まで評価されていると思っていいだろう。別の事業所とはいえ、会社は同じ。いつどんな噂が立つかわからない。自分の事業所を代表しているという意識をもって今日一日業務をこなさなければいけない。

 そんな事を考えながら歩いていると異変が起きた。──第二波の初期微動を感じたのである。


 起こるべくして起きたともいえる。いま考えれば、あの時顔を下に向けスマホを見ながら地図を見ていた時点で無意識に体は排便の姿勢に近づいていたからかもしれない。実際には自分の姿勢がどうなっていようが関係ないと思うが、それはいまの自分の姿勢がどうなっているかと気付けないほど便意のことに意識を向けていなかった私の失態であると言い換えることが出来る。

 想像していたよりも第二波の到着が早いと感じてしまったのは「with 便意」の代償だろうか。

 使わない剣は錆つき、錆びついた剣は使えない。込める弾丸が手元に無ければ、弾丸の在り処を探す作業から始まってしまう。心のどこかしらの「war the 便意」を失ってはいけない。

 この近くにコンビニはない。唯一の味方である手元のスマホに映るものは希望ではなく絶望だった。

 老いたのは体か、頭か。完全に油断していたのはどちらかではなく両方だ。そして痛みを訴えているのもそのどちらかではなく両方だ。

 後悔する暇はない。感情を突き飛ばし腹痛は腹を破って挨拶をしてくる。

 諦めるという選択肢は無かった。あるのは「どうすれば」という枕詞まくらことばだけだ。現状は「打破」という革命的な方法よりも、スマートにかつベストよりもベターを目指し解決すべきである。2023年のWBCの決勝戦での最後の大谷翔平の投球は、そのシーンだけ切り取ればただのワンストライクに過ぎない。

 事業所まではあと10分程度。しかしそれは通常の徒歩だ。便意を我慢して歩けば15分程度になるだろうか。この5分の差は大きい。その5分間で何ができるか、カップ麺を買ってお湯を入れて食べるまで出来るかもしれない。ただ、そのカップ麺を売っているコンビニはどこにも見当たらない。

 どうする? 疑問符は尻の先ではなく頭の上に現れる。

「すみません、トイレってどこですか?」事業所に着いた瞬間口に出す言葉は決まっていた。しかしそれは、事業所まで耐えきることが出来た場合のみの未来だ。フューチャーは「feat.便意」が理想で一緒に手を上げ称賛を浴びることだ。

 共に勝つ。「win-win」になるため光指す未来を目指し今の行動を取捨選択していく。

 捨てるべきは最悪の結末だ。ケツのまつから出る物を出すべき場所に出す。その未来に向かう選択のみを手に取っていく。


 進むしかない。歩みを止めてはいけない。しかしそう決意した瞬間、現実が牙を剥く。

 突如訪れた壮絶な便意の波は、漏らしたかと思えるほどの圧力を腹部に与えた。

 ──やばい。

 一拍置いた緊張は全身の体毛を逆立てた。頭の中にあった選択肢が崩れ落ちポロポロと落ちていく。そして割れた地面に落ちていくように「すみません、トイレってどこですか?」という引き攣った笑顔で話す自分の顔とそのワントーン高い声で放った一文が奈落の底に消えていく。

 脳内のシナプスが弾け、迅速に電気信号を放ち別のシナプスへ連鎖していく。

 歩いている小道の茂みが視界に入る。

「最悪の場合、あそこで──」

 よぎった選択肢は大人が取るべき物ではなかった。しかし、その『最悪』という選択肢は最も悪い選択肢ではなかった。逆を言えば最悪の状況の中での『最善策』といえた。

 ここでいう『最悪』は『漏らす』ということだ。


 もはや漏らしているのかもしれない。そう感じるほど私の肛門の感覚は鈍っていた。

 それもそうだ。想像を超えた便意のせいで肛門の蓋は馬鹿になっているだろう。もうすでに何がおならで何が便かも判別がつかなくなっている。

 しかし、例え漏らしていたとしてもその量が僅かであり、臀部の割れ目の中で収まる程度であることは確かだった。それは下着の濡れ加減が唯一の証拠であり味方でもあった。

 私が想像する『最悪』の状態、それはスーツに便の染みができることだった。

 染みができること、つまり私の考える許容範囲外の量の便を漏らすことである。

 スーツが汚れてしまうのは問題ない。問題なのは匂いだ。汚れた下着とスーツのズボンの替えなどは手元にない。かと言って代わりの衣類が購入できる場所もないし、遠回りをする時間もない。

 幸いにも業務をするための制服の着替えを持っているので、事業所に着けばスーツから着替えられるが、下着はない。つまり便の匂いをまといながら事業所へ挨拶をしなくてはいけない。

 一見すれば何の変哲もないスーツの社員だろう。しかしそこには映像では映らない物が確かにある。鼻をつんざくような便の匂いだ。

 

 私は立ち止まった。

 それは決して諦めたのではない。最悪の事態を防ぐために行った行為だった。

 限界に達した便意のせいで、ほんの少しでも体を動かしてしまえばこれまで積み上げていた人としての信頼を崩していくように決壊していくと察した。だから私は立ち止まったのだ。次の一歩を踏み出すために。

 便意の波に耐える。この波が第何波なのかはもう数えていない。

 第3波かもしれないし、まだ第2波の途中かもしれない。しかし波は波だ。振り幅を大きくしたあとで必ず収まっていく。それを信じ立ち止まる。時間が解決してくれるのは人間関係と同じかもしれない。

 しかし、時間は全てを解決してくれる訳では無い。全ての対策を講じ努力をした者にだけ時間は微笑む。いくら凄まじい寝技をかけられて体が動かなくてもほんの一本の指先だけでも動かせられるのならば、そこから反逆の手段が見つかるはずだと言っていたのはアントニオ猪木だっただろうか。私はこのまま立ち止まってはいられない。

 すると便意の波が緩やかになっていくことに気付く。

「……これだ、これ!」

 心の中で静かに頷く。その行為でさえも肛門の蓋を開けてしまうスイッチになりうるかもしれないため、私は目を瞑り深呼吸をして気持ちを整えた。

 何事も焦りは禁物だ。現に、立ち止まる私の隣をベビーカーを押したスーツ姿のパパさんらしき人が怪訝な視線を送りながら通り過ぎていく。肛門括約筋に力を入れ冷や汗を流し立ち止まる私はさぞ不審に思えただろう。しかし子供を保育園に送っていくハードワークの最中であるパパさんに私を不審がっている暇はないようで、何事もなく時は流れていく。

 彼らの後ろ姿を横目に、流れ出さないようにと立ち止まっていた私はゆっくり歩みを進める。

「これを繰り返せば……」

 小道を進みながらそう思う。

 そうだ。一歩ずつでもいい。人は生まれながらにして二本の足を持ち合わせているのは一歩進んだあとでまた一歩進むためだ。かの有名な藤井聡太でさえも、一度に一勝しかできないのである。同時にニ歩は進めない。これは将棋の基本的なルールでもある。

 小道に敷き詰められた少し大きめの石を踏む度に鈍い音がした。砂利でもない、岩でもない大きさの石は私の足をしっかりと捉えていた。

 後ろを振り返れば、先ほどの最悪の場合を想定した茂みが見えた。

「ここまで進んできたのか」といった感想は数分前の自分よりも成長していることを思い出させてくれたし、逆にこれを何回繰り返せば良いのだろうかという絶望の影を目に入れたということでもあった。


 波が収まっているうちに少しでも長い距離を稼ごうといった考えが頭によぎる。

 数mの距離でさえ進むのに一苦労なのだ。事業所に着いてトイレを借りるまでの時間はやはり無いだろう。その結論が私を焦らせた。

 私は走った。肛門から顔を出している便をその場に置き去りにするかの如く、私は駆け出したのである。

 小道を抜ければ少し大きめの通りに出る。そして曲がれば事業所がある。

 便が押し出る力のお陰で私の体がより早く進むことができると思ったのかもしれない。

 空想上の慣性の法則を信じた私は、身を乗り出すように小道から抜けた。その時だった。

 先ほどまで歩いていた小道とは違い、少し大きめの通りには数名の人がいた。その光景と雰囲気で私はひるでしまった。

「──もし、ここで限界を迎えノグソをすることになったら?」

 必死で駆け抜けた目的地に、そんな場所は無かった。


 頭は冷静だった。

 体は進め進めと動いていたが、頭の中では理性がしっかりとタイムカードを押したばかりであった。

 ノグソという選択肢は理性的であるとは言えない。しかしながら、「我慢が出来ないからノグソをする」のではなく、「この状況の最善策」としてノグソがあった。

 理性的なノグソという言葉は、一見すると矛盾してはいるがそうではない。

 排便欲求という本能を理性をもって制するという意味では、ノグソは立派な手段の一つであった。

 本能に逆らえず、飲み込まれてしまえばそこに待つのは「お漏らし」しか無い。だからこそ私の頭はノグソという選択肢を捨ててはいなかったのだろう。

 勢いよく飛び出した私の体に待ったをかけたのは、やはり便意であった。私が過信していた空想上の慣性の法則など無視した便意は、私が歩みを進めることを許してはくれない。

 もはや肛門にある便が私を引き留めたともいえる。そしてそれは私の支配権が便に奪われたといっても過言ではなかった。いや、便意を感じた時から私の行動は常に便意優先であり、その時から私は私の体を支配しているとは言えなかったのであろう。便が本体でありその入れ物として私がいるように思えてしまったのも、私がノグソに踏み切った要因のひとつでもあったのかもしれない。


 私はもう一度振り返った。そして振り返ったと同時に踏み出したのである。

 向かうべき場所は小道の茂み。周囲を見渡し、人がいないことを目視で確認した。

「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」とはよく言ったものだ。私は進んできた道を引き返したのではなく、目の前の道をただひたすらに前進しているだけに過ぎない。

 小走りで、ベストをはずし、ズボンのチャックを下ろす。出せと言われれば出せる態勢になった私だったが、もう一度周囲に通りすがりそうな人がいないかを確認した。それは自分自身に対して「これからノグソをするんだぞ」と覚悟を決めるためでもあった。

 そして時は来た。

 

 I play the noguso.


 私はノグソをした。


 ズボンを下ろし、茂みにしゃがんだ私はノグソをプレイした。

 放たれた「それ」は散弾銃のような音を立て、茂みの中で沈黙した。

 一度のノグソで便意が治まったことは不幸中の幸いであったと思う。時間にしておよそ3秒ほどだった。我ながらスマートかつ完璧なノグソだったと誇りに思う。

 実際のノグソはドクロマークの真っ赤なドーム状のボタンを勢いよく「押す」ではなく、散弾銃の黒色の三日月形の引き金を「引いた」のだったが、どちらにせよ私の体内から発射された便は無事にノグソになった。そして私は自らの主導権を便に奪われることなく済んだ。

 

 事業所に着いてからの私は、仏のような心境であった。

 先ほどまで便意に支配されていた心のメモリが空いたせいで私の挙動は軽くなっていた。

「おはようございます。よろしくお願いします」

 近くの職員へ挨拶をする。こんなに心地の良い挨拶はいつぶりだろうか。自然と笑顔が溢れ出た。

 しかし、頭の中では先ほどのノグソが脳裏に浮かんだ。

 茂みの中で佇むノグソから湯気が立っていた。それはまるで初冬の朝日が昇る気仙沼港に佇む一隻の船を包む海からの蒸気、気嵐けあらしと呼ばれる幻想的な風景とよく似ており、何時間でも眺めていられる気がした。

 数分前にノグソをしたことは私しか知らない。こんなに気持ちの良い挨拶をする人が数分前にノグソをしたなんて、ここの職員の方々は思いもしないだろう。ノグソをした自分と周囲の大人へ猫を被っている今の自分が乖離かいりし過ぎているせいで、自分に対する後悔や落胆は無かった。むしろあれだけの便意を無事に対処した達成感が全身に駆け巡っていた。

 私はトイレの場所を尋ねる。

「トイレって何処にありますかね?」

 その言葉には優雅な気品と大人の余裕があった。なぜなら便意がないからだ。

 トイレに着いた私はズボンを下ろし下着とズボンのお尻の部分を執拗に確認する。

 便はついていない。

 安堵しため息を漏らしたのはトイレという閉鎖的な空間だったせいもあった。

 便座に腰を下ろす動作は家のリビングでソファに腰を掛けるような安心感があった。しかしその時点で気付く。私は安心するためにトイレに来たのではないと。

 なぜそんなことを考えてしまったのか。それは、もうすでに私の中では排便をする場所=トイレという式が成り立っていないからかもしれない。

 ノグソに手を出した、というよりも、ノグソのために尻を差し出した私には、ノグソという選択肢が刻まれているのである。つまり、これから外出先で便意を感じた未来の私の脳内に現れる様々な選択肢の中で、今まで以上にノグソという選択肢のパーセンテージが多くなってしまうということだ。

 確かに今回のノグソは完璧であった。しかし完璧であったからこそ、次も成功できると思い込みノグソの敷居が低くなってしまう。それはまるでビギナーズラックで大金を手にしパチンコや競馬などのギャンブルにハマってしまう法則と同じである。

 ビギナーズラックノグソは人としてのランクを下げうるに値する事象であると私は考える。

 再び茂みの中に佇むノグソが脳裏に浮かぶ。しかし先ほどと違って顔を背けたくなったのは、ノグソから発生する気嵐けあらしのような蒸気が吸ってはいけない何らかの麻薬物質を孕んでいるように思えたからである。


 決して手を出してはいけないノグソ。それに手を出した、いや尻を出した私は他の人間と比べて、人としてのランクが下がったことは間違いない。

 社会人としても、大人としてもランクが下がった私には何をどうしても「ノグソをしたのだ」という言葉が付きまとう。

 例え、私がノーベル賞を受賞したとしても、宇宙飛行士になって日本人で初めて月面に着陸したとしても、紫綬褒章しじゅほうしょうや芥川賞、レコード大賞を受賞したとしても私の背中には「ノグソをした」という刻印が刻まれているに違いない。

 何をどうしたってノグソをしたことのない人間よりも、ヒエラルキーは下になる。それがノグソをするということだ。

 人よりも格下になった私に見栄やプライドなど無い。見えているのは肛門から顔を覗かせた茶色の塊で、ライドすべきは便器の上だ。

 しかし、私はこれで良かったと思う。

 変に大人らしく真っ当に生きているよりも、「ノグソをした」というレッテルを自ら貼って自分を蔑むことができる。そして何より、自己肯定感のない人を慰めることができる。

「大丈夫。だってノグソしたこと無いでしょ?」

「大丈夫。私はしたよ、ノグソ」

「大丈夫。ノグソに比べればたいしたことないよ」

 こんなにも勇気の出る言葉は他にないだろう。それを口にできる権利を神様から頂いたのであれば、私はなんと幸せなのだろうか。

 トイレの神様には見放されたが、ノグソの神様には肩を組まれたに違いない。


 私の人間のランクは下がったが、私の人間力が向上したことは紛れもない事実である。


「上を向いて歩こう。涙がこぼれないように」

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ノグソをした。 たきのまる @takinomaru

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